2009年7月4日土曜日

藤田謙一 2




 前章で藤田が東奥義塾に寄付した岩木山麓の枯木平の農場についてふれた。一枚の写真がある。これは藤田農場を撮ったものだが、当時としては最新鋭のトラクターが写っている。かなり大規模に開墾された農場と思われる。

 写真左に小さな山があり、その向こうに岩木山が見渡せる。現在、枯木平という地名はないが、弘南バスで枯木平行きというのが残っている。岩木山西側の鯵ヶ沢町に接するところであろう。

 グーグルマップおよびグーグルアースから写っている小さな山は二ツ森と呼ばれる山だと推測される。画像は悪いが、グーグルアースで立体的にみても、ほぼこの写真と同じ光景が眺められる。周囲は平らな高原が続き、鯵ヶ沢に抜ける道がある。

 藤田が寄付した枯木平の土地は、山林原野が625町歩、水田が56町歩、畑が122町歩の合計803町歩の広大なもので、1町歩がほぼ1ヘクタールに相当し、ほぼ2.9km×2.9kmの大きさとなる。坪でいうと25万坪で、弘前市の旧市街地がすべて入る大きさである。途方もない広さである。

 昭和3年当時の金額見積もりで675.117円となっており、物価を換算すると現在の13.5億円となる(1円が今の2000円として)。

 農業のことは全くわからないが、200-300mの高台であり、開墾も大変で、とれる農作物も限られているであろう。冬の雪の量も半端でなく、また寒さも厳しく、ここで生活するのはきびしい。

 もともとこの枯木平の土地は、弘前藩の馬場であったようで、後に笹森儀助らが士族授産のため、明治14年に払い下げられた。農牧社が西洋式の牧場として開墾した。一時は牛馬などを飼育していたが、経営不振となり大正8年に藤田謙一に41000円で譲渡された。

 山林は戦後の農地解放の適用外だったと思うが、今はどこが所有しているのであろうか。私自身、車がないので現地を調査できないが、今でも牧場、農場として活用されているのであろうか。ここには東奥義塾によって建てられた藤田謙一頒徳碑があるようで、当時の作業小屋や管理用の建物は一部残っているかもしれない。くわしくは白梅学園の東喜望氏の論文がインターネット上で閲覧できるので参考にしてほしい(http://ci.nii.ac.jp/naid/110007045208/ 右プレビュー)。




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