2011年11月30日水曜日

明治二年弘前絵図 「此母」と「鼠尾」



 明治二年絵図は、名前はわからないが、1人の地図職人(こういう職があるかわからいないが)によって書かれている。驚くことに1000人近い屋敷主名、施設名を一字の間違いもない。職人の仕事と言えばそれまでだが、我々には絶対にできないことである。メモを横に置きながら、書き写しても必ず書き間違いは起こるもので、鉛筆なら消しゴムで、ペンなら修正液で消すが、この地図には修正された箇所は一切ない。

 地図製作は明治2年ということで、手書きではあるが、ほぼ現代の楷書に近い書き方で書かれているため、古文書には門外漢の私でも内容はだいたいわかる。ただ手書きのため書き手の癖があり、読みにくいところがある。

 例えば、上の図は、森町のある一画であるが、時鐘所の左隣の笹森形右エ門(右衛門)は何とか、読めるが、深堀寅吉の左隣の野呂□母がわからない。光のようにも見えるが、インターネット検索でも光母という名前はなく、違うようである。ここから2時間、漢和辞書とコンピュータで格闘、ようやく「此母」という字にたどり着いた。俗字というよりは癖字に近いものであろう。こういったケースは他にも何ヶ所あったが、何とか解決できたが、ただひとつ半年以上格闘してもわからない文字があった。

 弘前城北の丸、現在のレクリエーション広場にあった作業所には、苫縄(とめなわ)、簀垂(すだれ)、□尾、網藁(あみわら)諸品入所と書かれているが、この□尾が全く見当がつかない。この作業所の上には弘前藩名物の兼平石の製作所などもあり、何らかの物産品をここで製作していたようだ。□尾、能の字に似ているが、能尾に当てはまる言葉はない。漢和辞典やくずし字辞典をあたったり、古文書に詳しい知人にも聞いて廻ったが、一向に解決しない。

 何となく、奥歯に挟まったというか、胸の支えというか、気になってしょうがない。そこで以前、メールをいただいた「新明解現代漢和辞典」の著者で、この道の権威の実践女子大学の影山教授に思い切って質問してみた。何と読むのでしょうかと。我ながらずいぶん大胆で、先生には全く失礼な質問である。ところが影山先生は実におやさしい方で、わざわざ共著者の伊藤文生先生にも聞いていただき、後日お返事をいただいた。大変感謝している。長年、頭の中に澱のように貯まっていたものがすっかり洗い流された気分で、本当にうれしい。

 その答えは「鼠尾」とのことであった。鼠の俗字、「鼡」をさらに変形させたのであろう。これではいくら自分で調べても絶対にわからなかったと思う。

 さて鼠尾とは何であろうか。ここから再びインターネットでの調査となる。ひとつは文字通りのネズミの尻尾で、筆に使われることもあるようだ。おそらく「ソビ」と読むのであろう。もうひとつは鼠尾草(ネズオソウ)、イネ科の植物で、穂がネズミの尾に似ていることからこういった名前が付けられた。ミソハギとも呼ばれ、紫色のきれいな花が咲き、盆花として使われた。下痢止めとして薬にも使われたようだが、茎、葉などの加工して産物を作るというものではない。

 というと鼠の尾を使った筆となるが、ネズミの筆は冬に長くなった体毛、ひげを使って作られる物で、さすがに毛の短い尾で筆を作ることはできない。長い尾を持つ動物として、リスをイメージするひとも多いと思うが、リスは漢字では栗鼠と書く。またイタチは鼬鼠、ムササビは鼯鼠とも書く。あるいはテンもこれに含めて、こういった動物の尾を使って、この作業場で筆を作っていたのであろうか。

 城内に作業所があるところから、動物の尾を筆の原料になるようにしてから出荷したのか、それとも津軽塗などを施した献上品としての贅沢な津軽塗筆をここで作っていた可能性もある。北の丸、護国神社あたりでは幕府への献上品の鷹を飼育、訓練していたようだが、同様に作業所での生産物は、日用品に供給されたような普及品ではなく、藩外へ販売する高級品あるいは、献上品をここで作っていたかもしれない。明治4年の絵図にも北の丸の作業所の詳細は載っておらず、この明治二年絵図は幕末期の弘前藩の物産品を知る上でも貴重な一次資料となろう。今後の研究が待たれる。

2011年11月28日月曜日

山田兄弟42




 先日、NHKのBSプレミアムで「辛亥革命100年」の第一話では山田良政、純三郎のことが、第二話では工藤忠のことが取り上げられた。友人から1年前にこういった番組を作っているとの噂は聞いたが、NHKの特番は本当に時間をかけてじっくりと番組を作っている。それだけによく調査された内容で、私も知らなかったことがたくさんあった。

 ひとつは中国の深圳市近くにできた雕塑公園で、以前このブログでも紹介したが、この公園は辛亥革命100周年を記念し、孫文の革命の歩みを銅像を使って説明する仕掛けとなっている。孫文の側には和服を着た日本人が何かを語りかけているが、どうもモデルは北一輝のように思える。今回、番組ではこれとは別の銅像、髪を振り乱し、馬に乗る、メガネをかけた人物を紹介し、これを山田良政としている。日本側の問題が生じ、武器の援助を得られなくなったことから、恵州で蜂起した革命軍に蜂起の中止を告げにいく際の山田良政の姿だ。この像については中国のあちこちの検索ソフトで調べたが載っていない。また良政が蜂起した恵州の地も初めて見ることができた。かなり山間の場所で、まるで梁山泊の陣地のようである。この番組では山田純三郎は孫文の臨終の場にいた日本人と紹介されていたが、中国、台湾の歴史ではそういった事実はない。また孫文と山田で協議された満州譲渡を含む、日中盟約についても賛否両方の意見を紹介していた。この日中盟約に署名されている孫文の名は間違いなく真筆であり、当時革命の金策に困っていた孫文は取りあえず、漢民族の故郷である、中原より下の部分を革命勢力の支配下に置き、むしろ満州族の故郷、北の地方は日本軍に守ってもらい、ロシアとの緩衝地帯になってほしかったのではなかろうか。当時の状況では至極当然の考えであり、売国奴扱いされるようなものではない。

 一方、清朝最後の皇帝に使えた工藤忠は、山田兄弟とは違い、大陸浪人的な性格をもち、当初は山田らの中国革命に参加しようとしたが、「孫文らの考え方があまりに純粋すぎて現実とは合わなかったので、孫文や山田純三郎とは袂を別った」と述べている。その工藤忠自身も満州国、その皇帝である溥儀は日本軍の傀儡であることは、わかっていながらも最後まで忠誠を尽くした。

 山田純三郎は孫文死後も上海では常に孫さん、孫さんと言い続け、日本人からは「孫文バカ」と呼ばれていたようだが、同様に工藤忠も「溥儀バカ」であった。一度、信じた人物を裏切ることはない、津軽の一種の誠実な性格によるもので、その誠意が国を越えて相手にも通じたのであろう。

 養生会の創始者伊東重の子供、伊東六十次郎(1905-1994)の生き様もすごい。弘前中学、弘前高校から東京大学に進んだ六十次郎は、北一輝、大川周明の国家主義に共鳴し、満州の大同学院の創立に関与し、同学院の教授となった。その後、昭和11年の二・二六事件では満一年拘禁されたが、出所後には石原莞爾の東亜連盟同志会創立に参加した。根っからのナショナリストで終世、石原莞爾の思想を信奉した。とくにすごいのは、戦後、シベリアに抑留され、収容所で何度も民衆裁判にかけられても、全く国体護持の思想はゆらぎもせず、逆に収容所の待遇改善を目指した「ハバロフスク事件」を昭和30年におこし、公然と収容所内で紀元節を挙行するようになった。シベリアに都合12年も抑留されたが、その信念には変化はなかった。思想的には賛否もあろうが、戦前、収容所、戦後とも全く信念は揺らぐことなく、首尾一貫した生き方はみごとである。

 山田良政、純三郎、工藤忠、伊東六十次郎のように、ある人物に惚れ込み、ぶれることなく、誠実に、愚鈍に信奉していく気質は、津軽のよき気質であり、すぐに時代の流れに左右される私のような大阪人に見られない美点であろう。ただ商売向きの気質ではなかろう。

2011年11月25日金曜日

映画「阪急電車」


 映画「阪急電車」をDVDで観た。上映当時見たかったが、弘前では上映されず、ようやく昨日見ることができた。原作とはかなり、設定も変わっているが、脚本家が優秀なせいか、うまく出来た映画である。

 西宮北口から宝塚までの15分間、宝塚線を舞台にした映画であるが、色々なエピソードをうまく配合している。とりわけ、うまいなあと思ったのは、売れっ子の芦田 愛菜のおばあさん役をした、宮本信子さんである。彼女は名古屋出身だが、微妙な関西弁をうまく使っている。阪急沿線に住む年輩の方で、ご主人が住友商事、丸紅など関西系の会社の高い地位の方で、転勤で何度か東京にも住んだという方の関西弁である。関西弁というと大阪弁を思い起こす方の多いと思うが、大阪と神戸は明らかに違うし、大阪と神戸間、阪神地域に住む人の関西弁も微妙に違う。また阪神、JR、阪急の3つの沿線でも言葉が違う。阪神尼崎から西宮はほぼ大阪弁であるのに対して、西宮でも山手、阪急沿線西宮北口、夙川、宝塚線はやや神戸の話し方に近く、芦屋、御影といった方面に近い。一方、阪急沿線でも武庫川を隔てた塚口、武庫之荘は大阪弁の影響が強い。これが違いだとははっきりは言えないが、微妙な違いがある。宮本信子さんはこういった微妙な違いをうまく表現しており、西宮出身の芦田 愛菜よりうまいくらいだ。

 電車に中での人の話し声というのは思った以上にひとは聞いているのもので、高校生のころ当時よく読んだ本多勝一の「NHK受信料拒否の論理」を友人にしゃべっていた折、うちの姉の友人が同じ車両の前(私は後ろ)にいたが、その話を聞いて妙に感心し、勉強になったと後日語ってくれた。お恥ずかしいことである。

 先日帰省した折、阪急電車に乗ったところ、前の席に座っていた60歳くらいのご婦人が妙にそわそわしている。そのうち「この電車は神戸にいくんですよね」と聞いてくるので、「ハイ、神戸に行きますよ」と答えたが、あまり納得せず、携帯電話で娘らしきひとに聞いている。それでも心配そうなので、「どうしましたか」と聞くと、娘さんのいる夙川から電車に乗ったが、間違って逆方向、大阪行きの電車に乗ったと思ったようである。60歳にしては少女ぽい服装をしていて、バックには宝塚の女役スターのシールを貼っている。どうも極度の方向音痴なため不安なのであろう。そう察して、色々とお話をしたが、私は六甲で下車したため、「心配いりませんよ。終点まで乗って、そこで駅員さんに聞けば必ずおうちに帰ります」と言って別れた。その後、どうなったであろうか。

 また高校生の頃、一言も話したことはないが、好きだった子に、卒業後5、6年たってから阪急電車内で偶然に再会した。中学生だった子が今風のあんなにきれいな大学生になったと、その変貌に本当にどきどきした。感激にふけっている間に疾風にように彼女は私の前を走り去ったが、未だにその光景が目に浮かぶ。こういったことが起こるのが、阪急電車で、今はうちの長女は西宮北口に、次女は門戸厄神に住み、映画「阪急電車」で舞台になった大学に通学している。自分が経験した過ぎ去った阪急電車の思い出を追従してほしいと思い、住まいを決める際には助言した。

2011年11月19日土曜日

歯科用デンタルレントゲン



ヨーロッパ歯科放射線学会のガイダンスを前回示したが、そのうちのデンタルレントゲン写真の部分をもう少しくわしく説明したい。

私のところはアナログデンタル写真を使っているが、矯正歯科専門なので使う量は限られている。ただ一般歯科医院で最もよく使われるレントゲン写真はこのデンタルレントゲン写真であろうし、大きさの割には比較的被爆線量は高い。

インターネット上で歯科医院を検索すると、多くの歯科医院でデジタルにすることで被爆線量を従来型の1/10に低減できたとしている。患者さんにとってより安全という訳である。ただこの根拠はあやしい。

アナログデンタル写真で使うフィルムは感度によりDタイプ、Eタイプ、Fタイプに分かれる。割合よく使われるのは、Dタイプであるが、近年被爆線量の低減からEあるいはFタイプを使用する先生も多くなっている。ヨーロッパ歯科放射線学会でもその使用が推奨されている。値段は若干高いが、普及されていない訳はあまり知られていないためであろう。

前述のガイドラインではE感度の線量を1とした場合の、デジタルシステムの線量は0.5から0.75、IPよりCCDの方が感度は高いので、CCDで0.5倍としよう。F感度のフィルムを使った場合は0.8倍であるから、FタイプとCCDデジタルを比較すれば、5/8、すなわち62.5%ということになる。約2/3と考えてよい。最近の某社のカタログ値では最新のCCDデンタルは性能が上がり、Dタイプの1/6としているが、これとてFタイプと比べると1/2くらいであろう。

CCDの受光部の大きさは、フィルムの2/3程度と考えれば、実質的にはF感度のフィルムとCCDの線量はほぼ同じと考えてよい。線量が少ないからといって、大臼歯部で2枚とれば、線量の総計はフィルムより高くなる。

かってこのメーカーは、今はもうない低感度のC感度フィルムと比較して、CCDデンタル写真は1/10という数値を出してきたようだ(http://www.geocities.jp/symyky1019/x-ray.html)。1/2とか1/3とかでは宣伝効果が弱いと考えたかもしれないが、ちょっとこれはひどい。同様に、パントモ、セファロ写真でも1/10という数値を出してきているが、これも希土類増感紙と高感度フィルムと比較した値ではなかろう。事実、IPを用いたデジタルパントモの線量は、フィルムと同じ、場合によっては高いという研究もあり、CCDを用いても、線量が1/10になることはないであろう。せいぜい1/2から2/3くらいの低減と推測される。

線量が1/10になるという誤解は、確かにメーカーのうたい文句を信じた歯科医側にも問題があるが、私自身、つい最近まで2004年に出されたヨーロッパのガイダンスの存在すら知らず、多くの先生方も同様であろう。こういったガイダンスは歯科医師会で会員に知らせるべきであり、少なくともE、F感度のフィルム、希土類増感紙の推奨、移行に積極的に関与すべきであろう。さらに言うなら、歯科メーカーもあまり医学的に根拠のない数字を広告に出すべきではない。某メーカーは2002-4年ころには盛んに放射線量が1/10になるという宣伝していたが、これだけHP上でこの数値が一人歩きしている状況は、患者に誤解を生む恐れもあり、正確な情報を伝える義務があると思う。

2011年11月17日木曜日

歯科用CT



 近年、歯科分野でもIT化の勢いはすさまじく、とくに歯科用レントゲンではデジタルレントゲンが主流となり、かっての銀塩カメラと同様に昔ながらのフィルムを使ったレントゲン撮影は急速に衰退している。製品の多くもデジタルレントゲン装置が中心で、わずかに1、2機種フィルムタイプの機種が残っているだけである。さらにインプラントをやる歯科医院が増えるとともに、歯科用CT、コーンビームCT装置を導入する歯科医院も多い。現在、歯科器材業者はCT装置の販売に力を入れている。

 ところがヨーロッパ、アメリカでは、2009年頃から歯科用CTによる被爆が問題化されるようになり、その使用についてガイドラインが設けられた。欧米におけるガイドラインの意味は大きく、それに従わないと裁判では不利になってしまう。このガイドラインでは、基本的には通常の臨床での歯科用CTの使用は禁じられ、とくに小児の撮影はかなり制限されている。矯正歯科でいうと、対象は埋伏歯(断層幅を狭くして)、唇顎口蓋裂、顎変形症などに限定され、それ以外の頭部全体をスキャンすることは被爆線量の点から推奨されていない。

 それを受けてか、アメリカ矯正歯科学会雑誌も確か2009年ころ、編集委員長が巻頭言でヨーロッパのガイドラインを紹介し、それ以前はコーンビームCTを使った研究一辺倒であったが、これを契機にコーンビームCTの研究、あるいは症例報告は激減している。ひとつには編集委員会の段階で、こういった研究をリジェクトしていることによるだろうし、研究機関、大学での倫理委員会でも研究のためにCT撮影が許可されないためであろう。

 一方、日本では日本大学の新井 嘉則先生が、クインテッセンス紙上で2度ほど、CT撮影の使いすぎを警告しているが、インターネット上では相変わらず、最新の装置として歯科用CTの存在が誇示されている。また矯正歯科雑誌においても、歯科用CTを用いた分析法などの論文が見られるが、通常の矯正患者に対して、積極的にCTを撮るような趣旨は上記のガイドラインに反する。確かにコーンビームCTを撮り、頭部を3次元、立体的に把握できることは、私個人としてはすごいとは思うが、直接診療方針を左右するものではない。歯科矯正臨床で治療出来るには、歯の移動を主体としたもので、頭部全体の骨のゆがみをコントロールできるものではないからだ。従来型のセファロとパントモ写真で問題はないし、外科的矯正や埋伏歯がある場合は、大学病院にCT撮影を依頼すればよい。症例としてはそう多くない。

 また歯科医院の方もデジタルレントゲンの導入により被爆線量が1/10になった、私のところは安全に気をつけていますと盛んに宣伝している。ただこの1/10というのもくせ者で、どうも初期のレントゲン会社がこういったうたい文句で宣伝した残滓が残っているようで、感度を上げれば画質は低下し、従来のフィルムと同程度の新鋭度を得るには1/10ではとても無理で、医院でも実際の撮影条件は1/10の線量で撮影しているとは言えないし、逆に見えないようなレントゲン写真を撮る意味がない。医科の方では、メーカーも従来型より放射線量が小さくできるという表現にとどまっている。ちなみにもともとパントモ、セファロは増感紙を使っているため、被爆線量は少ない。

 歯科レントゲンによる被爆線量についてのアメリカでの動きは、歯科とは関係ない中村隆市さんのブログにくわしい。(http://www.windfarm.co.jp/blog/blog_kaze/post-7007)またヨーロッパのガイドラインは日本語されていてわかりやすい(歯科X線診断における被曝 歯科X線検査の放射線防護に関するヨーロッパのガイドライン:歯科診療における安全なX線の利用のために http://wwwsoc.nii.ac.jp/jsomr/European%20guidelines.pdf)。かなりきびいしい内容のガイドラインであるが、いくつか紹介したい。歯科用デンタルフィルムは感度の高いE,あるいはF感度のものを、またセファロの撮影では希土類増感紙に使用が推奨されている。またCCDを用いたレントゲンではE感度のフィルムの30%程度の低下(F感度と同じくらいか)になるとしている。またこのガイドラインではCCDによるデジタルパントモ撮影は増感紙を用いたフィルムより線量低減はないとしており、上述した1/10になるという意見は完全に否定されている。昨今は、福島原発事故以降、患者さんの放射能に対する関心は高く、歯科医師、学会、歯科医師会も十分な対応が必要と思われる。一読をお勧めする。

2011年11月11日金曜日

縮小する日本



 私の友人の弘前大学教育学部のAnthony Rauschさんがこのほど「Japan's Shrinking Regions in the 21st Century: Contemporary Responses to Depopulation and Socioeconomic Decline 」という大部の本をCambria Pressより出版した。内容は未読でくわしくはわからないが、アマゾンコムの書評では年間50万人ずつ日本では人口現象が続き、2030年には老人と活動人口の比率が1:1になり、同様なことがドイツや韓国、さらには中国にも将来起こりうる。こういった将来像を見るにあたり、すでに人口の減少、産業の崩壊、老人化といったShrinkingな地方、多くは日本の周縁部の事象を観察することで将来のあり方を検証しようというものである。社会学者、経済学者などが日本の20くらいの地域の現状を紹介している。

 トニーに結論を聞くと、Acceptance of the Fateという言葉が帰ってきた。「運命を受け入れる」ということになろう。人口,産業が縮小していくのはしかたない、そういった環境の中で人々がいかに幸せに暮らすか、それを考えていこうということだ。青森県の場合、伝統的な文化、芸能、産業が多くあり、それをいかに有効に使うか、それが縮小する辺縁部の将来を握ると。Negativeに考えると、青森県は核廃棄物などのゴミ捨て場として生き残る方法もあろうが、もっと運命を前向きに、Positiveに考え、自然、風土、人間に恵まれた故郷を愛し、貧しいなりに楽しく過ごすということだ。

 地元のスーパーに行くと、鶏、牛、豚肉はオール青森産でカバーできるし、魚もそう、野菜、くだもの、米も自給できる。さらにスキーに行くなら中心街から30分以内に行けるし、ゴルフ場もそうだし、料金も安い。農家では、野菜、米を作り、鶏を飼い、秋に山に行けば山菜、きのこも採れるし、川や海に行けば魚も捕れる。物々交換で何でも手に入る。都会では10万円での生活は無理であろうが、青森では十分に楽しい生活ができる。さらに医者不足といわれているが、病院の数は多く、老人ホームの入居料も驚くほど安い。趣味にハマりたいなら、バレエ、オペラ、交響楽団、合唱、ダンス、書道、絵画、お茶、お花、さらに渋いところでは平家琵琶、能だってある。それもレベルが高い。

 マイナスを挙げるよりプラスの面を挙げる、ポジティブ・シンキングをすれば、決して東京より劣ったところではない。景気は停滞しているが、日本に長年住んでいる外人さんによれば、治安がよく、何よりも物価が安定しているのが何よりだそうだ。給料が高い、昇給すると行っても、物価上昇が高いと落ち着いて生活できない。ハワイを楽園とする向きもあろうが、夏の暑さが嫌いな人もいるであろう。

 おかげさまで、「明治四年弘前絵図」書店販売分何とか完売しました。紀伊国屋書店弘前店の皆様、ありがとうございました。書店で80冊、インターネットで30冊、友人、関係者、図書館、大学への寄贈が140冊、計250冊、残り50冊は手元に置く予定です。もう少し、インターネットでの販売は継続しますが、希望者は早めにご連絡ください。本製作、販売を通じて、多くの人々で出会えたことは何よりの宝です。特にインターネット販売では、購入希望とだけ伝える人は少なく、自分と弘前との関係をくわしく綴っていただき、改めて多くの弘前出身の人物を知ることができたことは、今後の研究の糧になります。こういった本と通じて、読者と弘前の絆が強まったのであれば、望外の喜びです。

 ただ購入者の多くは、50歳以上のどちらかというと年配の方が多く、附属した絵図データーの入ったCDは、あまり活用されていないようです。最初、出版にあたりCDより地図を入れた方がよいとの助言がありましたが、結果的にはこれに従っていた方がよかったかもしれません。次回作、といってもいつになるかわかりませんが、文章中心にまとめたと思っています。

2011年11月10日木曜日

山田兄弟41



今日は、期待作ジャッキー・チェン主演の「1911」が上映されているというので、青森まで行ってきた。弘前では公開していないので、新青森まで電車で行き、そこから歩いてコロナワールドという映画館に向かった。何年か前に一度、このモールに行ったことがあるが、新青森からだと歩いて15分、割合近い。

映画「1911」はジャッキーが演じる黄與と孫文による辛亥革命の成就までを扱った作品であったが、正直がっくりした。全くおもしろくない。山田兄弟を通じて辛亥革命に興味がある私でさえこうなのだから、一般客には退屈な作品であろう。平日の午後という時間帯とはいえ、観客数はわずか5名であった。辛亥革命100周年の記念として作られたモニュメント的な作品であり、あまりエンターテーメント的な作品作りが出来なかったことによるか。孫文が美化されすぎ、いたるところに孫文の演説が登場する。むしろ悪役の袁世凱の方がおもしろかった。黄與以外の人物は、そっくりさんを起用したのではないかと思うほど、顔が似ている。さすがに黄與はあのままでは映画的にはきつく、これはジャキーでよかった。

実際の辛亥革命は、軍隊内の革命派の兵士が、暴動が発覚し、どうせ処刑されるならとわずか40人の第八師団の工兵が上官を射殺したことがきっかけで、決起した。すぐに3000人の兵士が呼応し、政府軍の抵抗もわずかだったという。映画とはだいぶ違う。また、その後の政府軍の反撃も映画で登場するほどのものではなく、ほとんど抵抗はなかったようだ。革命が成功しても孫文はすぐには帰国せず、まずヨーロッパ諸国の同意を取り付けたうえ、帰国した。マルセイユを出航した孫文は香港に向かい、前もって連絡しておいた日本人同士の宮崎滔天や山田純三郎らと会った後、1911年12月25日に上海に到着した。多くの中国人革命同士とともに日本からの駆けつけた犬養毅、頭山満などの姿もあった。孫文が上海に到着した時点では、革命までの功績は孫文より黄與の方が大きいとし、大総督の地位は黄與の望ましいという声も多かったが、何とか説得し、孫文が臨時革命総統に選ばれた。孫文が総統になった時からは政府軍の攻撃がすさまじく、映画の内容に一致している。何しろ革命軍は武器も金もなく、袁世凱率いる新軍に攻撃に対抗できなかった。どうしても清朝打倒を優先させたい孫文が袁世凱に妥協したのは映画の通りである。

写真上は中国のHPから引っ張ってきたもので、不鮮明であるが、保坂正康著「仁あり義あり、心は天下にあり」に少し鮮明な写真が載っており、上海の黄公館での写真(1912.6.30)で、前列左から3人名に山田純三郎の姿が見える。純三郎がだっこしている子供は、黄與の二男である。映画に登場した黄與の妻は二人目の妻(子供は娘)で、この子は前妻の子供ということか。純三郎の後ろには黄與が、その隣には孫文が写っている。純三郎と黄與の交流関係がわかる写真である。次の写真も同様に中国のHPから引用したものだが、説明では1899年日本人革命同士との写真となっている。前列右から3番目は廖 仲愷のようだし、二列目右端は萱野長知、3人目は孫文、その隣は若き日の純三郎のような気がする。純三郎の後ろは宮崎滔天と思われる。純三郎が孫文に会ったのは1900年、廖 仲愷が孫文に会ったのが1903年だから、この写真も1903年以降の可能性もある。

*増田俊也著「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったか」。701ページの久しぶりの大部の著作で、ようやく読み終えたが、おもしろかった。ある格闘家のやるせない人生と著者の強烈な思いが、読者を引きつける。

2011年11月3日木曜日

山田兄弟40




 近年、日本から海外へ留学する学生は減ったと聞く。アメリカへの留学生の多くは、中国人、韓国人だそうだ。

 弘前からも、かっては多くの若者が夢を持って海外へ飛翔した。明治初期、10年には東奥義塾の優秀な学生、珍田捨己、佐藤愛麿、川村敬三、那須泉、菊池群之助らが最初の留学生として渡米し、明治18年には笹森卯一郎、益子恵之助、高杉栄次郎などが続いた。初期の留学生は、日本に来ていた宣教師の思惑、日本人の宣教師を作るという目的もあったかもしれないが、東奥義塾の英語教育の水準の高さから、現地においても早い時期にとけ込み、優秀な成績を収めた。

 その後も、海外、ことにアメリカへの留学熱は続いたが、明治30年頃から飛躍的に増加した。弘前は県庁所在地が青森市に移ったため、町は一時衰退したが、第八師団の設置に伴い、再び、活況を呈し、留学者数も増加したものと思われる。さらに成功例として珍田らの活躍もあり、東奥義塾での外国人宣教師の親しみも相まって、東京を超え、いきなりアメリカに向かったようだ。

 孫文の辛亥革命に協力した山田兄弟の長男良政は中国に渡り、恵州起義で戦死し、3男の純三郎は長く中国にいて孫文の秘書として活躍した。さらに二男清彦、四男の四郎はアメリカに渡り、ついに日本には帰ってこなかった。山田浩蔵の息子4人すべてが海外に行き、帰国したのは純三郎だけである。清彦、四郎の生年月日は不明であるが、残された写真から清彦は明治5、6年ころ、四郎は明治12、13年ころと思われ、昭和3年発行の青森縣総覧によれば、四郎が明治33年ころに最初に渡米し、続いて、明治34,35年ころに清彦が渡米したように思われる。清彦、四郎はともに東奥義塾卒業であった。同時期、和徳小学校から弘前中学(青森県立中学校あるいは東奥義塾?)を卒業し、早稲田から渡米した日系ジャーナリストの藤岡紫朗は明治12年生まれで、明治30年にアメリカに行くが、同世代の四郎が渡米したきっかけになったかもしれない。当時は、自由民権運動に対する弾圧がきびしく、また薩長以外の地方からは栄達の道は閉ざされていたため、愛想を尽かして、渡米した者も多くいた。

 須藤かくという弘前出身の女性は、明治20年ころに渡米し、阿部はなとともにアメリカに渡り、アメリカの医科大学に進学して医師となった。荻野玲子が女性として日本人初の医者になったのが、1884年であるから、須藤、阿部らも相当早い時期の女医であり、日系初の女医である。1900年ころに同級生のDr.Kelseyらとともに一旦日本に帰国して宣教活動をした後、妹の嫁ぎ先の成田一家と一緒に再び渡米し、アメリカの友人のところに世話になったりして、104歳の天寿を全うして亡くなった(http://www.wiltonnewyork.com/BioNarita.html)。現在アメリカにはその子孫がいる。須藤かくは1861年生まれで、その経歴からは函館の遺愛女学校を卒業し、その関連から渡米して医師になったものと思われる。当時、医師資格試験は女性に門戸を閉ざしており、唯一海外の医科大学を卒業したものに限り、医師の資格を与えられた。明治初期の女性史において完全に忘れられた存在である。

 工藤盛勝という人がいる。明治19年に弘前で生まれ、青森中学校を卒業後に、明治38年に渡米し、オレゴン州のNorth Pacific Dental Collegeに入学し、歯科医となりカリフォルニアで開業した。日本で最初の歯科大学、高山歯科医学院ができたのが、1890年であるから、これも早い。普通なら、歯科医になろうとするならまず東京に行くであろうが、工藤の場合もいきなり東京を超え、アメリカに向かった。

 明治期の弘前は、よほど先進的な町であり、山田清彦、四郎、藤岡紫朗、須藤かく、工藤盛勝はいきなりアメリカを目指した。高杉滝蔵、良弘ら高杉三兄弟のようにアメリカ留学後に日本に帰国したものは、それなりの地位につき、記録も残っているが、山田清彦、四郎、藤岡紫朗、須藤かくのように帰国せず、アメリカに残った人々は、ほとんど日本には記録がなく、評価もされず、忘れられている。こういった人物は他にもいたであろうが、全くわからない。

 写真上、左の人物は、山田四郎、写真下右端の人物が山田清彦と思われる。情報をお持ちの方は是非ご連絡ください。本当に何もわかりません。