2023年10月26日木曜日

多様化する社会

 





 友人の歯科医が、最近、アメリカ、アトランタに行ったので、「何か“風と共に去りぬ、Gone with the wind”の関連施設を見ましたか」と聞いたところ、「“風と共に去りぬ”は何ですか」と言われ、驚いた。あれほどの名作映画を見たとこがない人がいるのは信じられなかった。家に帰り、家内に報告すると、家内も名前は知っているが、映画自体は見たことはないという。別の友人にも聞いたが、見たことはないようだし、私の二人の娘も多分、見たことはないだろう。ついでに家内はオードリヘップバーンの「マイフェアレディ」や「サウンドオブミュージック」も見たことははない。翌日、診療所の二人のスタッフに聞くと、一人はどれも見たことがないという。あの名作「風と共に去りぬ」を見たことがない人が周囲にこんなに多いとは知らなかった。

 

たまにうちの診療所に来る患者の中にも、矯正治療に保険が効かないのを知らない人がいて驚くが、「風と共に去りぬ」を知らない人がこんなに多いなら、矯正治療に保険が効かないことを知らなかったとしてもそれほど驚くことではない。本好きの人からは、本を読まない人が30%近くいるのは信じられないだろうし、私のような漫画好きの人からすれば、60歳代で月に2冊以上読む割合が5%以下、すわわち私のように5冊以上読む人は異常なのだろう。逆に子供の頃はあんなに夢中であったプロ野球でも、最近のWBCの日本メンバーのうち、大谷しか知らない私は信じられない人の一人なのだろう。それでもアメリカ人の知名度調査によれば、タイガーウッズの知名度が81%NFLのトム・フレディが77%NBAのレブロン・ジェームスが75%に対して、大谷の知名度は17%しかない。流石に日本人でもタイガーウッズは知っていても、レブロン・ジェームスはバスケットファンだけ、ましてやトム・フレディなどはほとんど知らないだろう。

 

こうして考えると、自分では常識と思っても、他人からすればおかしなことであることは数多くあり、同じように家庭での常識、職場での常識、あるいはもっと広い意味でいうと日本での常識というものは、ないと考えた方が良いのかもしれない。人というのは、つい自分を中心に考える傾向があり、それとは違った考えはおかしいと思うが、実際はその人自身がおかしいこともありうる。患者さんの中には、毎回遅刻、キャンセルする人がいて、非常識と怒ることがあるが、ADHDの傾向があり、アスペルガー症候群の人からすれば、これが常識なのかも知れない。

 

人を理解するというのは、みんな一人一人違っていて、育ってきた環境も違うし、性格、年齢、男女などの違いを認める、すなわちダイバーシティー、多様性を知ることになる。昨今、こうしたダイバーシティーを重視する考えが広まっているが、最初に述べたように、映画「風と共に去りぬ」を見たこともない人が周囲にもたくさんいる前提で、生活しなくてはいけないのだろう。ただこうした多様性をあまりに強調しすぎると、おかしなことになる。以前、郵便局で、男女か確認されたこともあるし、妻は反社かと確認されたことがある。そうした決まりなのだろうが、全てのお客さんに、あんたは男か女か、反社の人が確認するのは流石にやりすぎであろう。

 

以前は、若者と老人の考え方の違い、いわゆる世代差というのが、話題になり、「団塊の世代」、「バブル世代」、「ゆとり世代」という言葉も流行り、若い人の考えは全くわからない、新人類という言葉もあった。ところが最近では、こうした世代差より同世代の違いの方が大きく、同じ世代でも趣味、好み、考えは大きく違い、共通の話題、あるいはみんなが歌える曲というものがなくなってきている。おそらくは昔の方が、周囲に合わせる雰囲気が強く、みんなが見ているテレビ番組は見ていないと仲間はずれになるといった感覚が強かったせいかもしれない。ところが今では、ラインやツイッターなどのSNSの発達により、自分の考えや趣味とある友人を見つけ、一緒にいればよく、クラスの皆と合わせる必要もなくなったのであろう。こうした流れは、ますます多様化を強く進める結果となり、将来的には性別、人種を超えた社会になりそうで、これはこれで、ややこしい時代に入ろうとしている。


2023年10月22日日曜日

タイムトラベルは可能か



タイムマシンで過去、未来に自由に行けたらと思う人は多いと思う。個人的な見解だが、未来に行くことは不可能であるが、過去に行くことは可能だと思う。バタフライエフェクトいう言葉があり、タイムマシンで過去に戻り、蝶々一匹を捕まえると、その後の未来が変わるという理論で、確かに誰かがタイムマシンで過去に戻り、ナチスのヒトラーを暗殺すれば、その後の世界は大幅に変わる。歴史には何本もの仮想空間があり、別の世界があるという意見もあるが、実際に過去に戻ることは歴史を変えるという点では不可能なことのように思える。あくまで幽霊のような存在で、過去に戻り、誰からも見られない、また何もできない状態でしか過去あるいは未来に行けない。幽霊のような存在でも、未来に行って新しいことを知り、それを現在に戻り、利用すると未来も変わるという点では、未来へのタイムトラベルは歴史を変える。一方、幽霊のような存在で過去に戻り、実際の歴史を見たとしても、歴史学の嘘がなくなるくらいのことで、未来に大きな影響は与えない。

 

過去に戻る一つの方法としては、ストリートビューとVR(Virtual Reality)がある。グーグルのストリートビューは日本にいながらスイスの街中を自由に散歩できるという奇跡のような経験ができるツールで、行ったこともない街を仮想的に散歩することで、あたかもそこのいるような感覚となる。これとVRが一緒になると、ゴーグルをかければ、その仮想空間で離れた土地のことを体験できる。これは現実的にも可能なことであるし、実際にストリートビューの機能の中にもタイムマシンという機能があり、画面上で昔の風景が見られる。だいたい1314年前のストリートビューが見られる。画面の右上の「最新の日付を見る」をクリックすると、画面下の過去のストリートビューが現れて、普通のストリートビューにように操作すると、14年前の街を体験できる。わずか14年前とはいえ、ある程度のタイムトラベルができ、無くなった昔の建物の姿を見ることができる。

 

こうした情報が年々、より詳細に集まる、そして保存することで、数百年後の人々は、数百年前の風景を見ることができる。さらに頭にGo-proのような携帯撮影機を終日つけて、1日の経験を撮影する。それを10年後にVRで見れば、過去に戻ったのと同じような体験ができるはずである。将来的に家の中の家庭生活、外での都市生活が完全にカメラで監視されるようになれば、こうした撮影機なしでも、個人の生活を完全に再現できるようになるかもしれない。そうなると100年前の弘前の街、人物を完全に再現することができ、その情報をVRなどで見ることで、タイムマシンに乗ったのと同じような体験ができる。また自分の先祖がどんな生活をしていたのかもリアルにわかってしまう。いずれストリートビューが完全に動画化して、音声の入るようになり、ルートを指定すれば、VRで音声付きの動画を見られるようになると、一層、リアル感は増すだろう。

 

映画「トータルリコール」では、脳に直接、夢のような記憶を入れることで、全く違う世界を体験できる近未来の話であるが、こうしたことも実際に可能になるかもしれない。情報の記録、保存、再生が重要となるが、近未来はますます精細な記録を、無制限に、そして短時間で再生できるようになる。つい最近も関東大震災発生直後のフィルムをカラー化して、NHKで放送していた。かなりリアルな内容で、白黒からカラーかだけでも、あたかもタイムマシンで当時に戻った気がしたが、これが高解像度で、音声付きでの360度カメラの撮影であれば、今の技術でもVRでかなりリアルな体験ができる。8K16K3Kとなり、ハイレゾ音源と進んでいき、動画のムービーマップが普及していく、さらにこの情報が100年、1000年と保存できれば、自由に過去にタイムトラベルできることになる。


個人的には中国深圳の会社、Shenzhen Arashi VisionInsta360360度アクションカメラが面白い。5.7Kの高解像度で、手取り棒が自動的に消える仕組みになっており、街の記録には現在のところ最も優れている。欲しい。載せている渋谷の街歩きの動画は、上の矢印を押せば、側方、後方、360度の動画が見られる。これで弘前中の街を歩いて、その映像を100年後の人々に見てほしいものである。

 

2023年10月19日木曜日

日本のマンガ、アニメ文化


世界に誇る日本カルチャーの代表格は、アニメ、マンガである。欧米はじめ、アジア、南米、アフリカでも多くの日本のアニメは放送され、その影響を受けた子供は本当に多い。例えば、ドラエモンも見た世界中の子供達は、そのアニメ中に存在する日本を意識し、どら焼きとは何だろうかと日本人の生活を知ろうとする。昔、私も子供の頃に見た、「奥様は魔女」に描かれている家庭、大きな冷蔵庫や牛乳に憧れたのと同じであろう。昨年だったが、フランス、パリサンジェルマンのサッカー選手が来日で、「キャプテン翼」の作者、高橋陽一先生の前に子供のように接していた。皆、子供の頃の憧れのアニメであった。日本にくる海外の観光客にも、多くの日本アニメ好きがいる。

 

それでは日本のアニメの原動力は何かというと、これは昭和30年代の貸本と少年、少女漫画雑誌であることは間違いない。戦前も「のらくろ」などの漫画が、子供達に人気があったし、「桃太郎 海の神兵」などの傑作アニメ映画があったが、それが文化の主流にはならなかった。小学校に入る頃、昭和37年頃のことはよく覚えていて、まず近所に貸本漫画店があったが、当時、すでに古臭くて、汚い油紙のよって本がカバーされていて、汚い感じがしていた。本屋には月刊誌としては「少年」、「少年画報」もあったが、これは漫画より付録が楽しみで買っていた。人気があったのは週刊誌で、とりわけ少年マガジンが好きで、「チャンピオン太」、「8マン」、「丸出だめ夫」、「紫電改のタカ」などに熱中し、毎週販売日の水曜になると近所の菓子屋兼本屋に行き、車から雑誌が束になって下ろされるのを待って買った。兄と先を争うように読み、2、3日しっかり読むと、今度は「少年サンデー」や「少年キング」を買っている友達の家に行き、交換してこうした雑誌も読んだ。一週間で、マガジン、サンデー、キングの3冊の週刊漫画雑誌を読んでいた。

 

小学校45年になると、図書館で伝記もの、冒険ものなどの本をそれこそ図書館中の全てを読むようになったが、中学受験の勉強もしなくてはいけなくなり、忙しかった。その後も、ずっと高校卒業するまで買い続けた。大学一年生の昭和49年頃になると、少年マガジンよりジャンプが漫画雑誌の主力になったが、どうしてもマガジンからジャンプに鞍替えできず、そのまま週刊誌の購入はやめた。その後、たまにはビッグコミックなどを買うことがあっても、しばらくは漫画とおさらばして、ここ30年間はもっぱら単行本を買うようにしている。

 

今朝、テレビを見ていると、小学生の男の子に大人気の雑誌は「コロコロ」、女の子に大人気なのは「ちゃお」などだが、いずれもかなりページ数が多く、700ページ以上となり、漫画とはいえ、セリフを読むだけで大変である。かっては漫画なんか読まないで、きちんとした本を読めと親からも先生からも言われていたが、今や漫画でも読むだけマシと思うようになった。翻って考えると日本以外の国で、こうした子供向けの漫画雑誌があるだろうが。確かにアメリカにもキッズ向けの雑誌があるが、日本のコロコロのような漫画中心の雑誌は存在せず、同様のヨーロッパ各国、アジアでもないように思える。私が子供の頃から、すでに60年以上の漫画雑誌の歴史が日本にはあり、完全に定着し、それが継承されている。私は67歳であるが、この5歳くらい上までが、完全にマンガ世代となり、子供の頃から週刊漫画雑誌を読み、テレビでアニメを見た世代である。いまだに本屋で漫画コミックを買うのに抵抗はない。私も月に10冊くらいはコミックを買うが、全く飽きず、以前、入院した、時も、文庫本よりコミックの方が楽しめた。

 

こうしたほぼ全世代を包み込んだ、膨大な漫画ファンが日本にいて、日本のアニメ、漫画文化を支えている。ただ日本でも紙媒体の漫画の売れ行きは、年々減少しており、今や出版物の売り上げのうち20%以下の状況になっている。実際、私も、紙媒体のコミック本も買うが、デジタルで買ってみることも多い。若者にとっては、スマホでどこでも読めるのが魅力であろう。今や漫画のコンテンツは、テレビ、映画のアニメだけではなく、ゲーム、あるいはドラマ、実写映画など、あらゆるところで使われており、その分野では日本は圧倒的に有利である。確かに近年、韓国や中国などでも多くのアニメ、漫画が作られ、またアメリカのディズニー、ピクサーなどの巨大企業があるが、作者が一人で、ストーリを考え、作画するという日本のやり方は、他国では真似ができないようだ。例えば世界的ヒット、「進撃の巨人」など、どこからあんな発想が出てくるのか、不思議な作品である。また18年続いた「センゴク」などは、新しい歴史解釈で、よほどNHKの大河ドラマよりは面白い。本当に次々新しい作品が出ていて飽きない。ただこうした作品もまずは、週刊誌で掲載され、それが単行本、アニメ、映画と発展しており、ピクサーのようにいきなり映画とは本質的には制作過程が異なる。やはり作家が一人で取り仕切る日本の漫画には、週刊誌の存在が欠かせないと思う。新人が週刊誌に掲載され、人気がでて、長期連載となり、単行本化、アニメ化、そして映画化という流れの中、週刊誌がなくなってしまうと、新人発掘も難しいし、いきなり単行本を描けと言われても、作家としては難しいし、出版社も売れるかわからない作家の単行本を出版しない。それゆえ、最初の週刊誌あるいは月刊誌がなくなってしまうと日本の漫画文化、アニメ文化もかなり消退しそうである。


 

2023年10月15日日曜日

サッカー選手は厳しい

 


以前のブログで、プロのサッカー選手になるのは東京大学に入るより数十倍、数百倍難しいと言ったが、実際の選手について少し調べてみた。あくまでの一つの例であるが、高校サッカー選手権で優勝した2015年度の青森山田高校の選手のその後についてネットで検索した。

 

まず、当時の青森山田高校サッカー部の主将は賢い人で、サッカー推薦で慶應義塾大学に入り、現在は経営コンサルタントとして活躍している。ワントップのFWの選手は、仙台大学に入学したが、プロにはならず、今はわからない。MFの選手は、A選手は仙台大学を卒業し、J3のいわきFCに。B選手はモンテネグロのプロとなるが、半年で帰国し、WEB会社へ、C選手は高校卒業後に念願のプロ(ジェフユナイテッド千葉)に、D選手はこれも高校卒業後にプロ(清水エスパルス)、E選手は明治大学卒業し、今はJFLのラインメール青森に、バックスのF選手は、東京学芸大学卒業して、JFLのホンダロックSCに、G選手は高校卒業後に、ベガルタ仙台に入り、今はJ3の松本山雅FCに、H選手は阪南大学に入学、卒業後は不明。I選手は東京学芸大学卒業し、今はホンダロックSCに、GKは卒業後、FC東京に入り、今はJFLのラインメール青森にいる。

 

このメンバーで、高校卒業後にJ1入りしたのが二人だが、D選手は、U16,19,20,21,22の日本代表だったが、現在は怪我のために欠場でしていて、チーム自体もJ2に降格している。C選手は昨年、わずか8試合の出場で、今季はチームもJ2に降格している。そのため2023年現在、2015年度の青森山田高校の選手のうち、J1選手はおらず、J2選手が2名、J3選手が2名、JFL選手が4名、プロでサッカーをしていない人が4名となる。日本で最高の高校サッカーチームの卒業生の進路はこんなものである。進学校で有名な灘高校が一時、東京大学に100名以上入れていたのと桁違いである。

 

サッカー選手の年棒は、J1リーグでは平均で3658万円、最高は先日辞めたイエニスタ選手の20億円とかなり高額となる。ただJ2リーグになると平均年棒は400万円、J3リーグになると年棒が300-400万円程度で精一杯となり、ほとんどの選手がアマチュア契約で、バイトを掛け持ちしている状態となる。JFLになるとさらに厳しく、もはやアマチュアに近く、年棒で100万円以下という。とてもサッカーだけで生活できない。平均して256歳で引退するという厳しい世界で、この給与はかなり低い。

 

おそらく青森山田高校は、高校サッカー界のトップ校であり、まさしくサッカー界での灘高校や開成高校と言ってよく、実際、全国から優秀な選手が集まり、切磋琢磨してレギュラーになる。そのレギュラーの7年後の状況を見ると、ほとんどの選手が同世代の大卒の若者と同じか、それ以下の給与である。さらに残された選手生活の期間も少なく、サッカー以外には何のキャリアもなく、引退後は全くの新卒扱いのセカンドキャリアとなる。他の高校のサッカー部というと、うまくいって大学にサッカー推薦で入学できるくらいで、プロ、それもJ1に入る選手は稀であろう。最近で言うと筑波大学を卒業した三苫選手や、明治大学の長友選手のような例もあるが、25,6歳で辞めることを考えると才能のある選手はできるだけ早く活躍した方がよく、海外のプロ選手で大学卒業は珍しい。

 

慶應義塾大学などの有名私立大学に入るには、勉強して入試を受けて入学する方法以外に、スポーツなどの特技で入学する方法がある。サッカーや野球で推薦を受ける場合、慶應高校でいえば、高校の方が推薦枠は広く、大学は狭い。こうした有名大学に入れば、セカンドキャリも開けていて、卒業後はサッカーを辞めて普通の会社に就職するケースも多い。プロになってJ2、3のリーグに入るよりはよほど収入もいいだろう。さらにいうと、夢が叶って高校卒業後にJ1リーグに入り、10年以上の活動ができたとしよう。夢のような恵まれた状況である。それでも怪我もあるし、30代の半ばになると体力的には衰え、一般的には引退することになる。どこかのサッカーチームで監督、コーチとして雇ってくれればいいが、それでもJ1でコーチの給与は600万円、J2350万円、J3ではなんと250万円しかもらえない。大学、サッカークラブのコーチの給与も似たようなもので、100-280万円くらいで家族がいて生活できる額ではない。こうした境遇でも余程恵まれた方で、多くの若者は引退後、サッカーとは無関係な新たな仕事を行うことになる。

 

子供がサッカーなどのスポーツをしている親の中には、子供以上に熱心になり、送り迎えはもちろん、遠征にもついていき、中には部活とは別にサッカースクールに入れる親もいる。言い方はきついが、プロのスポーツ選手になるのは、芸能界も含めてあらゆる職業の中でも最も過酷な仕事であり、将来的にも子供にとって厳しい生活を強いる選択となることは、親としては理解しておく必要がある。

 

 


2023年10月12日木曜日

最近の歯科医院の倒産とアライナー矯正の翳り


以前の歯科医院の倒産と言えば、せいぜい1億円程度の負債であったが、今年の9月末に倒産した「東京プラス歯科矯正歯科」の場合、全国に29店舗を展開し、2021年度の売り上げは863300万円という。主として「キレイライン」というマウスピース矯正を中心に売り上げを上げていたが、ただこのキレイラインは技工料が高く、利益率の高い自社製品「ホワイトライン矯正」に切り替えたが、来院患者が減少し、破産となった。

 

まず86億円という売り上げに驚く、いくら29店舗あるとはいえ、一軒あたりにすると3億円の売り上げはすごい。保険治療で、この売り上げをしようとすると、一日250人以上の患者を見ることになる。少なくとも歯科医10人、衛生士、助手、20名の規模であるが、とてもこれだけの集客は不可能である。経営母体の「友伸會」のホームページを見ると、マウスピース矯正とジルコニア治療に特化した歯科医院グループで、主としてこの二つの治療により売り上げを支えていたと推測される。実際のマウスピース矯正の値段を見てみると、4回の176000円から無制限の880000円まであるが、仙台で治療を受けた人によると、だいたい50万円くらいかかったという。ジルコニアのクラウン、インレーは1本、55000円で比較的安いが、口腔内にあるメタルの補綴物は全てジルコニアのクラウン、インレーに勧められたと思う。8本、治療すると44万円となる。例えば、一店舗で3億円の売り上げを矯正治療単独で達成しようとするなら、一人50万円なら年間600人に患者を見ることになる。もしこの患者数をワイヤー矯正で診るとなると、月1回の来院で、2年間かかるとすると、月の患者数は保定患者も入れると約1800人、月22日間診療すると、1日の患者は90人位となる。ワイヤー矯正の場合は、一人のドクターではほぼ不可能な数値である。この数値は、あくまでマウスピース矯正という手段があるためで、前述した仙台でキレイラインの治療を受けた患者によると、3、4ヶ月に一度、先生が5分くらい見て、あとは衛生士からPMTCなどのクリーニングを受けて次回のマウスピースを渡されて終了となる。これなら新人の歯科医でも一日20名程度の患者を見ることができるだろう。さらにこの数値を達成するためには、来院した全ての患者にマウスピース矯正を勧めたと思われる。マウスピース矯正は適用も拡大したとはいえ、全ての矯正治療をマウスピース矯正、それもキレイラインで治すのは無理であろうし、若い、経験の少ないドクターであれば尚更であり、患者との多くのトラブルを抱えていたのは容易に推測される。またアメリカでは、安くて、歯科医院に行かなくても治療ができる「Smile Direct Club」の売り上げが激減しており、株価もついに0.047ドルとなり、ナスダックから転落した。利益も4期連続赤字で、治らないという悪評による。これほどではないが、インビザラインを作るアライナー・テクノロジー社も株価は、2021.9725ドルを最高に、現在、277ドルで半分以下となり、収益は増えているものの、利益は1/5に下がっている。どうやらアライナー矯正(マウスピース矯正)自体が頭打ち状態である。

 

 

近年、こうした売り上げが桁違いの多い歯科医院が増えており、それに伴い、倒産額も多くなっているのだろう。そのツールは、ずばりインプラントとマウスピース矯正で、宣伝をバンバンして集客をして稼いでいるようだ。マウスピース矯正の場合、特にキレイラインでは、適用がかなり限られていて、例えば、当院にくる患者の多く、でこぼこで口元が突出しているケース、ほとんどは小臼歯を抜歯して、ワイヤー矯正で治すケースは、キレイラインでは治療できない。逆にいうと、東京プラス歯科矯正歯科のところでの治療は専門医からみると、かなり問題が多いと思われる。実際、他院でインビザラインの治療を2年間してうちに来た患者に聞くと、相談に行くとデジタル印象をして、セファロ写真なども撮らずに次回から治療が始まり、2ヶ月ごとに来院し、2年後、突如、手術が必要ですと言われたという。骨格性反対咬合の患者で下顎骨の前方、側方への過成長があり、インビザラインの適用でない。同じように、単純に並べただけで、前歯が開咬、前突感は全く治っておらず、再治療を希望して来院したケースもある。ドクターも次々に代わり、文句を言っても誰も責任を取らない仕組みになっている。それでいてGoogleなどの口コミサイトには、業者に頼んで、良い評価をするバイトを雇い、非常に高い評価となっている。宣伝が派手で、口コミ評価も高いとなると、多くの患者が来院し、その日のうちにデジタル印象をとり、術後のシミレーションを示して、契約させる。こういう流れで、多分、医院自体にもノルマがあったのだろう。最近、話題になっている実質〇円で矯正治療ができると宣伝し、お金だけ取って診療所を閉鎖して訴訟となっている「デンタルオフィースX」も基本的には同じ構造である。

 

ここ10年間、インプラントという武器ができ、さらにそれが陰りだすと、今度はマウスピース矯正が流行している。しばらくはこうした流れは続きそうだが、結果は患者の希望には沿わず、多くのマウスピース矯正は淘汰されていくだろう。またここ2年ほどは、マスクをしている間に矯正治療をしようとする患者が殺到する、いわゆる「コロナバブル」があったが、今年からは、普段の状態に戻り、うちのクリニックも昨年の半分くらいになった。旅行、食事、洋服など、矯正以外の出費も増えると、簡単で、手を出しやすいマウスピース矯正も急激に患者は減っていくだろう。「東京プラス歯科矯正歯科」の倒産もそれが原因で、同じようなチェーン展開しているところも、これからなくなっていくだろう。「キレイライン」、「hanarabi」、「Oh my teeth」などたくさんある同種のサービスも消えていきそうである。「キレイライン」の母体、“SheepMedical”の最新の企業情報(売り上げと利益)が分かれば動向がはっきりするが、誰か教えてください。



2023年10月8日日曜日

西弘前のロック喫茶「JAIL HOUSE 33 1/3」 奈良美智個展

 

西弘前エリア(1977年)


1014日から青森県立美術館で、奈良美智さんの個展が久しぶりに開催される。「The beginning place ここから」という展示会で、巡回でなく、単独開催となる。是非行ってみたいものである。奈良さんの人気は凄まじく、海外にも多くのファンがいて、今回の個展も青森県単独開催のため、台湾、中国などからこの個展を目当てに来日する人も多いと思う。来年225日までの長期の公開なので、これを機に青森の冬を楽しんでほしい。雪、温泉、食事、いろんな楽しいものが青森県にはある。

 

この個展の内容は知らなかったが、今日の東奥日報の誌面に第5テーマとして、奈良さんが弘前高校在学中に建設に携わり、アルバイトをしていたロック喫茶「Jail House 33 1/3」の店舗が再現されているという。1977年に店の前で撮られた写真が載っているが、アメリカ南部の田舎の店という感じで渋い。1977年頃というと私もアメリカ、サザンロック、リトル・フィート、リンダ・ロンシュタットやレオン・ラッセルなどよく聞いた時代である。写真1枚であるが時代を感じさせる。

 

以前にも紹介したが、1977年発行のタウン誌、「DEED」というところが出した、弘前市内マップにもこのロック喫茶「Jail House」が載っているので、紹介したい。今は西弘エリアも寂れているが、1977年当時はこの「Jail House」以外にも多くの若者向けの店があった。地図に載っているところを紹介すると、Fork喫茶「York」がある。当時、ロック好きとファーク好きは分かれていたが、今はどちらも懐かしい。弘前学院女子大学には「すき大と読んではいけません」のコメントがある。お盛んだったのか。近くの喫茶クイーンには「●女子大生のたまり場なんだって」のコメントが、また「メガトンハウス」には「私設映画館(アパートメント、シアター)、撮影機材レンタルetc.他に伝販撮影など」、「劇団夜行館」、最近は見ないが、ろうそくの不気味な扇ねぶたで毎年ねぷたに出陣していた。


公園のところには、「児童公園 夜はーーー」となり、その下には「どこから出てくるのか学生多い。(その割にはmottor?は少ない)」となり、「Jail House 33 1/3」には「American Rock & Booze 夜は酒がメイン」となっている。Boozeとは聞き慣れない言葉だが、調べるとアルコールのスラングだそうだ。西弘駅の前には「︎ 100円不可 市外」となっている。若い人にはわからないと思うが、当時、公衆電話から市外に電話する場合は、10円玉を大量に持っていき、例えば5秒ごとに10円を入れ続ける。機種によっては100円玉可能な電話もあり、この場合は、手間が減る。家でも長電話すれば、料金が高いせいで、親から長電話するなと怒られたものだ。

 

他にも土手町の喫茶店を見てみると、一番町には「Coffee 美術手帖Jean 」の名があるが、どんな喫茶店か気になる。かくみ小路には「Jazz スガ マニアック最右翼!外タレのコンサートもあったりする」とある。本町から元大工町に行く小路には「ジャズ Ken」があった。また東長町の今でもある川越の黄金焼屋の2階にはライブハウスがあったようで、そこのコメントには、「らいぶはうす 萬燈篭(まんどろ、と読む)市内唯一のライブハウス。フォーク系の出演が多いが、他にもフィルムコンサートや演劇などもやっている。殆んどチャージ制、場所だけ貸すのはやっていない。西弘前のJail House 33 1/3と同じオーナー」の説明がある。

 

この市内マップの作者は、おもしろい人で、たとえば和徳町にところには「和徳にはホラ吹きが多いと云うーーー?」とか、坂本町の東北女子短期大学の女子寮のところには「ストームをかけてもムダじゃ」とあり、また弘前駅の南側には「小林音楽旅館」があり、「名物 音楽風呂個室」となっておる。風呂に入りながら音楽を聴けるということか。


地図の左上には、タメ口か「文字が細かすぎる、と云う人も居るでしょうが、そうカンタンにこの紙面の情報を君のモノにされてはタマランよ。これだけ調べるのに君一人じゃ何ヶ月かかる?ホント、できればもっと細かく書きたい位だよ。全情報を載せるためにはね。」となっているが、今から50年前の弘前を再現する重要なツールとなっている。当時の映画館も載っており、弘前東映、駅前日活、スカラ座、テアトル弘前、東宝劇場、ミューオリオン、日江劇場、弘前宝塚、弘前ミラノ座の9つもの映画館があった。

 

この弘前市内マップは一冊100円、何度も開いているうちに一部破れてきたので、知り合いの印刷屋に頼んで、デジタル化してもらった。本来なら作成者に連絡し、許可を得てからブログに載せるべきだが、連絡がとりようもなく、無断で使用している。こうしたサブカル的なものであっても、すでに50年経つと、当時の弘前市のことを知る重要な歴史的な資料となっている。貴重な資料である。






2023年10月4日水曜日

スポーツ選手への子供の夢 親は反対すべきである

 



子供の同級生の中にも、剣道がうまいので、強豪校である中学に越境入学する人もいたし、またわざわざイギリスの高校にサッカー入学させた知人もいる。患者さんの中にも、サッカーが好きで、岩手県のそれも部員が100名以上いる高校に行っている子供もいる。子供の好きなことをさせたいというのは親の気持ちかもしれないが、実際にスポーツで金を稼ぐ、つまりプロになるのは、東京大学に入学する100倍、あるいは1000倍も難しい。

 

例えば、J1リーグの登録選手数は555名、J2668名、 J3リーグは536名、これらを合わせて大体1600名が日本のプロサッカー選手と言える。J1の選手の平均年棒こそ3400万円と高いが、J2では400万円、J3ではそれ以下で、日本のサラリーマンの平均年収460万円に比べてもJ2J3の選手はそれ以下の収入といえよう。東大の入学者は毎年3000人に比べると、高校卒業してJ1リーグに入る選手は毎年数十人くらいで、比較にならないほど、サッカーでプロになるのは難しいし、普通の会社員並みの給料をもらうのはさらに難しい。また選手生命も短く、35歳以上で活躍する選手は少数で、せいぜい選手生命は10年程度であろう。かなりリスキーな仕事である。

 

こういうことがわかっているなら、親としてはいくら子供がサッカー選手になると言っても、反対すべきであろう。夢を持つのは結構であるが、中学生以上であれば、こうした現実もわからせないといけない。人気のあるサッカーでこれであり、柔道、剣道、バレー、卓球、その他の運動競技はさらに食べていくのは厳しい。努力だけでなく、むしろそれ以上に才能が関係する仕事である。

 

昔の話をすると、私がサッカーをしていた昭和40年代は、親が試合を見に来ることはまずなく、こちらも試合結果を話すこともなかった。近畿大会の出場し、優勝した時も、OBは応援にきたが、選手の親が来ることはなかった。親も仕事が忙しかったのか、子供の試合をわざわざ見にくるほど暇ではなく、小中高校のスポーツは単に遊び、趣味のように見ていた。同級生も国体代表に選ばれたが、校長も親も勉強に支障をきたすとして辞退したように、まず勉強、そして部活という流れであった。サッカーで言えば、戦前の日本サッカー界で活躍した、大谷兄弟で見てみると、大谷一二は、神戸一中から神戸商業大学に進学し、日本代表として活躍したが、大学卒業後は東洋紡績に入社し、最終的には社長、会長となった。弟の大谷四郎も、第一高等学校から東京大学に進学し、大学サッカーで活躍し、卒業後は朝日新聞の記者としてサッカーの普及に努めた。日本サッカー殿堂入り。

 

今は昔と違い、プロもできて、サッカーで稼げる時代となったと言っても、それができるのはごく一部の選手で、おそらく引退後は厳しい生活が待っている。サッカーのプロになる夢を捨てて、会社に入って、定年まで仕事する方がよほど安定した生き方であるし、現実的である。同様なことは、音楽家、画家などの芸術分野にも当てはまるが、これに関して、唯一スポーツよりいいのは寿命が長い点であり、作曲家や画家などを見ても、一生、死ぬまで仕事をしている人も多いし、江戸時代も含めてこうして生活している人も多くいる。一方、スポーツについては、江戸時代も含めると、プロのスポーツ選手は相撲くらいしかいない。子供が音楽家、画家になりたいと夢は、スポーツ選手よりまだマシな選択かもしれない。

 

おそらく野球の大谷選手や、サッカーの三苫選手に憧れる子供は多いし、将来、あんな選手になりたいと夢見ることであろう。ただこうした選手には99.99%なれっこなく、その0.01%に親も期待してはいけないと思う。本当に才能がある選手は、おそらく早い段階で誰かの目に留まるもので、むしろそうした選手を集めて、優れたコーチが指導した方がようのかもしれない。Jリーグの初代チェアマン、川淵三郎の履歴を見ても、早稲田大学卒業後、古河電気に入社し、日本代表になるものの、引退後は古河電工に勤務し、部長などを役職を経て、Jリーグのチェアマンとなった。私の従兄も同志社大、近鉄でラグビーをして、日本代表にも選ばれたが、引退後は近鉄で仕事をして定年まで勤務した。今は多くのスポーツがプロ化されているが、むしろ社会人競技であった時の方が良かったのかもしれない。

2023年10月1日日曜日

明治29年夏の弘前城 石垣の大崩落

 





弘前城が一般市民に開放されたのは明治266月で、それまでお城を見たこともなかった多くに市民が押しかけた。それを見込んで、弘前市内の名店、料亭「酔月楼」や蕎麦屋の「東京そば」などの店が本丸にできた。今では考えられなかったが、津軽の殿さま、弘前市から許可が出たのであろう。当初、一時的な露店を想定していたが、かなり本格的な建物が立ち、有識者からのこんな永住的な建物を本丸に建てるのはどうかという声も多かった。

 

さらに明治初期から、弘前城石垣の一部が崩れ、その都度、部分的な補修をしていたが、とうとう明治29年の春の大規模な石垣の崩壊が起こり、このままでは弘前城本丸の崩れてしまうということで、明治30年からお城ごと後ろに下げて、石垣工事を行なった。大正4年にようやく完成し、元の位置に天守閣を戻すことができた。さらに本丸あるいは二の丸にあった飲食店は、明治35年頃から三の丸、あるいは郭外に移転するし、現在のような本丸の姿になった。

 

数ヶ月前に、一枚の弘前城の昔の絵葉書が、ヤフーオークションに出品された。弘前城を東側から撮影したもので、珍しいものと思い、落札しようと思っていたが、いつの間には、同じように思う人もいるのか、落札されてしまった。その後、数日前に同じような絵葉書が出品されたので、今度は落札した。


写真を見ると、弘前城天守閣の下の石垣が大きく崩れて、今にも天守閣ごと崩れ落ちそうである。天守閣の右、北側には大きな建物が建っており、これは料亭「酔月楼」である。確かに本格的な建物で、これでは有識者から苦情がでよう。石垣の手前には、大きく拡大すると兵士が射撃訓練を行っている。軍服から日清戦争当時の明治19年陸軍軍装で、帽子が角張って高い。白く写っているので、黄色の夏の軍服である。明治29年の春に石垣が崩壊し、明治30年に工事が始まることを考えると、この写真は明治29年の夏に撮られた写真であることがわかる。兵士が11名、銃を実際に構えている兵士も多く、市民に解放されている場内で、こうした訓練もどきのことが行われていたのは、今では信じられない。元々は軍の管理下であったところなので、こうした訓練も城内でされていたのだろう。

 

「ふるさとのあゆみ 弘前1」(津軽書房)には昔の弘前城のことが写っているが、明治10年頃の写真には一部の石垣が崩壊しているが、これほどひどい状態ではなく、また白塀も健在である。また同本にある公園になった頃の弘前城では、白塀がなくなり、柵となっていて、寂しい印象となっている。石垣の崩壊はあまり見られずに、奥の方には飲食店の屋根が見える。

 

一枚の写真からもいろんなことがわかり楽しい。今でこそ、白塀のない天守閣が当たり前の景色になっており、城を開放した時もこの白塀があると料亭「酔月楼」からの東の眺めも遮られ良くなかっただろう。まさか料亭を建てるために白塀を壊したことはないだろうが、どうも白塀のない天守閣はみっともない。できれば、次回、再び天守閣を元の位置に戻す時には白土塀も是非復元してもらい、明治20年以前の堂々とした姿の戻してほしい。本丸御殿の復元は難しかったが、白土塀については明治20年代以前の写真がこれだけ残っているし、今回の天守閣周辺の発掘作業からの情報からも、白土塀の復元は文化庁からも許可を得ることができると思う。