2023年10月1日日曜日

明治29年夏の弘前城 石垣の大崩落

 





弘前城が一般市民に開放されたのは明治266月で、それまでお城を見たこともなかった多くに市民が押しかけた。それを見込んで、弘前市内の名店、料亭「酔月楼」や蕎麦屋の「東京そば」などの店が本丸にできた。今では考えられなかったが、津軽の殿さま、弘前市から許可が出たのであろう。当初、一時的な露店を想定していたが、かなり本格的な建物が立ち、有識者からのこんな永住的な建物を本丸に建てるのはどうかという声も多かった。

 

さらに明治初期から、弘前城石垣の一部が崩れ、その都度、部分的な補修をしていたが、とうとう明治29年の春の大規模な石垣の崩壊が起こり、このままでは弘前城本丸の崩れてしまうということで、明治30年からお城ごと後ろに下げて、石垣工事を行なった。大正4年にようやく完成し、元の位置に天守閣を戻すことができた。さらに本丸あるいは二の丸にあった飲食店は、明治35年頃から三の丸、あるいは郭外に移転するし、現在のような本丸の姿になった。

 

数ヶ月前に、一枚の弘前城の昔の絵葉書が、ヤフーオークションに出品された。弘前城を東側から撮影したもので、珍しいものと思い、落札しようと思っていたが、いつの間には、同じように思う人もいるのか、落札されてしまった。その後、数日前に同じような絵葉書が出品されたので、今度は落札した。


写真を見ると、弘前城天守閣の下の石垣が大きく崩れて、今にも天守閣ごと崩れ落ちそうである。天守閣の右、北側には大きな建物が建っており、これは料亭「酔月楼」である。確かに本格的な建物で、これでは有識者から苦情がでよう。石垣の手前には、大きく拡大すると兵士が射撃訓練を行っている。軍服から日清戦争当時の明治19年陸軍軍装で、帽子が角張って高い。白く写っているので、黄色の夏の軍服である。明治29年の春に石垣が崩壊し、明治30年に工事が始まることを考えると、この写真は明治29年の夏に撮られた写真であることがわかる。兵士が11名、銃を実際に構えている兵士も多く、市民に解放されている場内で、こうした訓練もどきのことが行われていたのは、今では信じられない。元々は軍の管理下であったところなので、こうした訓練も城内でされていたのだろう。

 

「ふるさとのあゆみ 弘前1」(津軽書房)には昔の弘前城のことが写っているが、明治10年頃の写真には一部の石垣が崩壊しているが、これほどひどい状態ではなく、また白塀も健在である。また同本にある公園になった頃の弘前城では、白塀がなくなり、柵となっていて、寂しい印象となっている。石垣の崩壊はあまり見られずに、奥の方には飲食店の屋根が見える。

 

一枚の写真からもいろんなことがわかり楽しい。今でこそ、白塀のない天守閣が当たり前の景色になっており、城を開放した時もこの白塀があると料亭「酔月楼」からの東の眺めも遮られ良くなかっただろう。まさか料亭を建てるために白塀を壊したことはないだろうが、どうも白塀のない天守閣はみっともない。できれば、次回、再び天守閣を元の位置に戻す時には白土塀も是非復元してもらい、明治20年以前の堂々とした姿の戻してほしい。本丸御殿の復元は難しかったが、白土塀については明治20年代以前の写真がこれだけ残っているし、今回の天守閣周辺の発掘作業からの情報からも、白土塀の復元は文化庁からも許可を得ることができると思う。

















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