2020年12月23日水曜日

戦争世代の退場

 

角野栄子さん 戦争世代とは言えない


 私は昭和31年生まれで、今年で64歳、自分ではそれほど自覚はなくとも、もはや老人世代であり、年金もすでにもらっており、いいこずかいになっている。僕らの世代は、生まれた時から、それほど大きな苦労はなく、もちろん戦争の記憶などはなく、もはや戦後ではないと言われた時代に育っている。

 

 学生時代、特に青春時代は、長髪、ジーンズ、ロックの時代であり、今の若者と文化的にはあまり変わらないという自負がある。こうした感覚は、私の5歳上の姉の世代でも同様であり、ミニスカート、フォーク、グループ・サウンズの時代であり、これも今にも続いている。それほど現役世代とは大きな壁となっていない。

 

 戦争世代、昭和20年の終戦までに戦争に参加した世代、大正からせいぜい昭和5年までの世代、90歳以上の世代とは大きな格差があるが、それより若い老人とは個人的には全く年齢差を感じない。昔は、何かといえば、年配の方からお前らは戦争を経験していないからそんなことを言える、できると散々言われてきた。戦争中の苦労を言われれば一言も言えない。長崎で原爆にあい、母と妹を自分で焼骨したという経験談を言われれば、これには何とも言えない。

 

 こうした世代がほぼ退場した現在、個人による経験の差、例えば昔は貧乏であったという経験の差はあるが、時代による差はほとんどない。若くして死ぬ、食うのに困る、自分の好きなことができない時代を経験していない。もちろん同世代でも貧乏で食うにも困る、学校に行けない、病気になっても病院にも行けない人はいる。ただこれは時代のせいではない。あくまで個別の話であり、現在の若者にもそうした人はいる。

 

  私自身はスマホを持っているが、ほとんど使っていないが、逆にコンピューターの使用は若い人より多いかもしれない。こうしたITにしても、アニメオタクやスポーツ好きでも、もはや世代間の差より世代内の差の方が大きいと思う。音楽にしてももちろん、僕たちに世代はハードロック、ブリティシュロックを聴いたが、若い世代でもこうした音楽が好きな人も多い。自分の子供より孫の方と趣味があうという老人もいるかもしれない。テレビゲームをする老人などごまんとおり、それほど珍しくもない。そうしたわけで、戦争を経験した上の世代がいなくなったおかげで、もはや誰も頭を下げる必要がなくなったことは嬉しいし、逆に若い世代に威張ることもできない。バカな老人が、コンビニの店員やレストランのウエイトレスに、クレームをつけて威張るニュースがあるが、今の私にはこうした老人はまったく怖くなく、普通に注意をするだろう。戦争も経験していないのに“今の若者は”というセリフを吐けないからである。たとえ、80歳で、終戦時5歳、満州から命がけで脱出してきたとしても記憶にはなく、経験したとはいえない。記憶しているのは全て親から聞いた後付け記憶であろう。老人にクレームをつけられても、若者に対するのと同じような対応をすればいいだけであり、敬老の日というものがあっても、それほど老人を敬う必要もない。

 

 もちろん老人になれば、体を弱り、他人の親切に頼りたいこともあるが、それを押し付ける必要もない。ITの発達によるのか、自分自身ではここ十年くらい、年齢差もあまり気にならなくなったし、言葉の問題を除けば人種差も全く感じないし、まだ男女差には多少敏感であるが、LGBTにも全く気にならない。戦争経験者の退場に伴い、本当に身軽になった。これからは世代差より個人差を中心としたグループ活動がもっと活発になっていくだろうが、そうした場合も決して年齢差をグループの上下に関連させてはいけない。

 

2020年12月21日月曜日

歯が喪失する理由

 


 私の歯には中学生頃に親父に治してもらった金歯が4本ある。3本はインレー、1本はクラウン、すでに50年以上前のもので、何度か外れたが、その度に付け直して今に至る。おそらく私が歯科医でなければ、その度に歯科医院で歯をさらに削り、新しい補綴物を入れていただろう。50年以上、もたなかっただろう。

 

 歯の寿命、歯が喪失する理由には、歯周疾患のような加齢に伴い、骨がなくなり自然に脱落する場合と、歯科治療による医原性の場合がある。50歳以上で歯を抜く理由の一つに歯根破折がある。これは歯の根っこの部分が骨の中で折れた状態を指し、強い痛みがあり、治らない、結局は歯を抜くしかない。こうした歯根破折は通常、交通事故などの外傷以外おこることではないが、根っこの治療そして、ポストと呼ばれる土台を入れた場合、起こりやすい。昔の教科書には、土台となるポストが外れないように根っこの半分以上の長くて太いポスト(メタルコア)を入れるが、その際に根っこの歯質が薄くなる。後年、加齢により歯が脆くなるとその部分が破折する。また根っこの治療そのものに問題があり、そこから膿がたまり痛みが続き、さらには抜歯しなくてはいけない場合がある。これも医原性のものがあり、同じ歯科医で、同じ頃治療された数本の歯が一斉に歯根嚢胞になる症例を何度も見てきた(矯正科では一年後ごとにレントゲン写真を撮るので、長期の経過を知ることができる)。一見すると根尖の先まできっちりと充填剤が入って、きれいな治療をしていると思われる症例で、こうしたことが多い。私の場合は、親父が根っこの治療をしている歯が1本あり、半分くらいしか充填されていないし、ポストも入っていないが、すでにこの歯も50年以上持っている。

 

  こうした歯の喪失理由を知るためには、多くの知識と経験が必要で、ここが一般歯科で最も難しい点である。クインテッセンスという歯科雑誌に載るようなすごい治療より、私の親父のようなしがない歯科医のやった治療の方が長持ちすることもあり、それは私の歯を見てもわかる。逆にほとんど全ての歯の神経を抜いて、太いポストコアを入れ、審美的な補綴処置をしている症例などを見ると、いつかひどいことになると思うのは私だけだろうか。一方、こうした派手な治療をする歯科医とは別に、私の尊敬する森克栄先生のように一本の歯を二十年以上経過観察する地道な治療をしている先生もいて、どこの歯科医院で治療するかは、歯の寿命を考える上で、決定的な要因になるように思える。友人の年配の歯科医を見ていると、経験を積むと歯科医も大掛かりな治療は避ける傾向がある。悪い歯のみ取り敢えず治し、あとは様子を見ながら、治療をする。人間の体を人工物に置き換えることは難しいという当たり前のことを謙虚に考えるなら、むやみに治療介入はできない。たとえ小さな虫歯があっても、あまり進行せずに、数十年間そのままの場合もある(私の歯も溝が少し黒くなった、いわゆるC0の歯が2本あるが、この歯も50年以上、虫歯が進んでいない)。こうした歯に対して治療して介入することは、歯の寿命を縮める。このあたりのさじ加減は経験が必要であり、若手の先生は教科書的に治療を行なってしまう。

 

 一方、ここ50年くらいの歯科医療の進歩を見ると、虫歯は減ったし、80歳で20本以上歯のある人も増えた。ただこれは、患者さん側の予防歯科への啓蒙によるものであり、何か革命的な治療装置、器材ができた訳でない。たとえば、治療が最も難しい、根っこの治療に関しても、いろいろな治療法が開発されたが、結局は50 年前とほとんど変わらないし、予後も変わらない。また最近のマイクロスコープを用いた歯根の治療も予後はいいというが、それでは森先生のスコープを使わない治療より予後はいいとは言えない。材料にしても、CADCAMによるセラミックのものができてきたが、やはり金が材質としても優れているのは私の歯を診てもそう思う。結局、虫歯がなく、歯髄処置もなく、歯周疾患にもきちんとケアし、いつも診てもらえる信頼の置ける歯科医がいれば、一生歯で困ることはないであろう。


2020年12月17日木曜日

クリスマス ペーパーハウス

 










 毎週木曜日の10時半から放送されるNHKの「世界はほしいモノであふれている」は、大変好きな番組で毎週欠かさず見ている。12/3の放送では世界各国の紙についての特集があり、その中で、ドイツ、ザイフェンのクリスマスハウスを紹介していた。クリスマスといえば、クリスマスツリーを真っ先に思い浮かべるが、ドイツのこの地方では、紙で作った可愛いクリスマスハウスを毎年、飾るという。番組では伝統的な装飾紙を各部に用いた凝ったクリスマスハウスが紹介されていたが、簡単なものならダンボールで作れるのではないかと思った。

 

 You-tubeで調べると、いろんなクリスマスハウスの作り方があるので、その中の一つを参考にして作ってみることにした。まず製作には最近、よく聞くグルーガンが必須のようなので、1000円くらいのものを購入した。アマゾンに注文したしたところ、例によって誇大包装で送られてきたが、そのダンボールを使ってそのまま作れた。カッターでダンボールを切り、グルーガンでつけていくだけなので、非常に簡単である。窓は薄いセルロイドを使い、屋根の瓦はダンボーより少し薄い、ボール紙を使った。どんどんグルーガンでつけていく。

 

 Youtubeの参考例では、最終的にダンボールに着色して仕上げているが、ダンボールに着色すると色が汚くなるので、画用紙を貼ってみた。すると、モノトーンもいい感じで、別に着色する必要はないと思い、空き箱を色々と探して、黒とアクセントに赤で、着色なしで作ってみることにした。本日の午前中で完成したが、家内がクリスマスケーキ用飾りを安く買ってきたので、簡単な台も作った。これでひとまず完成であるが、アマゾンで電飾用、HOゲージ用のLED電球を買い、内部を照明すれば、さらにかっこよくなりそうである。

 

 日本ではこうしたダンボールを使ったクリスマス用のペーパーハウスはあまりないようだが、実際作ってみれば、なかなか楽しいし、飾れば、それなりに美しい。流石に今シーズンはもはや遅いが、1年くらい、数十くらいペーパーハウスを作れば、NHK文化教室で「クリスマスペーパーハウスの作り方」の講師くらいにはなれそうである。昔に比べてネットによる注文が増え、どこの家でも多くのダンボールがあり、その処分には困る。お荷物のそうしたダンボールを利用して、ペーパーハウスが作れるなら、材料費がほぼタダでいろんな家を作ることができる。グール−ガンは本当に便利で、使い方にはコツがいるが、かなり接着力が強く、あっという間にくっつき、便利である。

 

 今回は初めての作品で、大まかなものになったが、ダンボールを使ったペーパーハウスの可能性は、グルーガンを使うことで非常に広がり、今まで無理と思われていた製作法ができる。例えば、入り口の壁面に小さな屋根を引っ付けたが、通常のノリではこうしたことはできないが、グルーガンを小屋根と片面につけ、2、3秒固定すれば綺麗にくっつき、大変楽で一度つければなかなか取れない

 

 製作は先週の日曜日と今日の2日間、実質は3時間くらいでできた。モノトーンでこれはこれで美しいが、飽きたら絵の具で派手な色を塗ってみようと思う。


設計図も提示するので、暇であれば、一度製作されたらどうでしょう。厚いダンボールを切るのは難しいが、製作自体は小学校の低学年でも可能であるので、お父さん、お母さんがカッティングのみ手伝えば、親子で楽しい経験ができよう。またシルベニアンの小道具があれば、中に入れて楽しむこともできる。屋内の照明をして、シルベニアンの家具を入れれば、窓から内部の状態が見えて楽しい。










 



2020年12月13日日曜日

江戸時代の美人画

 

現実にこんな顔の人はいない(江戸後期)。写実性は後退している


            
こういう顔の人はいる。婦女遊楽屏風図(江戸初期)



清朝 皇后 郎世寧

 江戸時代の絵画における不思議の点は、男性画についてはかなり写実的な作品が残っているのに対して、女性画については、浮世絵に代表するような面長で一重な特徴的な絵が中心で、ある意味、画一的な作品しかない。喜多川歌麿の「ビードロを吹く娘」の女性、似たような女性は今でもいるだろうが、個別のパーツを見ると、顔が長く、目が小さく、鼻が長く、口は極めて小さく、客観的に見れば、アニメのような極めてデフォルメされた女性像であり、とても写実的な表現とは言えない。

 

 西洋では、ギリシャ、ローマ時代から人を神になぞらえ、いかに写実的に表現するのかが、美の目標であった。さらにルネッサンス期になると、実際の女性の肖像画も増え、あたかも生きているかのような写実的な作品が数多く作られ、その頂点がダビンチのモナリザである。彼女と全く同じ人物が当時のイタリアにいたのだろう。これを見る限り、化粧法や服は現在とは違っていても、美人の基準はそれほど変化しないし、顔自体も変わっていない。

 

 日本について見ても、江戸時代は結婚をすると眉を剃り、お歯黒を塗っているものの、幕末、明治初期の女性の写真を見ても、今の女性と顔の作りはほぼ同じである。500年前のルネサンス期と今のイタリア女性がそれほど違わなければ、江戸時代の日本女性も今とそれほど違わないという仮説は成り立つだろう。もちろん化粧法や髪型、服装が違うが、現代の女性がタイムトラベルして400年前に行ったとしても、化粧法、髪型、服装を同じにすれば、それほど違和感はないと思われる。

 

 それでは、なぜ明治になって西洋画が入るまで、日本では女性の写実的な絵画はなかったのであろうか。一つは、中国、朝鮮、日本などの儒教国家では、男尊女卑が底辺にあり、女性は隠れた存在で、表立って出ることは少なかったし、社会的に活躍する女性もいなかった。それにより女性肖像画という分野が発達しなかったのも一つの理由であろう。それでも葛飾北斎の娘、応為のような女性画家も活躍していたので(極めて珍しい正面画がある)、自画像のようなものがあっても良さそうであるし、浮世絵が今のブロマイドのようなものであれば、より写実的、リアルなものの方が売れように思う。中国の写実肖像画といえば、イタリア人画家、カスティリオーネ(郎世寧)の作品があげられ、女性像としては乾隆帝の皇后、皇妃の絵があり、実に写実的である。あれだけ皇帝の寵愛を受けた郎世寧であったが、その後の清王朝ではその画風が継承されなかった。李朝朝鮮では、風俗画家の申潤福や金弘道らの女性像は単純な線に表現であるが、写実的な絵となっている。

 

 中国や朝鮮などにおいても、少数例ではあるが、かなり写実的な女性像が残され、日本でも渡辺崋山の「鷹見泉石像」のような実に写実的な男性像は多くあるが、このレベルの女性像は見当たらない。日本ではもともと鎌倉時代から南北朝時代にかけて人物をできるだけ写実的に描く似絵という文化があり、安土桃山時代でも例えば豊臣秀吉の妻、寧々の肖像画などは、日本画の手法でありながら、同時代の戦国大名と同じく写実的な肖像画となっている。

 

 江戸時代になると、浮世絵に代表される面長、一重の類型化された絵が一般化され、それ以外のものはない。東洲斎写楽を写実的な作家として評価し、世界三大肖像画の一人としてレンブラント、ルーベンスと並べる向きもあるが、写楽の絵はあくまで役者の特徴を大げさに表現しだけであり、決して写実的ではない。江戸時代最高の画家、葛飾北斎の肉筆画、肉筆春画を見ても、ついに写実的な女性像を見出せないことは大きな謎とも言える。ただ江戸初期に限れば、国宝「婦女遊楽図屏風(松浦屏風)」のように、一人一人の女性の顔が違う写実的な作品もあり、寧々の肖像画なども含めて、まだ似絵の文化は残っていたが、その後は明治になって西洋画が入るまで、画一的な浮世絵的な女性表現が一般的になった。浮世絵の女性像は、当時の男性に好かれた理想の女性が描かれており、例えば、写真そっくりなリアルな女性像は彼らにとってはグロテスクに思え、むしろアニメに出てくる女性、例えば、ルパン三世の峰不二子の方が美人に思えるような感覚が江戸の男性にあったのかもしれない。


2020年12月10日木曜日

大谷亮介

 



 テレビで、その顔を見れば多くの人が知っているのが俳優の大谷亮介さんで、テレビ朝日、相棒の三浦信輔警部補役で出ていた記憶のある人も多い。これといって代表作はないものの、名脇役の一人であろう。高校の親友の兄で、六甲学院サッカー部では3年先輩に当たる。サッカー部では、非常に巧みな技術を持つフォワードの選手で、進学校でありながら、この学年は兵庫県代表としてインターハイに出場した。

 

 実は、以前、是非ともNHKのファミリーヒストリーで大谷亮介を取り上げてくれと投書したことがある。というのは大谷さんの両親の歴史は、一つの小説になるほどユニークで、色んな分野の歴史に絡んでくるからだ。ところが

投書した当時、ちょうど俳優の高畑裕太の事件があり、その父親とだったことや、超有名でなかったことも採用されなかった一因かもしれない。ただその両親の歴史をこのまま埋めておくのはもったいないと思った。

 

 まず大谷亮介の父、大谷四郎は学生時代、サッカー選手として有名で、神戸一中から第一高等学校、東京帝国大学と進んだ。活躍時が昭和10年代という厳しい時期でなければ、日本代表として活躍したことは間違いない。戦後、朝日新聞に入社し、スポーツ記者として活躍した。当時の日本では、今では考えられないが、世界のサッカーについての知識は全くなかった。それを広めたのが大谷四郎記者で、このころ友人の家に行き、ペレのサインを始めて見せてもらった記憶がある。さらには兵庫県サッカー連盟など関西のサッカー界で尽力し、その功績により2009年には日本サッカー殿堂入りを果たした。兄の大谷一二も戦前の神戸サッカー界で活躍し、のちには東洋紡の社長、会長としてビジネス界でも活躍した。関西系の多くの日本代表監督(二宮洋一、加茂周、長沼健、岡田武史)がいるが、この大谷一二、四郎兄弟にルーツを持つ。そうした意味では、大谷兄弟の歴史は日本サッカー界の歴史にも繋がる。

 

 大谷亮介の母については、神戸サッカーの重鎮、賀川浩さんの「記者として、サッカー人として 大谷四郎」で“大谷さんの奥さんは、お父さんが朝比奈先生という東大の薬学の大先生で、かの有名なサッカーの神様`竹腰重丸が、東大の薬学部に入ったときの先生でした”としている。竹腰が東大に入ったのが1925年で、その時の薬学部の教授は朝比奈泰彦である。朝比奈泰彦は日本薬学界の重鎮で、文化勲章、文化功労者にも選ばれ、さらに1951年と1952年にはノーベル化学賞の候補となっている。もしこの時にノーベル賞を取っていれば、湯川秀樹に次ぐ二番目の受賞者になっていただろう。大谷亮介の伯父になる朝比奈正二郎は昆虫学者として有名で、またその弟の朝比奈菊雄は東京薬科大学の教授となり南極観測隊にも参加した。ただ朝比奈泰彦の長男は正二郎、三男英三、四男菊雄、長女かほる、次女千代とあるが、大谷亮介の母、福子の名はない(人事興信録、大正14年)。朝比奈泰彦の父は東京府士族、朝比奈和四郎といい、おそらく鎌倉幕府から続く朝比奈家の末裔であろう。

 

 こうした大谷亮介のルーツを見ることで、一方は草創期の日本サッカーの歴史を、もう一方はあまりテレビで取り上げられない日本の薬学の歴史を見ることができ、その意味は大きいし、さらにいうならスポーツライターの草分けの賀川浩さんも既に96歳、戦前のサッカーを知る他の関係者もかなり高齢となっている。ファミリーヒストリーは、全く無名の人物に焦点を合わせるのも良いが、こうした歴史の陰に隠れた人物にスポットライトを合わせてもいいと思うが。

2020年12月6日日曜日

Orientation Magazineに名前が載りました

 


以前ヤフーオークションで落札した香川芳園の作品です

謝辞に私の名前を載せてくれました


 毎週火曜日の7時半から9時まで、弘前市内のレストランでワインを飲みながら、歯科医の友人4名と英語の先生を交えて、英語のレッスンを受けている。かれこれ10年近く続いているが、予習、復習というものを一切せず、その夜に集まって、時事問題について語り合う。こうして書くと、さぞレベルの高いレッスンのように思えるが、使っている英語はほぼ中学生レベルで、わからない場合は、辞書を引きながら喋っている。もう少し真面目に勉強すれば、十年も毎週レッスンを受けているのだから相当上達して良さそうだは、実感としては全く進歩していない。

 

 それでもこの歳になっても毎週英語に接することで、外国人と話す、英語の雑誌、書類を見る、あるいは英語でメールを送るのに、抵抗が少なくなった。もちろん喋ると言っても聞いてもわからないことが多いし、きちんと喋れるわけではないし、メールを送るにしても、ほぼ全文、ネットで検索しながら書いている。それでもそれほど抵抗がなくなったというのが、自分でも大きな成長だと思う。

 

 先日、アメリカ、シンシナティーに住む友人のホウメイさんから郵便が届いた。彼女はシンシナティー美術館の東洋美術部門の主任で、同館にある“芳園平吉輝”の署名のある二つの作品について、一緒に調査した。その結果をまとめて論文が、東洋美術の老舗雑誌“Orientations Magazine”に掲載されたので、その雑誌を送ってくれた。私が調査に協力した資料についても取り上げられ、丁寧な謝辞にも感激した。矯正歯科医として、これまで何度か矯正歯科分野の論文を書いてきたし、最近では、弘前の郷土史についても本も何冊か書いたが、これとは全く分野の異なる美術雑誌に自分の名が出て、非常に嬉しい。

 

 よくよく考えれば、これも英語のレッスンをしていたおかげで、以前であれば、英語のメールや手紙がきたらかなり尻込みしたであろうが、数年前にホウメイさんから初めてのメールがきて以来、数十のメールのやり取りをし、かなり長文のメールも送った。もちろん、文法的におかしな英語であろうが、内容が伝わればと割り切っている。“芳園平吉輝”の件でも、途中から中国のコレクターのチェンチェンという方も論争に加わり、三人で意見交換した。ホウメイさんは、二年ほど前に来日し、それについても実際に会って議論した。こうしたことも全て英語のレッスンによるものであり、もしレッスンを受けていなければ、こうしたチャンスがあっても、美術雑誌に載るまで話が発展することはなかったと思う。

 

 “芳園平吉輝”についてはこのブログでも何度も取り上げたが、他にも最近発表されたベネチア大学の東洋美術をしている先生が書いた論文(イタリア語)にも私のブログが引用されていて嬉しく思っている。一方、日本では私のようなアマチュア研究者の研究など見向きもされない傾向があり、論文などで引用されることはない。郷土史において、個人的に一番大きな功績は“明治二年弘前絵図”に発見であると思っており、すでに図書館に寄贈しているし、デジタルデーターの使用許可も出している。ただ専門家の鑑定を受けていないという理由で、未だ非公開で、知人が監修していた弘前コンベンション協会の“弘前検定”の副本以外に活用されたことはなく、ほぼ無視されている。どうしても弘前大学教授などの専門的な肩書きが必要なのであろう。

 

つい愚痴をこぼしたが、それでも一介の歯科医の名が英文の美術雑誌に載せてもらったことは個人的に大きな名誉であり、素直に嬉しい。私が35年前に書いた不正咬合者の咀嚼能力は、この分野の研究をする人が少ないせいか、いまだに多くの論文で引用され、歯科学生の標準的な教科書“歯科矯正学”でも取り上げられている。教科書を持って実習に来る研修医に、いつもこのことを自慢しているが、もう一つ自慢できるものが増えた。

 

青森に来てすでに26年になるが、自慢ずきの大阪人の癖はなかなか治らない。


PS;  その後、友人のシンシナティー美術館のホウメイさんからのメールで、大英博物館所蔵の西山芳園作とされていた3つの作品は、芳園平吉輝の作と表記変更されました。

2020年12月3日木曜日

明鏡欄 ”西が上の弘前観光マップ” 補足説明

 

この方向の地図が一番見やすい

本日の東奥日報の明鏡欄に“西が上の弘前観光マップ”と題した文を載せた。弘前の町で、これまで何度か、地図を片手の道に迷っている観光客に遭遇し、道を教えることがあったが、どうも従来の北が上となる地図では説明しにくかった。例えば、弘前駅西口から降りて駅前の広場に到着したとしよう。晴れた日ならまず目に付く岩木山が前方にあり、駅前からの道もその方向に向かっている。ここで観光マップを開くと、岩木山はマップの左にあり、両者を一致させるには、マップを右に90度回転させる必要がある。もちろん文字も全て90度回転する。この状態で、目的地に探すのは非常に難しく、同じことは土手町でも弘前城周辺でもこうした問題が起こる。というのは、弘前市に住んでいる市民も、外から来る観光客も岩木山、弘前城方向を上にみるのが自然な感覚であるからだ。

 

これはどういうことかと言えば、推測であるが、もともと岩木山と十和田湖を軸として、弘前城の建設場所を設定し、そこに縦横の道を作ったと思われる。完全な碁盤の目ではないが、基本的には弘前城を中心に東西の道を決め、それに対して南北の道を作った。それゆえ、今のようにビルがない江戸時代では、この東西の道からは必ず岩木山を眺めることができ、その方向に歩いて行くことになる。ちなみに弘前駅と岩木山山頂を結んだ直線上に弘前城の旧天守があり、弘前駅を作るときにはそうした方位も検討されたのかもしれない。さらに言うならその先には十和田湖があり、さらに弘前藩主、津軽家の本貫のある岩手県の久慈までつながる。

 

こうした方位を中心として城下町を解析する手法は「近世城下町の設計技法 視軸と神秘的な三角形の秘密」(高見敞志著)などにも書かれているが、城下町を作る際には適当に作ったわけではなく、かなり方位を研究して作ったものと思われる。そうした事情を考えると、弘前市においても北を上とする地図よりは西を上とする地図の方が皮膚感覚としてはしっくり行く。

 

江戸時代の古絵図の上下を決定することは難しく、特に上下を決めていないと思われる絵図の多いが、一応、説明文、題が書かれていれば、その方向で上下左右を決定することにすると、正保元年(1644)の津軽弘前城之図では南が上となっている。慶安二年(1650)の弘前古御絵図および貞享二年(1685)の弘前并近郷之御絵図で地図の上下は不明であるが、年代不明の弘前御城下町割屋敷割では西が上、寛文13年(1673)の弘前中惣屋敷絵図では西が上、延宝5年(1677)の弘前惣御絵図では西が上、時代は下がるが明治二年弘前絵図(1868)も西が上となっている。北極星を北とする近代地図が一般化される明治まで、明らかに北を上にした弘前の地図はない。明治以降も、例えば明治26年(1893)の弘前市実地明細絵図では、中心部の建物を紹介する際に分かりやすさを求めたのか、西を上にした地図となっている。吉田初三郎が昭和10年に製作した弘前鳥瞰図は変わった方位となっており、東南方向を上にデフォルメしたものとなっている。これ以外にも多くの絵図があるが、個人的には西を上にした絵図が一番しっくりくるように思える。とりわけ古絵図を片手の町探索の絵図としては、詳細な絵図である弘前中惣屋敷絵図、弘前惣御絵図、明治二年弘前絵図などが参考になり、これらの絵図では解説文や題から西が上となっており、その方向に沿った観光マップを作って欲しい。

 

弘前は戦災がなかったところのため、江戸時代の街並み、特に道路は保存されている。そのため、古地図をアプリでスマホに入れられるなら、それを見ながら現在の弘前の街歩きができる。すでに弘前中惣屋敷絵図、弘前惣御絵図、明治二年弘前絵図はデジタル化されており、それをスマホにあげるアプリを製作すれば良い。もちろん古い地図のため著作権はなく、デジタル化も青森県がしたので、デジタルデータの著作権も問題ない(明治二年絵図のデジタル著作権はすでに放棄している)。新たな観光ツールとしてこうした古絵図を用いる方法も検討して欲しい。

2020年12月2日水曜日

マウスピース矯正の問題点

 


 一般歯科で、矯正治療をする際の大きな障壁は、まずセファロレントゲンを用いた検査、分析である。セファロレントゲンとは横顔を規格した大きさで撮影したレントゲン写真で、上下の顎の関係、歯の傾きなど、これを分析して調べる。ここが、最初の大きな躓きとなる。通常の歯科矯正のコースでは、このセファロのトレースに最低2日間、大学矯正歯科での新入医局員の研修では1ヶ月くらいかかる。さらに正しい分析、そして診断をするためには少なくとも五年以上かかる。またセファロレントゲンを撮影できる機器は特殊な機器のため、通常のパントモ線写真を撮る機器より高価で、場所もとる。そうしたことから、一般歯科でセファロレントゲンを設置しているところは少ない。特にレントゲンフィルムが全盛だった30年前までは、パントモX線写真撮影機と価格差が少なかったので、青森でもセファロレントゲン撮影機器を持つ開業医は多い。ただ最近、開業する先生はCT撮影機を持っていてもセファロレントゲン撮影機器を持つところはかなり少ない。CTでも広い範囲で撮れるものは、セファロレントゲンの代わりができるが、撮影範囲の狭いCTでは矯正治療のための分析はできない。


 次の大きな障壁は、マルチブラケット装置である。歯一本ごとにブラケットと呼ばれる矯正装置をつけてワイヤーの力を利用して歯を動かす装置で、矯正治療におけるメインの装置である。種々のテクニックがあるが、少なくとも習得には3年間、抵抗なくできるようになるには10年間、フルタイムでの治療が必要である。具体的な数値で言えば、治療終了ケースが200症例以上は必要であろう。矯正専門医のレベルで言えば、1000 症例以上が必要となる。一般開業医では、小児矯正も含めて年間で矯正患者は20-30名くらいであり、そのうちマルチブラケット装置を入れて終了する症例はせいぜい数例であろう。200症例以上、あるいは1000症例以上の終了するのはかなり難しい。結局、マルチブラケット装置はできないということとなり、最近では、こうした訳で一般歯科医向けのマルチブラケット装置の講習会も少なくなった。


 セファロ機器、その分析、診断、およびマルチブラケット装置のために、長い間、矯正治療は一般歯科ではできないものとされ、特に成人患者の矯正治療をする歯科医院は非常に少なかった。ところがここ数年、デジタル機器で口の印象をとる光学スキャナーが開発され、かなり値段も安くなった。さらにこれを用いてのCADCAMシステムによるハイブリットレジン冠が保険適用となり、急速に普及してきた。特にTRIOSという機器は、従来のスキャナーに比べて高い性能を持ち、口の型をとるためにあの嫌な思いをなくすことができる。ただ実際は、ハイブリットレジン冠の適用はそれほど多くなく、他の活用として上がったのがマウスピースタイプの矯正治療である。インビザラインを始め、多くの会社ができているが、基本的にはこのデジタル光学スキャナーで口の型をとるだけで、自動的に理想の歯並びまで少しずつ(0.2mm)変化させた40くらいのマウスピースを作られ、それを患者に渡すだけである。2、3ヶ月に一度、歯科医院で適合が治療の進み方をチェックするだけで、歯科医側の負担がほとんどなく、230万円の技工料に儲けを上乗せすれば、稼げるので楽である。中には100万円以上、上乗せしている歯科医院もある。マウスピースタイプの矯正治療では、セファロレントゲンによる検査をしない場合が多く、上下の顎の関係や、歯の傾きを一切無視して、機械的に理想の噛み合わせまで計画して装置を作る。とりわけ抜歯の治療では、マウスピースタイプの矯正治療では、失敗も多く、かなり細かなテクニックが必要なため、非抜歯での治療をすることが多い。

 

 こうしたマウスピースタイプの矯正装置は、アメリカのインビザライン社で始められ、当初は矯正専門医のみが講習会に参加できたが、数年前から一般歯科医の参加も認められ、いまでは受講者の80%以上が一般歯科医で、さらに多くのより安価なマウスピースタイプの矯正装置も現れている。マウスピース矯正のみを行う一般歯科医は、歯科矯正を特段に勉強をした訳ではなく、セフォロ分析など一般的な矯正検査をしていない、さらにマルチブラケット装置による治療テクニックも知らないためマウスピースタイプの矯正治療でうまくいかない場合はお手上げとなる。非常にリスクが高い。さらに言えば、セファロ分析なしで矯正治療を始め、治療を失敗すれば、仮に訴訟された場合はかなり不利となる。特にインビザラインは薬機法対象外のものだけに、その使用にはより慎重な配慮と説明を必要とする。

 

 マウスピース矯正に関しては、急速に広まったのはここ数年で、患者によるクレームは、1。面倒で使わなくなった、2。頑張って使っているのに治らない、3。治療結果に満足できない となる。1でも患者のせいにすることはできず、本人の協力を必要としない他の治療法、マルチブラケット装置による治療を勧めるべきである。2。についても治療法の工夫や同じくマルチブラケット装置への転換を必要とすることもあろう。問題は3であり、多くは口元が思ったより入っていないというクレームが多い。個人的な感想で言えば、特にでこぼこの患者では口元の突出感を併合しているケースが多く、小臼歯を抜歯してでこぼこの解消と同時に歯を中に入れて口元を入れるケースが非常に多い。おそらく70%以上だと思われる。こうしたケースに、多少、歯を削って小さくしたとしても非抜歯では口元を入れることができず、多くのケースで、その治療結果に不満が出る。もちろんこうしたことはマルチブラケット装置でも非抜歯で治療して、同じ不満が出ることがあるが、そうした場合は抜歯して治療を継続すればよい。もちろんマウスピース矯正でも抜歯による可能であるが、大概の場合は拒否され、そのままになっているようである。

 

 さらに問題となるのは、マウスピース矯正では、歯科医は患者を直接治療しなくても良いために、多くの患者を取り扱える。知人のM先生は、優秀な矯正歯科医で、日本でも最初にインビザラインを導入した先生である。最初は自分で装置を入れて試していたが、その内、自院でも治療の開始し、さらに患者が増えると、他院での治療を監修するようになり、今ではマウスピース治療のオーガナイザーとなっている。例えば、マウスピース矯正と直接対決する、見えない矯正、舌側矯正では、テクニックが表側に装置をつける方法より複雑で、一人の治療時間も最低30分、先生によっては1時間とる先生もいる。当然、年間で見られる患者数は決まってしまい、医院を拡張するためには、多くの矯正歯科医を雇う必要がある。一方、インビザラインでは、医院でのドクターのチェックはものの5分もあればいけるので、一人のドクターで年間に1000名以上の患者を見ることが可能で、能率が良い。手っ取り早く稼げるにはいい方法であるが、2、3年後には多くのクレームを抱えることになる。


 以上、マウスピース矯正をする場合でも、少なくともセファロ分析がなされていること、治らない場合でもマルチブラケット法でカバーできる医院での治療をお勧めする。