2009年1月29日木曜日

かむ能力の発達




 歯科の最も大事な仕事は、食物をよく咬(か)めるようにすることです。そのため歯科治療によってどれだけ咬めるようになったか調べることは重要なことです。治療前後のかむ能力を調べる客観的な方法として咀嚼能力測定法があります。古くは生米をかませ、どれくらい小さく破砕できるかを篩(ふるい)で調べる方法がありました。一定回数かませ、ある大きさの篩に残った生米の重さを調べるものですが、手間がかかること、子供には使えないなどの欠点がありました。他には、圧により破れると赤い色素を放出するマイクロ粒子を袋にいれて、かませ、その色の濃度からかむ能力を調べる測定法もあります。

 大学にいた当時、子供のかむ能力はどのように発達するのか、また矯正治療の前後ではどのように変化するかを調べようということになりました。その場合、子供にも使える測定法として考えたのがチューインガムを使ったものです。チューインガムは水溶性糖分の含有率が80%くらいあり、そのため一枚3gくらいのチューインガムをずっとかんでいると、その重量は1/3以下になります。これを応用して一定回数かませ、咀嚼前後の重量差を調べたものをかむ能力とするわけです。ただ長くかんでいると唾液に触れる時間も長くなり、それだけ糖分が溶けやすいため、咀嚼時間も加味する必要があり、70回かんだときのチューインガムの重量差(溶出糖量)を咀嚼時間で割った時間当たり溶出糖量をかむ能力としました。こどもにチューインガムを渡し、70回かむまでの時間を測定し、はかりで重さを測るのです。

 幼児から成人までの753名について調べた結果が、上の図です。幼稚園に行ったり、小学校に行ったりとデータ集めは大変でしたが、測定試料がチューインガムのため、測定にはみなさん協力的でした(咀嚼能力の発達経過に関する研究ーチューインガム法による検討ー 小児保健研究49:521-527.1990)。

 年齢が上がるにつれ、かむ能力が増えること、男子の方が女子よりかむ能力が高いこと、3歳から4歳と小学5年生から中学2年生の2つの時期に大きく増加することがわかりました。前者はかむ技術(神経)が向上したせいだと思われます。また小学5年生くらいからは体力も向上してかむ力(筋肉)が大きくなった結果と思います。そして小学2年生から5年生にかけて一時下がるのは、乳歯が抜けて永久歯の交換時期にあたっているためと思います。パーセンタイル図も作りましたが、この範囲以下の測定値は注意が必要ということになります。

 この実験では、ロッテのジューシーフレッシュガムを試料として用いてましたが、途中からガムの成分がかわり、旧製品を買うために、沖縄まで発注した記憶があります。その後、ロッテと咀嚼測定用のガムを開発しようということになりましたが、途中で頓挫し、その後昭和大学の先生方の努力で製品化され、市販されています。これを使えば色の変化でかむ能力が調べられます(咀嚼力測定ガム ロッテ)。

 人間の歯はうさぎやねずみと同じく、少しずつ出てくる性質を持っています。上下の歯が互いに当たり咬むように自然になっているのです。そのため上下の歯が開いている開咬という不正咬合は動物ではイヌを除いてあまりありません。矯正治療ではワイヤーやゴムを使ってかむようにしていきますが、患者さんによっては装置を外すとまた咬まなく症例があります。本来、食物を食べると言う点では、咬んでいる状態から咬まなくなるようになることはありえません。この原因は、ひとつはあまりかまないため、かまなくなったということと、舌が悪さをして隙間を開けるのです。舌の役目は、発音以外にも食べ物を左右の歯に送り、飲み込むという重要な役目があります。かまない子供は、こういった舌の働きも弱く、たとえば右でかんで細かくした食塊を今度は左の送り、そこでさらに小さくして、今度はまた右に送り、飲み込むといった機能が劣っており、食べたものをそのまま飲み込んでしまいます。昨今は柔らかい食品があふれているため、かまなくても全く問題がありませんが、原始人のような環境ではそれは死を意味します。肉や木の実などを十分に咬まなくては飲み込めないでしょうし、栄養にできないからです。

 かむ能力の発達の図をみても、3歳から4歳ころは色々な食品に挑戦させ、できればレトルト食品のような加工食品ではなく、自然の食物をかむ技術のようなものを身につけさせ、また小学5年生から中学生ころには、食べ物を早飲みするのではなく、左に20回かんで、舌で右に送り、そこで20回かみ、再び左で20回かんで飲み込むような、しっかりとかむ習慣を身につけたいと思います。とくに食事中の水、これは食べ物を流し込むため、あまりよくありませんし、同様にお茶漬け、牛乳やジュースの飲み過ぎもよくありません。

2009年1月27日火曜日

西原理恵子 この世でいちばん大事な「カネ」の話




 西原理恵子さんのマンガは以前から好きで、よく読んでいます。「サイバラ茸」シリーズもおもしろいのですが、何でも体験シリーズ「できるかな」シリーズ、とくに脱税できるかななどが入ったVol3は笑えます。マージャンやFX投資で数千万円を平気で使ってしまう金銭感覚の持ち主が「この世でいちばん大事なカネの話」を書いたとなると、いったいどんなことが書かれているか、興味があります。

 一瞬あのサイバラがとち狂ったのか、おまえのようないいかげんな女がカネのことでひとに説教たれるのかと思ってしまいましたが、ところがこの本は中高校生向きのいたってまじめな本です。カネにまつわる自伝とも考えられる内容で、職業とカネとの関連、最下位からの戦い方などユニークな考え方で、就職活動をしている長女にも読ませてやりたい内容です。あらためてこの人の才能に驚きました。かなり幅広い層に売れているようです。

 「外に出て行くこと。カネの向こう側に行こうとすること」の章では、カンボジアのスモーキマウンテンで働く子供たちの姿を描き、「そうやって外に出て、動き出すことが希望になるの」、「希望を諦めてしまうことを、しなかったから」、貧困で劣悪な環境の中でも希望をすてないことがそこからの脱出の道であることを訴えています。おもわずアウシュビッツ体験者の心理状況を描いた名著「夜と霧」を思い出してしましました。30年くらいに読んだ作品なのであらかた忘れましたが、アウシュビッツの悲惨な状況の中でも希望と愛を失わなかった人間のもつ尊厳性を重ね合わせて考えてしまいました。ただアウシュビッツのユダヤ人やスモーキマウンテンの子供たちの心のよりどころには、家族や妻といった愛情をもてるひとがいたのに対して、現代人の不幸はそういった深い愛情をもてる対象が欠如しているのかもしれません。西原さんも子供ころはずいぶん貧乏で苦労もしたのでしょうが、周囲の人々に随分助けられたでしょうし、何より母親、夫や友人への愛情が絶望から救ったのでしょう。この本から「夜と霧」を連想するひとは少ないと思いますが、両者には共通の楽観的な人生、人間への愛情は含まれています。

 話しが変わりますが、以前現代美術の旗手奈良美智さんのAtoZの展覧会で、ふといたずらがきのような作品を見ていると、何と西原さんのキャラクターとそっくりなものを発見しました。どうも西原さんの作品を奈良さんが拝借したのでは?と思ってしまいました。そうであれば、美大で常に劣等生であった西原さんも優等生の奈良さんと肩を並べたと思うのは、ちょっとほめすぎ。

 ただこの作品はすべての文字にふりがなをつけ、語り口もやさしいのですが、中高生では内容についていくほど経験がないため、少し難しいと思います。これから就職を考えている大学生や仕事で悩んでいる若い人に一読をお勧めします。またフランケルの「夜と霧」や神谷美恵子 『生きがいについて』は若い人にも人生のうちで一度読んでほしい作品です。

2009年1月25日日曜日

世界に誇るべき国産機



 海上自衛隊のUS-2の量産型である3号機がロールアウトされた。正式塗装はF2と同様の群青色で、精悍さが増している。改良型のUS-2の最大の特徴はエンジン出力がまし、キャビネットも与圧化されたことであり、これにより天候が悪くても高度を上げることで最短距離で目的地に行くことができる。与圧がなかった旧機では悪天候を回避して迂回する必要があった。

 飛行艇は、大戦前から日本の得意分野で、太平洋の各地に散らばる基地間の輸送のため、多くの飛行艇、水上機が開発された。戦中これほど多くの機種が作られた国はない。そしてその集大成が二式大艇である。性能は当時の世界の飛行艇を断トツに凌駕し、日本の技術の高さを証明した。戦後もその技術は明和工業に受け継がれ、それがUS-1飛行艇となった。もともと飛行艇は軍事上あまり必要ではないと判断されたためか、アメリカをはじめ、各国とも関心は低く、唯一ロシアと日本くらいが戦後も開発を続けた。

 飛行艇の最大の特徴は、当たり前だが、滑走路がいらない点であり、またヘリコプターに比べて高速で、また航続距離も非常に長い。真珠湾攻撃に際しては、二式大艇を使い、直接攻撃を行ったこともある(途中、潜水艦より給油)。そのため外海でも近場であれば、ヘリコプターによる救助も可能だが、遠くになると飛行艇しか不可能であり、アメリカ空軍機が太平洋上で遭難した時などは、アメリカ軍のすべての機種でも救助が不可能で、自衛隊に要請がきて、US-1でパイロットを救助したという事例もある。

 このUS飛行艇の特徴は波高3mでも運行可能な点である。波高といっても漁師さん以外あまり関心はないであろうが、以前鹿児島十島村の巡回歯科診療でトカラ列島に行っていたことがある。島への上陸は今では港ができて、以前の艀に比べては格段によくなったものの、波高が3Mを超えると、定期船が止まらない。そうすると1週間島にかんづめにされることになる。かなり天気がよくてもけっこう波が高いこともあり、NHKの天気予報で波高をチェックしていた。外洋では2.5-3mといった波高は多く、凪しか運行できないようではかなり出動機会は減るが、3mまで可能ならよほど悪天候以外は可能であることを意味する。この性能を支えるのは、極めて低い着陸速度とSTOL性能で、着陸速度はゼロ戦以下の!00km程度で、これはセスナ機並みであり、また離着陸も300m程度の滑走距離しかいらない。すごい性能である。これで思い出しのはドイツのシュトルヒという連絡機で、この機体のSTOL性能は今でも驚異的で、テニスコートくらいの広さで離着陸ができる?と言われている。当時のフィルムをみてもよく失速しないと思われる低速度、おそらく50-70kmくらいの着陸速度であろう。


 飛行艇のもうひとつの活用は、消防用に使うことで、それまでもカナダなどでは山林火災に飛行艇が使われていたが、阪神震災の時の火災に対して何ら有効な手を打てなかった反省から消火用飛行艇の構想が浮かんできた。当時、神戸市内は瓦礫の山となり、消防車も入れず、また水の確保もできず、ほとんど有効な防火ができなかった。すぐそこに海があり、これを汲んで防火すればといった発想は多くのひとがもった。とくに新明和工業では、お膝元の神戸の町、自分の工場に対して、何ら防火活動ができない経験からUS-1を改良した消防用飛行艇が試作され、一回当たり15トンの放水が可能で、またくみ上げも20秒で可能な好結果が得られた。特に日本のような回りが海で囲まれた国では、このような消防用飛行艇は大規模火災に有効な手段として考えられるが、予算的な問題でまだ採用にはなっていない。万が一ということを考えると一台くらいこのような高価な消防車?があってもよいのではなかろうか。近隣アジア各国の災害にも活用が期待できる。いずれにしてもこの機体は、極めて特殊な分野ではあるが、世界に誇るべき国産機であろう。

2009年1月22日木曜日

山田兄弟18

今泉潤太郎愛知大学名誉教授の山田純三郎の年譜が同文書院記念報の4
巻にくわしく載っているため転写する。

1876年 明治9年 5月18日  (山田家の三男として出生)
父山田浩蔵、母きせ  
原籍地:青森県弘前市蔵主町14番地 出生地:青森県弘前市在府町 
1888年 明治21年       朝陽小学校卒業?  
    明治?年       東奥義塾中等部入学
1896年 明治29年       東奥義塾中学校卒業
            *札幌農学校入試失敗
            *機関車掃除夫となる(北海道)
            *東京にでる
(東海勇蔵氏の激励の書状が上京をうながす)
1899年 明治32年 夏     
兄良政と孫文は神田三崎町の仮寓にて会見、純三郎、盗み見る
   8月9日   東亜同文会留学生として(南京同文書院)上海に
渡る。
*要調査 *井出三郎氏に関連あり*場内復成倉の劉公館に勤める佐
々木四方志宅に収容、中国語の研修
1900年 明治33年 1月  南京に移る
         春   上海旭館にて良政に紹介されて孫文に会う
         5月  開校式 
*北極閣下の支那寺院妙相庵を借用開校?
         7月  上海に移る
         *「対支回顧録下巻」佐々木春尾女史 974-976頁
1901年 明治34年 4月上海東亜同文書院事務員兼助教授に委嘱せらる

1904年 明治37年 5月16日陸軍通訳第9師団附を命じられる
(高等官七等待遇月俸70円)
1905年 明治38年 7月27日  月俸75円に給せられる
         10月12日 関東州民政署より満州各地へ出張を命ぜ
られ、同時に満州利源調査委員附を命ぜらる  
1906年 明治39年 1月12日満州利源調査委員附を免ぜらる
         1月22日讃岐丸にて第9師団司令部と共に神戸に凱旋
する
         4月  明治37年戦役の功により勲六等単光旭日章?
及び金150円を賜る。同時に27,8年戦役従軍章を授与
1907年 明治40年 1月    上海東亜同文書院教授に委嘱される
         4月    上海東亜同文書院教授を辞す
(南満州鉄道株式会社入社のため)
         5月    南満州鉄道株式会社に入社、総裁秘書
             同社地質課勤務(課長 木戸孝太郎氏)
1909年 明治42年 2月    同社奉天鉱業課出張所長に任ぜらる
1910年 明治43年 5月    同社上海出張員となる 
*革命当初の経緯「対支回顧録」1270頁、藤瀬政五郎 
1911年 明治44年 12月  宮崎滔天と孫文を迎えるべく上海より香港
に行く
         12月21日 孫文と香港より同船
         12月25日 孫文と上海に帰る
1913年 大正2年   大連「東亜先覚志士記伝?」520-23頁
1915年 大正4年  9月  民国日報(漢字新聞)を組織し社長となる
         11月   大礼紀念章を授与せらる
             *上海機器局砲撃「東亜先覚志士記伝」
 598-611頁
                肇和、広瑞二艦奪取計画?
1916年 大正5年 5月18日 陳其美、袁世凱の刺客に襲われ、フランス
租界で殺され、長女民子は、このため生涯の不具となる
        6月    湖南の鉱山調査に向かう
                * 「藤瀬政五郎伝」1275頁
         7月    南満州鉄道株式会社を辞す
       11月30日 湖南と広州の境、?州で黄輿の病死の悲報を
受ける
1918年 大正7年     *大正七年 住所 上海法界環龍路四号
            *広東省茂名県オイルセール開発に奔走する
1923年 大正12年 11月    孫文より犬養宛書、携行する?
1925年 大正14年 3月12日  孫文死す
          5月  広東日報社長になる(在広東日文新聞)
          8月  広東に於ける水兵事件処理に尽力する?
             大正14年以降、外務省より月手当支給さる
1926年 大正15年 9月   民国日報社長を辞す
1927年 昭和2年  3月   広東日報社長を辞す
              満州鉄道株式会社上海事務所嘱託となる
          7月   上海毎日新聞社長となる
1928年 昭和3年  11月16日 大礼紀念章を授与さる
1929年 昭和4年  4月    上海毎日新聞社長を辞す
          9月    昭和二、三年支那騒乱事件、昭和三年
支那事変に関して勤労不勘にて?海軍大臣杯(銀杯)一組を贈与さる 
1930年 昭和5年  6月    江南晩報 都合により停刊する
          10月   純三郎 北京(写真)
1931年 昭和6年  6月20日 国民政府外交部顧問
(外交部長陳友仁?広東)
          6月24日 国民政府顧問
1932年 昭和7年  4月   江南晩報を江南正報に改題、再刊、社長
となる
1933年 昭和8年  4月30日 停刊
          9月1日  再刊
1935年 昭和10年  6月   江南正報廃刊する
             南満州鉄道株式会社総裁室嘱託となる
          7月  上海駐在海軍武官室より月手当支給さる
1936年 昭和11年  4月  上海日語専修学校校長となる(北四川路)
          4月  雑誌「上海」の上海雑誌社社長となる
         昭和六年及同九年事変に於ける功により、銀杯一個
贈られ,並びに従軍記念章令?の旨により従軍記章を授与せらる
1937年 昭和12年  8月   上海駐在海軍武官室手当を辞す
1938年 昭和13年   大同市政府?関連陸軍により王子恵?擁立に
     ○○コノミ某?(後の東京温泉社長)拳銃によるおどしにも
拘らず自説曲げす
          9月  土肥原機関嘱託となる
1939年 昭和14年  12年  土肥原機関解散と同時に辞す
1940年 昭和15年 4月3日  近衛公に講ずる進言
            *近衛公に講じる進言草稿 全面和平之私見
         11月  紀元二千六百年記念祝典に海外功労者として
菊池豊吉氏、福田(居留民)?と共に参列する
             二千六百年祝典記念章授与さる
1943年 昭和18年10月 支那事変の功により木杯?一組下賜せられ同時
に従軍記念章授与さる
1944年 昭和19年 2月11日 大陸新聞社より大陸賞を贈らる
         3月6日  上海日本語専門学校校長に命ぜられる
(日本大使館)
         3月8日  在華谷特命全権大使より在華優良邦人と
して表彰状を授与さる
         10月   上海日語専修学校と上海日本語専門学校を
合併し、上海大東学院に改組、その院長を命ぜらる
         12月 雑誌「上海」を雑誌「大陸」と合併し、
その顧問となる
1946年  8月   残留日僑互助会会長となる
1948年      12月7日  上海引き揚げと同時に会長を辞任する 
1960年      2月18日 (東京の自宅で死去)


タブ設定うまくいかず、編集では順序よく並べましたが、公開文章では読みにくいと思いますが、ご勘弁を。転写だけで疲れました。今泉先生はさすが学者だけあり、不明なところは?となっていますが、一番正しい、山田純三郎の年譜と思いますので、紹介します。一部省略、改変しています。 

菊池九郎3


 菊池九郎が創立した東奥義塾の初代の英語教師に、C.H.ウオルフというひとがいる。わずか1年ほど滞在し、明治7年1月に宣教師の仕事に従事するため、弘前を去る事になった。当時、海路での大きな事故にあったので、ウオルフ夫妻はどうしても陸路で東京に行きたいと言い出した。ところがウオルフ婦人は歩くのが苦手で、菊池が考えたことは津軽の殿様のお姫様用の駕篭を使うことだった。何とか殿様に願い出て借り出すことができ、この駕篭に人夫三名をつけて菊池と後世日本貝類学の創始者となる岩川友太郎が随伴した。誠に東北人らしい義理堅さである。

 外人にとって日本式の駕篭による旅行は大変だったのであろう。弘前から東京まで26日という非常にゆっくりした速度で進んだ。道中、菊池は一人の少年と出会い、一緒に旅行した。後の後藤新平である。後藤は当時18歳で、医学校のある須賀川(福島)に行くところであった。

 秋永芳郎著「菊池九郎伝」(東奥日報社)では、菊池と後藤との出会いを次のように書いている。
「どこまで旅するのか」と菊池が尋ねると、きびきびした口調で後藤は「須賀川まで行きます」と答えた。菊池が「旅は道連れ、世は情けということもある。我らと一緒に行こう」と誘うと、はいと言って同行することになった。

 こんな経緯で、菊池と後藤は数日一緒に旅することになったが、よほど後藤は気に入ったのか、将来この若者は立派な人物になるとその才能を深く愛した。当時、菊池も27歳でまだ若者だが、幕末には大変苦労したひとで、年の割には老成円熟している。後藤もわずか数日の同行だったが、菊池との遭遇に深い感銘を受けた。

 それからちょうど30年後、弘前出身の山田純三郎は、陸羯南から満鉄総裁後藤新平宛の紹介状をもって、満鉄の入社試験に臨んだ。陸からは「おまえが菊池の親戚だと言うと後藤はかえって気を悪くするだろうから、そのことはだまっておけ」と言われていたので、そのことはだまって面接を受けていると、後藤から「ところで弘前と言えば菊池九郎を知っているか。」と問われ、「私のおじさんです」と答えると、「なんだ、お前は菊池の親戚か。早く言えよ。昔、本当に世話になった」と言われ、即刻採用になった(総裁秘書)。その後、山田は満鉄から給料をもらいながら、孫文の革命運動に協力する。満鉄の仕事は全くしていない。ただ革命運動をしているだけである。ある時、山田があまりに申し訳なくて、後藤に尋ねると「おまえの仕事は孫文を助けることだ」と諭される。よほど後藤も胆力がある。

 わずか2.3日の同行した相手に対して30年後もこれだけ、強い恩義を感じさせる菊池の人格もすばらしい。菊池と同行した岩川友太郎は、いずれくわしく紹介したいが、この時21歳で、藩の英学寮で英語を学び、東奥義塾では二等教授として生徒に英語を教えながら、ウオルフから本場の英語を学んでいた。つまりウオルフ夫妻の通訳として同行したのであろう。後に岩川はこの卓越した英語力のおかげて日本動物学の父と呼ばれるモース、ホイットマンの弟子となり、貝類の研究に没頭する。

 満州鉄道と言えば軍の傀儡会社のように思われているが、山田や満鉄理事犬塚信太郎を通じて、相当額孫文の革命に資金提供をしており、後藤といい、犬塚といい、相当胆力のある人物がいたのであろう。今の会社では、出身高校や成績で採用を決めるようだが、本当の有能な新人を発掘するには、採用者も人の能力を見極める人物である必要があろう。後藤の最後の言葉「よく聞け、金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ。よく覚えておけ」。山田純三郎も後藤の残したひとであった。

2009年1月17日土曜日

史上最低のマンガ 怪人アッカーマン




 私のマンガ歴は長い。兄がいたせいか、幼稚園のころから近所の貸本屋に行き、漫画本を借りていた。「少年マガジン」は創刊の近いころから読んでいて、近くの駄菓子屋に本が届けられる日には学校帰りに一目散に飛んでいって買っていた。当時のマンガ、たとえば「サブマリン707」、「チャンピオン太」、「紫電改のタカ」などは懐かしい。その後もずっと確か大学2年生ころまで少年マガジンを毎週買い続け、一時は一生やめられないのではと悩んだりしたくらいだ。

 その後は、「アクション」「ビックコミック」などを経て、現在はあまり雑誌は買わず、もっぱら単行本になってから買っている。年間それでも100冊くらいは買っているから、これまでの読んだマンガの数は相当なものと思っている。その中でも、史上最も下品で最低のマンガとして、ここに紹介する「怪人アッカーマン」がある。当時は「花の応援団」など、低俗なマンガがはやった時期でもあったが、これほど下品でなおかつ風刺的なものはなく、強く印象に残っている。正月休み、インターネットで2巻から6巻までを1000円で購入して読んでみたが、とてもその内容をブログでは語れないほどひどい。古今東西のすべてのSFのキャラクターが登場し、アッカーマンにめちゃくちゃにされ、あのオバQでさえもやられてしまう。まったく容赦なく、一部不敬罪にあたるような表現もあり、その毒は風刺として強い。

 アンネの日記はいうまでもなく、ドイツ占領下のオランダ、ユダヤ人少女アンネの日記で、その語句から男性なら女性の生理用品を多少は連想するかもしれないが、このマンガではタンポンの物語としてむちゃくちゃな内容になっている。欧米でこんなマンガが発表されれば、それこそ非難ごうごうである。このことは作者新田たつお自身が深く、自覚しており、最終巻のあとがきで「怪人アッカーマンは、エログロのオンパレード、漫画史上、空前のえげつない漫画だと自他ともに自負しております」と述べている。このあとがきにはガンダムの村上和彦、AKIRAの大友克洋、映画監督の大森一樹などの今ではそうそうたるメンバーが寄稿しており、1981年という年代を考えると、当時のマンガ家にもかなり影響を与えたのかもしれない。本来はNHKBSのマンガ夜話でも取り上げたいと関係者のみんな思っているであろうが?、内容があまりにひどく、NHKの許可がでないのかもしれない。またこれだけ面白いマンガであれば、コミック文庫版として再販され若い人にも読まれていてもおかしくないが、これもまた内容があまりに低俗なため、30年前のものをオークションで買うしかない。じつにかわいそうである。

 40歳以下のひとにはほとんど知られていないマンガであるが、SF好きなひとは是非とも読んでいただきたい。あらゆるSFのキャラクターが登場し、これは今回読んでみて意外に思ったことだが、結構新田たつおさんは漫画がうまく、よくキャラクターを描いている。

2009年1月11日日曜日

土手町




 夕方、家から土手町の紀伊国屋に行く時に、教会の方角の空に「太陽柱」を見ました。寒い冬の日に見られるようです。何度も見たことはあるのですが、カメラを持っていなかったため、いままで撮りそこねていました。今度もちゃちなデジカメなためあまりきれいに撮れていませんが、教会の右の方から天上にすっと光の柱が現れました。複数の光の柱を「光柱」といい、めったに見られませんが、この「太陽柱」は寒くて天気のいい朝夕には割合見られます。

 写真を撮った道は郵便局から土手町を横切る道で2,3年前に完成しました。ご覧のように車2台は通れるような広くて立派な歩道ですが、あまり歩行者はいません。外灯もドイツのBEGA社のもので、これはデネガや上土手町にもあり(私の家にもちっちやなものもありますが)、高価ですが、なかなかおしゃれで耐久性も高い照明です。これをみてもかなり金のかかった道路です。また路面も最近、多くなった融雪になっており、いたれりつくせりです。ただこのような広い道ができたお陰で、車はスピードを出し怖い思いもしますし、なにより土手町がこの道で分断されるのが気になります。「世界ふれあい街歩き」でも狭い横町が面白く、単純に道を広くして車に便利なようにするのが街の活性化につながるとも思いません。弘前は空襲もなく奇跡的に江戸時代の街割りが残っています。できれば車には不便かもしれませんが、昔の道幅も保存してほしいものです。

 またこの写真のような道を作っても、除雪のスペースが必要で、一車線でも一半くらいの幅が必要です。であるなら、これは私の提案ですが、この半車線を自転車専用レーンにしてほしいと思います。自転車専用レーンは歩道に作るタイプと車道に作るタイプがあり、写真の立派な歩道は歩道に自転車を通るようにしたタイプですが、自転車と歩行者の事故が考えられること、また歩道と横断歩道などの段差が自転車からすれば気になること、歩道に作るより簡単で費用がかからないことから、できれば車道に自転車専用レーンを併設してほしいものです。自転車専用レーンといっても、それほど複雑なものではなく、道の端1.5Mくらいに線を引き、できればその内側をカラー化すればよいだけです。欧米の道で多くとられているいるやり方です。どうせ冬場は雪のため自転車に乗るひとはいないため、除雪スペースと自転車専用レーンは併用できます。近年のエコ運動はヨーロッパを中心に相当進んでおり、車から自転車、歩行への流れはもはや常識になってきています。狭い道、横町はこれ以上拡大しない、広い道は自転車専用レーンを併設することが一歩先んじた街作りかもしれません。

 紀伊国屋では「北欧スタイル」という雑誌を買いました。北欧のインテリアの興味をもつ私の好きな雑誌です。実際に北欧に行ったことはありませんが、この雑誌に紹介されるようなインテリアに関心のある北欧の住人のほぼ90%は、部屋では靴を脱いでいるようです、アメリカの住人に聞いても、住居の清掃を担当する主婦からは家に入る時はくつを脱ぐ習慣は歓迎され、家に入る前に靴を脱ぐといった習慣も次第に欧米にも浸透しているようです。おそらく日本人の習慣と欧米の主婦の住居を汚したくないという気持ちが一致してきているのでしょう。ただ下駄箱というものはまだないようです(イケアの商品には下駄箱らしいものはありますが)。日本では玄関を三和土という土間になり部屋を一段高くしていますが、海外では靴をぬぐという習慣は浸透してきても、住宅構造までは中々変えられないようです。かっては外人はうちの中で靴を脱ぐ習慣はないといわれていましたが、どこの国の主婦でもどろどろの靴(うんこを踏んだかもしれない)で部屋に入られ、後で掃除をするのを歓迎しません。日本人の生活習慣がエコ運動とともに海外に広まって事例かもしれません。

2009年1月4日日曜日

六甲学院 2




 授業が終わると、掃除当番は教室と便所の掃除をする。これもかなり徹底したもので、教室の机(ヒルケルさんという大工さんが作った木製のものでかなり重い)をすべて後ろに移動し、ほうきで掃いてから、ぞうきんで床をみがく。それらの様子を訓育生がチェックしてOKならいいが、駄目なら何度もやり直される。便所当番は、二人一組で、どういう訳が上半身裸、短パンのみの格好で、たわしとぞうきんで便器の中まで洗わされる。訓育生は小便用の便器の管の中まで指をつっこみ汚れていないかチェックする。こういったことを6年間もやると、そうじに対してうんざりして、私などは未だに掃除が苦手である。

 放課後は、各種の部活を行うのだが、校長がいわゆる競技スポーツには否定的で、練習は週に3回に制限されていた。サッカー部の場合は例えば中学生が月、水、土、高校生は火、木、土といった割り振りであった。土曜日のみが中学高校の合同練習であった。それ以外の日は家に帰って勉強するのもいやだったので、自習室にいって勉強のできた同級生に宿題を教えてもらっていた。

 こんな調子であまり練習時間も少なかったが、サッカー部は結構強く、神戸市や兵庫県の大会でも上位であった。6年間一緒で、同じ指導者から教えられ、チームワークがよかったからかもしれない。ドイツでは青年のスポーツはあくまで体を鍛えるものとの認識からか、大会と試験が重なるとどんな大会でも試験を優先させたし、ましては学校で試合を応援することなどなかった。高校総体の兵庫県決勝でも神戸高校はスタンドを埋める多くの生徒が集まっていたのに対し、我が校では応援はひとりもなし、同様に近畿大会も決勝も含めた全試合にも応援はなかった。ややさびしい気もするが、昨今の小学生のサッカー大会で父兄がみんな集まり応援する風景よりはましかとも思ったりする。プロであるまいし、あまり試合の勝敗にこだわる必要もなかろう。

 学校の帰りの電車ではいくら席が空いているからといって座るなと言われていた。サッカー部の監督からは「運動部の連中が体力があるのに席に座るのはみっともない」、校長からは「混んできたら席を譲ればよいと思うかもしれないが、席をゆずるといいことをしたという驕りの精神がでる。それくらいなら空いていても座るな」といわれ、どうも座っていると腰がむずむずして罪悪感を長い間抱いていた。ようやくその束縛が解かれたのは40過ぎだが、未だに電車に乗るとドア横のところが定位置になっている。

 この学校の面白いのは、カトリックなので賛美歌を歌うのはわかるが、それ以外にもやたらに多くの歌があり、学校の歌集にも賛美歌とともに山岳部の歌や確かサッカー部の歌など学校の歌と呼べるようなものたくさんあった。校歌のほかにも第二校歌として「六甲讃歌」と呼ばれる曲もみんなが歌える。これは音楽教師の本田先生が作曲が好きで、いっぱい曲を作ったからではと思っている。この本田先生は本当にユニークで、いわゆる変人と呼べるひとで、とてもじゃないが公立学校では勤務できなかったであろう。作曲の宿題があった時、私が音楽を専攻していた姉の協力で時間をかけて作った曲は評価されず、友人がどんな曲もわからず16音符をめちゃめちゃに並べた曲に「これはすごい曲だ。おまえは天才かもしれない」と何度もわけのわからないこの曲を「すごい。すごい」と言って、ピアノで弾いていたこともあった。今で言う「イントロクイズ」みたいな試験があり、古今の名曲といってもかなりこの本田先生の好みが反映されているが、100曲の出だしから、曲名を当てる試験があった。その当時、ソニーレコードから同様な趣旨でクラシックの名曲のさわりを集めたレコードや連想から100曲すべて覚え、100点とった記憶がある。例えば左卜全の「やめてけれ!」は、プッチーニの「セビリアの理髪師 序曲」といった連想。今でもプロコフィエフ「キージェ中尉」などすぐに思い出し、後年音大の女の子とつきあっても何とか話題についていくことができた。

 また美術の上沼先生は、ほとんど仙人にような世俗を離れた人柄で、運動靴の後ろ半分をカットしたサンダルを常用していた。学校の付属の庭園で写生をしていると、「ここはこうやって。この色はこの方が。やっぱりここにはこの木を描こう」といって一人で私の絵に手を加えていき、結局はほとんど完成させて「これでいいか」といって去って行く。あとで点数は98点つけてもらった。

 文化祭は他校に門戸を開く機会であり、入場券がなければ入れなかった。そのため好きなこがいると、この券を渡して文化祭にきてもらうわけだが、私の場合、6年間全く同世代の女の子と話すこともなくさびしい青春だった。そのかわり友人と焼き芋屋をやり、随分大もうけできた。黒字がでると収入は回収されるため生まれて初めて粉飾決算を行った。当時、自主映画が流行っていて、私の学年では空手映画を作り、結構おもしろかったが(後年30周年の集まりではこの映画を久しぶりに見ることができた)、前の学年では一人の少女を使った前衛的な作品が上映され、本格的な映画を作るひとがいるのだなあと思った。いまの黒沢清監督であった。その数年前には大森一樹監督もいるし、私の学年にも宝塚のプロデューサーをしていたものもおり、案外こんなことも影響しているかもしれない。

 六甲学院の通知簿を見ると、中間、期末試験とも点数のみ記載されており、学年で何番だったかいまだにわからない。全教科の平均点が90点以上が金賞、85点以上が銀賞、80点以上は銅賞という賞状を学年末に該当者がもらったが、5点評価や学年で何番かといった評価はない。これじゃ親に見せても子供の成績がどうかはわからない。ドイツ人の校長は常日頃「克己心」を唱えており、人との競争ではなく、自分に打ち勝つこと大事だと言っていたが、成績表でも比較ではなく、自分で判断しろということか。英語の授業も、スペイン人が担当だったので、和訳、英訳とも何とか意味がなされていれば点数をくれたし、「プログレスイングリュシュ」という独自の教科書には付属のカセットテープがついており、毎日それを聞き、勉強するように言われたが、持ちかえるとダンボールにぽいと捨ててほとんど聞かなかった。この教科書は今や多くの学校で採用され、有名だが、もう少しまじめに勉強すればと悔やまれる。

 六甲高校も最近では進学率も悪くなり、他の私立校に押されているが、私のいたころは進学率も高く、中くらいにいれば大阪大か神戸大には進学できた。サッカー部に最後までいた私以外の6名についても1人は東京大、1人は京都大、2人は大阪大、2名は神戸大と有名校に進学しており、OBも各界で活躍している。そういった意味では青春の6年間をこの学校で過ごせたことに大変感謝している。今でも子弟の進学には、どうしてこの学校をというOBも多い。

 まだまだ語りたいことがあるが、これでしまいとする。高校の同級生に年1回会うが、汲めども思い出は出て来て楽しい。

六甲学院 1



 高校を卒業してはや35年、月日は経ったが、この頃のことが今では随分なつかしい。学校にいたころは、校則による締め付けには腹を立て、いきがったりもしたが、今ではここでの経験に感謝している。学校の不良に限って校歌の3番まで覚えているようだが、それだけ愛着があったのあろう。

 六甲学院は、イエズス会によって日本で初めて作られた中学校で、姉妹校の神奈川の栄光学院や広島の広島学院より歴史は古い。初代校長の武宮隼人校長は武士的キリスト教徒で、その教えは今でも学校の基盤となっている。上智大学が関東の教育機関の中心として創立された後、関西にも教育機関をもといった主意で1938年に創立された。この学年を一期生として今でも何期生といった言い方をする。ちなみに私は32期である。

 阪急の六甲駅が一番近い駅で、ここから山の方に、商店街を抜け、住宅地の細い道を通り、橋を渡り、ここから長い坂が続く。学生のころは15分くらいで行けたが、一昨年歩いてみると50分もかかった。相当きつい坂で、最近では父兄から通学バスの要請が出ているようだ。当時でも多くの高校生は髪をのばしていたが、ここでは中学、高校生とも丸刈りのぼうず頭であった。また学校にもバリカンが何個か用意されていて、私も散髪の上手な同級生に何度か刈ってもらった(といってもいわゆる3まい刈りではなく、指でつまめない2まい、あるいは1まい刈りだが)。頭がぼうずで寒いためか、みんな制帽を被っており、関西圏で最後まで制帽を被っていた学校のひとつであったであろう。上級生を追い越す時には必ず「おはようございます」と声をかけなくてはいけなく、急いでいるときはそれこそ何十人にもあいさつをし、実に面倒であった。制服のカラーは上まできちんと止めないと先生や先輩などから注意を受けたが、それでも隠れては外していた。

 学校につくと、すぐに制服を椅子にかけ、上下白の体操服に着替える。制服を汚さないというものらしい(ちなみに卒業すると使っていた制服、とくにズボンを学校に寄付する習慣があり、希望者は買わずにそれをもらえた)。朝には、父兄会のひとが各教室をまわり、パンの注文をとる。この当番は全父兄が年に2回ほどあたることになり、午後から担任による父兄との個別面談がある。授業が始まる前には、学級委員が「めいもく」とかけ声をかけると、皆机の前に手を揃えて30秒ほど黙祷する。その後、授業が始まる。宿題などを忘れると授業中机の横の床に正座で座らされる。私も1時間くらいは軽く正座できるようになり、その後の人生でもとくに葬式ではじつに役に立った。

 一学年は40名ほどで4学年、確か170名くらいが6年間一緒のため、大抵の同級生とは一度は同じクラスになっている。担任も英語、国語、数学、理科の4人の先生については基本的には同じ先生が6年間受け持つ。また訓育生という制度もあり、中学一年生には高校3年生の勉強、人格もすぐれた4人の学生が訓育生として掃除当番や各種の相談、注意を行う。

 朝は毎日朝礼があり、私のころはシュバイツアーというドイツ人の校長で、日本語があまりうまくなかったためか、朝礼もそれほど長くはなかったが、初代の武宮校長のころは延々と2、3時間も続くこともあり、夏などは暑さで生徒がばたばた倒れたようだ。10時半ころには中間体操というものがあり、上半身はだかで全校生が校庭を走り回る。寒い日には上着を脱ぐのは勇気がいり、便所に隠れてさぼるものもいるため、隠れた生徒を捜しだし、参加させる係まであった。これも昔は「最近は気合いが足りない」といって、校長の気のすむまで走らせたようだ(戦前の話ではありません。昭和40年ころまでの話です)。

 このようにカトリックの学校の割にはかなり右翼的というか、軍人ぽい教育がなされていた。というのも、創立が戦前で、当然当時はこういった教育が普通であったが、ほかの学校では戦後はすべてが否定されたのに対して、ここではなぜ変える必要があるのかという強い意志があったのであろう。正しいと思ったことをどうして戦争に負けたために変えなくてはいけないのかという極めてまともな考えと、もうひとつはイエズス会という世界的な宗教団体に所属しており、GHQに対しても強い態度に出られたこともあっただろう。

2009年1月3日土曜日

鯵ヶ沢





 1月2日から家族そろって青森県の西海岸の鯵ヶ沢に行ってきました。一度、五能線に乗ってみたかったので、リゾートしらかみのボックス席での約1時間の旅です。ボックス席は十分に6名は座れる広さに4名なので、かなり快適で、また新春ということで津軽三味線の生演奏も車内でやっていました。グループで行くひとは、絶対にこのボックス席がお勧めです。

 五能線は弘前から鯵ヶ沢より鯵ヶ沢から能代の日本海に沿った路線が景色もきれいで最高と言われますが、今回はちょっぴり堪能しただけです。さすがに冬の日本海は荒々しく、波と風がびゅうびゅう鳴り、また数百匹のカモメが海の上を周回しています。ホテルはグランメール山海荘というところに泊まりました。きれいなホテルで料理もまずまずでしたが、部屋の暖房が暑く、夜は暖房を止めても暑くて汗びっしょりの状態でした。さすがに冬仕様の暖房でしょうか、サウナ、温泉も熱く、相当体重が減ったかもしれません。

 夜はさすがに寒くて、露天風呂には行く気がしませんでしたが、朝行くと日本海がまじかに見られ、気持ちよい入浴でした。温泉には加齢臭を予防する柿渋という石けんがありましたが、何となく加齢臭が減るようで、まんまと売店で買ってしまいました。この製品はおじさん心理をうまくついたものだと思います。

 帰りの電車の中で、前回のボロ布文化について考えていました。明治中頃まで綿の文化がなかった津軽、暑い日本の夏を過ごすための京風の日本家屋、こういった住衣環境でよく、寒い冬の津軽を昔のひとは過ごしてきたものです。本来なら、綿がなかったなら、ウサギや熊などの動物の毛皮を使うべきですし、また住居も夏は涼しいのですから、冬用の住宅があってもよさそうですが、そんな工夫をしたような形跡がありません。ただひたすら辛抱した、あるいは麻という保温力の全くない布を使ったボロ布というのは、何だか悲しい気分にさせられます。いくら仏教では動物の食用や毛皮の使用がマタギなどの少数のひと以外は禁じられていたとしても、生活上もっと自由にできなかったのかと思われます。冬の寒さについて言えば、そういった制約のなかった縄文時代の方が快適だったかもしれません。こういった工夫のなさ、本来なら住衣環境そのものに工夫すべきなのですが、麻の切れ端で何度も丁寧に修復する、防風林を作るなどのやり方は、今に通じることだと思います。

 五能線にSLを走らせる運動があるのは以前紹介しましたが、実現できれば観光の目玉になると思います。できれば弘前、五所川原、鯵ヶ沢、能代から秋田に行くのではなく、できれば能代から大館を回る周回で運行してほしいものです。