2020年6月22日月曜日

徳島 那賀郡立那賀実科高等女学校 卒業写真?

髪型から大正期の撮影と思われる

上記とほぼ近い時期の卒業写真で、卒業生数がわかれば年度は同定できそうである

正面玄関が上記写真に似ている

那賀実科高等女学校 加藤校長

写真真ん中の人物と似ている。加藤常七郎?

よく見ると”實女”の校章


 以前、ヤフーオークションで、明治後期から大正時代の弘前市、時敏尋常小学校と城西尋常小学校の卒業写真が出ていたので購入した。昔の卒業写真は大型で、おそらく卒業生個人にプリントしたものを送るのではなく、学校の記念として、小数枚、場合によっては一枚のみを製作したように思える。もちろん、そうした卒業写真は学校が保存し、必要があれば使用される。近所の写真館の人に聞いてみたが、大型の乾板で撮影し、直接、焼き付けたものかはわからないとのことであった。それでもデジタルカメラで撮影し、大きく拡大しても解像度は高い。

 弘前の尋常小学校と一緒に徳島高等女学校の写真も2枚入っていたので、確認できれば、寄贈しようと調べてみた。まずA3くらいの台紙の右下に“阿波 富岡 タブチ”の印がある。調べると徳島県阿南市にあるタブチ写真館の撮影であることがわかる。徳島市と阿南市は距離で約20キロ、車で30分くらいの距離であるが、明治、大正時代は決して近くではない。何より徳島高等女学校の卒業写真をわざわざ郡部の写真館に依頼することはない。さらに現存する徳島高等女学校の校舎写真を見ても、卒業生の背後にある建物に該当する建物はない。

 そこで阿南市にある女学校を探してみた。すると徳島県那賀郡那賀実科高等女学校の名が上がる。明治、大正期にできた徳島県の女学校は、徳島県高等女学校(1902,次にできたのが那賀郡立那賀実科高等女学校(1912)、そして名西高等女学校(1923)、母の母校である美馬高等女学校(1923)などがある。実科高等女学校というのは、普通の高等女学校に比べて、家事や裁縫などの実用的教科に重点をおいた学校で、徳島県には他には戦後にできた板野郡立実科高等女学校があるだけである。那賀実科高等女学校は1921年には富岡高等女学校になり、戦後は富岡第二高等学校、さらには富岡東高等学校となり、現在に至る。

 さらに写真にヒントがないかと探すと、まず卒業生の背後の建物を拡大すると玄関上に“實女”と読める校章が見られる。実科高等女学校を縮めて“實(実)女”と呼んでいたのか。絵葉書資料館にある那賀実科高等女学校の絵葉書には校舎が写っており、玄関や細長い二階建てが特徴で、卒業写真の背後の建物に似ている。また中央に座る人物は絵葉書の解説で“加藤校長”となっている人物と似ており、福岡県師範学校長などを務めた加藤常七郎であれば、相当大物を校長に当てたのだろう。

 これらのことから、この写真は徳島高等女学校に卒業写真ではなく、那賀郡立那賀実科高等女学校の大正頃の卒業写真である可能性がかなり高い。そこで、那賀実科高等女学校の系統をつぐ徳島県立富岡東高校に、写真の確認と確認できれば寄贈しようと、同校の同窓会、琴江同窓会にメールを送ったのが320日だが、その後も返事がなく、仕方がないため、高校宛に直接メールを送ったのが、521日であるが、これもいまだに全く連絡がない。コロナ問題でバタバタしているのはわかるが、それにしてもメールを送って3ヶ月無視されると腹立たしい。

 この那賀実科高等女学校の卒業写真と思われる写真は当方が持っていても意味はないので、どなたか徳島県の資料を集めている人がいましたら、ご連絡ください、お送りいたします。もちろん無料です。

2020年6月15日月曜日

矯正治療ではマルチブラケット装置がメインである


 最近、他の歯科医院で矯正治療をしているが、どうも治療がうまくいっていないので、見て欲しいという電話がくる。基本的には、現在、治療を受けている先生とよく相談してもらうように言っているが、中にどうしてもはセカンドオピニオンを求めてくる患者がいる。セカンドオピニオンとは今、受けているあるいはこれから受ける治療法について担当医以外の先生に意見を聞くことで、その際に担当医からこれまでの経過や必要資料をもらって来院する。セカンドオピニオンをする先生はこれらの資料をもとに自分に意見を述べ、担当医に返書を書く。同じ疾患によっても治療法が色々あり、どの治療を選択するかは最終的には患者が決める。ただ同じ専門医であれば、こうした治療法に違いについてはある程度、知識があるので、よほど患者の不利益がなければ、患者の選択を尊重するし、医師自身も納得できよう。例えば、乳がんの治療法についても、ガイドラインに沿ったある程度の選択の幅があるし、病院によっても治療法の違いがある。ただこうしたガイドラインに全く反する民間療法を選択することは勧めないし、強く非難することもあろう。最近では小林麻央さんの乳がん治療がこれに当てはまり、当初は手術と放射線治療による標準治療を受けることになっていたが、臍帯血による代替治療を受けたため、手遅れになった。

 矯正歯科においても、特に日本矯正歯科学会の専門医のレベルであれば、それほど治療法に大きな違いはないし、仮にうまく治らない場合でも、その原因が納得できる。例えば、前歯が開いている開口の矯正治療後の後戻りなどは、多くの矯正医が経験するもので、舌の機能が関係していて、治療後の安定が難しい。自分が治療すれば、絶対に後戻りがないと言い切る矯正医はいないはずだ。そうした意味では、私のところでもうまく治療できたと思う症例は20%くらいで、逆にうまく治せなかったと思う症例が20%、残りの60%はまあまあと思うレベルで、決して治療に自信があるわけではない。同じような診断、治療法をしても結果が全く異なることを経験する。生体の反応は、個性があり、矯正治療でも長年の経験である程度の反応は予測できるが、全く予想外の反応に苦しむこともある。ましては十年、二十年後の状態まで、考えると、正直言って治療するのは苦痛である。

 矯正歯科医は、症例発表などにより自分の臨床能力が問われる機会が多い。特に日本矯正歯科学会の専門医の審査をすると多くの他の矯正歯科医の症例を見ることができるので、大まかな自分の臨床能力のレベルがわかる。一般歯科の先生で、かなり矯正治療をしている先生でも、専門医のレベルに達することはない。これは手先の器用さなどの才能や知識の問題ではなく、経験の差であり、多くの専門医は、少なくとも1000例以上の治療終了治験、20年以上の治療経験がある。さらにこうした症例の中から学会に症例報告をする。年間、50-100名以上の新患と同数のマルチブラケット治療患者がないとダメで、この患者をさばくには、一般歯科では無理である。症例数だけなら、一般歯科でも床矯正装置をすごくしているところがあるが、最終的な仕上げまで評価できない。

 このブログで何度も強調しているが、世界中の矯正専門医のメインの治療法はマルチブラケット装置であり、これ以外の種々の治療法はあるものの、これらはあくまで副次的な治療法である。そうした意味では、マルチブラケット治療をしない歯科医院は、あくまである程度のレベルまでしか矯正治療できないとことを意味し、もし矯正治療を受けるなら、そうしたことも十分に理解しておかないと、歯科医師、患者双方ともトラブルとなる。

 昔、小児歯科にいた頃、咬合誘導という概念で少し矯正治療をしていた。その後、やはりマルチブラケット装置による治療が重要と思い、矯正歯科に転科した。当初はでこぼこ、小臼歯抜歯症例などは“バカチョン”症例とバカにしていたが、経験を積むと簡単な症例などなく、マルチブラケット装置による治療は本当に難しい。昔は矯正治療=マルチブラケット装置という感じで、一般歯科医も大学の研究生になったり、2、3年の長期も講習会に参加した。結局は難しくて諦める人も多くいたが、最近ではこうしたマルチブラケット装置に講習会すら受けず、マウスピース矯正の講習を受ける先生がいる。面倒な治療はしたくないが、金は儲けたいのだろう。羞恥心がないのだろう。

2020年6月11日木曜日

弘前レンガ倉庫美術館 行ってきました

白い部屋は事務所です。

倉庫だった頃の窓からの風景

美術館の窓風景、黄金色の屋根が美しい




 6/1から弘前市民限定で弘前レンガ倉庫美術館がオープンしたので早速、行ってきた。ネット予約開始の日、9時からの予約に合わせて、15分前からコンピュータ前に陣取って、準備した。さあ9時だ、予約しようとしても、画面が動かない、30分くらい頑張ったが、全く予約画面まで行かないので、そのまま諦め、2時間後にもう一度、トライした。今度は問題なく予約できた。それほど予約者はおらず、どうもプログラム上の問題があったのだろう。30分間隔で二十名に制限した入場で、新型コロナウイルス対策である。


 最近の美術館でおしゃれであり、作品もいわゆる額縁に入った絵を眺めるものではなく、空間を生かした造形的な作品がほとんどであった。これは十和田現代美術館や金沢二十一世紀美術館同様で現代美術館の流れである。今回は、弘前をテーマとして新作の展示物が主体であったが、すでに来館した数人の知人に聞いても、あまり面白くないという感想が多かった。正直言って私も最後の潘逸舟の作品以外は期待はずれであった。潘は幼少期から弘前で育ったため、その作品に強いノスタルジーを感じさせた。暑い夏の日の気だるい感覚や漠然と焦る青春の一コマをそこに見た。潘が若い頃に弘前で感じた感覚を表現したのだろう。

 弘前の現代美術館と言えば、まず奈良美智の作品を期待するが、今回のオープンには“弘前犬”と奈良の写真のみが展示されていた。数年前のA to Zなど奈良の一連の展覧会を見たものにとって、今回の展示は少し期待はずれであった。主として奈良が数年前にサハリンで撮った写真が展示されていたが、確かに彼の感性によって切り取られた原風景なのだろうが、“Thank You Memory”、弘前の記憶をテーマとした展示物としてはわかりにくい。むしろ潘の作品の方が、直接弘前に関係するものはないにもかかわらず、テーマに沿い、いろんなことを思い出せる。うがって考えると、もともと奈良自身、この美術館のオープニングに出品するつもりはなく、急な要請で仕方なく写真を展示したのかもしれない。母方の祖父が樺太(サハリン)にいたという。2階ライブラリーの窓からの移り変わる景色の方がよほど面白く、弘前生まれの奈良としては新作を発表できなかったことは残念だったろう。

 美術館オープンにあたり、弘前市、運営者と奈良の間に何かあったのかもしれないが、館長も決まったこともあり、いずれ彼の大掛かりな展示会を開いてほしい。今回は新型コロナウイルス騒ぎで、大々的なオープニングができなかったが、完全収束した暁には、歴史的な”A to Z “などの展覧会を超えるユニークな奈良の作品展をしてほしい。コロナウイルスのよる世界の混乱、そしてポストコロナの世界、これに対するアーティストとしての答えを是非、作品として表現し、人々に問うてほしい。

 美術館の隣にはおしゃれなレストランができて、自家製アップルシードルを注文した。昼間からお酒は少し抵抗があるものの、美味しく、量もあり、美術館に行った折は是非、トライしていただきたい。

PS:今年のねぷた運行は中止となったが、疫病払いのねぷた運行はするべきだと提案した。陸奥新報によると市内で手持ちねぷたを飾ろうとする動きがある。扇灯籠、角灯籠、金魚ねぷたの3種類のねぷたをねぷた師に依頼して運行コースに重ねて展示するという。素晴らしい考えであり、是非とも実行してほしい。さらにいうなら、ねぷた師に依頼するのは、ねぷた師を経済的に支える点で大事だが、市民も自分でねぷたを作って家の前にもっと展示すればどうだろうが。金魚ねぷたなどは、竹ひごや和紙などの入ったキットがあれば、何とか素人でも作れそうであり、中に小さなLEDを入れて家々ごとに飾れば、それは美しい光景となる。また今までにない独自の灯篭や金魚ねぷたを作ってもらい、例年通りに各賞を与えるのもいいかもしれない。



2020年6月10日水曜日

仕上げ 矯正治療

かなり強いゴムで仕上げる

一見綺麗に仕上がっていても、ここが噛んでいないとダメ、上下顎小臼歯の舌側咬頭を落として噛ませる。

 マルチブラケット装置による治療は、レベリング、犬歯のリトラクション、スペースクローズ、フィニッシングの4段階で分けることが多い。レベリングとは、歯のでこぼこを直す段階で、主として超弾性ウイヤーなどの柔らかいワイヤーの時期で、通常3から6ヶ月くらいかかる。その次の段階としては、これも上顎前突のケースで当てはまるのだが、細いワイヤーに変え、まず犬歯を後ろに引く時期である。通常6ヶ月くらいかかる。その後は、治療法によって変わるが、前歯と犬歯の間の隙間を詰める段階で、ここでゴムを併用することが多い。そして最終段階が噛み合わせをきちんと噛ませるフィニッシングの段階となる。実はこの段階がもっと矯正歯科医の技量が発揮される段階で、一般歯科医のほとんどが、日本矯正歯科学会の認定医でも、この段階がうまくできていない場合が多い。

 このフィニシングの段階の目的は、噛み合わせを仕上げていくのであるが、まずオーバージェット、オーバーバイトが適度、2-3mmになるように調整する。さらには大臼歯、小臼歯の咬合関係を仕上げ、上顎切歯のトルクを与える。具体的に言えば、018スロットのマルチブラケット装置を使う場合は、017×025あるいは018×025フルスロットのステンレス、エルジロイワイヤーを使う場合が多い。さらにいうならストレートワイヤーテクニックの場合でも、このフィニッシングの段階では前歯部にベンディングをしてトルクを加えることが多い。もちろん前歯部にトルクを入れると、隙間が出やすいので、上顎切歯の連続結紮とタイバックは必要となる。

 上顎切歯の辺縁隆線が発達している場合は、その削合が必要となることもある。ここでのポイントは小臼歯の咬合をきちんと噛ませることで、さすがに専門医の試験では、このポイントを押さえている症例が多いが、認定医の試験ではここが甘い症例が多い。こうした試験、第一小臼歯抜歯症例ではまず上下の第二小臼歯の咬合、上顎の第二小臼歯の舌側咬頭が綺麗に下の小臼歯に咬合しているかを見る。慣れれば、マルチブラケット装置、撤去前に咬合紙で確認できる。

 噛む能力が強い患者さん、つまり噛み合わせが深い患者やローアングルの患者では、噛み合わせを挙げるのに時間がかかるが、噛み合わせが崩れにくく、最初の臼歯部の噛み合わせが維持される。そうでない症例は、このフィニッシングの段階で多くのゴムを使う。アレクサンダーのフィニシング考えでは、ここでワイヤーの一部を除去して頬側に連続したゴムを使用される。この方法では頬則の噛み合わせが非常に良くなるが、舌則の咬合は噛んでいない。

 私の場合は、上顎に一番強くて太いワイヤーを使い、下顎はそれより細いワイヤーを入れて、もっぱらゴムの力で噛ませる。もともとはLループを韓国のキム先生の多数用いたマルチループ法使っていたが、ベンディングに時間がかかりループが食い込むトラブルも多くなるため、最近ではゴムメタルを使うことが多い。ケースによってはゴムメタルを使わず、017×022くらいのステンレス、エルジロイワイヤーに小臼歯、大臼歯部に頬側へのトルクをかけること多い。下顎の小臼歯、大臼歯が舌則に倒れていて噛まないからである。

ここで小臼歯を噛ませる大きなポイントは、まず上顎の小臼歯部にわずかに挺出ベンド(0.2mm)を入れてツイードのプライヤーでリンガルルートトルクをかける。そして上下の側切歯と犬歯の間にフックをつけて垂直ゴムあるいはショートのクラスIIIIIゴムを使用する。力は150gでかなり強いゴムを使う。ゴムを終日使うことで、このフィニシング段階は6ヶ月くらいで終了できる。ただゴムを終日使うのは難しく、仕上げがうまくいかないこともある。

 下顎下縁平面角の開いたドリコフェイシャルのケースでは、こうしたフィニシングできちんと噛ませても、保定後に次第に空いてくることが多いが、咬合力と関係するようで、非習慣性咀嚼側側は空いてくることが多い。いずれにしてもフィニシングの要諦は、出来るだけ太いワイヤー、強いゴムを使うことで、私の場合はオームコの2F(Extra heavy)のゴムを使っている。

 フィニッシングについては矯正歯科医にとっては奥義になっており、先生ごとにその考えが違う。どのようなフイニッシュがいいのかは、保定後の安定も含めて考えるべきで、本当に難しく、この期間を一年近くかける先生もいる。

2020年6月8日月曜日

たばたせいいち(田畑精一)さん 原画

下段の左以外は”ダンプえんちょうやっつけた”の原画




 絵本作家の田畑精一さんが昨日、89歳で、老衰で亡くなった。田畑さんは大阪生まれで、京都大学の理学部で原子物理学を学ぶが、人形劇、絵本に興味を持つようになり、大学を中退して絵本作家になったという変わった経歴を持つ。代表作には“おしいれのぼうけん”、“さっちゃんのまほうのて”などがあり、いまだに人気は高い。“おしいれのぼうけん”は1974年、“さっちゃんのまほうのて”は1985年なので、いずれも出版から35年以上経つロングラン絵本である。“おしいれのぼうけん”は、最近も又吉直樹や広末涼子がコメントを寄せ、いまだに保育園では園児への読み聞かせとして人気が高い。

 実は田畑精一さんについては、昨年10月頃よりその絵本原画がヤフーオークションに出ていて、何件かは落札したので、知っている。絵本の原画は当たり前だが、この世に一点しかない。なぜこの時期、田畑さんの原画が大量に出たか不明だったが、昨日亡くなったことを知ると、ここしばらくは体調が悪く、自分の作品の原画を、死ぬ前に知人を通じてオークションに出したのだろう。全部で数十点の原画や下絵が出品されていて、安いのもので1000円くらい、高いもので10万円くらいで落札された。私が落札したのは“ダンプえんちょうやっつけた”の原画4点と、“だんち5階がぼくのうち”が1点、それと学童保育の表紙画1点である。流石に人気作品の“さっちゃんのまほうのて”と“おしいれのぼうけん”はオリジナルの原画は出品なかったが、その草稿画がかなりの値段で落札された。“ダンプえんちょうやっつけた”はいまだに再販されており。これも人気のある作品であるが、上記の本ほど読まれていない。

 おそらく今回の原画のオークション出品にあたって、代表作の“さっちゃんのまほうのて”と“おしいれのぼうけん”の二つの絵本の原画はオークションに出さず、どこかの図書館や展覧会に出すために残しているのだろう。

 こうして落札した原画は、病院に壁にきなりの立体額に入れて飾っている。当初はそのまま飾っていたが、絵本の原画なので、絵本も買って、そのセリフも一緒に載せることにした。なかなかオシャレで自分としては気に入っている。こうした白黒のシンプルな絵もインテリアとしては映える。

 うちの母もアマチュアの絵描きであるが、高齢のため、数年前から自分の作品の整理をしている。故郷の徳島県の脇町を描いた作品は、脇町の役場、図書館や観光施設に寄贈し、飾ってもらっている。また知人や友人にも送っている。展覧会用に50号以上の大型作品や屏風は、場所を取るため、知人、都会に住む兄や姉のところには送られないないので、もっぱら私のところに送られる。娘の8畳の部屋が母の絵でいっぱいになってきた。お客さんが来るときにはたまには玄関に屏風を飾ることもあるが、いずれにしてもかなり場所をとる。画家にとって自分の死後、作品が一括して美術館などに収まれば、これほど嬉しいことはないが、今や美術館も収容作品も保管場所がなく、寄贈するといっても、なかなか引き受けてくれない。勢い知人や友人に送ることになるが、人に送って喜ばれる作品とそうでない作品がある。静物画、風景画は人気があるが、人物像、裸婦、ことに嫌われるのは仏像や怖い絵である。昔、弘前ロータリークラブにいた頃、知人から青森県でも有名な作者の遺作があり、欲しい人にあげるという。写真を見ると地蔵さんが描かれた作品が2点だったが、これを家のリビングに飾ろうとする人は誰一人おらず、結局、葬儀店をしている人が葬儀場の飾りとしてもらった。

 田畑精一さんの絵本の原画もこうした断捨離の一環としてオークションに出されたものと思われる。今後、田畑さんの原画展のようなものが開催する場合は、ご協力するので是非、ご連絡して欲しい。原画には絵本とは違う良さがある。


2020年6月7日日曜日

絵図で見る弘前城のうつりかわり

士族引越之図 本丸付近  勝手に引用申し訳ありません、下図との比較のためです。かなりひどい略図です

明治二年弘前絵図 本丸御殿について、上図よりはるかに詳しい

士族引越之図 三の丸付近 本丸同様にひどい略図です。

明治二年弘前絵図 三の丸付近 はるかに詳細な図である


 本屋をのぞいていると、「絵図で見る弘前城のうつりかわり」(郷土歴史シリーズVol 5, 弘前市立博物館後援会、令和二年3月)があった。絵図ファンとしては必見の本で、楽しみに帰宅した。弘前城の移り変わりを、絵図を通じて、解説したものである。ただ残念だったのは、明治時代初期の弘前城を示す絵図として明治四年の「士族在籍引越之際地図並官社学商現在図」を取り上げ、“廃藩直後の弘前の町の様子を描いたもので、弘前城の各曲輪の様子も詳しく描かれています。これらの絵図は、廃城期の弘前城の状況を知るうえで貴重です”という説明が入っている。これについては、上記写真に示すように“明治二年弘前絵図”の方がより詳しく描かれており、なぜ敢えて「士族在籍現在図」を明治初期の弘前城を示す絵図として、この本で取り上げたかわからない。

 まず執筆は弘前博物館と弘前市教育委員会文化財課が中心になって行ったようだが、「明治二年弘前絵図」についてはすでに2冊、発刊しており、執筆者がその存在を知らないわけではない。さらに明治二年弘前絵図はすでに弘前市立図書館に寄贈しており、資料使用は全く問題なく、図書館に行って、撮影し、図書館の許可を得れば、本に掲載できる。実際、18世紀中頃の「御城之図」は弘前図書館のものをこの本で使っている。

 それでもなお、明治二年弘前絵図がこうした弘前市発行の本に引用されないのは、絵図そのものの真贋が確認されてないということか。数年前に弘前市立図書館に明治二年弘前絵図を寄贈しに行った時に、専門家による見解が出てから、正式な寄贈を受けると言われたことがある。つまり絵図、歴史学者が調査をし、学会発表し、論文にしたものが本物であり、アマチュアが調べて本にした絵図などは信頼できないということだろう。閲覧希望者がみる以外は、明治二年弘前絵図は図書館の倉庫に置かれ、未だ一度も公開されたことはない。もちろんアマチュアとはいえ本になったような絵図は今更新しい発見もなく学者の研究対象にはならず、今後とも学会で発表されることはないだあろう。

 江戸時代の絵図は、江戸、京都のような多くの人が集まるところのものは印刷物だが、弘前城下絵図などはすべて手書きで、同じ絵図の写しが数部あっても不思議ではない。ただ全くのコピーかというと、絵師の個性や絵図の用途によって内容は異なる。弘前市立図書館の八木橋文庫に明治38月の絵図(未見)が、そして明治47月の“士族現在図”が弘前市立図書館と博物館に一枚ずつある(これらは確認)。明治二年弘前絵図は10月であるので、単純に考えれば、最初に明治二年弘前絵図(10月)、明治三年8月図、明治四年7月の士族現在図となり、明治二年がオリジナルで、それ以外は写しとなる。上記に示したようにオリジナルが一番詳しく、コピーになると次第にラフになる。上記の四枚の明治初期の弘前城下絵図を記載項目について比較すれば、明治二年弘前絵図は贋作でないことは明らかである。さらにいうと明治二年弘前絵図の出所は、幕末の弘前藩御用人で活躍した楠美太素の子孫であるので、古くから弘前図書館にある“士族引越之際図”に比べて出所が不確かであるとは言えない。

 弘前市立図書館には、明治二年弘前絵図そのものを寄贈しているし、それを写真に撮りデジタル化したものも、好きなように使ってもらって良いと言っている。それでも、高岡の森 弘前藩歴史館でも今回の本でも、いまだに「士族引越之際図」が使われるのは、これまで使ってきて何も問題がなく、無難であるというのが一番大きな理由であろう。新しい資料が出て、古い資料より正確でオリジナルであれば、歴史学の発展のためには活用すべきであるし、これは理系だけではなく文系の学問も同じであろう。明治二年弘前絵図については発見者がアマチュアであったことがそもそも失敗だったとしたら誠に申し訳ないが、郷土史を調べている者としてはさみしい。

:絵図の詳細の比較については、写真を並べないと説明できないので、本から無断引用しています。なお、明治二年弘前絵図のデジタルデーターについては、茨城大学の古絵図を専門とする小野寺淳教授に送り、大変貴重なものだと評価されている。

2020年6月4日木曜日

昭和天皇の侍従長



 天皇を直接補佐する官職として、内大臣と侍従長がいて、前者はより政治的な事柄を、後者は天皇の生活全体を補佐する。戦前の昭和天皇の侍従長は、初代が珍田捨巳(2年間)、鈴木貫太郎(7年)、百武三郎(8年)、藤田尚徳(2年)であり、内大臣は牧野伸顕(10年)、斉藤実(1年)、湯浅倉平(4年)、木戸幸一(5年)である。鈴木貫太郎、斉藤実は二・二六事件で、それぞれ重傷、死亡し、藤田尚徳は終戦により、職を解かれたが、内大臣と侍従長の在任期間は概して長い。珍田は在職期間こそ2年間と短いが、大正10年の皇太子欧州訪問の責任者、帰国後にそのまま東宮大夫になり、即位に伴い侍従長となったので、皇太子時代も含めると昭和天皇に仕えたのは7年間くらいとなる。

 こうした在任期間の長さにより、昭和天皇と最も接点のある人物が侍従長であり、内大臣であったので、二・二六事件でも斉藤実、鈴木貫太郎、牧野伸顕らが襲撃対象になっている。侍従武官は陸軍から出向するため、侍従長については鈴木以降バランスをとり海軍から出ることになり、鈴木、百武、藤田はいずれも海軍大将であった。さらにいうと、この三人はすべて東京の攻玉社の卒業生であり、鈴木、百武は藤田尚徳の父、攻玉社の藤田潜の教え子であった。珍田と鈴木は11歳違い、鈴木と百武は4歳、百武と藤田は8歳違いであり、侍従長になった年齢は、珍田が71歳、鈴木は61歳、百武は64歳、藤田は64歳と、いずれも当時としては老齢であった。

 昭和天皇は、その生涯、決して変わらなかった政治姿勢の一つとして、米英協調主義がある。日本の外交方針として様々な選択があるが、昭和になると陸軍を中心として、ソビエトと敵対し、さらに勢いのあるナチ、ドイツとの連携を深めようとする動きが活発となる。ドイツとの軍事同盟はイギリス、さらにはアメリカと敵対することにつながり、昭和天皇は最後までこうした方向性に抵抗を示した。天皇側近でもアメリカ留学経験ある珍田捨巳と牧野伸顕は、こうした英米協調の強い支持者であり、欧米あるいは国際連盟を中心とした世界を常に考え、天皇に進言した。もともと昭和天皇は若い日の欧米視察で、とりわけ英国王室に強い感銘を受けたので、珍田や牧野の考えに同調した。珍田、牧野は、昭和天皇に対して強い尊王の姿勢を示しつつ、年長者として厳しい態度で接した。珍田は病のため、職半ばで侍従長をやめたが、後継者として高潔な人格の鈴木貫太郎を次の侍従長として推薦した。鈴木の妻、たかが、昭和天皇の子供時代、十年間、養育係をしていたことも関連があったのだろう。鈴木と牧野のコンビは1929年から1935年までの6年間、陸軍の暴走を止めようと紛争するが、牧野は持病のため、鈴木は襲撃により辞職する。

 今、「木戸幸一 内大臣の太平洋戦争」(川田稔著、文藝春秋)を読んでいるが、どうもこの人物は昔から嫌いで、昭和天皇も事務的な能力は評価していたようだが、人物的には陸軍同調、三国同盟支持者としてあまり好きでなかったように思える。明治天皇もそうだが、昭和天皇も実直な人物を好きなようで、内大臣より接触の多い侍従長では、地方出身者を好む。珍田は弘前、鈴木は野田(生まれは堺市)、百武は佐賀の生まれで、藤田は東京生まれであるが、気持ちは父母の故郷、弘前に近い。昭和天皇は戦後、三女、和子を百武に1年間、花嫁修行に出すほど人格的に信頼しており、在任期間の短い藤田についてははっきりしないが、珍田、鈴木に対しても他の官僚に比べてはっきりと愛情を持っている。
 
 最後の弘前藩藩主、津軽承昭の娘、津軽理喜子は、牧野の推薦で昭和天皇の皇太子時代の女官として務め、また理喜子の妹の寛子は徳川義恕に嫁ぎ。その長男の義寛は戦後、侍従長になり、昭和天皇の最後を見取り、次女、祥子は女官長、皇太后宮女官長として香淳皇后の崩御まで仕えた。こうしたことも含めて皇室と弘前の関係は深く、今はどうだろうか、市内の高校には皇室女官の推薦枠があった。津軽の女性が皇室で歓迎されていたのだろう。

2020年6月1日月曜日

弘前ねぷた 新型コロナウイルス 退散のために是非やろう



 弘前桜祭りに続いて、夏に行われる弘前ねぷたも中止に決まった。市民の健康を考慮してのことと思うが、桜祭りとねぷたを同じにしてもらっては困る。弘前桜祭りはあくまで、長い冬を耐えた人々が桜咲く季節を喜ぶものにあるのに対して、弘前ねぷたは、その由来は諸説あるものの、農作物の豊作を願い、厄災と邪悪を追い払う宗教的な要素が入っている。そうした意味では新型コロナウイルスが流行っている今年こそ、その厄災を追い払い、人々の健康を願うために弘前ねぷたを運行する。

 もちろん今までのような多くの団体が参加する合同運行は、三密の徹底のためにもすべきではないが、弘前市役所、商工会議所などのねぷた、せめて一台を流すことはできるのではないだろうか。人との距離をとった囃子方と最低限の曳き手で構成された“新型コロナウイルス退散”のねぷた、小型ねぶたでも良い、を運行する。

 こうした時期では、もし感染者が出たらという怖れから、何事も自粛するという方が問題が少なく、むしろ感染者が出るかもしれないというリスクを負って開催する方が勇気がいる。新型コロナウイルスについては、まだわかっていないことが多いが、100年前のスペイン風邪の教訓を考えると、第二波、第三波と続き、多くの人が抗体をもった時点で終了する。確実なワクチンが開発され、従来のインフルエンザと同様になるには少なくとも後23年はかかる、その間にリスクはあるが皆に勇気を与え、病気の終息を願うためには、何より弘前ねぷたを実施することが重要である。

 一台でもよい、弘前ねぷたを運行し、そして古式に則り、燃やすなり、川に流すなり、きちんと“なぬかびおくり”を行い、新型コロナウイルス退散を願う行事をすることが、これからの弘前ねぷたの歴史においても必要なことである。五所川原の虫送りもそうだが、こうした行事は、冷害、害虫、台風、疫病などの自然災害を何とか退散して欲しいという人々の強い願いを形にしたものであり、楽しみでもあると同時に、かなり宗教的な側面も含む。今はこうした宗教的な側面はほとんどなくなり、人々が楽しむ観光的なものとなったが、ここはその原点としての意味、自然災害を追い払うという点から弘前ねぷたがある。この際なので、一切の観光的な側面をなくし、運航日、運行時間や運行経路も秘密にしておき、単純に弘前ねぷたを運行するのもいいかもしれない。

 スペイン風邪は1918年に起こった前流行と、191920年に起こった後流行の二段階に分かれ、この時の青森県の感染者は前期が5104名、後期が2890名の計8085名であった。当時の人口は756454名であったのでほぼ感染率は1%であった。青森県で最初に罹患したのは191810月末に、三本木の畜産学校生徒が東京で感染し、その後、弘前市、青森市、八戸と感染が広がり、11月に大鰐町の小学校教員が最初の犠牲者となる。特にひどかったのは北津軽郡嘉瀬村(現:五所川原市)で6756人のこの村で47名の死亡者が出た。後期の流行は1919年の12月に軍隊内の新兵を中心に発生し、瞬く間に36名の死亡者が出た。後期の感染者は少なかったが、死亡者は多く、青森県で1920年の125日から3月末までに891名の死者が出た。特に青森市と五所川原市は死亡者が多く、それぞれ565名、110名の死者が出た。全国的にも死亡率は徳島県、兵庫県のつぐ3位であった(“日本を襲った スペイン・インフルエンザ”“(速水融著))。

 1919年と1920年に弘前ねぷたを運行したか、はっきりしないが、戦争期間(1938-1947)を除いて中止していないようなので、多分、行なっていたのだろう。弘前ねぶたと同様の厄災退散を願う祭りに京都の祇園祭と大阪の天神祭がある。いずれも本年度は祭りが中止となったが、祇園祭は八坂神社で、天神祭は大阪天満宮で関係者のみによる疫病退散の神事のみを行う。ただねぷた祭りは、これといった神社での神事はなく、行事そのものが疫病退散となる。風水の関係からいえば、弘前市は3つの水車と2つの柄杓からなり、悪気は岩木川に流されるようになっている。その考えから、ねぷたは藤田記念庭園を出発し、反時計回りに弘前城の周囲を周り、岩木川で燃やし、流す運行が一番、短い。さらに大きく囲むとなると、茂森町から新寺町に抜け、紺屋町、代官町、田町、そこから西に上っていき、浜の町に行くコースが考えられる。弘前市が宗教的な行事を行うことは戦後、基本的には禁止されているが、厄災、邪気を追う祭りは、宗教的な意味を超えた原初的な願いであり、市民を勇気づける、例えばブルーインパルスのようなものであり、是非とも小さなねぷたであっても実現して欲しい。どうしてもできない場合は、トラックの荷台に小さいねぶたを載せ、スピーカーで囃子を流しても良い。要は疫病から弘前市民を守る願いである。単純にやめるという発想ではなく、その中で何ができるか、ジョッバリ精神で検討して欲しい。

PS:大正8 年頃(1919)まで戦争景気で大型ねぷたも出たが、大正9年(1920)には景気が悪くなり、急に滅入った祭りになったとの記載があり、いずれの年もねぷたは中止されることはなく、開催された(弘前ねぷた本)。