2020年6月4日木曜日

昭和天皇の侍従長



 天皇を直接補佐する官職として、内大臣と侍従長がいて、前者はより政治的な事柄を、後者は天皇の生活全体を補佐する。戦前の昭和天皇の侍従長は、初代が珍田捨巳(2年間)、鈴木貫太郎(7年)、百武三郎(8年)、藤田尚徳(2年)であり、内大臣は牧野伸顕(10年)、斉藤実(1年)、湯浅倉平(4年)、木戸幸一(5年)である。鈴木貫太郎、斉藤実は二・二六事件で、それぞれ重傷、死亡し、藤田尚徳は終戦により、職を解かれたが、内大臣と侍従長の在任期間は概して長い。珍田は在職期間こそ2年間と短いが、大正10年の皇太子欧州訪問の責任者、帰国後にそのまま東宮大夫になり、即位に伴い侍従長となったので、皇太子時代も含めると昭和天皇に仕えたのは7年間くらいとなる。

 こうした在任期間の長さにより、昭和天皇と最も接点のある人物が侍従長であり、内大臣であったので、二・二六事件でも斉藤実、鈴木貫太郎、牧野伸顕らが襲撃対象になっている。侍従武官は陸軍から出向するため、侍従長については鈴木以降バランスをとり海軍から出ることになり、鈴木、百武、藤田はいずれも海軍大将であった。さらにいうと、この三人はすべて東京の攻玉社の卒業生であり、鈴木、百武は藤田尚徳の父、攻玉社の藤田潜の教え子であった。珍田と鈴木は11歳違い、鈴木と百武は4歳、百武と藤田は8歳違いであり、侍従長になった年齢は、珍田が71歳、鈴木は61歳、百武は64歳、藤田は64歳と、いずれも当時としては老齢であった。

 昭和天皇は、その生涯、決して変わらなかった政治姿勢の一つとして、米英協調主義がある。日本の外交方針として様々な選択があるが、昭和になると陸軍を中心として、ソビエトと敵対し、さらに勢いのあるナチ、ドイツとの連携を深めようとする動きが活発となる。ドイツとの軍事同盟はイギリス、さらにはアメリカと敵対することにつながり、昭和天皇は最後までこうした方向性に抵抗を示した。天皇側近でもアメリカ留学経験ある珍田捨巳と牧野伸顕は、こうした英米協調の強い支持者であり、欧米あるいは国際連盟を中心とした世界を常に考え、天皇に進言した。もともと昭和天皇は若い日の欧米視察で、とりわけ英国王室に強い感銘を受けたので、珍田や牧野の考えに同調した。珍田、牧野は、昭和天皇に対して強い尊王の姿勢を示しつつ、年長者として厳しい態度で接した。珍田は病のため、職半ばで侍従長をやめたが、後継者として高潔な人格の鈴木貫太郎を次の侍従長として推薦した。鈴木の妻、たかが、昭和天皇の子供時代、十年間、養育係をしていたことも関連があったのだろう。鈴木と牧野のコンビは1929年から1935年までの6年間、陸軍の暴走を止めようと紛争するが、牧野は持病のため、鈴木は襲撃により辞職する。

 今、「木戸幸一 内大臣の太平洋戦争」(川田稔著、文藝春秋)を読んでいるが、どうもこの人物は昔から嫌いで、昭和天皇も事務的な能力は評価していたようだが、人物的には陸軍同調、三国同盟支持者としてあまり好きでなかったように思える。明治天皇もそうだが、昭和天皇も実直な人物を好きなようで、内大臣より接触の多い侍従長では、地方出身者を好む。珍田は弘前、鈴木は野田(生まれは堺市)、百武は佐賀の生まれで、藤田は東京生まれであるが、気持ちは父母の故郷、弘前に近い。昭和天皇は戦後、三女、和子を百武に1年間、花嫁修行に出すほど人格的に信頼しており、在任期間の短い藤田についてははっきりしないが、珍田、鈴木に対しても他の官僚に比べてはっきりと愛情を持っている。
 
 最後の弘前藩藩主、津軽承昭の娘、津軽理喜子は、牧野の推薦で昭和天皇の皇太子時代の女官として務め、また理喜子の妹の寛子は徳川義恕に嫁ぎ。その長男の義寛は戦後、侍従長になり、昭和天皇の最後を見取り、次女、祥子は女官長、皇太后宮女官長として香淳皇后の崩御まで仕えた。こうしたことも含めて皇室と弘前の関係は深く、今はどうだろうか、市内の高校には皇室女官の推薦枠があった。津軽の女性が皇室で歓迎されていたのだろう。

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