2020年6月7日日曜日

絵図で見る弘前城のうつりかわり

士族引越之図 本丸付近  勝手に引用申し訳ありません、下図との比較のためです。かなりひどい略図です

明治二年弘前絵図 本丸御殿について、上図よりはるかに詳しい

士族引越之図 三の丸付近 本丸同様にひどい略図です。

明治二年弘前絵図 三の丸付近 はるかに詳細な図である


 本屋をのぞいていると、「絵図で見る弘前城のうつりかわり」(郷土歴史シリーズVol 5, 弘前市立博物館後援会、令和二年3月)があった。絵図ファンとしては必見の本で、楽しみに帰宅した。弘前城の移り変わりを、絵図を通じて、解説したものである。ただ残念だったのは、明治時代初期の弘前城を示す絵図として明治四年の「士族在籍引越之際地図並官社学商現在図」を取り上げ、“廃藩直後の弘前の町の様子を描いたもので、弘前城の各曲輪の様子も詳しく描かれています。これらの絵図は、廃城期の弘前城の状況を知るうえで貴重です”という説明が入っている。これについては、上記写真に示すように“明治二年弘前絵図”の方がより詳しく描かれており、なぜ敢えて「士族在籍現在図」を明治初期の弘前城を示す絵図として、この本で取り上げたかわからない。

 まず執筆は弘前博物館と弘前市教育委員会文化財課が中心になって行ったようだが、「明治二年弘前絵図」についてはすでに2冊、発刊しており、執筆者がその存在を知らないわけではない。さらに明治二年弘前絵図はすでに弘前市立図書館に寄贈しており、資料使用は全く問題なく、図書館に行って、撮影し、図書館の許可を得れば、本に掲載できる。実際、18世紀中頃の「御城之図」は弘前図書館のものをこの本で使っている。

 それでもなお、明治二年弘前絵図がこうした弘前市発行の本に引用されないのは、絵図そのものの真贋が確認されてないということか。数年前に弘前市立図書館に明治二年弘前絵図を寄贈しに行った時に、専門家による見解が出てから、正式な寄贈を受けると言われたことがある。つまり絵図、歴史学者が調査をし、学会発表し、論文にしたものが本物であり、アマチュアが調べて本にした絵図などは信頼できないということだろう。閲覧希望者がみる以外は、明治二年弘前絵図は図書館の倉庫に置かれ、未だ一度も公開されたことはない。もちろんアマチュアとはいえ本になったような絵図は今更新しい発見もなく学者の研究対象にはならず、今後とも学会で発表されることはないだあろう。

 江戸時代の絵図は、江戸、京都のような多くの人が集まるところのものは印刷物だが、弘前城下絵図などはすべて手書きで、同じ絵図の写しが数部あっても不思議ではない。ただ全くのコピーかというと、絵師の個性や絵図の用途によって内容は異なる。弘前市立図書館の八木橋文庫に明治38月の絵図(未見)が、そして明治47月の“士族現在図”が弘前市立図書館と博物館に一枚ずつある(これらは確認)。明治二年弘前絵図は10月であるので、単純に考えれば、最初に明治二年弘前絵図(10月)、明治三年8月図、明治四年7月の士族現在図となり、明治二年がオリジナルで、それ以外は写しとなる。上記に示したようにオリジナルが一番詳しく、コピーになると次第にラフになる。上記の四枚の明治初期の弘前城下絵図を記載項目について比較すれば、明治二年弘前絵図は贋作でないことは明らかである。さらにいうと明治二年弘前絵図の出所は、幕末の弘前藩御用人で活躍した楠美太素の子孫であるので、古くから弘前図書館にある“士族引越之際図”に比べて出所が不確かであるとは言えない。

 弘前市立図書館には、明治二年弘前絵図そのものを寄贈しているし、それを写真に撮りデジタル化したものも、好きなように使ってもらって良いと言っている。それでも、高岡の森 弘前藩歴史館でも今回の本でも、いまだに「士族引越之際図」が使われるのは、これまで使ってきて何も問題がなく、無難であるというのが一番大きな理由であろう。新しい資料が出て、古い資料より正確でオリジナルであれば、歴史学の発展のためには活用すべきであるし、これは理系だけではなく文系の学問も同じであろう。明治二年弘前絵図については発見者がアマチュアであったことがそもそも失敗だったとしたら誠に申し訳ないが、郷土史を調べている者としてはさみしい。

:絵図の詳細の比較については、写真を並べないと説明できないので、本から無断引用しています。なお、明治二年弘前絵図のデジタルデーターについては、茨城大学の古絵図を専門とする小野寺淳教授に送り、大変貴重なものだと評価されている。

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