よく見ると”實女”の校章
以前、ヤフーオークションで、明治後期から大正時代の弘前市、時敏尋常小学校と城西尋常小学校の卒業写真が出ていたので購入した。昔の卒業写真は大型で、おそらく卒業生個人にプリントしたものを送るのではなく、学校の記念として、小数枚、場合によっては一枚のみを製作したように思える。もちろん、そうした卒業写真は学校が保存し、必要があれば使用される。近所の写真館の人に聞いてみたが、大型の乾板で撮影し、直接、焼き付けたものかはわからないとのことであった。それでもデジタルカメラで撮影し、大きく拡大しても解像度は高い。
弘前の尋常小学校と一緒に徳島高等女学校の写真も2枚入っていたので、確認できれば、寄贈しようと調べてみた。まずA3くらいの台紙の右下に“阿波 富岡 タブチ”の印がある。調べると徳島県阿南市にあるタブチ写真館の撮影であることがわかる。徳島市と阿南市は距離で約20キロ、車で30分くらいの距離であるが、明治、大正時代は決して近くではない。何より徳島高等女学校の卒業写真をわざわざ郡部の写真館に依頼することはない。さらに現存する徳島高等女学校の校舎写真を見ても、卒業生の背後にある建物に該当する建物はない。
そこで阿南市にある女学校を探してみた。すると徳島県那賀郡那賀実科高等女学校の名が上がる。明治、大正期にできた徳島県の女学校は、徳島県高等女学校(1902),次にできたのが那賀郡立那賀実科高等女学校(1912)、そして名西高等女学校(1923)、母の母校である美馬高等女学校(1923)などがある。実科高等女学校というのは、普通の高等女学校に比べて、家事や裁縫などの実用的教科に重点をおいた学校で、徳島県には他には戦後にできた板野郡立実科高等女学校があるだけである。那賀実科高等女学校は1921年には富岡高等女学校になり、戦後は富岡第二高等学校、さらには富岡東高等学校となり、現在に至る。
さらに写真にヒントがないかと探すと、まず卒業生の背後の建物を拡大すると玄関上に“實女”と読める校章が見られる。実科高等女学校を縮めて“實(実)女”と呼んでいたのか。絵葉書資料館にある那賀実科高等女学校の絵葉書には校舎が写っており、玄関や細長い二階建てが特徴で、卒業写真の背後の建物に似ている。また中央に座る人物は絵葉書の解説で“加藤校長”となっている人物と似ており、福岡県師範学校長などを務めた加藤常七郎であれば、相当大物を校長に当てたのだろう。
これらのことから、この写真は徳島高等女学校に卒業写真ではなく、那賀郡立那賀実科高等女学校の大正頃の卒業写真である可能性がかなり高い。そこで、那賀実科高等女学校の系統をつぐ徳島県立富岡東高校に、写真の確認と確認できれば寄贈しようと、同校の同窓会、琴江同窓会にメールを送ったのが3月20日だが、その後も返事がなく、仕方がないため、高校宛に直接メールを送ったのが、5月21日であるが、これもいまだに全く連絡がない。コロナ問題でバタバタしているのはわかるが、それにしてもメールを送って3ヶ月無視されると腹立たしい。
この那賀実科高等女学校の卒業写真と思われる写真は当方が持っていても意味はないので、どなたか徳島県の資料を集めている人がいましたら、ご連絡ください、お送りいたします。もちろん無料です。
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