2022年12月22日木曜日

弘前の不思議な建物

 


弘前市の仲町には江戸時代の武家屋敷が、観光館のあるところには旧弘前市立図書館、旧東奥義塾外人教師館、さらに近くには青森銀行記念館などがある。これらは弘前観光の拠点となっているが、それ以外にも面白そうな建物があるので、紹介したい。

 

1.     旧佐々木医院

弘前城の西堀の一陽橋を超えてまっすぐに行くと、2つ目の交差点にあるのが旧佐々木医院である。大正8年の“青森県弘前市俯瞰地図”にも記載されているほど大きな医院だが、大正13年の“大日本職業別明細図之内信用案内図”では福島医院となっている。昭和10年の“ひろさき懐かし地図”には再び佐々木医院と記載されている。北に向かう塀が伸び、この建物の西横にも古い建物、ササキ音楽教室の看板があり、大きな地所である。ほぼ大正八年の頃と同じである。佐々木というと江戸時代、弘前藩の町医、範囲をしていた佐々木玄沖、佐々木元俊に繋がる佐々木家の家累と思われる。代官町の旧石郷岡眼科、あるいは和徳まちの商家に共通する石造りを一部取り入れた耐火構造の建物で、昭和初期の建物と思われる。正面のアール・デコ風の意匠が美しい。




2. 紺屋町の高い二階建ての家、旧伊藤医院?

この佐々木医院をさらに西に少し行ったところにあるのが、この建物で、昭和10年の地図では“伊藤医院”となっている。二階建ての建物であるが、二階部分が異常に高く、後で増築したかと思われほど二階部分の高さがある。おそらくここも、戦前の建物で、漆喰と木造が混在した建物で、山小屋風で美しい。



3.     茂森町ある旧吉田医院

茂森町の東奥信用銀行前にあるのが、この小さな木造の建物で、先に述べた旧伊藤医院と似た作りとなっている。昭和10年の地図には記載されているが、大正13年の地図には記載されていないので、ここも昭和初期の建物と思われる。

小さな建物であるが、随所に洋館的な装飾があり、今和次郎が提唱する雪国の家を想起させる。



4. 近所に出現した古い土蔵

近所にあった小野豆腐店が閉店し、そこの工場を潰して更地にした。それにより工場の後ろにあった古い土蔵が姿を現した。弘前では、間口が狭く奥行きが広い建物が多いため、隣の建物が更地になり、初めてわかる建物があるが、これもそうした例である。豆腐店自体は昭和20年から始めたようだが、昭和10年の地図にも小野の名があり、この土蔵も戦前のもののように思われる。一般的な土蔵は、漆喰造りとなっているが、この土蔵は趣向を凝らしており、石板を張ったような外観となっている。




5.     親方町の古い土蔵

親方町から養生幼稚園に折れる道の角にある古い土蔵である。下部がレンガ、その上が漆喰造り、そして瓦屋根、窓の部分も装飾がされ、かなり本格的な土蔵である。外観からは昭和より前、大正、明治期の建物のように思える。大正8年の地図では関商店、昭和10年の地図でも関商店とある。明治35年撮影の写真を見ると、かね五関清六小間物店との説明が入るが、このような蔵はない。弘前一の小間物店で、後に金融関係の仕事もする。明治39年の本町5丁目の写真を見ると、第59銀行と近くにこの古い土蔵と似た建物が一部写っている。本町の旧千葉酒造店が明治41年、当時、親方町の九戸時計店、同じく親方町の佐藤羅紗卸部も同様な白い土蔵で、家事にも強く、高級感のある土蔵造の建物が流行した時期であった。となるとこの古い土蔵も明治40年前後の建物と考えられる。



6.     診療所の裏にある和洋折衷の家

この家は、私の診療所からしか見えず、ほとんどの人は多分、見たこともないだろう。昭和10年の地図では“貝沼製材所”と記載されている。知人によれば、着物の仕立てをここでしていたと言っていた。今は住んでいる人はいないようである。モルタル吹き付け、煙突があることから暖炉があるのだろうか、戦前のお金持ちの洋館のような佇まいである。



7.   偕行社の裏にある山小屋風の建物

 

弘前偕行社の裏に同じような構造の2つの洋風の建物がある。赤い屋根、平屋の洋館であるが、どちらかというと別荘のような雰囲気がある。弘前偕行社の人に偕行社の職員用の建物かと聞いたが、わからない、多分、違うだろうという返事であった。大正13年の地図を見ると弘前偕行社の裏には衛戍病院があり、ここの医師の官舎だった可能性もある。知人はここでピアノを習い、中は完全な洋館であると言っていた。多分、戦前の建物のような気がするが、もしかすれば戦後2030年代のものかしれない。1977年の地図では、偕行社を挟んで向こう側にも洋風住宅があったようで、”この辺には洋風の木造住宅が並んだ”と書かれており、今は二軒だが、以前はもっと多くの洋風住宅があったのだろう。弘前市役所の横にスタバコーヒーがあるが、ここは大正6年に完成した旧第八師団長官舎で、ここも屋根が赤くて、偕行社の裏の家と同じような匂いがある。



まだまだ不思議な建物がある、









 











2022年12月19日月曜日

北欧好き

 

ブナコボール

フィン・ユールのボウル










私は、どうも北欧のものが好きである。家にある家具のほとんどは北欧のものであり、また北欧の陶器も好きで、あちこちに飾っている。最近は北欧の絵も気になりだし、診療所にはフィンランドの画家、マッティ・ピックヤムサさんの絵を2点飾っている。ごく最近もヤフーオークションで、スウェーデンのモナ・ヨハンソンさんの故郷イエテポリを描いた版画が素敵だと思い、2点購入した。自宅の白い壁に飾ると一気に北欧の雰囲気となった。

 

尼崎にいるとき、鹿児島にいるときは、それほど北欧のものには興味がなかったし、1980年代まで、日本でもそれほど北欧ブームではなかった。1990年頃から雑誌やメディアでも北欧ものが取り上げられ、それが今でも継続している。特に雪の降る、寒い青森に住むようになると、気候的にも北欧と親近感があるのか、ますます好きとなり、一度は行きたい国の筆頭である。

 

実は、北欧と日本は大きな関係があり、1900年頃までデンマークなど北欧各国の家具はヨーロッパの中でも安い製品で、また格別に陶器が盛んなところでもなかった。デンマークでいえば、1920年頃から国を挙げてデザインを重視する政策をとるようになり、コーア・クリントやヤコブセンなどのデザイナーが登場して、今に残る名作家具を作った。ちょうどヨーロッパを中心としてジャポネズムが浸透していった時代で、フィンランドのデザイナー、建築家のアアルトの設計した家にも多くの日本的要素を残す。グナー・ニールンド、ベルント・フリーベリなどの北欧陶器作家にとって、日本の陶器は憧れであった。彼らの小ぶりのボウルは、日本の茶会でも使われることがあるほど、日本の生活と馴染む。映画でいうと、日本でも人気のあるフィンランドのアキ・カウリマスキー監督の最も尊敬するのは小津安二郎で、彼の作品の随所に小津の影響を見る。

 

このようにヨーロッパの端、北欧とアジアの東端の日本とは、意外に親和性が高く、お互いの文化を愛し、尊重している。青森でも、ブナの木を薄く削いで、それを樹脂で固めた「ブナコ」という名産物があるが、これは意外に北欧ぽい雰囲気をもつ。ブナコの大きなボウルなどは、本家のフィン・ユールやカイボイソンがデザインした木製ボウルよりよほど北欧のものに近い。また大きな木を掘ったボウルより、ブナコの方がよほどエコで、地球環境に優しい。できれば北欧の家具メーカー、例えばフリッツハンセンなどの業務提携し、ブナコの技術は一社だけでなく、もっと多くのメーカーに使って欲しい。

 

スウェーデンで最も愛される果物は、りんごであり、青森と同様、各種のアップルパイがある。同じようにデンマーク、フィンランド、ノルウェイもリンゴを生産している。寒い地域の果物といえばりんごになるのだろう。これらの国ではリンゴを使った伝統的な料理、菓子があり、それも青森に似ている。フィンランド人のジョークに「内向的なフィンランド人であれば、人と話すときに自分の靴を見る、外向的なフィンランド人であれば、人と話すときに相手の靴を見る」とあるほど、恥ずかしがり屋で無口だそうだが、東北人、青森人にも同じようなところがある。

 

デンマークでは「Hygge  ヒュッゲ」という言葉がり、“居心地の良い雰囲気や時間”を指す言葉で、現在、世界的なブームとなっている。コーヒーテーブルで好きな本を読む、友人や家族と楽しい団欒をとる、自然の中で散歩するなど、贅沢ではないが、豊かな楽しみをすることである。自然環境も北欧に近い青森県で最も欠けているのが、このヒュッゲという感覚で、雪を嫌なものと見るか、美しく、楽しいものと見るかは、心も持ちようで、どうも青森人は、ネガティブ思考で、雪は嫌い、田舎は嫌い、寒さは嫌い、幸福度ランキングでも青森県は全国で40位、沖縄県が1位となっている。世界で見ると幸福度ランキング1位はフィンランド、続いて2位はデンマーク続き、5位にデンマーク、7位にスウェーデンと北欧各国が上記に入っているが、日本は62位とかなり低く、その日本の中でも青森県は幸福度が低い。

 

青森県は全国で一番の短命県で、平成27年度の調査で男子は78.7歳、女子は85.9歳(2015)と嘆いているが、最も幸福度の高いフィンランドの平均寿命は男子が77.7歳、女子は83.7歳(2012)で、むしろ青森県の方が長生きする。健康は最も大事であり、青森人ももっと幸せを感じても良さそうである。


2022年12月15日木曜日

今年の冬の格好

 


wild things のモンスターパーカー


Rotho社のGenIIIジャケット、パタゴニアのR1とほぼ同じ




今シーズンの私の冬の格好を紹介したい。12月から来年の4月ごろまでの約5ヶ月の服装である。津軽の冬は長く、雪深く、寒さは1、2月の厳寒期でもマイナス8度くらいなので、北海道ほどではない。北海道の内陸部、旭川などではマイナス20度になるし、札幌でもマイナス10度以下になることも珍しくない。ただ雪の量は半端でなく、昨日も1日で20cm以上の雪が降り、朝から雪かきで大変である。

 

私の場合は、車を持っていないので、冬場も移動は主として歩きである。今日も「ザ ファースト スラムダンク」も見にいってきたが、映画館まで約7000歩の距離も歩きである。そのため、冬場の服装と靴は本当に重要である。暖かい服と滑らない靴が、欠くことができない。

 

まず下着であるが、私は半袖下着が好きで、これは普通の綿の下着をきているが、汗をかくと、なかなか乾かない。濡れたままいると汗冷えするので、朝の雪かきで汗をかくと必ず新しい下着に交換する。何かいい下着はないかと、近所のアウトドア店で、ミレーのドライミックメッシュショートスリーブというSMぽい下着が半額だったので買った。かなり太いメッシュの下着だが、サイズが小さいのか、着るとボンレスハム状態となり格好悪い。これは汗をかいても下着に吸収されず、その上に着ているベースレイヤーに汗がすぐに移行するために、汗冷えすることがなく、雪かきをして大量の汗をかいても、いつの間にか乾いている。山登りする人に人気があるのがわかる。

 

下着の上に着る、山用言葉でいうと、ベースレイヤーは、パタゴニアのキャプリーン・ミッドウェイトとキャプリーン・サーマルウェイトの2種類を2枚ずつ持って、この4枚で冬を過ごしている。どちらも価格の高い衣料だが、長いもので78年使っているので、使う回数を考えれば、高くはない。前ジッパーも長くて、着やすいのも利点の1つである。

 

この上に着るミドルレイヤーには、パタゴニアのR2R1となる。R1は薄いので着る機会は少なく、あまり寒い日には、ベースレイヤーとしてR1を着て、その上にR2を着ることもある。R1は一着、R2は三着持っているが、それを使い回す。ところが昨年に十年前に買った最初のR2のジッパー部が壊れてきた。他は問題がないので、家で着る分には問題がないが、外で着るのは支障となる。そこで新しいR2を買おうとしたが、もはや絶版となり、復活する可能性も少ない。R2も時代によりシルエットが変わり、数年前に買ったのは、あまりにスリムで気に入らないので、実質一着となった。そこでR2と同じ生地、ポーラテック サーマルプロを使ったフリースを探すと、米軍が採用しているGen III フリースジャケットにたどり着いた。幸いデッドストックの本ちゃんのものがあったので、それを購入してみた。流石に軍用だけに、ジッパー部はフラップ付きとなっていたり、胸には階級、氏名を貼るベンクロもあり、肩と腕の部分は綿で補強されている。ほぼR2と匹敵するか、それよりは暖かいくらいである。かれころ1ヶ月くらい使っているが、非常に具合が良い。ただ胸の部分にスマホを入れるポケットがないのが残念であるが、逆に首回りは厚くて首からの冷気を防ぐ。

 

この上に着る最終のジャケットは、エディバウアーの「マウントエベレスト・パーカー」、これは1963年のアメリカ隊で使ったものの復刻版、シェラデザインズの「インヨー・ジャケット」、そしてナンガの「Mountain Belay coat」、ナンガのダウンの中でも最強と言われたもの、この3つを主と使っているが、どうもシェラデザインのダウンは中国で生産しているせいか、サイズが小さく、あまり着たくない。そこで今年はミリタリーと購入したのが、Wild things のモンスターパーカーである。元々は米軍の特殊部隊がマイナス30度の地域でもリュックを背負ったまま活動できるよう作られたヘビー級の衣料である。本ちゃんのデッドストックを探したが、サイズがLしかなく、しかもモンスターパーカーのLは通常服の3Lくらいなので、これは諦め、同じく軍にも供給しているWild thingsのモンスターパーカーを選んだ。中身にはClimashield Prismという新素材を使っていて、丈も長くて腰を冷やさない。今シーズンも数度きたが、これは非常に暖かい。

 

ズボンは、冬はLLビーンの裏地付きのダブルエルチノで決まり。これが一番暖かく、かれこれ15年以上使っている。

 

そして靴。これが一番悩む。今年はテレビで盛んに「氷でも滑りにくい靴」としてCMで流しているコロンビアのスノーブーツを買った。イタリアのビブラム社の開発したアークティックグリップという新素材を使ったもので、雪、アイスバーンを歩いたがほとんど滑らずに、評判通りである。ただ濡れたタイル上はかなり滑るため、完全に滑らないとは言えないが、例えば、カナダのソレルのカリブーの滑りやすさが10とすると、この靴は3くらいで、札幌の高島屋にある靴修理店では、ソレルの靴底をこのビブラムアークティックに替えてくれる。この靴底の効果を知れば、張り替える人もいよう。流石にソールメーカーが自信を持って販売した雪用のソールだけあり、単に滑らないだけではなく、地面からの感じはビブラム底のワークブーツとほぼ変わらない。

 

とりあえず今年は、こうしたファッションでこれからの5ヶ月を乗り越えたい。暑いのは裸になっても暑いが、寒いのは十分な装備をすれば、暖かく過ごせる。


2022年12月14日水曜日

気に入らないアメリカ式経営

 





ここ二十年にくらいでモンスター化しているのが、金で金を生む、いわゆる投資会社というやつである。こうした投資会社は、近年ますます巨大化し、世界の貨幣為替、株を自由に操り莫大な利益を得ている。そして昔からある老舗企業を買収し、株価が上がるとすぐに売り抜け、結果的に倒産させる。わずか数秒で、何十億円の利益が出る世界に入ると、釘一本で数円の利益しかでない会社など倒産してもなんともない。例えば、歯科の分野でいうと、デンツプライという会社があり、その中にサンキンという日本の会社があって、独自に矯正用製品を出していた。数十億円の売り上げがあり、数億円の利益も出ていたはずである。ところがここを買収したシロナデンタルの新しいCEOの判断で、サンキン製品を全て廃止、生産していた工場も閉鎖し、工員もやめさせた。決して赤字だったわけではないが、大きな成果を求められる新しいCEOにすれば、より大きな売り上げと利益を株主あるいは投資家より求められる。その結果が、サンキン製品の廃止と、SureSmileというマウスピース矯正への進出である。一番新しい3ヶ月決算ではかなり大きな赤字を示し、株価も2022.2では58.7ドルが今は32.2ドルと半分くらいになっている。決して新しい経営方針が成功したとは言えない。何よりこの企業の倫理性の問題は、こうした医療製品をずっと使ってきたユーザーに対して何も責任を持たず、経営のためにバッサリと切ったことである。医療メーカーとしては大いに批判されるものであり、私が所属する日本臨床矯正歯科医会も書面で抗議した。結局は日本のトミーインターナショナルが工場を買い取り、生産を再開したが、この会社の医療メーカーとしての信頼は地に落ち、私自身、この会社からは一切購入する気はない。ただこうした金のためには不必要な物を全て切る経営方針は、アメリカでは当たり前のことであり、多くの老舗企業が潰れていった。同様に低収益の生産企業より高収益の金融企業を求めるあまり、アメリカから生産拠点が海外に移動し、中国から企業を撤収しようとしても、もはや国内に工場がなくなっている。

 

 

もともとキリスト教では、人にお金を貸して利息を取ることは悪いことだと考えられ、ユダヤ人の専売職とされていた。有名なヴェニスの商人のような悪どいユダヤ人として差別を生んだ。同様にイスラム教でもお金を貸して利息を得ることは宗教によって禁じられており、現在でも原則的にはイスラム教徒で金融業の人はいない。一方、日本では、儒教の一部には金は汚いものという考えがあるが、基本的には宗教的に問題視されず、両替商などは大名にも多くの金を貸し、力を持った。ただ、庶民には銀行も含めて金貸しというとイメージは悪く、就職や結婚で昔は問題になることもあった。古い映画になるが、1954年の「素晴らしき哉、人生」というアメリカ映画がある。名監督のフランク・キャプラ監督の名作である。この中には、二人の金融関係者が出てくる。一人はジェームス・スチュアート演じる、庶民の夢、マイホームを実現させる住宅金融会社、もう一人はひたすら金儲けを図るポッターという老人。主人公は8000ドル(現在の価値で3200万円)を紛失し、会社が潰れるのを悲観して自殺を図る。そこから自分のいない世界を知るファンタジーとなっていくのだが、実はこの紛失した金をもう一人の金貸しのポッターが拾うのである。このポッターに金策にくる主人公に、こうしたことを知らせず、強く詰り、金を貸さない。拾った金を着服するのは犯罪となるが、最後まで映画ではこのポッターには天罰を与えないのは、もはやこの時代(1950年代)ではこうした資本主義的人物に神の罰を与えられない時代になったのだろう。1843年の「クリスマスキャロル」ではチャールズ`・ディケンズが、こうした金の亡者に強く反省させるが、1950年代にはもはや無理となり、そして2000年代になると、これが普通となってくる。かってマルクスはプロレタリアートとブルジョアジーとの階級闘争を提唱したが、今では労働者と工場主といった目に見える単純な構造ではなく、革命を起こそうにも、誰にどのようにするのかもわからない。昨今の円—ドルの為替の乱高下を見ると、誰かが市場に介入して、為替益を狙っているのだが、輸出製品を作っている工場主にとっては一円の上下で死活問題となる。投資家が数百億円の利益を得ようと通貨に介入し、それにより為替が変わり、工場主の経営が圧迫され、従業員の失業を招くとしよう。労働者がデモをして工場に立てこもり、あるいは政府に抗議しても無駄なのである。

2022年12月13日火曜日

弘前の近代女性教育の嚆矢


菊池きく



ルーシー・イング

左が兼松しほ?


先日は、弘前市立博物館で開催されている歴史講座「青森県近代に生きた女性たちの歴史」(北原かな子先生)を聞きにいった。いつもながら面白い講演で、学校での授業とは全く違う、こうした市民向けの講演は楽しい。

 

時間があれば聞いてみたかった質問があった。東北地方以北で最初の女学校、遺愛女学校ができたのは、明治15年。当初、横浜と似たような開港港、函館に女子教育の場を作ろうとしたが、函館周辺からは生徒が集まらず、一期、二期生のほとんどが、弘前出身者であった。それだけ、弘前にはより高度な教育を受けたいと願う女性が多かった。弘前市で最初にできた小学校は、朝陽小学校で明治6年のことで、二番小学の和徳小学校は明治7年であったが、初期の生徒は全て男子生徒で、近代的な女子教育は東奥義塾の小学科女子部が最初で、明治8年にできた。女子生徒は66名で、先生の中には兼松しほの名がある。儒学者の兼松石居の娘である。明治9年の女子部の先生には、中田なか、菊池きく、そして兼松しほの3名で、明治11年に脇山つやが入る。兼松しほは、イング婦人から熱心に英語を学び、恐らくは教え子と一緒に、できたばかりの函館、遺愛女学校に入学したのであろう。兼松しほ、38歳の時である。その後、頼まれ、上京して津軽家に仕えた。津軽承昭の継室、近衛家出身の津軽尹子の娘、理喜様の養育、教育係りとなった。

 

話が脱線したが、聞きたかったのは、まず明治8年に小学女子部ができたときにどうして22名もの入学があったのか、遺愛女学校ができたとき、どうしてそれほど多数の弘前出身の女性が函館まで行って勉強をしたのか、女子には教育は不必要とされていた時代によく親、特に父親が承諾したなあと思う。須藤かくのことを書いた時に、須藤かくは明治4年、わずか10歳で英語を勉強しようと上京するが、よく親が折れたものだと感心した。今東光の母親、あやは、明治二年、弘前藩医、伊東家久の四女として生まれ、遺愛女学校の一回生あるいは二回生として入学する。これも長女、三女は普通に嫁にいき、次女は体の弱い母に代わり伊東家の家事をこなしただけに、四女あやの進学をよく許したと思う。

 

明治四年、女子留学生をアメリカに派遣する計画が開拓使で持ち上がった。旅費、授業料もち、さらに奨学金ももらえる好条件であったが、なかなか応募者が見つからず、6歳の津田梅子、8歳の永井繁子まで駆り出される。当時の写真を見ると6歳の梅子は幼児である。あれだけ人口の多い東京でこの有様で、函館に洋学の女学校ができても入学者がいないというのは、無理からぬことである。

 

明治7年、ジョン・イングが東奥義塾の教師として赴任し、妻のルーシー・イング(1837-1881)も主として女子生徒、教師を教えた。おそらくこれが弘前の女子教育に決定的な影響を与えたと思う。初めての外国の女性、そして英語は、当時の弘前の女子、特に士族の娘には、大きな憧れを感じたに違いない。また当時の弘前藩の学問の重鎮、兼松石居の娘、兼松しほ(1844?-1896)、そして東奥義塾の創始者の菊池九郎の母、菊池幾久子(1819-1893)が女子教育に熱心で、ともにできたばかりの東奥義塾の小学女子部の教師であったことも、幸いした。ともに女性でありながら、強い影響力を持つ人物で、女子教育に消極的な男性勢力には頭が上がらない大きな存在であった。東奥義塾の小学女子部ができた明治8(1875)、ルーシ・イングは38歳、兼松しほは31歳、菊池菊は56歳で、年齢的にも、立場上も、弘前の男性どもに文句を言わせないだけのものを持っていた。女子には学問は必要ないといえば、猛烈な反対を受け、何もいえなかったであろう。

 

おそらくルーシー・イング、兼松しほ、菊池きく(幾久)らの存在が初期に弘前における女子教育を引っ張っていたのだと思う。さらに津軽では人がしていると自分もしたくなるという風習があるようで、初期のアメリカ留学生は若党町という特定地区に多く固まっていた理由として挙げられ、同様に誰かの娘を函館の遺愛女学校に入れると、自分の娘もという気になったのかもしれない。こうした風潮は今でもあり、消滅した士族社会に対する強い危機感の裏返しなのだろう。


 

2022年12月8日木曜日

老人とアウトドアグッズ

 

下のサーモス500mlにこの200mlのマグが蓋にぴったり収まります。

スタバでグランデサイズのコーヒを頼み、これに入れておくと3回分は楽しめます


ここ10年ほど、年配の方が近所の比較的低い山を登るのが流行っていて、電車の中でも数人の年配の方が登山服、リュックなどの格好をして乗っているのをよく見る。電車で山の近くまで行って目的の山に登るのであろう。また車で登山道の入り口で集合し、そこからみんなで登る人の方がもっと多いかもしれない。

 

ところがこうした登山用のファッション、アウトドアファッションを、登山以外にも普通の生活で着る老人が増えてきた。最初に入ってきたのは、デイパック、リュックである。私がポパイなどの雑誌に触発されて、初めてデイパックを買ったのが、20歳の時で今から48年前である。その当時、バックといえば、ショルダーあるいは手提げバックで、両肩からのリュックは、登山あるいは子どもにとっては遠足用であった。赤のデイパックに教科書などを詰めて歩いていると、年配の方からはどこの山に行くのかと聞かれるくらい、一般的ではなかった。その後、若者を中心にデイパックは一般的になっていったが、大人の人が使うようになるのはもう少し時間がかかった。2000年代になると、スーツにリュックを背負うサラリーマンが現れ、主婦層にもおしゃれなリュックが流行りだした。そうこうするうちに、年配の方がリュックを背負いだした。重いものを手で持つより、リュックで担ぐ方がよほど楽だし、また両手が自由に使えることは事故防止にも繋がるからだ。今は70歳以上のほとんどの老人はリュックがあるいはショッピングカートを日常的に使っている。

 

その次に老人が愛用しだしたのは、ダウンジャケットとフリースである。フリーはユニクロの安いものが出回り、若者だけでなく、老人を着用するようになった。それまでのセーターに比べて軽くて楽だし、何より暖かいので、これもすぐに広まった。そしてダウンについても、その軽さと温かさが知られるようになると、それまでの重いウールのコートを一気に締め出し、今は青森県の老人のほとんどが冬になるとダウンジャケットを着ている。フリース以上の普及率で、一度、着てみると、もう重いコートには戻れず、ホテルなどで開かれる正式なパーティでも、スーツとトレンチコート、ステンカラーコート、チェスターコートなどのコーディネートより、スーツとダウンジャケットのコンビが多くなっている。寒い北国では、上に着るコートは、フォーマルな場でもアウトドア派のダウンコートでも許されている。私などのスーツに平気で、エディバウアーのカラコルムパーカ、アメリカ登山隊のカラコルム遠征で使われたダウンジャケット、を合わせている。

 

フリースにダウンジャケット、そしてリュック、さらに足元は雪に滑らないようなブーツを履いている老人が周りを見渡しても、すごく多い。こうしたファッション性より機能性、具体的にいえば、軽くて、暖かく、動きやすい衣料が老人に愛され、そうしたファッションをする年配の方が非常に多くなっている。 百歳になる私の母親も、秋から次の初春までは、パタゴニアのR2フリースを家の中では着ていて、外に出るときはモンペルの軽量ダウンジャケットをその上に羽織っている。

 

意外なところでは、サーモスの山用ボトル、スノーピークのチタンの二重構造のマグも老人に愛されている。前者は、通常の魔法瓶に比べて保温力がすごく朝、熱い湯を入れておくと夕方まで保温できる。母親は好きな阿波茶を朝に500ml作り、それをこのボトルに入れて飲んでいる。こうした使い方をしている人も多い。またスノーピークのチタンマグも、年配の男性の方で、お酒の好きな方は、冷たいピールやお湯わりの焼酎などで活躍する。こうした山用の製品は軽くて、使いやすく、それは登山家にとっても便利であるし、老人にとっても便利となる。





2022年12月2日金曜日

青森県のトリビア

 




 

1.     幕末の頃の人口(1850)

 江戸時代末期の日本の都市人口は今とはだいぶ違います。ランキングでは

 

 1.江戸115万人、2. 大阪33万人、3. 京都29万人、4. 名古屋12万人、5. 金沢12万人、6. 広島7万人(1873, 8. 和歌山6万人(1873)、9. 仙台 4.8万人、10. 徳島 4.9万人(1873, 11. 萩 4.5万人、12. 首里 4.5万人、13. 熊本4.1万人、14. 堺 4.1万人、15. 福井 3.9万人、16. 弘前3.7万人、17. 松江3.6万人、18. 富山 3.3万人、19.  高知 2.8万人、20. 秋田2.7万人となっています。

 弘前の人口は、1850年で37000人、全国では16位、東北地方では仙台に続く大都市でした。明治6年の調査でも32886 人で全国22位でした。ところが2018年で177411人、全国では151位となっています。ちなみに青森市は1852年では7779人で、今は287648名と40倍近く増加しました。

 江戸時代の弘前の人口の内訳は、家中(士族、卒族)23431名、町方14086名、合計37517名(1853 年)で、家中が人口の62.5%、町方が37.5%となります。金沢で家中の割合が42.8%、松江で43.2%、高松で17.5%、鹿児島で34.6%、他藩に比べても家中の割合が高いことがわかります。

 

2。 弘前大学

 県庁所在地以外に国立大学があるのは、滋賀大学(彦根市)、信州大学(松本市)、弘前大学(弘前市)の3つだけです。滋賀大学は教育学部と滋賀医科大学は県庁所在地の大津市にあり、信州大学も工学部は長野市にあります。

 戦前、弘前市には旧制弘前高校がありましたが、青森師範学校や青森医学専門学校は青森市にあり、空襲で校舎が焼失したため、弘前市に誘致しました。国立大学(総合大学)名は、多くは県名(岩手大学、愛媛大学)や広域名(東北大学、九州大学)、あるいは県庁所在地(神戸大学、金沢大学)からつけられますが、それ以外の市名がつくのは弘前大学だけでしょう(筑波大学はつくば市よりは広域名から)。

 

3。 青森県の特徴

1)陸海空軍

 陸上自衛隊としては青森県には第9師団が配置され、約7000名の兵力を有します。さらに海上自衛隊は大湊基地やミサイル防衛のための釜臥山のガメラレーダーや車力分屯基地にはパトリオットミサイルを配備するほか、大湊航空基地もあります。また航空自衛隊は三沢基地があり、最新鋭のF35戦闘機が配備されています。青森県は本州最北部の地形から自衛隊の陸海空の大規模な基地が配置されています。

2)自給率

 食料自給率はカロリーベースによる食料自給率は118% で、全国4位、米は319(全国97)、野菜は247(75)、果実は579(33)、魚介類は289(64)とかなり高く、牛肉、豚肉、鶏肉も全国平均自給率の2から4倍となっている。ほぼすべての食料が自給できます。

 エネルギー自給率は、太陽、風力などの再生可能エネルギーによる自給率は10.64%、全国5位で、風力発電の導入量は日本一です。かって東通原子力発電所(110KW)が稼働し.東京電力1号機(138.5kW大間原子力発電所(138.8kW)が建設中、同規模の原発が他に2基計画中で、実現すれば電力輸出県となっていました。

3)三方が海

 青森県は日本海、津軽海峡、太平洋の3つの海に囲まれた県であり、同様な県は北海道を除くと山口県と鹿児島県、沖縄県くらいしかありません。日本海でのカニ、ハタハタ、太平洋のカツオ、サバ、サンマなど多くの種類の魚がとれます。

4)弘前市、青森市、八戸市

この3市はいまでも仲がよくありません。八戸市は、もともと八戸藩があり、盛岡藩のあった岩手県の方が文化、言葉、料理も近いところです。ところが明治になり、盛岡藩が反政府であったこと、下北に移住してきた斗南藩が困窮のため、弘前藩との合併を願ったことなどから、盛岡藩北部1/3、八戸藩と弘前藩の所領が一緒になって青森県が成立しました。これにより県庁所在地は、青森県の中心で将来的に発展の見込まれる青森市となりました。青森市は商業都市として発展したので、士族町として傲慢な弘前市とは反目します。

2022年12月1日木曜日

外科的矯正が増えた

 




ここ数年の傾向としては、手術を併用した矯正治療、外科的矯正治療が増加している。私の診療所は、比較的、外科的矯正患者の多いところで、年間10-15症例、この27年間で350症例以上の患者をみている。内訳をみると下あごが大きく、かみ合わせが逆になっている骨格性反対咬合の症例がほぼ70%(開咬も含む)、あごがずれている顔面非対称の症例が20%、下あごが小さい骨格性上顎前突の症例が10%程度である。成人で“かみ合わせが逆”という患者のほぼ80%は外科的矯正となり、残りの20%が歯の移動のみで改善する症例となる。

 

上下のあごの前後的、水平的なズレがある場合、原理からいえば、全て外科的矯正の対象となるが、程度の大小で、歯の移動の方が良いから、顎の手術をしないと治らないという重度の症例の間に、ボーダーライン症例が存在する。このボーダーラインをどうするかによって診療所の外科的矯正の数が決まる。私のところは、研修を受けた東北大学でも鹿児島大学でも積極的に外科矯正を行う方針のところなので、自然と外科的矯正を選択するが、大学によってはいまだに歯の移動により、どうしても治らない症例だけを外科的矯正にするところもあり、教育を受けた大学で、手術を併用するかどうか、かなり判断が異なる。

 

ただ最近の患者は、以前より口元への要求が大きく、単に歯並びだけでなく、口元、顔全体を変えて欲しいという要求が強い。中には咬合は正常であるが、下あごが出ている、ずれているのを主訴として来院する患者もいる。下あごが大きく、多少ずれていても歯の代償的な移動で、綺麗に咬んでいることもあり、これを治すには、一旦きれいな歯並びを崩して、例えば反対咬合にしてから手術を受けることになる。あまり積極的にはこうした治療は勧めないが、それでもどうしてもということで治療した症例もある。

 

また私たち、矯正歯科医からすれば、成人の反対咬合については外科的矯正も仕方ないと考えていたが、前歯が出っ歯になっている上顎前突、あるいは前歯の真ん中がずれている顔面非対称の症例については積極的には外科矯正を勧めてこなかった。ところが最近では、患者の要望も強く、また歯の移動だけではどうしても限界があること、安定性に欠ける、仕上げも妥協的になることから、外科的矯正を選択することが多くなった。とりわけ上顎前突については、開業した1995年から2015年の20年でわずか5例ほどしか、外科的矯正をしていなかったが、ここ7年くらいで20例近くになっている。上顎前突の症例でも重度になると、中心位と中心咬合位のずれが大きい症例が多くなり、慎重にかみ合わせを調べると、中心位と中心咬合位のずれが5mm以上の症例も珍しくない。オーバージェットが7mmであったと思われる症例の実際のオーバージェットは12mmということになる。流石に12mm以上のオーバージェットを歯の移動だけで改善するのは難しく、外科的矯正の適用となる。

 

かっては上顎前突に対する外科的矯正は白人だけ、日本人の女性は少しあごが小さい方が好まれるので、手術を希望しない、歯の移動だけで十分に改善できるとされていた。ただよく考えれば、骨格的なズレも正規分布を呈し、反対咬合となる、下あごが過度に大きい症例と同数、下あごが過度に小さい上顎前突の症例が存在し、外科的矯正の数が、反対咬合は70%、上顎前突は10%という構成にはならないはずである。当然、成人反対咬合に対する外科的矯正の適用を考えると、上顎前突に対する外科的矯正の適用も増えていくはずである。

 

反対咬合の場合、補償作用として上顎切歯の唇側傾斜と下顎切歯の舌側傾斜のため、上顎は第一小臼歯の抜歯、下顎は非抜歯(第三大臼歯は抜歯)となり、大臼歯はII級にすることが90%くらいであるが、上顎前突の場合は、補償作用として下顎切歯はほぼ唇側傾斜しているが、上顎切歯も唇側傾斜していることも多く、おそらく口唇を咬む癖による、この場合は、上下第一小臼歯の抜歯、上顎切歯があまり唇側傾斜していない場合は、下の第一小臼歯のみの抜歯で、臼歯関係はIII級にするようにしている。また上顎前突の場合は、下顎の前方移動だけでは、期待したオトガイの突出が得られないので、ほぼ100%、オトガイ形成術も併用する。

 

ただ重度の上顎前突患者では、下顎頭の変形を起こしている症例も多く、このうち多くの症例では関節円板の前方転位を起こしているとの報告もあり、関節の保護の観点から外科的矯正の適否も検討しなくてはいけない。

 



2022年11月25日金曜日

もしあの日に戻れたら

 

スウェーデンのモナ・ヨハンソンのリトグラフ




週一回、開いている英語の勉強会では、毎回、英語の先生が話題になるテーマを挙げ、それについて1時間半くらい英語でディスカッションする。アメリカ大統領選挙のこともあれば、ウクライナ戦争のこと、大学教育のことなど、対象はかなり広い。

 

先日のテーマは、「もしあの日に戻れたら、できればロマンティックなもの」というものであった。映画のネタになるようなテーマである。確かに過去の分岐点、例えば、私の場合、大学入試で、東北大学に合格しなければ、大阪医大に行って内科医くらいになって関西で開業しただろうし、そうなると結婚相手も全く別の人であったろう。家内との結婚にしても、私の友人から家内に歯科の本を貸して欲しいと言われ、会ったことから始まった。もしそうした出会いがなければ、兵庫県の人と青森県の人が出会うことはないし、また開業する時も、青森で開業せず、関西で開業していれば、こうしたブログも書くことはなく、ましては4冊も弘前の本を出版することはなかった。

 

ただこの酒を飲みながらの男同士のディスカッションでは、奥さんには怒られるが、あの時、ああしていれば、今の人とは違う人と結婚していたといった話の流れとなった。もちろん全てのメンバーは私も含めて今の結婚生活に大変満足しているが、それでも男の人というのは妄想としてこうしたことを考える。

 

私の場合も1つの妄想がある。中高校が神戸にあったので、阪急塚口駅から毎朝電車に乗って通学した。いつも同じ時間、同じ車両に6年間も乗っていると、同じ車両に気になる女生徒がいて、場合によっては交際まで発展することがあるが、ほとんどは声もかけないまま自然消失して、記憶から忘れられる。ところが1つの思い出が、老人となったこの歳になっても記憶として残っている。高校一年生のことである。いつもの電車に背に高い小学生がいることに気づいた。くりくりした眼の背の高い可愛い子で、ロリコンではないが、こんな妹がいればと思っていた。その後、高校二年生になると、彼女もK女子中学の一年生となり、同級生と一緒に同じ車両でワイワイと雑談していて、楽しそうであった。ある日、彼女が塚口駅の真ん中で赤いカーネーション一本を持って立っていたが、何をしているかわからず、そのままいつものの場所に歩いて、電車に乗った。この時以来、彼女は電車の前方車両に乗るようになり、その後、乗る電車も変えたようで、毎朝会うことはなくなった。いなくなると気になるもので、高校三年生になると、学校からの帰りの電車で彼女を探すようになり、数回、車内に見つけることもあったが、卒業後、そのまま私は大阪の予備校、仙台の大学に行くことになった。ただ帰省のたびに、神戸に行くときはひょっとすると彼女の姿が見えないかと、家からは阪神尼崎駅が近いのだが、わざわざバスに乗り阪急塚口から神戸に遊びに行った。5年間、それこそ2-30回、塚口駅を利用したが、一度だけ、神戸方面のホームから大阪方面ホームにいる彼女を一瞬見たことがあった。あれは大学5年生(歯学部)最後の春休み、神戸に映画も見に行った帰りである。彼女に会うチャンスを増やすために、神戸から普通電車に乗るのだが、特急からの乗り換えで西宮北口からこの電車に乗ってきた女性がいた。私の席の一人置いて次の席に座った。どうも探していた彼女のようである。確認のために腰を浮かせて横目で見たが、間違いなく大学2年生になった彼女である。7年ぶりに見たが、面影は残っている。彼女もこちらに気づき、何度も立ち上がってはこちらをみる。こうしたおかしな動きをしながら、内心では塚口駅で降りたらどうしようかと思っていたが、いざ駅に着くと彼女は急に走り去って、電車から出て行った。すぐには状況が理解できず、ホームに呆然と立ちすくんだが、今思うと、すぐに改札口を出て、彼女を追いかけるべきだったのかもしれない。

 

こうしたことを英語の会で喋ると先生からは、ロマンティックな話と言われたが、他のメンバーからはよほど嫌われていたのではと、からかわれた。私としては、これまで一度も喋ってことのない人に走って逃げられるほど嫌われていないと思うのだが。家内からは、昔の変な人にしばらくぶりで会い、声をかけられると思い、逃げたのでは、あるいは女の人は中学一年生の頃に電車が一緒だった人を7年間も覚えていることはありえず、ただこちらをジロジロみる変な人と思い、走って逃げたのではとバカにされた。

 

もしタイムスリップできるなら、走って逃げる彼女を追いかけ、真相を確かめたいが、おそらくは単なる私の妄想で、彼女にすれば、まったく記憶にもないことであろう。ただこのことがあった4ヶ月後の夏休みに5歳下の今の家内と知り合ったことも不思議なことである。それ以来、仙台、鹿児島、青森と住まいが変わり、阪急塚口駅を使うこともほとんどなく、彼女を探すこともなくなった。テレビでよく放送される“あの人に会いたい”といった番組に出演する男性の多くも、こうした妄想することが多く、会いたいという女性が出てくると、全く記憶にない、あるいは気にもかけなかったということがほとんどで、男の人、それもモテない男に限ってこうした妄想を持つのであろう。私もそうである。