2022年12月13日火曜日

弘前の近代女性教育の嚆矢


菊池きく



ルーシー・イング

左が兼松しほ?


先日は、弘前市立博物館で開催されている歴史講座「青森県近代に生きた女性たちの歴史」(北原かな子先生)を聞きにいった。いつもながら面白い講演で、学校での授業とは全く違う、こうした市民向けの講演は楽しい。

 

時間があれば聞いてみたかった質問があった。東北地方以北で最初の女学校、遺愛女学校ができたのは、明治15年。当初、横浜と似たような開港港、函館に女子教育の場を作ろうとしたが、函館周辺からは生徒が集まらず、一期、二期生のほとんどが、弘前出身者であった。それだけ、弘前にはより高度な教育を受けたいと願う女性が多かった。弘前市で最初にできた小学校は、朝陽小学校で明治6年のことで、二番小学の和徳小学校は明治7年であったが、初期の生徒は全て男子生徒で、近代的な女子教育は東奥義塾の小学科女子部が最初で、明治8年にできた。女子生徒は66名で、先生の中には兼松しほの名がある。儒学者の兼松石居の娘である。明治9年の女子部の先生には、中田なか、菊池きく、そして兼松しほの3名で、明治11年に脇山つやが入る。兼松しほは、イング婦人から熱心に英語を学び、恐らくは教え子と一緒に、できたばかりの函館、遺愛女学校に入学したのであろう。兼松しほ、38歳の時である。その後、頼まれ、上京して津軽家に仕えた。津軽承昭の継室、近衛家出身の津軽尹子の娘、理喜様の養育、教育係りとなった。

 

話が脱線したが、聞きたかったのは、まず明治8年に小学女子部ができたときにどうして22名もの入学があったのか、遺愛女学校ができたとき、どうしてそれほど多数の弘前出身の女性が函館まで行って勉強をしたのか、女子には教育は不必要とされていた時代によく親、特に父親が承諾したなあと思う。須藤かくのことを書いた時に、須藤かくは明治4年、わずか10歳で英語を勉強しようと上京するが、よく親が折れたものだと感心した。今東光の母親、あやは、明治二年、弘前藩医、伊東家久の四女として生まれ、遺愛女学校の一回生あるいは二回生として入学する。これも長女、三女は普通に嫁にいき、次女は体の弱い母に代わり伊東家の家事をこなしただけに、四女あやの進学をよく許したと思う。

 

明治四年、女子留学生をアメリカに派遣する計画が開拓使で持ち上がった。旅費、授業料もち、さらに奨学金ももらえる好条件であったが、なかなか応募者が見つからず、6歳の津田梅子、8歳の永井繁子まで駆り出される。当時の写真を見ると6歳の梅子は幼児である。あれだけ人口の多い東京でこの有様で、函館に洋学の女学校ができても入学者がいないというのは、無理からぬことである。

 

明治7年、ジョン・イングが東奥義塾の教師として赴任し、妻のルーシー・イング(1837-1881)も主として女子生徒、教師を教えた。おそらくこれが弘前の女子教育に決定的な影響を与えたと思う。初めての外国の女性、そして英語は、当時の弘前の女子、特に士族の娘には、大きな憧れを感じたに違いない。また当時の弘前藩の学問の重鎮、兼松石居の娘、兼松しほ(1844?-1896)、そして東奥義塾の創始者の菊池九郎の母、菊池幾久子(1819-1893)が女子教育に熱心で、ともにできたばかりの東奥義塾の小学女子部の教師であったことも、幸いした。ともに女性でありながら、強い影響力を持つ人物で、女子教育に消極的な男性勢力には頭が上がらない大きな存在であった。東奥義塾の小学女子部ができた明治8(1875)、ルーシ・イングは38歳、兼松しほは31歳、菊池菊は56歳で、年齢的にも、立場上も、弘前の男性どもに文句を言わせないだけのものを持っていた。女子には学問は必要ないといえば、猛烈な反対を受け、何もいえなかったであろう。

 

おそらくルーシー・イング、兼松しほ、菊池きく(幾久)らの存在が初期に弘前における女子教育を引っ張っていたのだと思う。さらに津軽では人がしていると自分もしたくなるという風習があるようで、初期のアメリカ留学生は若党町という特定地区に多く固まっていた理由として挙げられ、同様に誰かの娘を函館の遺愛女学校に入れると、自分の娘もという気になったのかもしれない。こうした風潮は今でもあり、消滅した士族社会に対する強い危機感の裏返しなのだろう。


 

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