2017年2月28日火曜日

日系アメリカ人最初の女医 須藤かく(仮題)

ローラメモリアル女子医学校
1904年地図、すでに医学校はない
(シンシナティー公立図書館デジタルライブラリーより)

須藤かく、阿部はなの下宿


 今年になって郷土関係の研究は、“須藤かく”のことに集中している。年末からの休みを利用して、これまでの資料を整理して大雑把にまとめてみたが、あまりに内容がおそまつで、何より分量が少なすぎて本にならない。雑然とブログに書くのと違って一冊の本にまとめようとすると、何もかも不十分であり、今まで数年間、いったい何をしていたかと悔やまれる。結局、出版という大きな目的がないと本腰で対象に迫れないのだろう。

 最初は、新聞社への連載を勝手に企画し、1600字程度で、17回くらいの分量で書き出した。つまり27000字くらいとなる。これではさすがに新聞掲載には多すぎると考え、今度は800字で5回にまとめて、持ち込み原稿として送付したのが、1月初めだが、その後、連絡はなく、多分ボツになったのだろう。嘆いてもしようがないので、気持ちを切り替え、今度は本にしょう、分量をもっと多くしようと、ここ1か月くらいがんばっている。改めて原稿を読み返すと、細部のかき込みが足りないので、アメリカの知人、アメリカの図書館、日本の図書館、海外移民資料館、弘前市立図書館、研究者などに片っ端からメールを送り、資料を集めていった。といってもほとんどどこも関係する資料は少なく、空振りに終わることが多いが、それでも少しずつ資料が貯まっていった。例えば、須藤かく、阿部はなは、シンシナティー市内の路面電車事故に合い、医学校の卒業が一年遅れる。この事故の詳細を知ろうと思って、アメリカの有料新聞検索サイト“Newspaper.com”に入り、過去の新聞記事を片っ端から探したが、見つからない。そこでシンシナティーの知人を介してシンシナティー公立図書館に問い合わせると、かなり迅速に必要資料を得ることができた。今度は当時の路面電車の路線図をネット上で探し、大学のデジタル資料から1880年代のシンシナティーの古地図で確認する。さらに須藤、阿部が当時住んでいたシンシナティーの住所を詳細地図で確認して、別に資料でローラメモリアル女子医学校の住所を見つけ、下宿から医学校までの道順を調べる。こうした作業をここ1か月くらい仕事の合間にしてきたが、これはこれで、とても面白かった。

 こうして少しずつ、詳細がわかってきたが、それでも須藤かく自身の手紙、日記、子孫の聞き取りなどの基本的な記録は全くなく、調査は困難を極めており、ようやく50000字くらいになった。おそらく作家であれば、この倍くらいに分量を増やし、ある程度の本にすることが可能だが、私のような文才のないものとって、こうした作業はできない。情報と情報の間にどれだけ作者特有の文章を入れて、面白く、読みやすくする、これが作家の力量となる。多くのノンフィクション作家はこうした作業がうまい。一方、私のような文才のないものは、情報と情報をうまく繋げる適切な言葉が思いつかず、事実を羅列した全く面白くない文章となる。そうかと言って、プロの歴史学者のような厳密な検証はないため、研究論文としては全くデタラメなものとなる。いわば作家のような面白みはないし、研究者のよう客観性もない、中途半端なものとなる。ただこれだけは、才能と専門教育を受けておらず、どうしようもないので、ここは開き直って、小册を発行することを企画している。最初に新聞掲載を考えたのは、読者数が多く、もし子孫の方の目に止まれば、何らかの新たな資料が見つかるかと思ったからである。

 あとニューヨーク州のカムデンという小さな町の歴史研究会のようなところにメールを出して、その返事を待っているところだが、あまり期待していない。多分、私のあまりにひどい英文にあきれているのだろう。4月ころまでには何とかけりをつけたいと考えている。

2017年2月23日木曜日

汝、ふたつの故国に殉ず ―台湾で「英雄」となったある日本人の物語―


 著者の門田隆将さんとは一度、弘前での講演の折に少しだけお話したことがある。小柄な風貌とは裏腹に、強い意志と明晰な頭脳を持った作家という印象だった。弘前とその風土を愛する人で、好きで何度か弘前にも足を運んでいる。

 戦後70年経っても、未だに南京事件や慰安婦問題で隣国の韓国、中国とは諍い合っているが、こうしたこととは関係なく、門田さんは、真の、誠の日本人とは何だろうと問い、それをモチーフに多くの優れたノンフィクション作品を出しているが、本書「汝、ふたつの故国に殉ず 台湾で「英雄」となったある日本人の物語」は、とりわけ感動が深く、作者にとって代表的な作品となろう。

 台湾人の年配の知人と話していると、表面的には外省人か本省人かの区別はあまりしないが、それでもの両者の支持政党が国民党と民進党に分かれるため、見えない壁のようなものがある。こうしたことから、初対面の人と話す場合、その会話の中から無意識にどちらに所属するかを探り合うような間合いがあり、例え相手が日本人であろうと反射的に警戒心が現れることを感じる。そこには国民党による虐殺事件、二二八事件がいまだに尾を引いている。

 台湾人にとっては、親への敬慕、尊敬心は強く、以前、知人の台湾の歯科医を訪ねた時、院長室には父親の写真を飾っていた。おそらく日本人の歯科医師で父親の写真を飾ることはまずなかろう。この台湾人歯科医師は、二二八事件で父親が被害に遭っており、こうした災難はそのまま子供に引き継がれている。同じく弘前で知り合った台湾の方も父親は直接的には二二八事件に巻き込まれていないが、友人の多くが被害にあっており、外省人、国民党への怒りが強い。

 本書の主人公、湯徳章は父親が日本人警察官、母親は台湾人の混血児として生まれ、その持ち前の頭のよさと誠実さにより、最難関の高等文官司法科と行政科の両試験に受かる。さらに二二八事件においては、あたかも殉教者のように一身に罪を背負って処刑される。真の英雄である。台湾の年配の方、とくに日本の大学を卒業された方にお会いし、話すと、昔の日本人はこうだったかと感動することがある。礼儀正しく、きれいな日本語をしゃべり、それでいて誠実でおごらない。日本では見たこともないような、誠に見事な生き方、考えを持ち、おそらくこうした人々の中でも湯特章は最良の部類に入る人物だったと思われる。惜しい人をなくした思いが強い。生きていればどれだけ祖国の役に立ったかと思うと残念である。二二八事件は、虐殺者数の多さも問題であるが、主として高い志をもったインテリが処刑されたことは、台湾にとっても大きな損失であった。
それでも門田さんの作品により、こうした優れた人物がいたことが紹介されることは、若者を中心にした台湾社会の変化の中で、その意味は大きい。タイトルでは「ふたつの祖国」とあるが、湯にとっての祖国はあくまで台湾であり、台湾人として立派に生きたと思う。現在の若者達にとっては、もはや外省人のように故郷中国に対する思い入れもないし、本省人のような二二八事件への怒りもなく、漠然した社会状況の中、台湾人のアイデンテティーは何か問う。その具体的な人物像として湯の生き方、態度はその行動模範となろう。是非とも台湾で映画化されてほしい作品である。多くの方に読んでいただきたい作品である。

2017年2月16日木曜日

廃藩置県と士族の上京(明治四年)


 明治二年一月に藩籍奉還があり、五月に箱館戦争が終了すると、いよいよ明治政権による武士解体が加速度化されていく。武士にとっての給料である禄が削減され、明治四年には廃藩置県が成立し、明治九年には秩禄処分により、禄は完全に廃止される。実際は、幕末から藩の財政不良に伴い禄は随時削減されていき、秩禄処分を待つまでもなく、士族の生活は次第に困窮していった。  

 こうした中、士族達が夢を託したのは子供の教育であった。新しい世の中に生き抜くためには、洋学(主として英学)が重要と考え、明治四年をピークに英学熱が高まった。東京では千を越える私塾ができたのもこの頃である。

 代表的な学校は、三叉塾(蓑作秋坪)、共立学舎(尺振八)、共学社(蓑作麟祥)、春風社(司馬凌海)、同人社(中村正直)、北門社(山東直砥)、日新社(福地源一郎)、攻玉社(近藤真琴)、鳴門社(鳴戸次郎吉)などがあり(慶応義塾百年史)、このうち幕末からあった慶応義塾、攻玉社と同人社の三つが有名で、明治の三大塾とされた。

 弘前でも明治四年前後に集中して、洋学を学ぶために上京する若者が多い。明治三年、四年に限っても、慶応義塾には菅沼歓之助(明治三年十月)、武田虎彦(明治三年十二月)、木村健太郎(明治四年五月)、須藤保次郎(明治四年五月)、竹森徳馬(明治四年五月)、小山内敬三(明治四年六月)、小野武術(明治四年七月)、篠崎左一(明治四年七月)が入学し、同人社には山田誠(明治四年三月)、他には官立校の南校には工藤勇作(明治三年七月)はじめ十名、南校(西洋医学)には佐々木元竜(明治三年八月)はじめ七名、静岡学問所には間宮数馬(明治三年十一月)はじめ十三名、他の学校も含めて明治三年、四年に青森からの留学者は六十三名を数える(「幕末・明治初期の弘前藩と慶応義塾」、坂井達朗)。実際の数はもっと多く、おそらくは百名以上の若者が洋学を学ぶために上京し、一種のブームとなった。攻玉社は創立者の近藤真琴と弘前藩士、山澄直清が友人であったことから、多くの弘前出身者が入学した。攻玉社の在籍者名簿には、明治三年入社には石川太祖右衛門、明治四年入社には津軽範、津軽八十郎、笹森愛太郎、菊池三郎、清野虎雄、柏原楽蔵、奈良忠平、明治五年入社には小山田雄五郎、藤田潜、山澄太郎三の名がある(「北の防人 藤田潜と攻玉社」外崎克久、昭和五十二年)。森鴎外の「渋江抽斎」にも登場する渋江抽斎の息子、渋江保は、安政四年(一八五七)江戸に生まれ、幕末弘前に住み、漢学、医学を学ぶが、明治四年(一八七一)に英学で身を立てようと決意する。上京して、共立学舎に入学する。共立学舎はとりわけ人気があり、明治三年七月に開設するや、わずか半年で千名を越える生徒数を誇り、その中でも渋江保はのちに総理大臣となる犬養毅と共に首席を競っていた(「渋江抽斎没後の渋江家と帝室図書館」、藤田直樹、参考書誌研究、)60号、2004)

 盛岡藩の新渡戸稲造は、明治四年、十歳で上京し、最初は日本人と中国人が共同経営するあやしい私塾に入学し、その後、藩主の経営する共慣義塾に移り、さらに明治六年に東京英語学校に進んだ(「幕末・明治の英学」、宮永孝、1999)。多くの士族は、突然、禄を失い、新しい時代に生きていくために、子供の教育に夢を託したし、子供達も立身出世のために青雲の志を持った。両者の強い思いがピークとなったのが明治四年ころであり、弘前からも多くの士族の子弟が東京に向かった。

 明治二年弘前絵図では約二千軒の士族の名が載せられている。東京に進学できる年齢の子を持つ親はどのくらい、はっきりしないが、仮に一軒一人としても二千人。この中から明治三から五年にかけて上京したものが百人としても1/20ということになり、すごい比率である。ある意味、明治五年の東奥義塾の開設は、こうした優秀な若者の県外への流出を危惧した結果なのかもしれない。

2017年2月15日水曜日

モリカミ博物館、日本庭園(フロリダ)

モリカミ日本庭園を見るメラニア夫人と昭恵夫人

森上助次さんの生涯を丁寧に追っています



 先日、トランプ大統領夫人メラニアさんと訪米中の安倍総理夫人昭恵さんが、一緒にアメリカ、フロリダのモリカミ博物館、日本庭園を訪れました。これはテレビで放送されていましたので、ご存知の方も多いと思います。ただ、どうして観光地パームビーチ近くに、このような立派な日本庭園があるのか不思議に思った人も多いと思います。

 実は、この日本庭園、広さは250エーカーもあるのですが、この土地を寄付したのが、京都府丹後出身の森上助次さんです。森上さんは、明治十八年、宮津町近くの与謝郡城東村滝馬の農家の長男として生まれ、1906年に神戸から渡米しました。広い土地で大規模な農業をして一山当てようとする野心もありましたが、初恋の人との失恋も渡米の動機になったようです。

 アメリカは大陸横断鉄道の工事などに大量の労働者が必要でしたので、1860年ころから中国から多数の移住者が来ました。その後、あまりに中国人の移住者が多いため、移住禁止令が出され、代わって日本人の移住者が1905年ころから増えていきます。主としてアメリカ西海岸部を中心に移住していきますが、フロリダでは原野を農場に開墾しようとする機運が高まり、それに応じたのが、旧宮津藩主の酒井醸でした。酒井はフロリダ半島を物色し、移住地と選んだのが、後に“ヤマトコロニー”と呼ばれるところです。多いときには100名以上の日本人がここで働きました。ワニやヘビの出る湿地で、その開墾は困難でしたが、日本人の持ち前の勤勉さと粘り強さ、そして工夫により次第に開拓が進みます。パイナップル栽培により経営的にも豊かになり、コロニーには小学校ができるまでになります。ところがハリケーンのような天災やキューバ産の安いパイナップル輸入、さらには日本人移住民の排斥などもあって、次第にヤマトコロニーを去る人が増え、最後は独身の森上さんだけがフロリダに残ることになります。こうした中、森上さんは二十三歳になって小さな子供達に混じって地元の小学校に入り、英語を学んだりしました。森上さんはその後も勤勉に仕事をしながらことこつを土地を買い求めていきました。ちょうどその頃、フロリダは保養地として注目されるようになり、お金持ちの別荘やホテルが建つようになり、それに伴い土地価格も高騰していきます。森上さんの土地も高くなりましたが、そうしたことに無頓着な森上さんは、亡くなる最後までこじきのような格好で汚いトレーラーハウスに住んでいました。毎日、農場に出て、作物を作る、それ以外の贅沢を求めない森上さんの唯一、心残りのことは、自分の土地のことでした。相続する者もいないため、フロリダ州に寄付することにし、それが森上さんの死後、現在の日本庭園になりました。あの世にいる森上さんもアメリカ大統領夫人と日本の首相夫人が来園してくれたことをうれしく思ったことでしょう。

 ここまでことはノンフィクション作家の川井龍介さんの「大和コロニー フロリダに「日本」を残した男たち」に詳しく書いていますので、ご興味のある方はお読みください。
 こうした日米首脳会議の日程は、トランプ政権の誰かが計画し、承認されたものですが、モリカミ日本庭園を選んだ理由は、フロリダ開発に力を尽くした日本人をねぎらうとともに、「メキシコからの不良難民はアメリカには入れないが、日本人の移住者は歓迎する」との意味があるのかもしれません。