森上助次さんの生涯を丁寧に追っています
先日、トランプ大統領夫人メラニアさんと訪米中の安倍総理夫人昭恵さんが、一緒にアメリカ、フロリダのモリカミ博物館、日本庭園を訪れました。これはテレビで放送されていましたので、ご存知の方も多いと思います。ただ、どうして観光地パームビーチ近くに、このような立派な日本庭園があるのか不思議に思った人も多いと思います。
実は、この日本庭園、広さは250エーカーもあるのですが、この土地を寄付したのが、京都府丹後出身の森上助次さんです。森上さんは、明治十八年、宮津町近くの与謝郡城東村滝馬の農家の長男として生まれ、1906年に神戸から渡米しました。広い土地で大規模な農業をして一山当てようとする野心もありましたが、初恋の人との失恋も渡米の動機になったようです。
アメリカは大陸横断鉄道の工事などに大量の労働者が必要でしたので、1860年ころから中国から多数の移住者が来ました。その後、あまりに中国人の移住者が多いため、移住禁止令が出され、代わって日本人の移住者が1905年ころから増えていきます。主としてアメリカ西海岸部を中心に移住していきますが、フロリダでは原野を農場に開墾しようとする機運が高まり、それに応じたのが、旧宮津藩主の酒井醸でした。酒井はフロリダ半島を物色し、移住地と選んだのが、後に“ヤマトコロニー”と呼ばれるところです。多いときには100名以上の日本人がここで働きました。ワニやヘビの出る湿地で、その開墾は困難でしたが、日本人の持ち前の勤勉さと粘り強さ、そして工夫により次第に開拓が進みます。パイナップル栽培により経営的にも豊かになり、コロニーには小学校ができるまでになります。ところがハリケーンのような天災やキューバ産の安いパイナップル輸入、さらには日本人移住民の排斥などもあって、次第にヤマトコロニーを去る人が増え、最後は独身の森上さんだけがフロリダに残ることになります。こうした中、森上さんは二十三歳になって小さな子供達に混じって地元の小学校に入り、英語を学んだりしました。森上さんはその後も勤勉に仕事をしながらことこつを土地を買い求めていきました。ちょうどその頃、フロリダは保養地として注目されるようになり、お金持ちの別荘やホテルが建つようになり、それに伴い土地価格も高騰していきます。森上さんの土地も高くなりましたが、そうしたことに無頓着な森上さんは、亡くなる最後までこじきのような格好で汚いトレーラーハウスに住んでいました。毎日、農場に出て、作物を作る、それ以外の贅沢を求めない森上さんの唯一、心残りのことは、自分の土地のことでした。相続する者もいないため、フロリダ州に寄付することにし、それが森上さんの死後、現在の日本庭園になりました。あの世にいる森上さんもアメリカ大統領夫人と日本の首相夫人が来園してくれたことをうれしく思ったことでしょう。
ここまでことはノンフィクション作家の川井龍介さんの「大和コロニー フロリダに「日本」を残した男たち」に詳しく書いていますので、ご興味のある方はお読みください。
こうした日米首脳会議の日程は、トランプ政権の誰かが計画し、承認されたものですが、モリカミ日本庭園を選んだ理由は、フロリダ開発に力を尽くした日本人をねぎらうとともに、「メキシコからの不良難民はアメリカには入れないが、日本人の移住者は歓迎する」との意味があるのかもしれません。
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