2017年2月1日水曜日

西田耕平


 西田耕平について前回のブログでも少し触れた。青森県人名事典(東奥日報社、2002)には少し違った説明があるので紹介する。

“西田耕平  幕末—明治
東京商工会議所の指導者。大畑村(大畑町)郷士の西田家に生まれた。若くして箱館へ渡り商家に使われる。のちに江戸に出て、盛岡藩邸に出入りした。新渡戸十次郎らが奥羽の生糸を買い求めた時、横浜市場で貿易の仲買役となる。また盛岡藩御用商人高島嘉右衛門らとともに斡旋に尽くしたという。その功が評価され士分に取り立てられた。戊辰戦争の際、商人西村捨三と共同で横浜の外国商人から鉄砲数千挺を購入。西村は倒幕派へ西田は佐幕派へ得意先を求めた。明治維新となり、西田は日本資本主義の指導者として近代化をおしすすめた渋沢栄一の推せんにより、東京商法会議所の書記長の座についた。商法会議所は、明治11(1878)以降商工会議所と改称した。商工会議所は、商工業に関する各種統計の調査、行政庁に対する建議など商工業の発展を図る法人組織であった。商工会議所の基礎づくりに功績を残した。(鳴海健太郎)“ 参:明治過去帳、田名部通名士略伝

 他には、「横切った流星 先駆的医師たちの軌跡」(松木明知著、メディサイエンス者、1990)の「岡見京子」には“西田耕平は南部藩(青森県)の商人であったというが、著者の調査では青森県のどこに居住していたか不祥である。古い本籍によれば耕平は北海道小樽区色内町に居住していたことが判明している。なお戸籍簿には、「京子」ではなく、「ケイ」となっている」

 さらに「幕末の上海貿易」(本庄栄治郎著、経済論叢、1938)には、文久三年の健順丸による幕府の上海の貿易の乗務員の中に「軍艦奉行支配組頭次席箱館奉行支配調設並山口錫次郎、外国奉行支配調役格通弁御用頭取森山多吉郎その他箱館奉行所属役人七人、松平越前守家来二人、商法方として蛯子砥平・西田屋文兵衛二人」となっている。北海の海産物を上海で売り、砂糖、綿、水銀などを買い入れた。

 また「西洋画・写真術の先覚者横山松三郎伝と函館博物館所蔵品」には、明治初期の写真家、横山松三郎の伝記の中に「時ニ幕府船艦健順丸ノ香港バタビアニ航スルニ遭フ 商法扱掛西田耕平氏ニ會セリ因テ告ルニ彼ノ地ニ航シ寫真術研究スルノ志ヲ以テ 西田は、君は横山家の相続人だから母堂もこれを許さんと乗船を断った。先生之ヲ母ニ請フ 母曰ク汝既ニ其志アリ 而シテ官航海ヲ許 サバ無上ノ事ト云フベシ 機失フベカラズト自分にこの上ない理解の母に先生九拝跳躍して支配掛蛯子砥平氏ニ請ヒ商法取扱手附ト為リ テ香港ニ航スルヲ得タリ 時ニ年二十四横山松三郎が24才というと文久2(1862)のときである。」あるいは「健順丸は、49日に上海を出港して長崎に寄港し、諸術調所の学生などと長崎伝習所や商館、長崎奉行所、箱館海産物を入荷した長崎会所 を視察、幕吏が所用を終えて、兵庫を経由して710日に品川に着いた。松三郎は帰途横濱に着いたとある。箱館商人蛯子砥平、西田屋文兵衡(西田耕平)は、箱館開港で自由貿易港となった長崎を視察したので、品川に向う途中、神奈川(横浜)にも寄ったと考えられ、横山松三 郎は下船した。」の記述がみえる。

 明治11年の渋谷栄一伝記資料の中に「商法会議所新築落成ニ付、実際点検之上土木掛ヨリ請取仮リニ同所事務取扱西田耕平ヘ相預ケ置候、就而ハ明日渋沢栄一呼出引渡之上請書為差出候様取計可申哉、該場略図添此段相伺候也」とあり、西田は事務取扱をしていたことがわかる。

 また明治9年頃の商法講習所について倉西松次郎は「門の向つて左側に控家があつて西田耕平といふ学校の書記さんが住まつていた。」と証言している。商法講習所は授業をすべて英語で行っており、西田は講習自体には直接関わっていなかったと思われる。

 西田が生まれたとする青森県大畑について調べると、江戸時代、大畑は全国各地からの物産の集積地であり、津軽海峡を隔てた北海道との下北海運で栄えており、回船問屋の堺家、ニシン漁業や木材で財をなした栖原屋(紀州湯浅)、飛騨屋(美濃下呂)があった。

むつ市史 近世編(昭63)には、文政十一年(1828) 田名部通割当御用金一覧表が載っており、その中に「三十両 西田平四郎(大畑)」とあり、職種はわからないが、西田屋は大きな商人であった。

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