2017年2月16日木曜日

廃藩置県と士族の上京(明治四年)


 明治二年一月に藩籍奉還があり、五月に箱館戦争が終了すると、いよいよ明治政権による武士解体が加速度化されていく。武士にとっての給料である禄が削減され、明治四年には廃藩置県が成立し、明治九年には秩禄処分により、禄は完全に廃止される。実際は、幕末から藩の財政不良に伴い禄は随時削減されていき、秩禄処分を待つまでもなく、士族の生活は次第に困窮していった。  

 こうした中、士族達が夢を託したのは子供の教育であった。新しい世の中に生き抜くためには、洋学(主として英学)が重要と考え、明治四年をピークに英学熱が高まった。東京では千を越える私塾ができたのもこの頃である。

 代表的な学校は、三叉塾(蓑作秋坪)、共立学舎(尺振八)、共学社(蓑作麟祥)、春風社(司馬凌海)、同人社(中村正直)、北門社(山東直砥)、日新社(福地源一郎)、攻玉社(近藤真琴)、鳴門社(鳴戸次郎吉)などがあり(慶応義塾百年史)、このうち幕末からあった慶応義塾、攻玉社と同人社の三つが有名で、明治の三大塾とされた。

 弘前でも明治四年前後に集中して、洋学を学ぶために上京する若者が多い。明治三年、四年に限っても、慶応義塾には菅沼歓之助(明治三年十月)、武田虎彦(明治三年十二月)、木村健太郎(明治四年五月)、須藤保次郎(明治四年五月)、竹森徳馬(明治四年五月)、小山内敬三(明治四年六月)、小野武術(明治四年七月)、篠崎左一(明治四年七月)が入学し、同人社には山田誠(明治四年三月)、他には官立校の南校には工藤勇作(明治三年七月)はじめ十名、南校(西洋医学)には佐々木元竜(明治三年八月)はじめ七名、静岡学問所には間宮数馬(明治三年十一月)はじめ十三名、他の学校も含めて明治三年、四年に青森からの留学者は六十三名を数える(「幕末・明治初期の弘前藩と慶応義塾」、坂井達朗)。実際の数はもっと多く、おそらくは百名以上の若者が洋学を学ぶために上京し、一種のブームとなった。攻玉社は創立者の近藤真琴と弘前藩士、山澄直清が友人であったことから、多くの弘前出身者が入学した。攻玉社の在籍者名簿には、明治三年入社には石川太祖右衛門、明治四年入社には津軽範、津軽八十郎、笹森愛太郎、菊池三郎、清野虎雄、柏原楽蔵、奈良忠平、明治五年入社には小山田雄五郎、藤田潜、山澄太郎三の名がある(「北の防人 藤田潜と攻玉社」外崎克久、昭和五十二年)。森鴎外の「渋江抽斎」にも登場する渋江抽斎の息子、渋江保は、安政四年(一八五七)江戸に生まれ、幕末弘前に住み、漢学、医学を学ぶが、明治四年(一八七一)に英学で身を立てようと決意する。上京して、共立学舎に入学する。共立学舎はとりわけ人気があり、明治三年七月に開設するや、わずか半年で千名を越える生徒数を誇り、その中でも渋江保はのちに総理大臣となる犬養毅と共に首席を競っていた(「渋江抽斎没後の渋江家と帝室図書館」、藤田直樹、参考書誌研究、)60号、2004)

 盛岡藩の新渡戸稲造は、明治四年、十歳で上京し、最初は日本人と中国人が共同経営するあやしい私塾に入学し、その後、藩主の経営する共慣義塾に移り、さらに明治六年に東京英語学校に進んだ(「幕末・明治の英学」、宮永孝、1999)。多くの士族は、突然、禄を失い、新しい時代に生きていくために、子供の教育に夢を託したし、子供達も立身出世のために青雲の志を持った。両者の強い思いがピークとなったのが明治四年ころであり、弘前からも多くの士族の子弟が東京に向かった。

 明治二年弘前絵図では約二千軒の士族の名が載せられている。東京に進学できる年齢の子を持つ親はどのくらい、はっきりしないが、仮に一軒一人としても二千人。この中から明治三から五年にかけて上京したものが百人としても1/20ということになり、すごい比率である。ある意味、明治五年の東奥義塾の開設は、こうした優秀な若者の県外への流出を危惧した結果なのかもしれない。

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