2022年11月25日金曜日

もしあの日に戻れたら

 

スウェーデンのモナ・ヨハンソンのリトグラフ




週一回、開いている英語の勉強会では、毎回、英語の先生が話題になるテーマを挙げ、それについて1時間半くらい英語でディスカッションする。アメリカ大統領選挙のこともあれば、ウクライナ戦争のこと、大学教育のことなど、対象はかなり広い。

 

先日のテーマは、「もしあの日に戻れたら、できればロマンティックなもの」というものであった。映画のネタになるようなテーマである。確かに過去の分岐点、例えば、私の場合、大学入試で、東北大学に合格しなければ、大阪医大に行って内科医くらいになって関西で開業しただろうし、そうなると結婚相手も全く別の人であったろう。家内との結婚にしても、私の友人から家内に歯科の本を貸して欲しいと言われ、会ったことから始まった。もしそうした出会いがなければ、兵庫県の人と青森県の人が出会うことはないし、また開業する時も、青森で開業せず、関西で開業していれば、こうしたブログも書くことはなく、ましては4冊も弘前の本を出版することはなかった。

 

ただこの酒を飲みながらの男同士のディスカッションでは、奥さんには怒られるが、あの時、ああしていれば、今の人とは違う人と結婚していたといった話の流れとなった。もちろん全てのメンバーは私も含めて今の結婚生活に大変満足しているが、それでも男の人というのは妄想としてこうしたことを考える。

 

私の場合も1つの妄想がある。中高校が神戸にあったので、阪急塚口駅から毎朝電車に乗って通学した。いつも同じ時間、同じ車両に6年間も乗っていると、同じ車両に気になる女生徒がいて、場合によっては交際まで発展することがあるが、ほとんどは声もかけないまま自然消失して、記憶から忘れられる。ところが1つの思い出が、老人となったこの歳になっても記憶として残っている。高校一年生のことである。いつもの電車に背に高い小学生がいることに気づいた。くりくりした眼の背の高い可愛い子で、ロリコンではないが、こんな妹がいればと思っていた。その後、高校二年生になると、彼女もK女子中学の一年生となり、同級生と一緒に同じ車両でワイワイと雑談していて、楽しそうであった。ある日、彼女が塚口駅の真ん中で赤いカーネーション一本を持って立っていたが、何をしているかわからず、そのままいつものの場所に歩いて、電車に乗った。この時以来、彼女は電車の前方車両に乗るようになり、その後、乗る電車も変えたようで、毎朝会うことはなくなった。いなくなると気になるもので、高校三年生になると、学校からの帰りの電車で彼女を探すようになり、数回、車内に見つけることもあったが、卒業後、そのまま私は大阪の予備校、仙台の大学に行くことになった。ただ帰省のたびに、神戸に行くときはひょっとすると彼女の姿が見えないかと、家からは阪神尼崎駅が近いのだが、わざわざバスに乗り阪急塚口から神戸に遊びに行った。5年間、それこそ2-30回、塚口駅を利用したが、一度だけ、神戸方面のホームから大阪方面ホームにいる彼女を一瞬見たことがあった。あれは大学5年生(歯学部)最後の春休み、神戸に映画も見に行った帰りである。彼女に会うチャンスを増やすために、神戸から普通電車に乗るのだが、特急からの乗り換えで西宮北口からこの電車に乗ってきた女性がいた。私の席の一人置いて次の席に座った。どうも探していた彼女のようである。確認のために腰を浮かせて横目で見たが、間違いなく大学2年生になった彼女である。7年ぶりに見たが、面影は残っている。彼女もこちらに気づき、何度も立ち上がってはこちらをみる。こうしたおかしな動きをしながら、内心では塚口駅で降りたらどうしようかと思っていたが、いざ駅に着くと彼女は急に走り去って、電車から出て行った。すぐには状況が理解できず、ホームに呆然と立ちすくんだが、今思うと、すぐに改札口を出て、彼女を追いかけるべきだったのかもしれない。

 

こうしたことを英語の会で喋ると先生からは、ロマンティックな話と言われたが、他のメンバーからはよほど嫌われていたのではと、からかわれた。私としては、これまで一度も喋ってことのない人に走って逃げられるほど嫌われていないと思うのだが。家内からは、昔の変な人にしばらくぶりで会い、声をかけられると思い、逃げたのでは、あるいは女の人は中学一年生の頃に電車が一緒だった人を7年間も覚えていることはありえず、ただこちらをジロジロみる変な人と思い、走って逃げたのではとバカにされた。

 

もしタイムスリップできるなら、走って逃げる彼女を追いかけ、真相を確かめたいが、おそらくは単なる私の妄想で、彼女にすれば、まったく記憶にもないことであろう。ただこのことがあった4ヶ月後の夏休みに5歳下の今の家内と知り合ったことも不思議なことである。それ以来、仙台、鹿児島、青森と住まいが変わり、阪急塚口駅を使うこともほとんどなく、彼女を探すこともなくなった。テレビでよく放送される“あの人に会いたい”といった番組に出演する男性の多くも、こうした妄想することが多く、会いたいという女性が出てくると、全く記憶にない、あるいは気にもかけなかったということがほとんどで、男の人、それもモテない男に限ってこうした妄想を持つのであろう。私もそうである。


2022年11月23日水曜日

弘前市 道の突き当たり、折れ曲り






弘前市は、弘前城を中心に作られた町なので、旧市内は、作られた頃の江戸時代の様相を色濃く残す。城を中心として、北東の鬼門には八幡神社を作り、南西の裏鬼門には寺町を作る。さらに北斗七星の構図に沿って寺、神社を配置するなどがそうである。また道に関しても、郊外から市中に入る道を制限し、その入り口には桝形と呼ばれる、侵入してきた敵兵を取り囲む空き地を作った。文京小学校近くの富田の枡形が有名であるが、紺屋町あるいは和徳町にもこうした枡形が存在した。さらに敵の侵入を迷わされるために、できるだけまっすぐに城内に入られないように、ジグザクの道を作った。まっすぐに進むと、道は突き当たり、右か左に回ってまたまっすぐに行くような構造である。こうした構造が市中のいたるところにあり、有名なのは「一番町の突き当たり」である。下土手町、一番町を弘前城方向に進むと、突き当たり、そこの弘前警察署と弘前市役所があった。お城に行くには、そこを左に10mくらい曲がり、また右に曲がって、上白銀町に向かう。車がそれほど多くない時代では、こうした突き当たりがあっても、それほど不便と考えられなかったが、車の往来が多くなり、繁華街では、こうした道はかなり不便となる。そうしたことから警察署、市役所の老朽化のために、取り壊され、この土地に一番町からの道をまっすぐにする都市計画で昭和33年に桜大通りができた。そのため、旧五十九銀行(青森銀行)前の旧道と並行する形となり、裁判所近くの旧道の侵入箇所はおかしな形態となっている。

 

他にこうした折れ曲がった道を見てみると、十数か所あるが、多くの道は車の通行量が多くないのか、そのままとなっている。一方、弘前文化センター裏の道は、明治2年弘前絵図を見ると和徳大通りからまっすぐ進むと、制札があり、ここを右に折れて、また左に折れてまっすぐに進む。現在、この場所は出来るだけ、まっすぐになるように道が改修されているが、それでも蔵主町から元寺町に行く横断はかなり長く、和徳町から文化センターに歩いて歩道を渡っていると、右から全速力で車が通り怖い思いをする。

 

先日、弘前医師会、歯科医師会、薬剤師会からなる三師会で講演を行なったが、その時に調べたことの中に、下土手町から鍛治町に抜ける折れ曲がった道のことをしゃべった。明治2年弘前絵図では、下土手町から今の菊池薬局のところを左に曲がって鍛治町に行く道は、まっすぐに進み、すぐに右に折れ、また左に曲がる構造となっている。地図を見ても、ここはまっすぐな道であり、痕跡はないように思えたが、ストリートビューで調べてみると、実に巧妙に改修されていた。鍛治町方面から土手町に向かう方向からみるとよくわかるが、津軽三味線のライブをしている「杏」という居酒屋のところが5mほどでっぱっている。土手町から、朝日会館前の道幅が、ここから道幅が広くなっている。江戸時代の道幅は今より狭かったので、わずがであるが、ここで道は折れ曲がっていたものと推測される。

 

他の箇所、例えば、下白銀町の裁判所横の道は、車の通行もあまりないせいか、段差のように折れ曲がった道も、そのままの状態で残っている。戦災もなく、残っている古い城下町は同様な構造をしており、市役所の都市計画担当課をどこも同じような苦労していることであろう。

 

 







 

2022年11月20日日曜日

幻の弘大電気鉄道 弘前市内を走る路面電車

 


弘前中央駅から大鰐を結ぶ弘南鉄道大鰐線ができたのは昭和27年(1952)、最初は弘前電気鉄道で営業していたが、昭和45年(1970)からは弘南鉄道が営業することになった。一方、弘前と黒石を結ぶ弘南鉄道黒石線は、大正15(1926)に弘前から津軽尾上間が開業し、昭和25年(1950)に黒石までの全線が開業した。今は両線とも弘南鉄道が経営しているが、もともとも母体が違うため、始発駅の場所が異なる。

 

先日、弘前商工会議所70周年記念誌を読んでいると、JR弘前駅を中心に弘前市内のあちこちを周り、大鰐まで伸びる鉄道計画があったことを知った。この鉄道の正式名称は、弘大電気鉄道株式会社といい、当時の東京商工会議所会頭、藤田謙一、弘前商工会議所会頭、宮川忠助、弘南鉄道社長、菊池武憲はじめ、市内の経済界の重鎮がこの計画に乗り出した。昭和5年に青森県、鉄道大臣宛に要望書を提出した。

 

計画された運行経路は、まず一期工事では、弘前駅から駅前通りを進み、みちのく銀行のところを左折して、代官町を進み、土手町十文字から富田大通り、枡形を左折して富田町を進み、菊池外科のところで右折して大鰐に向か線と、代官町から土手町十文字を左折し、上土手町に進み、松森町をへて大鰐に進む線である。おそらく函館の路面電車のような鉄道を想定したのであろう。

 

一方、第二期線として計画された、もう1つの路線は、弘前駅から駅前通り、代官町を経て、中土手町(代官町角)を右に回り、一番町、上白銀町、新町を経て駒越に、そして弘前駅より和徳町、東長町、蔵主町、亀甲町、紺屋町、五十石町を経て駒越に、市内をぐるっと回る路線であった。

 

完成していれば、弘前市内のほとんどのところは、この鉄道でいけたと思うが、今の道幅で、実際に鉄道が運行できたのだろうか。昭和5年当時でいれば、車はあまり普及しておらず、荷物の運搬は馬車を利用することが多かったし、人々の運搬も乗合馬車(トテ馬車)が中心であった。それゆえ、こうした路面電車ができれば、それに変わるものとして重宝されたし、荷物を運ぶ馬車からすれば、道に線路があって、たまに路面電車が走っても、それほど大きな問題ではなかったはずである。

 

ただし、戦後の車社会となると、狭い道の真ん中にレールが引かれ、電車が通るとなると、これは不便となる。少なくとも、真ん中に鉄道が走り、その両脇には車が通る車道が必要なことから、今の道幅では全く足りない。つまりもし、この鉄道路線が引かれていたなら、路線のある道を広げる必要があり、沿線の店、住宅をセットバックする必要がある。これはなかなか大変な作業で、計画されていた第一期、第二期線もほぼ不可能なことで、多分に戦後の早い時期、昭和30年代には、この路面電車は廃止されていた可能性が強い。

 

結局、この幻の弘大電気鉄道の計画の一部が、弘前電気鉄道と三菱電機の地方電気システムに継承されて、昭和27年に大鰐—中央弘前館の大鰐線として実現された。昭和45年には弘南鉄道に譲渡されて今に至っている。

 

昔、鹿児島市電という路面電車が走っている鹿児島市に10年ほどいたことがある。いくら渋滞していても路面電車はそれほど遅れがないことから、学生、サラリーマンの利用もあったが、それでもずっと赤字路線であり、また車の運転手からすれば、これほど邪魔なものはなく、路面電車用の信号もあって、右折する場合は苦労した。ロマンとしては、函館市にような路面電車が弘前市内を走っていればと思うが、現実には実現しなくてよかったということか。

2022年11月17日木曜日

上杉荘と高橋先生




先週の土曜日に東北大学歯学部名誉教授の高橋晢教授の退官パーティーに出席してきた。コロナの関係でずいぶんと開催が延期されてきたが、何とか開催でき、関係者もほっとしたことであろう。家内と一緒に仙台に来ていたので、途中退席し、彼のサックスが聴けなかったのが残念だった。高橋先生は優秀な先生で、東北大大学歯学部第二口腔外科学講座入局後に博士号取得のために口腔細菌学講座、と言っても免疫学講座といっても良いところで学位をとり、その後、免疫の研究のためにアメリカの南カリフォルニア大学に留学し、帰国後は秋田大学医学部歯科口腔外科、その後、九州歯科大学の口腔外科学講座の教授として赴任し、東北大学歯学部の組織改革、第一、第二口腔外科の統合ということで、再び東北大学歯学部に呼び戻された。いわゆる大教授というもので、大きな権限を有する。ここで約10年間、大きな成果と業績をあげる。

 

もともと彼の親が経営していたアパート、「上杉荘」というところで、ほぼ4年間一緒に生活していた。私は、東北大学歯学部入学すると、大学案内のパンフレットに騙されて、八木山という山の上の下宿、4畳半くらいの部屋、大浴場、食堂という刑務所のようなところにいたので、学部に上がる時には、下に降りたいと考えていた。その時にサッカー部の1年後輩の高橋先生のところがアパートを経営し、家賃も安く、歯学部に行くのも近い、上杉にあったので、即、ここに決め、卒業までの4年間ここにいた。

 

上杉荘は、建物の真ん中に2つのトイレと洗濯機があり、一階には階段を挟んで、2つと3つの部屋が、二階は2つと3つの部屋があった。風呂があったのは一階の一番端のところで、ここには同級生のTくんが住んでいて、風呂は外にあったので、冬は表面に張った氷をかち割って風呂に入っていた。二階には8畳くらいの和室と畳一枚くらいの台所があって、ここに一口コンロと小さな流しと小型冷蔵庫があった。ベッドを置き、コタツを置き、テレビを置くという構成であった。私の部屋は階段を上がったすぐのところで、隣も歯学部の1年下のIくん、そしてその隣の部屋に高橋先生が住んでいた。高橋先生の部屋は、さすがに大家の息子の部屋で我々より広いし、何より当時、憧れの的であった高級オーディオがあった。JBLのスピーカから流れる音楽は気持ちよく、暇があれば、この部屋にお邪魔して、ロック、ジャズからソウルまでなんでも聞いていた。チェース、オヴィーライト、レオンラッセル、リトル・フィート、リンダリンシュタット、ソニーロリンズ、アートペッパー、懐かしい。ストーブのある彼の部屋は暖かく、冬はここでサントリーホワイトを飲んで喋っていた。


下の3つの部屋には同級生のTくんと1年下のIくんがいて、Iくんは、今は山形大学医学部の口腔外科の教授をしている。つまり建物の右半分の6部屋のほとんどに歯学部の学生が入居していて、いつもオープン状態でお互い平気で行き来していた。暇があれば誰かの部屋に行くのが当たり前の状態であった。そんなこともあって、同級生より1学年下の学生の方と接触することが多く、上杉荘以外での行動、例えば、合同コンパなどの1学年下の生徒に混じって参加していた。

 

高橋晢先生は本当に器用な先生で、これまで未経験であったが、サッカー部に入部した。通常、大学からサッカーを始めてもほぼ使い物にはならないが、彼はあっという間に上手くなったし、スキーもおそらく大学入学まではほとんどしたことはないと思うが、スキー部に入るとメキメキと上達し、競技に出場していた。何より驚いたのは、突然、サックスを始め、軽音楽部に入って演奏していた。音楽だってそんなに簡単なものではないが、すぐに上達して、軽音のコンサートやダンスパティーなどで演奏していた。普通、こうした何でもできる人は器用貧乏と呼ばれて大きな成果は上がらないのだが、教授になってからも彼の好奇心によるのか、いろんな分野の研究に手を出し、全て大きな成果を上げているのに驚いた。本当に才能があるのだろう。

 

上杉荘時代は、金もなく、部屋にはストーブがあったが灯油を買いに行くのが面倒で、寒い仙台の冬でも、部屋の中でダウンジャケットを着て、こたつと布団にもぐっていた。携帯もなかったので、公衆電話で連絡するか、直接会いに行くしか手段がなかったが、それでも常に誰かと喋っていた。上杉荘時代が私の青春で、これほど楽しかった時代はもうないだろう。今の家内と知り合ったのもこの時代で、彼女を部屋に連れてくるのは、ほとんどプライバシーのないところだけにかなり苦労した記憶がある。





 


 

2022年11月15日火曜日

ガニ股歩き









昨年、入院を気に毎日、散歩をするようにしている。散歩自体は昔から好きだったが、冬季、雪の多い時期に外に出て散歩をするのは、気が滅入り、例年、冬の時期には散歩をしていなかった。ところが昨年は、どんな天候でも絶対に散歩をすると決意し、雪で吹雪く時も、防寒着で身を包み、散歩を決行した。と言っても朝飯を食べて、家の周り、2000歩くらい、15分くらいの軽い散歩である。習慣化すれば、散歩途中で便意を催し、少し便秘気味だったのもよくなった気がする。

 

近所でも、私くらいの年齢の方が散歩しているのをよく見る。朝の散歩の折にも、よく2人くらいの方と一緒になる。ただ困ったことに二人ともかなりガニ股の歩き方で、スピードが遅い。追い越せば良さそうだが、どうも気詰まりで、違う道を迂回するようにしている。おそらく私と同様に健康のために散歩しているのだろうが、ガニ股での散歩はかえって腰や膝の負担を増やし、故障に繋がるように思えて気になる。女の人でガニ股の人は少ないが、年配の男の人は多いような気がする。ガニ股歩きはとにかく遅い。ただ若い男の人でも片方の足は正常でも、もう一方の足が外に向く人は結構いる。奥さんでもいいから誰か注意しないのだろうか。せっかく運動するなら、故障の少ない方法ですればいいと思うのだが。

 

私の父の歩く姿は、かっこよく、早く、また長距離歩けた。これは軍隊時代の賜物と思われ、「兵隊やくざ」の勝新太郎のようなガニ股歩きでは、集団歩行できない。集団歩行するためには、速さと綺麗さが必要で、必然的に正しい歩き方が求められる。ガニ股のような両足を外向けにして歩いていたのでは、皆のスピードについていけず、指導者からもちろん注意されるであろう。父親も大学を卒業して4年ほど軍隊生活をしていたので、こうした行進の癖が身についたのであろう。そういえば昭和40年代、周りの大人は全て軍隊経験者で、ヤクザ以外にガニ股で歩き人は少なかったように思える。

 

私の場合も、六甲学院で行進の訓練を6年間してきたので、歩く訓練はここで学んだと思う。毎年、秋になると体育祭が行われるが、そのメイン種目として全学年の生徒による集団行進がある。その準備のために半年くらい、2時間目の授業が終わり15分の訓練があり、また体育祭が近づくと特訓もある。流石にここで歩き方の直接の指導はないものの、周りの同級生に合わせて歩くために自然と歩きやすい、格好の良い歩き方を学ぶ。背をまっすぐに、腕を振り、顎を引いて、大きなスライドで歩き、横から見て5人が一直線になるように揃える。こうしたことを6年間してきたことから、それほどひどい歩き方はしていないと思う。それでもできれば一度、専門家から正しい歩き方を学びたいと思っている。

 

おそらく近所のガニ股で歩く同年輩の方は、これまであまり歩いてこなかった、あるいは行進など経験のない方かもしれないし、散歩と言っても、こうしたダラダラ歩きを続けるのは別の意味があるのかもしれない。個人的には、こうした歩き方をする人には、「散歩をするなら、もっとシャキッと歩け」と言いたくなり、どうも好きになれない。





 

2022年11月7日月曜日

パタゴニアR2の代用 アメリカ陸軍のフリースジャケット








パタゴニアのR2フリースジャケットが好きで、愛用している。寒くなるこの季節になると、手放せず、暖かくなる5月頃まで、ほぼ毎日使用している。現在は、10年前に買った赤のものと、5年前に買った黒のものと、2年前に買った青のもの、この3つのフリースを交代して使っている。R2は年度によりサイズが相当違うため、最初の赤のものはMサイズでベストサイズであったが、次の黒のものはMでもかなり小さく、少し窮屈である。そこで青のものはLサイズを買ったが、これはやや大きい。

 

ところが今年から通常タイプのR2が販売中止となり、毛足のないR2テックフェイスというものしか販売していない。大阪のパタゴニアの店で聞くと、R2は日本では人気はあるものの、米国では、それほど人気がなかったこと、これは個人的な意見であるが、毛足の長いフリースジャケットは洗濯の際にマイクロプラスティックの原因になるためかと思う。フリースジャケットの洗濯は、袋に入れて優しく洗濯しても、細かい繊維が抜け落ち、それが入ったまま排水となり、海水に流れ、結果的に魚に吸収され、それを人が食べることで体に蓄積されていく。環境問題にうるさいパタゴニアとしては、こうしたマイクロプラスティック問題に関与したくない結果、R2R3などの毛足の長いフリースの販売中止につながったのでないかと思う。

 

素材を提供していたポーラテック社は、他の会社にも供給しているので、R2と同様のPolartec Thermal Proを使用したフリースジャケットを探すと、アメリカ陸軍が使用しているGEN.IIIフリースジャケットにたどり着く。会社はミリタリー衣料製造のミシガン州のPeckhamというところのものであるが、基本的には新品はない。ところがデッドストックの新品が一部が、日本でも販売されていて、安いのは12800円で売っていたので、これを購入した。サイズが豊富で、Mでも長さでS,R,L3サイズあるが、今回は最も普通のMedium-Regularを注文した。

 

ビロードのような滑らかさはPolartec Thermal Proの特徴で、これはR2と変わらないし、サイドはストレッチフリースとなっていて、これも同じである。ただ軍用であるので、肩、肘部が綿の生地で補強されていて、カラーもカーキー、オリーブドラブしかない。胸のところに氏名などを貼り付けるところがあるのもミリタリーぽい。ファスナーは信頼のYKKで耐久性は高い。肝心のサイズについては、袖丈のパタゴニアよりは短く、日本人にはフィットしやすい。サイズは一番最近の青のLのフリースと同じくらいで、袖周りはゆったりしている。全体的には同じサイズであれば、パタゴニアよりはゆったりしているので、ダウンジャケットなどの下に着るのであれば、小さめの方が良さそうである。

 

ただ欠点としては、新品であるが、デッドストックものなので、独特の臭いがある。気になる人もいるかもしれない。またカラーがミリタリー色だけなので、山で着ると遭難した場合は、周囲の木々に溶け込み目立たない。あまりミリタリー物が好きでない人は、Polartek  thermal proを使ったフリースジャケットはLLビーンやマウンテンハードウエアーなどのアウトドアメイカーでも出ている。






                                            





 

2022年11月5日土曜日

インビザライン ・ファーストについて

 



インビザラインを作っているアライナー社の株の暴落は、凄まじく全米の暴落率の堂々の第一位であった(二位はネットフリックス)。一時は600ドルだった株価も今は200ドルと1/3となり、66%の資本が逃げ出した。この会社は配当金がなく、株価の高騰を見越したファンドが投資していた企業なので、これ以上の成長が見込めないとすぐに投資家は逃げ出す。

 

もともと、インビザラインは、講習会の受講資格を矯正専門医のみとしていたが、売り上げが頭打ちとなると、そうした制限を撤廃し、一般歯科医向けにも講習会を開催し、売り上げを伸ばした。“パントモ買ってハワイに行こう”ではないが、“i-tero買って、自費収入伸ばそう”キャンペーンをはり、訳のわからない歯科経営セミナーもこうした風潮を後押しした。

 

ところがここ数年、受講資格を一般歯科医まで広げたことから、うまく治らない、転医したいという患者が増加し、こうしたインビザラインの問題点も浮き彫りにされてきた。さらにインビザラインは技工料の相当する製作費は20-30万円かかるため、患者の料金もいきおい80-90万円と高額となり、値段で言えば、通常の唇側のワイヤー矯正よりは高く、舌側矯正より少し安いくらいとなった。そうなると成人患者として仕上げに厳しくなり、凸凹が治っても、口元の突出感が治らなければクレームとなり、小臼歯を抜歯しても、直してほしいということになる。歯科医は、“私のポリシーとして、健康な歯は抜かない”などと言って、それ以上の診療を拒否する。そして矯正歯科医に泣きつくが、当然、こちらも抜歯してワイヤー矯正するので、料金は新患扱いとなる。

 

2、3年前からアライナー社はインビザラインの販路を広げるために混合歯列期の小児を対象としたインビザライン・ファーストという商品を売り出した。これは専門家からすると通常の成人用のインビザラインより、より悪質なもので、決してオススメしない。まず適用はというと、上顎切歯部のでこぼこと反対咬合が挙げられる。まず上顎切歯のでこぼこについては、あまりひどい場合は、上顎乳犬歯を抜歯して上顎第二乳臼歯にチューブをつけ、4切歯にブラケットをつける2×4という方法がある。4、5ヶ月間で整列し、リンガルアーチで保定する。ただ永久歯完成後に全ての歯にブラケットを装着する本格矯正が必ず必要となる。これだけで終わる症例は数少ない。また反対咬合の場合も、このシステムにIII級顎間ゴムを使ってほとんどの症例で2ヶ月以内に被蓋の改善を得られる。その後、私の場合はリンガルアーチタイプの上顎骨前方牽引装置に移行する。これをインビザライン・ファーストで治療するとなると、少なくともいずれも6ヶ月以上はかかると思われるし、子供が一日20時間以上使うのも難しい。おそらくかなり脱落者が出よう。ワイヤー矯正の場合はそうしたことはない。またインビザラインで治療する場合は技工料が高額なので、こうした早期治療費も勢い高くなり、40万円くらいするところが多い。ワイヤー矯正であれば、材料費は数千円で、矯正歯科医でこのインビザライン・ファーストを使うところはほとんどないと思う。

 

結局、インビザライン・ファーストを使う歯科医は、ほぼ一般歯科医に限られ、それもワイヤー矯正ができない、そうした時間がないという理由から患者にこの治療法を勧める。もちろん、将来的に小臼歯の抜歯と仕上げが必要な症例などには対処できない。まるまるこの40万円が捨て金になる確率は成人より高い。前歯にブラケットをつけてワイヤーを入れるだけの簡単な処置、通常20分くらいでできる矯正技術を学ぼうとせず、全てインビザラインで治療しようとする。もちろん、セファロ分析や小児の顎骨の成長発育などの矯正治療の基本も学ぼうとしないであろう。要は楽して儲けたいといった姿勢の現れであり、患者さんのことを考えれば、信頼できる矯正歯科医に紹介するか、安い費用で矯正治療をすべきである。

2022年11月3日木曜日

不思議な鉄製電柱

 













昭和20年から30年代の弘前の街を写した写真には、鉄製梯子型の電信柱が目につく。戦前の写真では木製の電信柱が主流で、こうした鉄製のものはあまり見ない。戦時中、家庭にある金属製のものは供出されたぐらいであるので、こうした鉄製の電信柱があれば、真っ先になくなっていたはずだが。

 

弘前でこうした鉄製梯子型の電信柱が認められるのは、一番町とそれに続く親方町、元寺町、百石町そして和徳町の旧久一鳴海呉服店付近、大町である。変圧器が二台、その上に拡声器のようなものも見られるものもあるし、横には商店名が書かれた看板があるものもある。4つの面を持つ鉄製の柱で、階段のように自由に登って行けたのであろう。

 

1つの可能性としては、従来の木製の電柱では、重量のある変圧器を載せることができず、コンクリート製の電柱ができるまでの過渡期的なものなのかもしれない。木製の電柱では、重い変圧器を上の載せるとなると二本の木製電柱の間に鉄の板を置くか、一本の木に結わえ、もう一本の木で抑える構造となっていた。

 

日本最初のコンクリート製の電柱は函館にあり、1923年の建てられた四角柱型であった。尼崎市でも子供の頃、昭和30年代ではほとんどの電柱は木製であったが、昭和40年頃から次々とコンクリート製に変わっていった記憶がある。家庭の電力需給の増大とともに、送電線が大規模となり、木製に変わりコンクリート製が普及していったのであろうか。

 

現在でも、大型の高圧専用の電柱は、鉄製のタワー型となっていて、そこから中型のコンクリート電柱、そして近所の道に並ぶ小型コンクリート電柱となっているが、昭和2030年頃の弘前の写真を見ると、一時期、こうした中型の電柱が鉄製の四角柱型であったのだろう。

 

電気関係のことはよく知らないが、今でも高圧線は高い鉄塔となり、それが一次、二次変電所などで電圧を下げ、配電用変電所から電柱で家庭に送電されるが、こうした過程で家庭に送電される前に、もう1つの過程があり、そこで小型の鉄製電柱が使われていたのかもしれない。実際に通常の木製とこの鉄製の電柱が並存している写真も見られる。

 

さらに調べていくと、こうした鉄製の電柱は、工藤正一さんの写真集を見ると青森市内にあったようだし、また昭和10年頃の写真にも見つかった。ある程度、家庭や商店への電気普及が増大した昭和10年頃から繁華街を中心に、大量の電力供給のために、こうした鉄製の電柱ができ、昭和30年頃からは木製の電柱とともに、こうした鉄製の電柱も、次第にコンクリート製のものに置き換わっていったのだと推測される。

 

いたずらっ子にとっても、格好の遊び道具であったろう。