2022年11月20日日曜日

幻の弘大電気鉄道 弘前市内を走る路面電車

 


弘前中央駅から大鰐を結ぶ弘南鉄道大鰐線ができたのは昭和27年(1952)、最初は弘前電気鉄道で営業していたが、昭和45年(1970)からは弘南鉄道が営業することになった。一方、弘前と黒石を結ぶ弘南鉄道黒石線は、大正15(1926)に弘前から津軽尾上間が開業し、昭和25年(1950)に黒石までの全線が開業した。今は両線とも弘南鉄道が経営しているが、もともとも母体が違うため、始発駅の場所が異なる。

 

先日、弘前商工会議所70周年記念誌を読んでいると、JR弘前駅を中心に弘前市内のあちこちを周り、大鰐まで伸びる鉄道計画があったことを知った。この鉄道の正式名称は、弘大電気鉄道株式会社といい、当時の東京商工会議所会頭、藤田謙一、弘前商工会議所会頭、宮川忠助、弘南鉄道社長、菊池武憲はじめ、市内の経済界の重鎮がこの計画に乗り出した。昭和5年に青森県、鉄道大臣宛に要望書を提出した。

 

計画された運行経路は、まず一期工事では、弘前駅から駅前通りを進み、みちのく銀行のところを左折して、代官町を進み、土手町十文字から富田大通り、枡形を左折して富田町を進み、菊池外科のところで右折して大鰐に向か線と、代官町から土手町十文字を左折し、上土手町に進み、松森町をへて大鰐に進む線である。おそらく函館の路面電車のような鉄道を想定したのであろう。

 

一方、第二期線として計画された、もう1つの路線は、弘前駅から駅前通り、代官町を経て、中土手町(代官町角)を右に回り、一番町、上白銀町、新町を経て駒越に、そして弘前駅より和徳町、東長町、蔵主町、亀甲町、紺屋町、五十石町を経て駒越に、市内をぐるっと回る路線であった。

 

完成していれば、弘前市内のほとんどのところは、この鉄道でいけたと思うが、今の道幅で、実際に鉄道が運行できたのだろうか。昭和5年当時でいれば、車はあまり普及しておらず、荷物の運搬は馬車を利用することが多かったし、人々の運搬も乗合馬車(トテ馬車)が中心であった。それゆえ、こうした路面電車ができれば、それに変わるものとして重宝されたし、荷物を運ぶ馬車からすれば、道に線路があって、たまに路面電車が走っても、それほど大きな問題ではなかったはずである。

 

ただし、戦後の車社会となると、狭い道の真ん中にレールが引かれ、電車が通るとなると、これは不便となる。少なくとも、真ん中に鉄道が走り、その両脇には車が通る車道が必要なことから、今の道幅では全く足りない。つまりもし、この鉄道路線が引かれていたなら、路線のある道を広げる必要があり、沿線の店、住宅をセットバックする必要がある。これはなかなか大変な作業で、計画されていた第一期、第二期線もほぼ不可能なことで、多分に戦後の早い時期、昭和30年代には、この路面電車は廃止されていた可能性が強い。

 

結局、この幻の弘大電気鉄道の計画の一部が、弘前電気鉄道と三菱電機の地方電気システムに継承されて、昭和27年に大鰐—中央弘前館の大鰐線として実現された。昭和45年には弘南鉄道に譲渡されて今に至っている。

 

昔、鹿児島市電という路面電車が走っている鹿児島市に10年ほどいたことがある。いくら渋滞していても路面電車はそれほど遅れがないことから、学生、サラリーマンの利用もあったが、それでもずっと赤字路線であり、また車の運転手からすれば、これほど邪魔なものはなく、路面電車用の信号もあって、右折する場合は苦労した。ロマンとしては、函館市にような路面電車が弘前市内を走っていればと思うが、現実には実現しなくてよかったということか。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

とても興味深いお話ですね。この他にも弘前から目屋を通り岩崎方面に行くという幻の目屋鉄道の計画があったようです。

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントありがとうございます。目屋鉄道については、知りませんでした。この大鰐までの路線も、終点の大鰐駅からさらに十和田湖まで行く
バス路線も計画されていたようです。観光目的の路線でもあったようです。

匿名 さんのコメント...

壮大な計画ですね。もし、実現していたら現在変わっていたかもですね。