2022年11月17日木曜日

上杉荘と高橋先生




先週の土曜日に東北大学歯学部名誉教授の高橋晢教授の退官パーティーに出席してきた。コロナの関係でずいぶんと開催が延期されてきたが、何とか開催でき、関係者もほっとしたことであろう。家内と一緒に仙台に来ていたので、途中退席し、彼のサックスが聴けなかったのが残念だった。高橋先生は優秀な先生で、東北大大学歯学部第二口腔外科学講座入局後に博士号取得のために口腔細菌学講座、と言っても免疫学講座といっても良いところで学位をとり、その後、免疫の研究のためにアメリカの南カリフォルニア大学に留学し、帰国後は秋田大学医学部歯科口腔外科、その後、九州歯科大学の口腔外科学講座の教授として赴任し、東北大学歯学部の組織改革、第一、第二口腔外科の統合ということで、再び東北大学歯学部に呼び戻された。いわゆる大教授というもので、大きな権限を有する。ここで約10年間、大きな成果と業績をあげる。

 

もともと彼の親が経営していたアパート、「上杉荘」というところで、ほぼ4年間一緒に生活していた。私は、東北大学歯学部入学すると、大学案内のパンフレットに騙されて、八木山という山の上の下宿、4畳半くらいの部屋、大浴場、食堂という刑務所のようなところにいたので、学部に上がる時には、下に降りたいと考えていた。その時にサッカー部の1年後輩の高橋先生のところがアパートを経営し、家賃も安く、歯学部に行くのも近い、上杉にあったので、即、ここに決め、卒業までの4年間ここにいた。

 

上杉荘は、建物の真ん中に2つのトイレと洗濯機があり、一階には階段を挟んで、2つと3つの部屋が、二階は2つと3つの部屋があった。風呂があったのは一階の一番端のところで、ここには同級生のTくんが住んでいて、風呂は外にあったので、冬は表面に張った氷をかち割って風呂に入っていた。二階には8畳くらいの和室と畳一枚くらいの台所があって、ここに一口コンロと小さな流しと小型冷蔵庫があった。ベッドを置き、コタツを置き、テレビを置くという構成であった。私の部屋は階段を上がったすぐのところで、隣も歯学部の1年下のIくん、そしてその隣の部屋に高橋先生が住んでいた。高橋先生の部屋は、さすがに大家の息子の部屋で我々より広いし、何より当時、憧れの的であった高級オーディオがあった。JBLのスピーカから流れる音楽は気持ちよく、暇があれば、この部屋にお邪魔して、ロック、ジャズからソウルまでなんでも聞いていた。チェース、オヴィーライト、レオンラッセル、リトル・フィート、リンダリンシュタット、ソニーロリンズ、アートペッパー、懐かしい。ストーブのある彼の部屋は暖かく、冬はここでサントリーホワイトを飲んで喋っていた。


下の3つの部屋には同級生のTくんと1年下のIくんがいて、Iくんは、今は山形大学医学部の口腔外科の教授をしている。つまり建物の右半分の6部屋のほとんどに歯学部の学生が入居していて、いつもオープン状態でお互い平気で行き来していた。暇があれば誰かの部屋に行くのが当たり前の状態であった。そんなこともあって、同級生より1学年下の学生の方と接触することが多く、上杉荘以外での行動、例えば、合同コンパなどの1学年下の生徒に混じって参加していた。

 

高橋晢先生は本当に器用な先生で、これまで未経験であったが、サッカー部に入部した。通常、大学からサッカーを始めてもほぼ使い物にはならないが、彼はあっという間に上手くなったし、スキーもおそらく大学入学まではほとんどしたことはないと思うが、スキー部に入るとメキメキと上達し、競技に出場していた。何より驚いたのは、突然、サックスを始め、軽音楽部に入って演奏していた。音楽だってそんなに簡単なものではないが、すぐに上達して、軽音のコンサートやダンスパティーなどで演奏していた。普通、こうした何でもできる人は器用貧乏と呼ばれて大きな成果は上がらないのだが、教授になってからも彼の好奇心によるのか、いろんな分野の研究に手を出し、全て大きな成果を上げているのに驚いた。本当に才能があるのだろう。

 

上杉荘時代は、金もなく、部屋にはストーブがあったが灯油を買いに行くのが面倒で、寒い仙台の冬でも、部屋の中でダウンジャケットを着て、こたつと布団にもぐっていた。携帯もなかったので、公衆電話で連絡するか、直接会いに行くしか手段がなかったが、それでも常に誰かと喋っていた。上杉荘時代が私の青春で、これほど楽しかった時代はもうないだろう。今の家内と知り合ったのもこの時代で、彼女を部屋に連れてくるのは、ほとんどプライバシーのないところだけにかなり苦労した記憶がある。





 


 

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