2022年11月23日水曜日

弘前市 道の突き当たり、折れ曲り






弘前市は、弘前城を中心に作られた町なので、旧市内は、作られた頃の江戸時代の様相を色濃く残す。城を中心として、北東の鬼門には八幡神社を作り、南西の裏鬼門には寺町を作る。さらに北斗七星の構図に沿って寺、神社を配置するなどがそうである。また道に関しても、郊外から市中に入る道を制限し、その入り口には桝形と呼ばれる、侵入してきた敵兵を取り囲む空き地を作った。文京小学校近くの富田の枡形が有名であるが、紺屋町あるいは和徳町にもこうした枡形が存在した。さらに敵の侵入を迷わされるために、できるだけまっすぐに城内に入られないように、ジグザクの道を作った。まっすぐに進むと、道は突き当たり、右か左に回ってまたまっすぐに行くような構造である。こうした構造が市中のいたるところにあり、有名なのは「一番町の突き当たり」である。下土手町、一番町を弘前城方向に進むと、突き当たり、そこの弘前警察署と弘前市役所があった。お城に行くには、そこを左に10mくらい曲がり、また右に曲がって、上白銀町に向かう。車がそれほど多くない時代では、こうした突き当たりがあっても、それほど不便と考えられなかったが、車の往来が多くなり、繁華街では、こうした道はかなり不便となる。そうしたことから警察署、市役所の老朽化のために、取り壊され、この土地に一番町からの道をまっすぐにする都市計画で昭和33年に桜大通りができた。そのため、旧五十九銀行(青森銀行)前の旧道と並行する形となり、裁判所近くの旧道の侵入箇所はおかしな形態となっている。

 

他にこうした折れ曲がった道を見てみると、十数か所あるが、多くの道は車の通行量が多くないのか、そのままとなっている。一方、弘前文化センター裏の道は、明治2年弘前絵図を見ると和徳大通りからまっすぐ進むと、制札があり、ここを右に折れて、また左に折れてまっすぐに進む。現在、この場所は出来るだけ、まっすぐになるように道が改修されているが、それでも蔵主町から元寺町に行く横断はかなり長く、和徳町から文化センターに歩いて歩道を渡っていると、右から全速力で車が通り怖い思いをする。

 

先日、弘前医師会、歯科医師会、薬剤師会からなる三師会で講演を行なったが、その時に調べたことの中に、下土手町から鍛治町に抜ける折れ曲がった道のことをしゃべった。明治2年弘前絵図では、下土手町から今の菊池薬局のところを左に曲がって鍛治町に行く道は、まっすぐに進み、すぐに右に折れ、また左に曲がる構造となっている。地図を見ても、ここはまっすぐな道であり、痕跡はないように思えたが、ストリートビューで調べてみると、実に巧妙に改修されていた。鍛治町方面から土手町に向かう方向からみるとよくわかるが、津軽三味線のライブをしている「杏」という居酒屋のところが5mほどでっぱっている。土手町から、朝日会館前の道幅が、ここから道幅が広くなっている。江戸時代の道幅は今より狭かったので、わずがであるが、ここで道は折れ曲がっていたものと推測される。

 

他の箇所、例えば、下白銀町の裁判所横の道は、車の通行もあまりないせいか、段差のように折れ曲がった道も、そのままの状態で残っている。戦災もなく、残っている古い城下町は同様な構造をしており、市役所の都市計画担当課をどこも同じような苦労していることであろう。

 

 







 

5 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

枡形と言えば、茂森町の中村菓子店を曲がった所にもありますね。長勝寺構えの入り口でもあり、枡形にしたのでしょうね。

広瀬寿秀 さんのコメント...

コメントありがとうございます。枡形では、折れ曲がった道の間に敵を閉じ込める空間がありますので、厳密に言えば、富田、紺屋町、和徳の3箇所が枡形で、明治2年弘前絵図でもそうした記載となっています。ただ茂森の禅林街入り口もこれに準じたところだったのでしょう。ここも車の通行には邪魔ですが、墓参り以外はそれほど混んでないので、このような構造のままにしているでしょう。

匿名 さんのコメント...

茂森町の枡形付近には土塁が残されていて、昔は土塁の下には水堀があったと父から聞かされていました。古堀町とか古堀新割町と言われていたそうです。

広瀬寿秀 さんのコメント...

明治2年弘前絵図を見ますと、土塁の西側は「堀跡」と記載されていて、天満宮のところには池の絵が描かれています。町名としては、片堀町となっています。

匿名 さんのコメント...

そうでしたか。考えてみると、堀などを住宅地にせずにそのまま残しておけば歴史的景観が現在よりもよかったかもしれませんね。話は逸れますが土塁の近くにある加藤酒店では珍しい角打ちをやっていて日本酒好きの私は時々飲みに行ってます。(^_^)