2012年3月26日月曜日

本多庸一 4



 今年は、本多庸一(1849-1912.3.26)の没後百周年に当たります。そしてちょうど今日が、100年目の命日となります。

 院長を務めた青山学院では、5月に本多庸一先生昇天100周年記念事業が行われ、礼拝、シンポジウム、感謝祭、気賀健生著「本多庸一」の改訂版を出す予定です(青山学院資料センターだより)。弘前でも弘前教会、弘前学院で記念事業が行われるようですが、東奥義塾では特に記念事業はないようです。

 本多庸一の墓は、ふたつあり、ひとつは東京の多磨霊園にあります。もともとは東京青山墓地にありましたが、昭和7年に多摩霊園に移されました。詳細については「津軽と江戸」http://kasatetu.exblog.jp/10749883/のブログに書かれています。もうひとつの墓は、故郷の弘前市、本多家先祖代々の菩提寺、新寺町本行寺にあるようです。小さなもので「本多庸一久亨墓」といかにも武士らしい名が刻まれています。明治19年、本多の妻みよ子が急死した際、本多家の菩提寺の本行寺に会葬者とともに葬列が到着しましたが、宗派の違いのため寺門は閉じられたままとなりました。何とか交渉して脇の通用門から通ることが許され、埋葬できたようです。後に本行寺の高僧と本多は親交を結ぶことになったようで、本多自身の会葬はこういった問題もなかったと思われます(津軽を拓いた人々より、相澤文蔵著)。この本行寺の本多の墓については確認していませんが、こういった小さな墓は来訪者がいないと整理されてしまいますので、探しにいくともうなかったということも度々あります。

 本多の生誕地にも、この没後100周年を記念して説明板が建てられるようですが、場所は確実に特定でき、今の弘前大学医学部正門前のアパートのところです。門は在府町に面しているので、できればそちらに建てた方がよいでしょう。明治3年。本多家は藤崎に移住し、藤崎町の庄屋清水理兵衞宅に住んだと藤崎学エコミュージアムに記載されていますが、明治4年士族引越際の地図を見ると隣の中田彦五郎には△印がありますが、本多八郎左衞門(本多庸一父)のところには△印はなく、明治3年には本宅を残したまま移住した可能性があります。
(http://www.fujisakimachi.jp/apple-history/150-2011-03-28-06-49-04)

 ついでにいうと、本多東作久貞と西舘俊子(西舘孤清伯母)の間に男子がいなかったため、分家の本多忠左衞門の息子を長女とも子の養子にして、本多家10代本多東作久元となりました。この久元が、本多八郎左衞門で、本多庸一の父親となります。それ故、本多庸一の武士として、本多家11代としての正式な呼び名は、本多庸一久亨(久の字を代々つける)となります。なお分家の本多忠左衞門の長男は、長坂町の本田軍蔵(本多の間違いか)と思われます。故郷の菩提寺には先祖代々の名前を刻んだのは、本多の士族としての誇りによるものかもしれません。

 本多庸一は、最初東長町の清藤という漢方医の家で伝道所を開きましたが、場所は特定できません。その後、明治10年に今の弘前教会のある所に住まいと伝道所を移しました。櫻庭家の邸宅を購入したとなっていますが、明治2年絵図では、斉藤掃部の屋敷となっています。明治4年の地図では、それぞれ元は斉藤良助、今は町家となっており、ここが櫻庭家だったのでしょう。さらにおもしろいのは、今の教会の隣の喫茶店あたりは浴室となっていますし、道を挟んだ高屋恒之進宅は明治四年より劇場となっています。おそらく福士幸次郎の父親が働いていた柾木座のことでしょう。

 本当に弘前博物館にお願いします。何とか明治四年士族在籍引越際之地図並官社学商現在図、なんとかデジタル化してください。館内に収蔵しても、何ら役には立たず、公開して初めて市民に活用できます。費用も明治二年弘前絵図でデジタル化した程度でしたら、数万円でできます。明治二年と四年の地図、両方を公開することで、比較ができますし、資料の保存の観点からも重要です。ちなみに今回は弘前市史に入っている付録資料の明治四年士族在籍引越之際地図を図書館で拡大コピーしたものを使用していますが、ほとんど判読できないものです。明治二年絵図を参照に何とか読めますが、一部の研究者のみに原本を見せて、写真撮影をさせるやり方はどうもあまりよいやり方ではないように思えます。

2012年3月25日日曜日

保定について



 最近は、弘前の郷土史関係のことばかり書いているので、おまえは矯正歯科医かと叱られそうなので、矯正治療に関することも話してみたいと思います。

 矯正治療で、古くから、そして現在も解消されていない問題のひとつに、“後戻り”があります。矯正治療できれいな歯並びを作ったとしても、元に戻ろうとすることで、でこぼこな歯をまっすぐに並べても、再びでこぼこになったりすることです。患者さんにとっては、せっかく長期間の治療に耐えて、きれいな歯並びを得たのに、これが後戻りしたのではいやでしょう。

 “後戻り”は、基本的には元の状態に戻ることですので、かみ合せの逆の反対咬合では、かみ合わせが逆に、上の前歯が飛び出ている上顎前突では、出っ歯に、でこぼこしている叢生では、でこぼこに、前歯が開いている開咬では、再び隙間があくという風になります。

 この後戻りを防ぐのが、保定装置と呼ばれるものです。種類は、大きく分けて、ワイヤーで固定した固定式装置と、取り外しのきく可撤式装置に分かれます。矯正装置を外した後、できるだけ早くこの保定装置を入れなくてはいけません。当院では撤去の翌日に保定装置を装着するようにしています。大学では午前中に撤去し、その日の午後に保定装置を入れていましたが、さすがに開業してからは、このようなことはできません。いずれにしても出来るだけ早く保定装置を入れる必要があります。特に撤去後の最初の1週間、1か月は非常に戻りやすく、この期間に保定装置を使ってもらえないとあっという間に後戻りします。一旦戻って歯並びをもう一度きれいにするには、矯正装置をつけなくてはいけませんので、患者さんにとってもこちらにとってもいやなことです。

 可撤式保定装置の場合、だいたい2年間使用してもらい、その後は、2,3日に一回、1週間に一回、2,3週に一回と使う間隔を開け、様子をみてから保定装置を撤去することにしています。ただ下の前歯のでこぼこについては、その後もでこぼこになることがあります。これは晩期の後戻りというもので、下あごの成長、咬む力、親知らず?によるものとされています。ミシガン大学の有名な研究で、成人男女の40年後のセファロ写真を比較した研究があります。驚くことに上下のあごの位置は変化しています。これは成長ではなく、筋肉、皮膚組織の加齢に伴う変化にあごが対応したことによります。さらに歯周疾患により歯を支える骨が吸収していくと、加速されていきます。私も若いことは下の前歯もきれいに並んでいましたが、今はでこぼこしています。これを後戻りと呼んでいいのか、難しいのですが、これを防ぐとなると保定装置を一生使い続けなくてはいけません。

 うちにも保定後10年以上たつ患者さんが、ようやくぼちぼち来るようになってきました。多くは、下の前歯のでこぼこが気になって来られます。保定装置を使っておらず、電話が来た時にはかなり動揺しますが、実際見てみるとわずかなでこぼこでほっとするというのがほとんどです。希望がありましたら再治療します。

 最近の保定装置の種類は、日米とも大体似たような傾向になっています。アメリカでは上顎では、ホーレータイプ(ラップアラウンド含む)が53.6%、バキュームフォームタイプが47.5%、固定式が13.0%、下顎ではホーレータイプが32.6%、バキュームタイプが32.7%、固定式が48.0%となっています(重複含む AJO 140(4)520-526,2011)。日本での同様な調査では、ラップアラウンド56.6%、ホーレータイプ18.5%。バキュームフォームが42.6%、固定式が25.9%、下顎ではラップアラウンド18.5%、ホーレー20.3%、バキューム33.3%、固定式40.7%となっています(日臨矯歯誌 23(1)2011.3−11)。

 日米ともマウスピースのようなバキュームフォームタイプが次第に多くなってきています。ちなみに私のところでは、ホーレータイプ(ラップアラウンド含む)とバキュームフォーム(Essix)の比率は、大体1:3くらいで、患者さんにとっては目立たないこと、こちらにとっては製作が容易なため、今後とも普及していくでしょう。

2012年3月21日水曜日

須藤かく 11



横浜共立学園の資料室より「横浜共立学園の140年 1871-2011」という立派な本をいただいた。米国婦人一致外国伝道協会(WUMS The Woman’s Union Missionary Society of American for Heathen Lands)が母体となって作られた学校であるのをはじめて知った。明治5年(1872)10月に横浜山手212番地に学校用地を確保し、そこに「日本婦女英学校」(English School for Japanese Ladies)を建てた。1875年には校名を「共立女学校」と改名し、聖書、音楽、英語、国語、数学、科学など多くを英語で教えた。生徒数は通学生30名、寄宿生(教職員を含む)52名を数えたとある。初代校長は、ルイーズ・H・ピアソン(1871-1899)で「われもし死ぬべくば死ぬべし」と記されており、すさまじい覚悟である。同書には医療伝道に来た医師としてA・D・H・ケルシー女史の名があるが、詳しい説明はなく、ケルシーの医療伝道報告の写真が載っている。HPでも1888年のWUMSの年次報告書が見られるので、その一部を紹介する(google USAで「A.D.H.Kelsey」で検索すると出てきます)。

JAPAN-YOKOHAMA.
Miss]. N. Crosby, Superintendent.
Mrs. L. Pierson, Missionary teacher and Evangelist.
" A. Viele, Superintendent of Children'S Home. Miss A. " Missionary teacher.
Mrs. Sharland, V oluntary" "
Dr. A. D. H. Kelsey, " Physician.
6 native teachers, 6 native medical assistants.
とあり、宣教師は21名、134名の生徒、200名の日曜学校の生徒となっている。

さらにケルシー医師の活動として
Summary of work done by Dr. A. D. H. Kelsey, in the MEDICAL DEPARTME);T
at Yokohama from December 1st, 1887, to. December 1st, 1888: Patients treated, 1,456-surgical, 55; medical, 765; eye, 207; ear, 53; unclassified, 376. Number of electrical treatments, 5,583; visits made, 961; Gospels, tracts and Scripture cards distributed, 3,000; translated one little book into Japanese. Some Evangelistic work in the country during vacations.
となっており、かなりの数の診療を行っていたことがわかる。

1931年8月20日のFairport Herald Mailにケルシー医師の死亡を伝える記事が載っている。
「フロリダのクラウドで日曜日(注:8月18日)にケルシー医師が亡くなったというニュースを受けた。87歳であった。ケルシー医師は古くから住む多くの住民や読者には有名で、過去数年ここでかなりの期間を過ごした。多くのひとは彼女が二人の日本人をここに連れてきたを覚えているだろう。ケルシー医師はジョセフ H・ケルシーの末の娘で,ひとりの姉はMcGregor山のMrs.O.P.Clarkのところに行っており、そこには多くの姪や甥がいる。埋葬は彼女の実家のあるオネイダ州Westvaleで行われた。」

同じくFairport Herald Mailの1926年8月5日のローカルニュースとして
「ケルシー医師と須藤医師はニューヨーク州Westdateに7月8日に到着した。フロリダ、SanfordからAlbanyまで川を北上してきた。来月も同じルートで行く予定になっている」
寒い時期、暖かいフロリダで過ごしたのであろう。こんなことまでニュースになるくらいであるので、1931年号で言っているように、有名人だったのであろう。ケルシー医師の写真を探したが、載っていない。Steve Trimmの講演で写真が出ていたが、きれいなひとである。

2012年3月20日火曜日

須藤かく 10


阿部はなについて調べている。どこの誰だか全くわからず、結婚すれば名前も変わるため、探すのは難しい。横浜共立女学校を1886年に卒業し、Dr. Kelsey、須藤かくと一緒に1891年に渡米し、オハイオ州シンシナティーのLaura Memorial Collegeを1896年に卒業し、1898年に横浜の根岸病院で勤務し、その後1902年にアメリカに戻った、ここまではわかった。

明治初期、弘前キリスト教会の会費の中から学費の出費があったようで、須藤かくだけでなく、その他の女子も横浜共立女学校に行った可能性がある。阿部という名前から、弘前出身の青山学院第六代院長の阿部義宗(1886-1980)の親類かとも考え、阿部義宗の家系を調べた。阿部義宗は阿部宗定とコトの息子で、母親のコトは本多東作久元(1823-1896)の娘で、本多庸一(1848-1912)の異母兄弟になる。つまり本多庸一は阿部義宗の叔父さんにあたる。

阿部はなの誕生日はわからないが、横浜共立女学校を1886年に卒業したとなると、入学は1879年ころで、15,6歳ころに入学すれば、生まれは1863 、4年ころとなる。そうなると阿部義宗とは20歳以上違い、兄弟ではない。大体弘前出身かもわからず、阿部義宗とは関係ないであろう。

 New York Genealogy Trails というHpに1804-1929年のニューヨーク州の内科医のリストが載っている。その中に、Abe Hanaの名がある。
(http://genealogytrails.com/ny/deceaseddoctors.html)。

Abe, Hana
Died: Feb 15, 1911 in: Westdale, NY
Type of practice: Allopath
Journal of the American Medical Asociation citation: 56:1127

 Westdaleは、Dr. KelseyのいたCamdenの隣町で、この人物が阿部はなであることは、ほぼ間違いない。Allopathとは聞いたことがない言葉だが、逆症治療医という意味のようだ。対処療法のひとつで当時のアメリカではポピュラーの治療法だったのであろう。

 つまり阿部はなは、1911年の2月15日に47、48歳で亡くなったことになる。最後までDr. Kelsey、須藤かくと一緒のニューヨーク州のCamdenで暮らしていたのであろう。今の感覚からすれば、若くして亡くなったと言えるが、十分に充実した人生であったと信じたい。

2012年3月19日月曜日

須藤かく 9



 横浜共立学園の資料室の方から、1879年当時の共立女学校の写真を送っていただいたので載せる。後ろの玄関に座る宣教師はクロスビーとピアソンで、Woman’s Union Missionary Society(WUMS)のメンバーである。

 WUMSは正確にはThe Woman’s Union Missionary Society of America for Health Landsといい、この団体の1887年度第26回の年次報告書がインターネット上で見られる(U nz'ofz Missionary So~iety)。P19にMrs, Viele がピアソンらの日本での活動を紹介している他、Kelsey 医師が日本での医療活動について述べている。「こちらにきてから267症例の治療を行ってきました。多くの疾患は重度で、やっかいな慢性疾患でしたが、てんかんも含めて症状の改善ができました。またガンの手術にも成功しました。私はただ単に神の道具であると感じています。ここに来て、多くの命を助けることができたことを感謝します。ここでの仕事は大変うれしく感じますし、日本の内科医より彼らの両親の治療の相談に招かれたこともあります。ここで行った伝道事業は今後50年に日本でなされるであろうどんな事業にもひけをとらないでしょう。もし私と一緒に歩けば、日本の倫理的な堕落を見ることができるでしょう。ここでは高い倫理性が必要であり、それはキリストの教えなしでは無理だということを理解できるでしょう。この学校が日本で行ってきた善行は、広く、遠くまで知られているようですが、私は昨日初めて知りました。私のようなよそ者でも一見しただけで、その素晴らしさははっきりしています。卒業生の幾人かは今医学を学ばせようと準備しているところです。」この報告書からは少なくともKelsey医師は1887年には共立女学校の卒業生をアメリカに行かせて医者にさせようとしていたことがわかる。須藤、阿部らもこの候補者に入っていたのであろう。実際に渡米したのは1891年なので、この4年後になる。

 写真に戻ろう。この写真に須藤かくと安倍はなが写っているとすれば、確実に左の女性が須藤で、右端の女性が安倍ということになる。ただ、こういった確証はなく、安倍はなの1897年のシカゴトレビューン新聞での証言によれば、安倍はなの在学時の学生は70名いたといっていることから、この写真はその一部の学生を撮影したものとも考えられ、必ずしも須藤と安倍が写っている訳ではない。とにかく須藤かくと安倍はなの肖像はこのシカゴトレビューン紙の挿絵しかないので、これと比較してみよう。写真は1879年、須藤かくは18歳、挿絵は1897年で、須藤は36歳、18年の開きがある。目元、口元はよく似ているが、下顔面が違う。写真では比較的がっちりした骨格ではあるが、挿絵ほど四角張った顔ではない。安倍はなについては、顔の輪郭は挿絵と非常に近いし、口元も似ている。1879年というと安倍はなが共立女学校に入学したかどうかという時期である。二宮わかは3年生、稲垣ぎん、吉田まちは2年生、渡辺かね、木脇そのは4年生というところか。岡見京子はすでに1878年に修了している。おそらく安倍はなは当時15、6 歳で、これは寄宿舎の給費生の写真であろうか。どなたかお知りの方はお教えいただきたい。

 当時の着物姿をみると、今の着物より襟元を開け、襦袢をまるでブラウスのように出している。さらに襦袢もきっちり着るのではなく、首もとをみても、ゆったりと着ているようである。何人かの学生の襦袢は、色付きの、花模様が入ったもので、当時の若い女の子達のおしゃれを感じさせる。

2012年3月17日土曜日

須藤かく 8






































 私にとってブログは、その日にあったこと、考えたことを日々書き付ける手段で、いわばメモ代わりに使っている。そのため、時系列的にみると、とんでもないことを書いていて、間違いも多いが、敢えて訂正は行っていない。須藤かくについても、ここ2週間ほどで急速に情報が集積したため、本来なら集めた情報を整理して呈示すべきであるが、情報に接した瞬間にブログに載せるようにしているため、読者にも混乱を招くこともあろうがお許し願いたい。

 その後、横浜プロテスタン史研究会の方に須藤かくについて問い合わせたところ、お忙しいにも関わらず、昨日、わざわざご返答いただき、さらに横浜共立学園資料室までお問い合わせていただいた。この場をお借りして感謝する。

 須藤かくは、横浜女学校の卒業制度施行前の修了生で、当時の主な在校生として、二宮わか 1876-1881(修了)、稲垣ぎん、吉田まち 1877-81在学、岡見京子 1878(修了),渡辺かね 1882(卒業), 木脇その 1882(卒業),阿部はな 1886(卒業)がいた。終了まで7年かかると思っていたが、卒業制度前は5年ということか。そうすると須藤かくが共立女学校にいたのは明治9年から14年ころとなる。1876-1881となり、二宮わかの在校期間とほぼ一致するし、同郷の岡見京子とは2年ほど、同じ学校にいたことになる。さらに阿部はなは、卒業となっているから、7年の修学期間を要したとなると、在校期間は1879-1886となり、2年ほど一緒だったことになる。また阿部はなについては、バイブルリーダーの手紙として、英文の手記が残っているようだ。二宮わかは、横浜市不老町に貧者のための警醒学校を、後には相沢託児園、横浜慈善病院、神奈川幼稚園を、さらには中村愛児園などを設立し、女性として多大な社会活動を行ってきた人物である。年齢も同じで、何となく須藤とは仲の良い友達、同志だったような気がする。Dr. Kelseyについては、1885-1890に横浜で活動していたようで、須藤かくが共立女学校卒業後に出会った。横浜根岸病院の閉鎖の理由として、仏教徒による反発、ドイツ学派との軋轢などを以前のブログで挙げたが、教会の財政的理由で、医療伝道が中止となり帰国が決められたようだ。病院運営には金がかかり、財政的な理由が一番理にかなっている。今回の横浜共立学院の返事から、須藤かく、阿部はなともに共立女学校にいたことが確認できた。

 昨日は、他にも、「武士の娘」の著者杉本鉞子のご研究をされている長岡在住の方を介して、シンシナティー美術館の学芸員の方からのお手紙をいただいた。何でも、美術館に2つの日本の甲冑があるようで、その由来を知りたがっている。Dr,Kelseyが日本から持ち帰り、シンシナティー美術館に寄贈しため、学芸員は須藤かくから貰ったものではないかと推測している。かなり詳しく調べているようで、すぐに甲冑の写真を送ってもらうことにした。こちらからの返事は英文のため、書くのに随分苦労したが、先ほど送信した。その返事には、横浜には多くの外人向けの骨董屋があり、ケルシー医師はそういった店で維新後価値のなくなった武具を買ったのではないかと答えた。ただよく考えると、医療伝道自体が財政的な理由で成り立ちにくい状況で、こういったものを買うかという疑問が残る。六甲学院の神父にしてもほとんど私物はなく、質素な生活をしていたことを考えると、買ったよりは、日本の信徒による寄贈品であった可能性もある。ケルシー医師のコレクションは、母校のMt. Holyoke大学美術館にもあるので、一部載せておく。

 昔だったら、こういったことを調べるにも、横浜やシンシナティーに調査に行く必要もあったろうが、今ではインターネットで簡単に調べることができ、本当に便利になった。それでもブログでは適当なことを書いても許されるが、いざペーパーにするとなると、実際のものを確認する作業が必要で、それは今でも大変であろう。

2012年3月15日木曜日

須藤かく 7



 須藤かくが、横浜からニューヨーク州のケルシー医師の農園に来たときに、姉の嫁ぎ先の成田家も一緒に連れてきたことは、このブログで伝えた。この成田家について書かれたブログ
(http://www.saratogian.com/articles/2011/09/03/wglife/doc4e5ce79944d61628002816.txt)とyoutubeがあったので紹介したい。


日本人の女性がマクレガー山に治療のために来て、生涯をそこで暮らす。
Jeannine Wouterersz (Wilton town歴史家)
 古人曰く「真実はフィクションより奇なり」、私が評伝を読む理由である。

 ガンビーノ・成田スエは6歳の時に3人の姉妹、弟、父親と一緒のアメリカに来た。彼女の母親は日本で死んだ。日本を担当していた内科医のケルシー医師が彼らの一家を助け、援助した。
彼らはケルシー医師のWesr Cmdenの農家に住み、仕事を手伝った。1914年にスエは結核になった。ケルシー医師は彼女の妹、Marthaと彼女の夫Oliver ClarkがGrant Cottageの管理者をしているMount Mcgregorにスエを送った。Metropolitan Life Insurance Company Sanatorium で内科医をしているHowk医師による治療を受け、完治した。Oliver Clarkは南北戦争の折、アンダーソンビルで捕虜になり、病を得ていたが、スエは彼の世話のために残った。
Oliver Clarkは1917年に亡くなり、彼の妻が引き続き管理人となった。スエは山での生活を楽しみ、保養所の図書館員として働いた。また数年に渡り、“The Metropolitan Optimist”の共同編集者にもなった。
 Martha Clarkは1941年に亡くなり、スエは第二次大戦中、いまだ日本国籍であったが、管理人としてここに残ることを許された。山から出ることは制限され、ラジオも1年間、没収された。彼女は比較的ラッキーな方で、彼女の家族は戦争中、アリゾナの抑留キャンプに行かされた。
Metropolitan Life Insurance Company Sanatoriumは1945年に閉鎖されたが、ニューヨーク退役軍人局がすぐにリハビリテーションキャンプを開設し、スエは教会のオルガン奏者兼、万能なボランティアとなった。そして1950年にAnthony “Tony” Gambinoと結婚した。スエは1952年12月にできた新しい移民法での最初の帰化日本人となった。
 スエはサラトガスプリング、ブロードウエイのニューイングランド長老派教会の活動に熱心に参加した。火事で焼けたパークプレースの教会を修復するための委員会のメンバーでもあった。彼女は教会の経験豊かなオルガン奏者で、日曜学校でも教えた。後に彼女はMethodist Gurn Spring教会に所属し、多くの結婚式でオルガンによる伴奏した。この州退職軍人キャンプが障がい児のためのRome StateSchool Annexになる1960年代まで、スエはここでボランティアの仕事を続けた。
 その後、1976年には,Mount McGregor Correctional Facilityで仕事を続け、コレクション管理委員会のアクティブメンバーとなった。
スエは70歳で引退したが、彼女の夫、Tonyuが咽頭ガンで亡くなる1984年までボランティアの管理人として仕事を続けた。皮肉なことにグラント将軍が100年前の1885年に同じ咽頭ガンでこのコテージで亡くなった。

 一度、Wilton Heritage協会の集まりで、スエはこの山での暮らしを話し、真のキリスト教徒の心のうちを明かした。彼女はこの協会の古いメンバーでもあったが、この講演の最後にこう結論づけた「TBあるいは虫は神が私に与えてくれたものであるといつも言っています。私は山のすべての虫を愛しているし、枝、医師、動物、鳥、そしてすべての人々を愛します」
このコテージを訪れると、今でもきっと彼女の精神を感じるだろう。」

 Youtubeに方は、Steve Trimmというひとが、ケルシー医師のこと、安倍ハナ、須藤かくのこと、そして成田一家と彼らの戦争に弄ばれた苦難の時代について詳しく述べている。長いが須藤かくについては17分ころから登場する。

2012年3月14日水曜日

須藤かく 6




須藤かく(1861年1月26日 万延元年—1963年6月4日 昭和38年)

 弘前藩士、須藤新吉郎の娘として、弘前の大浦小路で生まれた(現在の弘前市大浦町8番地)。弘前城の堀から少し入った所で、現在ある弘前文化センターに隣接するところで、今も当時と全く同じ敷地の家が並ぶ。

 父親の新吉郎は須藤熊三郎の二男として天保2年(1831)に生まれた。兄勝五郎は、弘前藩の西洋式帆船安済丸の船将として野辺地戦争、函館戦争でも活躍したが、長男惟一の戦死(野辺地戦争、小湊口で戦死、賞典永世15俵)もあってか、維新後は熱心なキリスト教徒となった。勝五郎の3歳下の弟新吉郎は、明治元年9月に甥の惟一とともに野辺地戦争に参戦した。その後函館戦争の折には、そこで土木工学の新知識を習得し、維新後は青森県の民政局庶務掛で、青森市の町づくりに参画する。明治に入り、名前を序と改名した(Tsuijiと読む)。須藤序がキリスト信徒になったかは、定かではないが、兄の影響から早くから西洋知識に高い関心を持ち、娘かくにも当時としては最高の教育を受けさせようとした。

 明治8年(4月)に出来たばかりの東奥義塾の小学科女子部に入学した。当時の住まいは青森の作造村(青森市造道)であったので、弘前の叔父の家から通ったものと思われる。ここで西洋知識の基礎を学んだ後、翌年の明治9年には、明治4年にできた日本最古のプロテスタン系の女子教育機関である横浜共立女学校(横浜共立学園)に入学した。おそらく東奥義塾の本多庸一に相談した結果、本多の師であるバラが関係している横浜共立女学校への留学が決まったのであろう。学費は教会による援助もあったようだ。女子では日本最初の医学博士となった岡見京子は同郷であり、共立女学校には明治6年に入学、明治11年に卒業なので、須藤かつも面識はあったと思われる。後の須藤かつの進路を見ると、岡見京子の影響からアメリカに留学し、医者になろうと考えたのかもしれない。岡見京子は明治18年(1885)にフィラデルフィアのペンシルベニア女子医科大学に入学し、明治22年(1889)に卒業した。

 須藤かつは、おそらく明治16年(1883)ころに共立女学校を卒業した。女学校に入学したのは、そもそも英語を勉強するためだったが、次第に強い信仰心をもつ先輩、先生の姿に感動し、在学中にキリスト教徒となった。卒業後、偕成伝道女学校に入り、教会関係の仕事を手伝っていたが、ここで生涯の恩師アデリン・ケルシー医師と出会う。ケルシー医師はニューヨークのOneida Countryで150エーカの農園をもつ熱心なキリスト教徒の名家に生まれた。1875年にニューヨークのNew York Infirmary女子医大を卒業後に最初は中国に医療宣教の目的で行き、その後1885年に日本できて、長老派の宣教医として活動した。

 須藤かくと安倍はなは、1891年にケルシー医師と一緒に渡米し、須藤かく32歳の時、1893年にオハイオ州シンシナティーのLaura Memorial College(シンシナティー女子医科大学)に入学し、優秀な成績で、1896年に卒業した。その間、学費を得るために、4年間に22の州で講演を行ってきた。同時期、「武士も娘」の著者杉本鉞子も夫と一緒にシンシナティーにいたが、須藤かなとの接点はどうもなさそうである。フィラデルフィアのEastern大学で勉強しながら日本への帰国を準備し、1898年にケルシー医師、安倍はなと一緒に横浜に来た。横浜では、すでに稲垣寿恵子、同窓の二宮ワカなどが、貧しい人々のための横浜婦人慈善会を組織して活動していたが、やがて1891年に根岸町西丈丸で横浜婦人慈善病院を開設していた。この通称根岸の赤病院に来たのが、須藤かくらの一行である。しかしながら、当時官医学はドイツ学派が主流となってきており、院長との確執から、3年ほどで医療活動を中止し、その後も貧しい人々への慈善事業に従事したが、失意のまま1902年にケルシー医師の故郷のニューヨーク州、Oneidaに帰ってきた。農場の管理のために、須藤かくの姉の嫁ぎ先である成田八十吉一家も一緒に渡米した。後に子供の一人を養子にしている。

 Oneidaでは農園経営をしながら、ケルシー医師とともに内科医師として医療と教会活動をしていたようだ。1920年から30年ころには、ケルシー医師に従い、老齢の恩師と一緒に暖かいフロリダに住むことにし、フロリダのSaint Cloudに移住した。1963年に亡くなるまで、そこで平穏な暮らしをした。現在、フロリダのSait cloudのMount Peace Cemeteryに墓がある。

 日系人最初の女医であり、おそらく弘前出身の最初の女医でもあったろう。女性にとって困難な時代をみごとに生き抜いた102年の生涯であった。

2012年3月12日月曜日

須藤かく 5


 須藤かくについての資料はもうないだろうと探すと、これがまだある。主としてGoogle検索で探しているが、これもGoogle USAで探すと検索結果が違ってくる。Google検索では”kaku sudo “の様式で検索すると、語句が全く一致したものが出てくるが、そのひとつが今回紹介するUtica NY Morning Telegram 1922—1382で、こういった地方新聞もすべてインターネット上で見ることができる。

 ただかなり圧縮してPDFファイルにしているため、文字がほとんど見えない。もう少し容量が大きくなってもいいので、解像度を高くしてほしいものだ。Nativeなアメリカ人であれば、推測である程度は、読めるであろうが、英語に苦手な私にとっては、ほとんど解読不可能であり、なさけない。

 内容は、1922年1月7日の記事で、内科医をしている須藤かくに、悪化しつつある日米関係について記者がインタビューしている。太平洋戦争はこの20年後に起こるが、1922年ころも日米関係は悪く、軍備拡張競争が激化し、日本でも盛んに「日米もし戦えば」といった書物が多く発行されたし、同様に日本人移民に対する排日運動もアメリカ各地で起こった。アメリカでは日本との戦争を想定したオレンジ計画が、日本では第一仮想敵国としてアメリカが挙げられた帝国国防計画が立案された。ただ当時は、この10年後ほど軍人勢力の台頭が大きくなく、政府首脳の中にも牧野伸顕や珍田捨己らの対米協調に同調するものが多く、何とか沈静化に務めた。青い目の人形が贈られてきたのもこの5年後である。

 1922年当時は、須藤かくはニューヨーク州のodeidaに、恩師ケルシー医師と一緒に彼女の農園で住んでおり、内科医として地域の住民にもある程度、信頼される小さな日本人女性であった。かくの証言から、渡米してからは日本には帰らなかったし、今後も歳をとったので帰らないとしているが、日本の知人とは緊密な連絡をとっていたようだ。日米関係の悪化にはかなり楽天的に見ていて、その友情は簡単には壊れないと考えているが、日本と中国との関係については強い危惧をもっている。最後にアメリカ人の若い女の人たちのエチケットについてユーモラスに批判している。

 それにしても、アメリカ人の情報公開はかなり進んでおり、コンピューターだけでかなりの数の古い新聞を見ることができる。書物、雑誌、新聞、文書のデータベース化が急速に進んでいるようで、古い国政調査表(census)も多く公開されていて、須藤かくについても、ほぼアメリカのデータで概要が掴めた。一方、日本では、昔は第三者、研究者でも古い戸籍謄本やお寺の過去帳を見ることができたが、個人情報保護法の制定後は市役所、寺でもなかなか見せてもらえないし、仮にそういった情報を使う場合は、子孫の許可が必要となる。どうも個人情報保護の考えが日米で違うようだ。

 Hana Abe(安倍ハナあるいは阿部ハナ)については、あまりによくある名前のため、把握できない。前回の新聞記事からも、渡米する前から教会関係者で援助されていた。ただ恩師のケルシー医師とodeida一緒に住んだのは須藤かなと彼女の親類だけで、安倍ハナの横浜から帰ってきてからの消息は掴めない。結婚したとすれば名前が変わり、ますます追跡が困難となる。もう少し、ねばってみよう。英文を読むのは本当に疲れる。

2012年3月11日日曜日

須藤かく 4



 もう資料はないかと思ったが、Google検索すると、さらに二つの新聞記事があったので、報告する。

Rome NY Rome Evening Citizen 1895年9月18日

二人の日本人婦人

彼女らはシンシナティで医学を学んでいる
自分で費用をかせぐ
3年間の(医学)過程を終えるには2500ドルの費用がかかる。このためにRomeに滞在した。
午前中— 彼女らはCamdenで休暇を過ごした。

 三人の人々、とりわけ、その中の二人は午前中の中央停車場では大きな注目を浴びた。中国、日本での宣教から帰ってきたCamdenのアデリン・ケイシ医師と5フィート4インチの二人の日本人婦人である。この日本人の名前は、24歳の須藤かくと22歳の安倍(阿部)はなである。この国での保護者であるケイシー婦人の故郷で6週間の休暇を過ごした。普通のアメリカ人の装いをし、奥ゆかしい若い婦人である。彼女らは、中国語や日本語で授業が行われているように、完全にこちらのやり方で、英語での授業を受けている。彼女らは朝の8時45分にRomeに到着し、11時11分の汽車でシンシナティーに帰る予定である。シンシナティーで彼女らは医学校に勉強しており、来年の4月に3年間の過程を終え、卒業する予定である。彼女らは4年前にアメリカ人に来た。彼女らはアメリカの生活やアメリカ人のことが好きである。
シンシナティーでの勉強には2500ドルの費用がかかる。講演をしたり、中国の皇帝(天皇?)についての話しをしたりして、その費用を工面している。自活する以上のたくさんのお金をもらっていると誇らしげに語った。勉強が終了したら、日本に帰り、日本人や中国人の中で、宣教医として働くことになっている。
 ケイシー婦人と日本の婦人は、学びことに喜びをもち、宣教医としての仕事にすべてに深い興味を持っている。
 この若い婦人はこの4年間で22の州で講演を行ってきた。彼女らが勉強している大学は長老会病院のLaura女子医科大学である。ケルーシ女史によれば、この日本の小さな女性はクラスでも飛び抜けており、いい成績で卒業できるだろうと語った。


 さらにSyracuse NY Daily Journal 1981年10月15日、これは須藤かくと安倍はなが日本に来た時の記事であるが、ここには二人を医学校に行かせるための財団を作るような話が載っている。画像が悪く、半分以上、解読不能であるため、全文の訳はできないが、一部を訳す。
First Presbyterian 教会で、少額の入場料をとって横浜のケルシー医師と彼女が日本から連れてきた二人の学生と助手、須藤かくと安倍はなの歓迎会を催した。彼女らが医学教育を受けられるようにするため財政的な助けをしようというものである。教会では数年に渡り、安倍はなの教育に関心があり、色々な催しもしたが、あまり関心を引かなかった。ケルシー医師が日本から持ち帰ってきた美しい着物や珍しいコレクションは、日の登る王国では部屋に飾ったり、宗教的な儀式で使われたもののようだ。これらの品は日本人がケルシー医師の治療行為に感謝してくれたもので、須藤らの教育資金のために寄贈し、売ってほしいとのことである。

 これらの二つの新聞記事からは、須藤かくと安倍はなは1891年に渡米し、1893年に女子医科大学に入学し、1896年の春に3年の過程を卒業したことになる。その後、Eastern大学で学びながら、1898年に日本の横浜に来て、根岸病院で働く。医学部の学費は、二人の保護者であるケルシー医師が日本で患者さんから貰った日本の工芸品などを売ったり、あるいは教会での講演などで工面したようである。未知の国から来た若い女性に対して、アメリカ人も積極的に支援したことが伺われる。ただ須藤かくは、1861年生まれであるが、ここでも、10歳ほど年齢を若くしている。今でこそ30 歳で医学を学ぶということは、ごく普通であり、むしろ賞賛されるものであるが、当時のアメリカでも、少し奇異な感じがもたれたことと、日本人は若く見られたことによる。

 ここでケルシー医師が寄贈した日本のコレクションは現在でも、シンシナティーにあり、その管理者(館長)が須藤かく、安倍はなのことを知りたがっているというのを前回のブログにコメントいただいき、初めて知った。こういったブログは思わぬ、繋がりを与えてくれる。

*コメントにSyracuse NY Daily Journalの正確な英文をいただきました。私の悪訳も一緒に載っています。

2012年3月8日木曜日

須藤かく 3



 前回のブログで須藤かくの父親を須藤勝五郎としたが、どうも間違いのようである。本来、資料を周到に当たってから、書くべきであるが、ブログの場合、その性質上、思いついたことをすぐに書きつける、自分のメモのようなところがあるため、こういった失敗がおこる。お許し願いたい。

 本日、休診日のため、久しぶりの弘前市立図書館に行ってきた。須藤かくのことを書いたおそらく唯一の本、「安済丸船将須藤勝五郎 弘前藩士の信仰の軌跡」(佐藤幸一著、日本キリスト教団藤崎教会、1992)を探しにいった。IF、2Fの書棚を探すが、該当する本はなく、半ばあきらめ、図書館のコンピューターで検索したところ、郷土資料庫にあることがわかった。早速、職員に頼み、書庫から出してきてもらい、閲覧した。

 須藤かつは、須藤勝五郎の弟、新吉郎の娘であった。須藤新吉郎は、熊三郎の二男として天保2年(1831)に生まれた。兄、勝五郎とは3歳違いである。新吉郎は明治元年9月に甥の惟一(勝五郎の長男、後に戦死)とともに小湊口に出張して、野辺地戦争に参戦した。やがて函館に派遣され、ここで土木工学の新知識を習得する。維新後は、青森の作造村(青森市造道)に住み、青森県の民政局庶務掛の少属として勤務し、青森市の火災防止の都市計画に関わる。明治に入り、名を序に改名する。

 明治11年(1876)7月5日の七十一雑報の教会新報欄に
「陸奥国中へは弘前会より追々諸教所を設置して近頃は僅斗の距離ある黒石一ヶ所、青森港への二ヶ所取設けて、盛んに伝導に尽力されるよし。内一ヶ所は分営の通路なる川塚の須藤序という人の家を借り受けしとて(因にいう須藤氏の女は三年前より横浜女学校にありて、追々熱心の信者となり、已に今春バラ氏より受洗せられるよし)、何れも聴聞人百を以て数ふる程にて景次甚だよきよし。然し伝導者の少ないのはほとんど因却のよし。何れの地方も左こそあるべけれ」

 これから佐藤幸一氏は明治9年ころに須藤かくは横浜共立女学校に留学したとし、それまでは明治8年4月(1875)にできた東奥義塾の小学科女子部に行ったとしている。そして青森市からの通学は困難なので、叔父の勝五郎の家から通ったのではないかとしている。ただ1年くらい小学科に行くくらいなら、そのまま青森市から横浜に直接行き、明治8年に横浜共立女学校へ入学した可能性もある。どうして横浜女学校への留学を決めたかというと、佐藤氏は本多庸一の推薦があったとしている。本多の恩師バラは、横浜女学校の創立にも関わっており、十分にありえる。さらに明治11年ころから須藤序一家の記載が一切なくなったことから、須藤かくの卒業後に中央に一家挙げて移住したのではないかと推測している。

 さらに明治11年の弘前教会の記事より31円44銭を女学生三人の学資として教会より支出とあり、須藤かく以外の他二人の留学生が横浜に行ったのではないかと推測している。(以上「安済丸船将須藤勝五郎 弘前藩士の信仰の軌跡」(佐藤幸一著、藤崎教会、1991)より引用)

 須藤新吉郎の名は、大浦町小路に見られる。兄勝五郎とは別家を立てたのであろうか。須藤かくは父の名をTsuiji sudoとしているが、序は“序で(ついで)”とよむこと、二男であることから、序二として(ついじ)と読ましたのかもしれない。さらに須藤かくの一家は、かくの渡米に際して、一緒にアメリカに移住したため、記載がなくなったのかもしれない。くわしいことは、以前Wiltonm Newyork州のHPに須藤一家と成田一家の記載があったが、今はなくなっていて不明である。

 また弘前教会の本多庸一は、横浜女学校に弘前から3人の留学生を送っているが、この内の一人が須藤かくで、もう一人は阿部はななのかもしれないが、阿部はなについての記載は一切ない。

2012年3月7日水曜日

須藤かく 2




須藤かくについて、シンシナティーの知人より新たな情報をいただいたので、ご紹介する。ニューヨークタイムズ 1900.6.12号の記事である。ざっと訳した。

「Missionaries’ ill-fortune
シンシナティー 6.11
 アデリン・H・ケイシー医師の友人である阿部ハナと須藤かく、両医師は日本の横浜での不運を心配している。Laura Memorial Collegeを卒業した阿部、須藤医師、この二人の女性は、伝道の仕事のために日本に行き、横浜近郊の根岸病院を運営していた。この病院は彼らにより建てられ、彼らの努力により維持されてきた。ケイシー医師は最近、友人に次のように書いている。仏教徒が力を持ってきて、彼らが根岸病院を完全にコントロールしてきている。阿部と須藤医師には残って病院運営をしてほしいようだが、仏教徒はキリスト教徒に嫉妬し、彼らのコントロール下にあるここでは、キリスト教の宣教は許されなかった。3人の医師はここでの仕事をあきらめ、近くで貧しい人々のための新しい仕事をすることにした。貧しい人々のところに行って、服や食料を分配することを始めた。彼らは宣教のため小さな保養所をもった。彼らが3年間働いた根岸病院は、ここに住み、よろこんで貧しい人々のために働く異教徒の医師を見つけることができず、その後、閉院した。」

ここでの根岸病院というは、明治25年に開院した横浜婦人慈善病院、横浜根岸病院のことで、稲垣寿恵子、二宮ワカらがかかわった。二宮ワカは横浜共立女学校の同窓で、歳も同じなので友人であったのであろう。設立は明治25年4月で、院長は広瀬佐太郎となっている。この広瀬という人物は、ドイツ式医学を修めたひとで、ケイシー女史は仏教徒とキリスト教徒の対立と捉えているが、内情はアメリカ式医療とドイツ式医学の確執に起因するようである。なおケイシー女史は、長老派教会(Presbyterian Church)に属した。

前回のブログではケイシー女史は1907年まで日本にいたとしたが、1930年の人口調査では同居人(間柄をCompanion 仲間という珍しい表現を使っている)、須藤かくの姉の嫁ぎ先、成田八十吉がアメリカに来たのが1902年となっているから、この頃に日本を去り、ケイシー女史の先祖伝来の土地、ニューヨーク州、Oneidaにやってきたようだ。成田家は子供も一緒に連れてきて、ここでは農園管理を行っていただろうし、ケイシー、須藤かくは医療活動もしていたようである。その後、いつかはわからないが、フロリダ、Saint Cloudに転住し、そこで3人とも亡くなるまでいたようである。静かな信仰の家庭である。もし須藤かつが恩師のケイシーとの同居を選ばず、日本に帰ってきたのあれば、当時これだけの教育を受けた女性は日本には少なかったことから、地方女子教育のリーダー、初期の女医として、知られた存在になったのは間違いない。

これで思い出したのが、神戸女学院などの建築で有名な近江兄弟社を設立したメレル・ヴォーリズの妻、一柳満喜子である。1884年に播磨小野藩主の娘として生まれた満喜子は、女子高等師範学校から、神戸女学院、そしてフィラデルファのプリン・マー大学に留学する。恩師であるアリス・ベーコン先生の活動に共感し、養子の手続きをされ、その運動の後継者と期待されていたが、父の危篤の知らせ(実際は元気だった)で8年間のアメリカ生活を切り上げ、帰国し、ヴォーリーズと結婚する。満喜子もそのままアメリカにいたのであれば、須藤かつと同じような人生であったろうし、「負けんとき ヴァーリズ満喜子の種まく日々」(玉岡かおる著 新潮社)のような本にもならなかった。

 須藤かつは、戦前、敵性外国人になったつらい時期もあっただろうが、信仰に包まれた102歳の平穏で、幸せな人生であったろう。

2012年3月6日火曜日

須藤かく 1



 日系では最初の女医である須藤かくについて、多少わかってきたので、少し記述したい。

 須藤かつは、弘前藩士須藤勝五郎の娘?として、1861年1月26日に弘前市若党町に生まれた。実家の2軒隣には、笹森順造の実家(笹森要蔵)がある。父親の勝五郎は代官、弘前藩が持つ西洋帆船安斉丸の船将などをする名家で、維新後は熱心なキリスト教徒として藤崎教会などで活躍する。

 須藤かつが生まれた時代は、女性にとっては狭間期であり、当時女子の高等教育機関は日本にはほとんどなかった。東北で最初の女性教育機関である函館の遺愛女学校が出来たのが、1882年(明治15年)であり、今東光の母、綾などは、第一期あるいは第二期の入学者であった。ただこの時、須藤かつはすでに21歳でいささか歳をとりすぎている。当初遺愛女学校に通ったと考えたが、後述する本人の話から、日本で最初の女子教育機関のひとつである、1875年(明治8年)にできた横浜共立女学校に、どうやら行っていたようだ。かく、14歳で辻褄が合う。進取の考えである。そこでキリスト教徒になった。

 その後、宣教医のアデリン・ケイシー女史の勧めで、友人の阿部ハナと一緒に、1891年に渡米し、1893,4年ころにアメリカ、オハイオ州のLaura Memorial College(シンシナティー女子医学校、シンチナティー大学医学部、シンシナティ在住の知人よりの情報)で勉強し、1896年4月に卒業して、医師となる。アデリン・ケイシー女史がPresbyterian派の信者であったので、同系列のこの大学に入った。

 1898年ごろに日本に布教のために帰るが、その直前にシカゴトレビューン紙での記事(1897.10)があるので、大雑把に訳した。当時、須藤かつは36歳で、下写真に示す新聞の肖像画にはコメントはないが、おそらく左の女性が須藤かく、右の若い女性が阿部ハナであろう。


エバントンの日本女性

ミス須藤かくとミス阿部ハナが、ファーストプレスバイタリアン教会で話す。

二人の日本女性、ミス須藤かくとミス阿部はなが、日本の古風な衣装を着て、エバントンのファーストプレスバイタリアン教会の演壇から大勢の聴衆の前で昨夜話した。
 彼女らは現在、布教のために日本での外科と医術をこれから行う途上で、この国のEastern大学で学びながら、最後準備をしているところであるが、キリスト教信仰への転向についてはこれまで伝えたことはない。
 彼女らは小さく、座ると脚が床につかなかった。ひとりの衣装は緑、もう一人は紫の衣装であった。祈りの間、彼女らは巨大な日本の扇を顔の前に置いていた。
 ミス阿部ハナが最初に話した。彼女の声は鮮明で、彼女のマナーはシンプルであった。彼女は話している間、手は体の前にじっとしたままであった。
“日本を去ってからすでに6年間がたちました。”と話し出した。“そこではミッションスクールに行っていました。私の両親はキリスト信徒でもなく、学校に行くまで唯一の神については何も知りませんでした。日本には多くの神がいて、それぞれの寺がありました。最初に神について聞いたときは、私にとっては不思議なもので、馴染みのないものでした。しかし次第に聖書に興味を持つようになってきました。聖書の教えから特別な痛みをいただきました。当時、私が入ったミッションスクールには70名の生徒がいましたが、年輩の生徒の幾人かは信徒でした。彼女らは教えを広めるためにいつも外で活動していました。彼女らは実に真摯でした。平穏と同情、そういった類いのことを与えていました。私も若かったので、彼女らの美しい性格に強く感動いたしました。”
“ここで、私は多くの幸福を持つことができました。主は多くを与え、祝福してくださります。我々は真摯に主に仕えれば、多くを与えてくれます。”
ミス阿部ハナが演壇をおり、席にもどった。そしてボイド医師から彼女の仲間であるミス須藤かくが紹介された。
“両親はミッションスクールに行けば、英語を学ぶことができると言いました”彼女は続けて、“私はうれしくて、キリスト教のことも何も考えないでそこに行きました。ある日曜、先生があなたの神は本当の神ではないと私に話してくれました。彼女はすべての生徒は一度教会にいきなさいと言うので、ある日、私も教会に行きました。みんなが祈りのため、ひざまずく中、ただ一人椅子に座ったままでした。信徒の女子の中でひとり違和感を感じました。彼女らはやさしく、誰にも愛情深かった。私はどうして彼女らはあんなに愛情深いのですかと尋ねました。それは主を愛しているからだと私に話してくれました。もしこの宗教が人々の心を変えるのであれば、これこそ本当の神だと考えました。そして私もキリスト教徒になったのです”
アメリカ人ミスアデリン ケイシー(Adeline Keisey)は、宣教のため日本で活動し、この二人の日本人女性をつれてきた。



 ここでのアデリン・ケイシー(1844- )は、須藤かくの師匠にあたるひとで、1875年にニューヨークのNew York Infirmary女子医大を卒業後に最初は中国に医療宣教の目的で行き、その後1885年に日本で活動した。22年間、日本で活動した後に、1907年に帰国して、ニューヨークのOneida Countryで150エーカの農園で余生を過ごした。その際に、農場の管理および自分の世話のために一緒に暮らしたのが、須藤かくとその親類の成田八十吉である。1930年の人口調査では、ケイシー86歳、独身、須藤かく、58歳、独身、成田八十吉、60歳、既婚となっている。須藤かくがアメリカ人に来たのが1891年、成田八十吉は1914年となっている。職業は、かくは無職、八十吉は修復師(repair)となっている。この人口調査では須藤かくの生年月日は1872年になるが、墓標による生年月日では1861.1.26-1963.6.4となっており、102歳でフロリダのSaint Cloudで亡くなった。米国在住の知人によれば、こういった類いの調査は、聞き取り調査でいいかげんなもので、日本人は若く見られたようだ。つまり1930年では須藤かくの実際の年齢は69歳となり、かく自身も引退していたのであろう。

*主として、前回初回したFold3よりの引用である。また「須藤勝五郎の生涯 弘前藩士の信仰の軌跡 安済丸船将」 佐藤幸一 著は入手できなかったため、すべて推測で記述した。弘前図書館にあれば、もっと確実な情報が入手できるので、訂正したい。

2012年3月4日日曜日

山田兄弟44 (山田四郎)




 思わぬ発見があった。以前から山田良政、純三郎の他の兄弟、二男清彦と四男四郎のことを探していたが、全く手がかりが得られなかった。二人とも、青森県総覧という昭和3年に発刊された本から、まず四郎が明治33、4年ころに、その1、2年後に清彦が渡米したことがわかる。大正8年(1919)10月に弘前の貞昌寺で行われた山田良政碑除幕式に、清彦が参加していることから、清彦は一時日本に帰国していたようだ。さらに二人とも、アメリカに行って、そちらで亡くなったという情報しかない。

 ひまな時に“shiro yamada”、”kiyohiko yamada”でインターネット検索しているものの、これといって該当する人物はいない。アメリカのサイトでFold3という歴史上の人物の新聞記事などあらゆる書類を集め、それを検索できるものがある。有料のため、使用はためらっていたが、一週間無料のサービスがあったので、昨日初めて利用した。

 “shiro yamada”で検索すると、9つの画像がヒットする。一つずつ開けていくと、1942年4月の登録カードに何と出身が弘前の人物が見つかった。おそらく太平洋戦争勃発に伴う外国人登録の一環として作成されたものかもしれない。生年月日は1881年12月13日生まれで、これは完全に山田四郎に一致する。山田良政が1868年生まれ、純三郎は1876年生まれであるから、末弟の四郎とは良政が13歳差、純三郎とは5歳差である。住所はコネチカット州ニューヘブン、ヨーク通り162番地で、イエール大学構内である。勤務先はチャピタル通り1084番地の大学レストランで、知人の名前としてYale Hope MissionのJohnstonさんが挙げられている。年齢は60歳とある。Yale Hope Missionとは貧困者へのシェルターのような施設を運営していている組織である。

 もうひとつの書類は1930年のCensusという人口調査の書類で、そこにはハナオカ ワカ(コック)とハナオカ タキ(メイド)と一緒に、山田四郎の名がある。年齢は37歳、独身、移民した年は1900年、Private Familyに執事として勤務しているとある。上の登録書とは一部矛盾する、1930年であれば、年齢は48歳であるが、37歳と偽っている。さらに勤務先の人物として、弁護士のMarshal Stearnsの名がある。妻シャーロットの他、同名の息子と二人の娘がおり、ここに四郎始め3名のコックとメイドが勤務していた。住所はコネチカットのNEW CANAANという町である。

 青雲の志を持って、故郷を後にしても、必ずしも成功するとは限らない。いや僥倖を得た一部のものだけがたまたま成功するだけなのであろう。仮に名声を得られなくても、その人生もまた歴史である。山田四郎、その生涯のごく一部が今回の資料から伺うことができようが、それをもって幸、不幸を論じることはできない。せめて、その一端を開帳することで、供養としたい。士族の矜持が、ついには故国への帰還を許さなかったかもしれないし、それは兄、良政、純三郎とも通じる。山田四郎の亡くなったのは、1963年1月であった。81歳であった。

なお山田清彦の名は、弘前市立朝陽小学校同窓会名簿—創立120周年記念—に見られる。朝陽小学校、明治11年〜明治20年入学者の中に在府町山田清彦とあるが、ただ四郎の名はない。在府町であるから、学区としては朝陽小学校になるはずだが、純三郎、四郎の名は見当たらない。