2012年3月12日月曜日

須藤かく 5


 須藤かくについての資料はもうないだろうと探すと、これがまだある。主としてGoogle検索で探しているが、これもGoogle USAで探すと検索結果が違ってくる。Google検索では”kaku sudo “の様式で検索すると、語句が全く一致したものが出てくるが、そのひとつが今回紹介するUtica NY Morning Telegram 1922—1382で、こういった地方新聞もすべてインターネット上で見ることができる。

 ただかなり圧縮してPDFファイルにしているため、文字がほとんど見えない。もう少し容量が大きくなってもいいので、解像度を高くしてほしいものだ。Nativeなアメリカ人であれば、推測である程度は、読めるであろうが、英語に苦手な私にとっては、ほとんど解読不可能であり、なさけない。

 内容は、1922年1月7日の記事で、内科医をしている須藤かくに、悪化しつつある日米関係について記者がインタビューしている。太平洋戦争はこの20年後に起こるが、1922年ころも日米関係は悪く、軍備拡張競争が激化し、日本でも盛んに「日米もし戦えば」といった書物が多く発行されたし、同様に日本人移民に対する排日運動もアメリカ各地で起こった。アメリカでは日本との戦争を想定したオレンジ計画が、日本では第一仮想敵国としてアメリカが挙げられた帝国国防計画が立案された。ただ当時は、この10年後ほど軍人勢力の台頭が大きくなく、政府首脳の中にも牧野伸顕や珍田捨己らの対米協調に同調するものが多く、何とか沈静化に務めた。青い目の人形が贈られてきたのもこの5年後である。

 1922年当時は、須藤かくはニューヨーク州のodeidaに、恩師ケルシー医師と一緒に彼女の農園で住んでおり、内科医として地域の住民にもある程度、信頼される小さな日本人女性であった。かくの証言から、渡米してからは日本には帰らなかったし、今後も歳をとったので帰らないとしているが、日本の知人とは緊密な連絡をとっていたようだ。日米関係の悪化にはかなり楽天的に見ていて、その友情は簡単には壊れないと考えているが、日本と中国との関係については強い危惧をもっている。最後にアメリカ人の若い女の人たちのエチケットについてユーモラスに批判している。

 それにしても、アメリカ人の情報公開はかなり進んでおり、コンピューターだけでかなりの数の古い新聞を見ることができる。書物、雑誌、新聞、文書のデータベース化が急速に進んでいるようで、古い国政調査表(census)も多く公開されていて、須藤かくについても、ほぼアメリカのデータで概要が掴めた。一方、日本では、昔は第三者、研究者でも古い戸籍謄本やお寺の過去帳を見ることができたが、個人情報保護法の制定後は市役所、寺でもなかなか見せてもらえないし、仮にそういった情報を使う場合は、子孫の許可が必要となる。どうも個人情報保護の考えが日米で違うようだ。

 Hana Abe(安倍ハナあるいは阿部ハナ)については、あまりによくある名前のため、把握できない。前回の新聞記事からも、渡米する前から教会関係者で援助されていた。ただ恩師のケルシー医師とodeida一緒に住んだのは須藤かなと彼女の親類だけで、安倍ハナの横浜から帰ってきてからの消息は掴めない。結婚したとすれば名前が変わり、ますます追跡が困難となる。もう少し、ねばってみよう。英文を読むのは本当に疲れる。

0 件のコメント: