2012年3月21日水曜日
須藤かく 11
横浜共立学園の資料室より「横浜共立学園の140年 1871-2011」という立派な本をいただいた。米国婦人一致外国伝道協会(WUMS The Woman’s Union Missionary Society of American for Heathen Lands)が母体となって作られた学校であるのをはじめて知った。明治5年(1872)10月に横浜山手212番地に学校用地を確保し、そこに「日本婦女英学校」(English School for Japanese Ladies)を建てた。1875年には校名を「共立女学校」と改名し、聖書、音楽、英語、国語、数学、科学など多くを英語で教えた。生徒数は通学生30名、寄宿生(教職員を含む)52名を数えたとある。初代校長は、ルイーズ・H・ピアソン(1871-1899)で「われもし死ぬべくば死ぬべし」と記されており、すさまじい覚悟である。同書には医療伝道に来た医師としてA・D・H・ケルシー女史の名があるが、詳しい説明はなく、ケルシーの医療伝道報告の写真が載っている。HPでも1888年のWUMSの年次報告書が見られるので、その一部を紹介する(google USAで「A.D.H.Kelsey」で検索すると出てきます)。
JAPAN-YOKOHAMA.
Miss]. N. Crosby, Superintendent.
Mrs. L. Pierson, Missionary teacher and Evangelist.
" A. Viele, Superintendent of Children'S Home. Miss A. " Missionary teacher.
Mrs. Sharland, V oluntary" "
Dr. A. D. H. Kelsey, " Physician.
6 native teachers, 6 native medical assistants.
とあり、宣教師は21名、134名の生徒、200名の日曜学校の生徒となっている。
さらにケルシー医師の活動として
Summary of work done by Dr. A. D. H. Kelsey, in the MEDICAL DEPARTME);T
at Yokohama from December 1st, 1887, to. December 1st, 1888: Patients treated, 1,456-surgical, 55; medical, 765; eye, 207; ear, 53; unclassified, 376. Number of electrical treatments, 5,583; visits made, 961; Gospels, tracts and Scripture cards distributed, 3,000; translated one little book into Japanese. Some Evangelistic work in the country during vacations.
となっており、かなりの数の診療を行っていたことがわかる。
1931年8月20日のFairport Herald Mailにケルシー医師の死亡を伝える記事が載っている。
「フロリダのクラウドで日曜日(注:8月18日)にケルシー医師が亡くなったというニュースを受けた。87歳であった。ケルシー医師は古くから住む多くの住民や読者には有名で、過去数年ここでかなりの期間を過ごした。多くのひとは彼女が二人の日本人をここに連れてきたを覚えているだろう。ケルシー医師はジョセフ H・ケルシーの末の娘で,ひとりの姉はMcGregor山のMrs.O.P.Clarkのところに行っており、そこには多くの姪や甥がいる。埋葬は彼女の実家のあるオネイダ州Westvaleで行われた。」
同じくFairport Herald Mailの1926年8月5日のローカルニュースとして
「ケルシー医師と須藤医師はニューヨーク州Westdateに7月8日に到着した。フロリダ、SanfordからAlbanyまで川を北上してきた。来月も同じルートで行く予定になっている」
寒い時期、暖かいフロリダで過ごしたのであろう。こんなことまでニュースになるくらいであるので、1931年号で言っているように、有名人だったのであろう。ケルシー医師の写真を探したが、載っていない。Steve Trimmの講演で写真が出ていたが、きれいなひとである。
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