2012年3月20日火曜日
須藤かく 10
阿部はなについて調べている。どこの誰だか全くわからず、結婚すれば名前も変わるため、探すのは難しい。横浜共立女学校を1886年に卒業し、Dr. Kelsey、須藤かくと一緒に1891年に渡米し、オハイオ州シンシナティーのLaura Memorial Collegeを1896年に卒業し、1898年に横浜の根岸病院で勤務し、その後1902年にアメリカに戻った、ここまではわかった。
明治初期、弘前キリスト教会の会費の中から学費の出費があったようで、須藤かくだけでなく、その他の女子も横浜共立女学校に行った可能性がある。阿部という名前から、弘前出身の青山学院第六代院長の阿部義宗(1886-1980)の親類かとも考え、阿部義宗の家系を調べた。阿部義宗は阿部宗定とコトの息子で、母親のコトは本多東作久元(1823-1896)の娘で、本多庸一(1848-1912)の異母兄弟になる。つまり本多庸一は阿部義宗の叔父さんにあたる。
阿部はなの誕生日はわからないが、横浜共立女学校を1886年に卒業したとなると、入学は1879年ころで、15,6歳ころに入学すれば、生まれは1863 、4年ころとなる。そうなると阿部義宗とは20歳以上違い、兄弟ではない。大体弘前出身かもわからず、阿部義宗とは関係ないであろう。
New York Genealogy Trails というHpに1804-1929年のニューヨーク州の内科医のリストが載っている。その中に、Abe Hanaの名がある。
(http://genealogytrails.com/ny/deceaseddoctors.html)。
Abe, Hana
Died: Feb 15, 1911 in: Westdale, NY
Type of practice: Allopath
Journal of the American Medical Asociation citation: 56:1127
Westdaleは、Dr. KelseyのいたCamdenの隣町で、この人物が阿部はなであることは、ほぼ間違いない。Allopathとは聞いたことがない言葉だが、逆症治療医という意味のようだ。対処療法のひとつで当時のアメリカではポピュラーの治療法だったのであろう。
つまり阿部はなは、1911年の2月15日に47、48歳で亡くなったことになる。最後までDr. Kelsey、須藤かくと一緒のニューヨーク州のCamdenで暮らしていたのであろう。今の感覚からすれば、若くして亡くなったと言えるが、十分に充実した人生であったと信じたい。
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