2012年3月4日日曜日

山田兄弟44 (山田四郎)




 思わぬ発見があった。以前から山田良政、純三郎の他の兄弟、二男清彦と四男四郎のことを探していたが、全く手がかりが得られなかった。二人とも、青森県総覧という昭和3年に発刊された本から、まず四郎が明治33、4年ころに、その1、2年後に清彦が渡米したことがわかる。大正8年(1919)10月に弘前の貞昌寺で行われた山田良政碑除幕式に、清彦が参加していることから、清彦は一時日本に帰国していたようだ。さらに二人とも、アメリカに行って、そちらで亡くなったという情報しかない。

 ひまな時に“shiro yamada”、”kiyohiko yamada”でインターネット検索しているものの、これといって該当する人物はいない。アメリカのサイトでFold3という歴史上の人物の新聞記事などあらゆる書類を集め、それを検索できるものがある。有料のため、使用はためらっていたが、一週間無料のサービスがあったので、昨日初めて利用した。

 “shiro yamada”で検索すると、9つの画像がヒットする。一つずつ開けていくと、1942年4月の登録カードに何と出身が弘前の人物が見つかった。おそらく太平洋戦争勃発に伴う外国人登録の一環として作成されたものかもしれない。生年月日は1881年12月13日生まれで、これは完全に山田四郎に一致する。山田良政が1868年生まれ、純三郎は1876年生まれであるから、末弟の四郎とは良政が13歳差、純三郎とは5歳差である。住所はコネチカット州ニューヘブン、ヨーク通り162番地で、イエール大学構内である。勤務先はチャピタル通り1084番地の大学レストランで、知人の名前としてYale Hope MissionのJohnstonさんが挙げられている。年齢は60歳とある。Yale Hope Missionとは貧困者へのシェルターのような施設を運営していている組織である。

 もうひとつの書類は1930年のCensusという人口調査の書類で、そこにはハナオカ ワカ(コック)とハナオカ タキ(メイド)と一緒に、山田四郎の名がある。年齢は37歳、独身、移民した年は1900年、Private Familyに執事として勤務しているとある。上の登録書とは一部矛盾する、1930年であれば、年齢は48歳であるが、37歳と偽っている。さらに勤務先の人物として、弁護士のMarshal Stearnsの名がある。妻シャーロットの他、同名の息子と二人の娘がおり、ここに四郎始め3名のコックとメイドが勤務していた。住所はコネチカットのNEW CANAANという町である。

 青雲の志を持って、故郷を後にしても、必ずしも成功するとは限らない。いや僥倖を得た一部のものだけがたまたま成功するだけなのであろう。仮に名声を得られなくても、その人生もまた歴史である。山田四郎、その生涯のごく一部が今回の資料から伺うことができようが、それをもって幸、不幸を論じることはできない。せめて、その一端を開帳することで、供養としたい。士族の矜持が、ついには故国への帰還を許さなかったかもしれないし、それは兄、良政、純三郎とも通じる。山田四郎の亡くなったのは、1963年1月であった。81歳であった。

なお山田清彦の名は、弘前市立朝陽小学校同窓会名簿—創立120周年記念—に見られる。朝陽小学校、明治11年〜明治20年入学者の中に在府町山田清彦とあるが、ただ四郎の名はない。在府町であるから、学区としては朝陽小学校になるはずだが、純三郎、四郎の名は見当たらない。

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