2012年3月6日火曜日

須藤かく 1



 日系では最初の女医である須藤かくについて、多少わかってきたので、少し記述したい。

 須藤かつは、弘前藩士須藤勝五郎の娘?として、1861年1月26日に弘前市若党町に生まれた。実家の2軒隣には、笹森順造の実家(笹森要蔵)がある。父親の勝五郎は代官、弘前藩が持つ西洋帆船安斉丸の船将などをする名家で、維新後は熱心なキリスト教徒として藤崎教会などで活躍する。

 須藤かつが生まれた時代は、女性にとっては狭間期であり、当時女子の高等教育機関は日本にはほとんどなかった。東北で最初の女性教育機関である函館の遺愛女学校が出来たのが、1882年(明治15年)であり、今東光の母、綾などは、第一期あるいは第二期の入学者であった。ただこの時、須藤かつはすでに21歳でいささか歳をとりすぎている。当初遺愛女学校に通ったと考えたが、後述する本人の話から、日本で最初の女子教育機関のひとつである、1875年(明治8年)にできた横浜共立女学校に、どうやら行っていたようだ。かく、14歳で辻褄が合う。進取の考えである。そこでキリスト教徒になった。

 その後、宣教医のアデリン・ケイシー女史の勧めで、友人の阿部ハナと一緒に、1891年に渡米し、1893,4年ころにアメリカ、オハイオ州のLaura Memorial College(シンシナティー女子医学校、シンチナティー大学医学部、シンシナティ在住の知人よりの情報)で勉強し、1896年4月に卒業して、医師となる。アデリン・ケイシー女史がPresbyterian派の信者であったので、同系列のこの大学に入った。

 1898年ごろに日本に布教のために帰るが、その直前にシカゴトレビューン紙での記事(1897.10)があるので、大雑把に訳した。当時、須藤かつは36歳で、下写真に示す新聞の肖像画にはコメントはないが、おそらく左の女性が須藤かく、右の若い女性が阿部ハナであろう。


エバントンの日本女性

ミス須藤かくとミス阿部ハナが、ファーストプレスバイタリアン教会で話す。

二人の日本女性、ミス須藤かくとミス阿部はなが、日本の古風な衣装を着て、エバントンのファーストプレスバイタリアン教会の演壇から大勢の聴衆の前で昨夜話した。
 彼女らは現在、布教のために日本での外科と医術をこれから行う途上で、この国のEastern大学で学びながら、最後準備をしているところであるが、キリスト教信仰への転向についてはこれまで伝えたことはない。
 彼女らは小さく、座ると脚が床につかなかった。ひとりの衣装は緑、もう一人は紫の衣装であった。祈りの間、彼女らは巨大な日本の扇を顔の前に置いていた。
 ミス阿部ハナが最初に話した。彼女の声は鮮明で、彼女のマナーはシンプルであった。彼女は話している間、手は体の前にじっとしたままであった。
“日本を去ってからすでに6年間がたちました。”と話し出した。“そこではミッションスクールに行っていました。私の両親はキリスト信徒でもなく、学校に行くまで唯一の神については何も知りませんでした。日本には多くの神がいて、それぞれの寺がありました。最初に神について聞いたときは、私にとっては不思議なもので、馴染みのないものでした。しかし次第に聖書に興味を持つようになってきました。聖書の教えから特別な痛みをいただきました。当時、私が入ったミッションスクールには70名の生徒がいましたが、年輩の生徒の幾人かは信徒でした。彼女らは教えを広めるためにいつも外で活動していました。彼女らは実に真摯でした。平穏と同情、そういった類いのことを与えていました。私も若かったので、彼女らの美しい性格に強く感動いたしました。”
“ここで、私は多くの幸福を持つことができました。主は多くを与え、祝福してくださります。我々は真摯に主に仕えれば、多くを与えてくれます。”
ミス阿部ハナが演壇をおり、席にもどった。そしてボイド医師から彼女の仲間であるミス須藤かくが紹介された。
“両親はミッションスクールに行けば、英語を学ぶことができると言いました”彼女は続けて、“私はうれしくて、キリスト教のことも何も考えないでそこに行きました。ある日曜、先生があなたの神は本当の神ではないと私に話してくれました。彼女はすべての生徒は一度教会にいきなさいと言うので、ある日、私も教会に行きました。みんなが祈りのため、ひざまずく中、ただ一人椅子に座ったままでした。信徒の女子の中でひとり違和感を感じました。彼女らはやさしく、誰にも愛情深かった。私はどうして彼女らはあんなに愛情深いのですかと尋ねました。それは主を愛しているからだと私に話してくれました。もしこの宗教が人々の心を変えるのであれば、これこそ本当の神だと考えました。そして私もキリスト教徒になったのです”
アメリカ人ミスアデリン ケイシー(Adeline Keisey)は、宣教のため日本で活動し、この二人の日本人女性をつれてきた。



 ここでのアデリン・ケイシー(1844- )は、須藤かくの師匠にあたるひとで、1875年にニューヨークのNew York Infirmary女子医大を卒業後に最初は中国に医療宣教の目的で行き、その後1885年に日本で活動した。22年間、日本で活動した後に、1907年に帰国して、ニューヨークのOneida Countryで150エーカの農園で余生を過ごした。その際に、農場の管理および自分の世話のために一緒に暮らしたのが、須藤かくとその親類の成田八十吉である。1930年の人口調査では、ケイシー86歳、独身、須藤かく、58歳、独身、成田八十吉、60歳、既婚となっている。須藤かくがアメリカ人に来たのが1891年、成田八十吉は1914年となっている。職業は、かくは無職、八十吉は修復師(repair)となっている。この人口調査では須藤かくの生年月日は1872年になるが、墓標による生年月日では1861.1.26-1963.6.4となっており、102歳でフロリダのSaint Cloudで亡くなった。米国在住の知人によれば、こういった類いの調査は、聞き取り調査でいいかげんなもので、日本人は若く見られたようだ。つまり1930年では須藤かくの実際の年齢は69歳となり、かく自身も引退していたのであろう。

*主として、前回初回したFold3よりの引用である。また「須藤勝五郎の生涯 弘前藩士の信仰の軌跡 安済丸船将」 佐藤幸一 著は入手できなかったため、すべて推測で記述した。弘前図書館にあれば、もっと確実な情報が入手できるので、訂正したい。

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