2012年3月17日土曜日

須藤かく 8






































 私にとってブログは、その日にあったこと、考えたことを日々書き付ける手段で、いわばメモ代わりに使っている。そのため、時系列的にみると、とんでもないことを書いていて、間違いも多いが、敢えて訂正は行っていない。須藤かくについても、ここ2週間ほどで急速に情報が集積したため、本来なら集めた情報を整理して呈示すべきであるが、情報に接した瞬間にブログに載せるようにしているため、読者にも混乱を招くこともあろうがお許し願いたい。

 その後、横浜プロテスタン史研究会の方に須藤かくについて問い合わせたところ、お忙しいにも関わらず、昨日、わざわざご返答いただき、さらに横浜共立学園資料室までお問い合わせていただいた。この場をお借りして感謝する。

 須藤かくは、横浜女学校の卒業制度施行前の修了生で、当時の主な在校生として、二宮わか 1876-1881(修了)、稲垣ぎん、吉田まち 1877-81在学、岡見京子 1878(修了),渡辺かね 1882(卒業), 木脇その 1882(卒業),阿部はな 1886(卒業)がいた。終了まで7年かかると思っていたが、卒業制度前は5年ということか。そうすると須藤かくが共立女学校にいたのは明治9年から14年ころとなる。1876-1881となり、二宮わかの在校期間とほぼ一致するし、同郷の岡見京子とは2年ほど、同じ学校にいたことになる。さらに阿部はなは、卒業となっているから、7年の修学期間を要したとなると、在校期間は1879-1886となり、2年ほど一緒だったことになる。また阿部はなについては、バイブルリーダーの手紙として、英文の手記が残っているようだ。二宮わかは、横浜市不老町に貧者のための警醒学校を、後には相沢託児園、横浜慈善病院、神奈川幼稚園を、さらには中村愛児園などを設立し、女性として多大な社会活動を行ってきた人物である。年齢も同じで、何となく須藤とは仲の良い友達、同志だったような気がする。Dr. Kelseyについては、1885-1890に横浜で活動していたようで、須藤かくが共立女学校卒業後に出会った。横浜根岸病院の閉鎖の理由として、仏教徒による反発、ドイツ学派との軋轢などを以前のブログで挙げたが、教会の財政的理由で、医療伝道が中止となり帰国が決められたようだ。病院運営には金がかかり、財政的な理由が一番理にかなっている。今回の横浜共立学院の返事から、須藤かく、阿部はなともに共立女学校にいたことが確認できた。

 昨日は、他にも、「武士の娘」の著者杉本鉞子のご研究をされている長岡在住の方を介して、シンシナティー美術館の学芸員の方からのお手紙をいただいた。何でも、美術館に2つの日本の甲冑があるようで、その由来を知りたがっている。Dr,Kelseyが日本から持ち帰り、シンシナティー美術館に寄贈しため、学芸員は須藤かくから貰ったものではないかと推測している。かなり詳しく調べているようで、すぐに甲冑の写真を送ってもらうことにした。こちらからの返事は英文のため、書くのに随分苦労したが、先ほど送信した。その返事には、横浜には多くの外人向けの骨董屋があり、ケルシー医師はそういった店で維新後価値のなくなった武具を買ったのではないかと答えた。ただよく考えると、医療伝道自体が財政的な理由で成り立ちにくい状況で、こういったものを買うかという疑問が残る。六甲学院の神父にしてもほとんど私物はなく、質素な生活をしていたことを考えると、買ったよりは、日本の信徒による寄贈品であった可能性もある。ケルシー医師のコレクションは、母校のMt. Holyoke大学美術館にもあるので、一部載せておく。

 昔だったら、こういったことを調べるにも、横浜やシンシナティーに調査に行く必要もあったろうが、今ではインターネットで簡単に調べることができ、本当に便利になった。それでもブログでは適当なことを書いても許されるが、いざペーパーにするとなると、実際のものを確認する作業が必要で、それは今でも大変であろう。

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