2023年3月27日月曜日

青春時代 鹿児島編2

 

エッジロックブラケット 最初のセルフライゲーションブラケット



入局して3年後には、宮崎医科大学の歯科口腔外科に出向となった。宮崎医科大学は、今は宮崎大学医学部となったが、当時は宮崎市のはずれ、清武町という小さな町にある単科大学であった。教授、助教授、助手4名の小さな講座であったが、その助手の1名が鹿児島大学歯学部矯正歯科からの出向であった。もっぱら唇顎口蓋裂や顎変形症の患者の矯正歯科治療を担当した。それでも矯正患者は少なかったので口腔外科の外来、新患対応、埋伏親知らずの抜歯などをしたし、唇顎口蓋裂患児の口唇形成術、口蓋形成術、骨移植術や、顎変形症の手術は全て、第二、第三助手として手術室に入った。また当直は助手以上の仕事であったので、週に1回あるいは2回は当直を行った。通常、入院患者は7、8名だったので、夕方、数名の患者に点滴を行い、体調を聞き、当直室に入って寝る。時々、患者の訴えにより起きることもあるが、たいていは大きな問題がないが、深刻なガン患者については急激な体調悪化もあり、緊張する。稀に交通事故による救急患者が夜中に来ることがあるが、骨折があっても早急な処置が必要ないために、翌日の朝まで経過観察する。ただそれまで小児歯科、矯正歯科しか勉強していなかったので宮崎医科大学では若手の医局員に混じってCTや胸写の見方、一般検査、全身管理について勉強した。

 

鹿児島大学ではバイトが禁止であったが、宮崎医科大学では継続のバイトがあったので、近くの大きな病院の歯科に週一回行って主として抜歯をしたので、結構抜歯が上手くなった。わずか1年の口腔外科への出向であったが、顎変形症の手術、入院、管理など全て体験できたので、その後、直接治療することはないが、患者を口腔外科に紹介するときに役立った。また唇顎口蓋裂患者についても、口唇形成術、口蓋形成術、骨移植術などの手術を第一助手として見られたことは、大きな経験となった。

 

 出向して鹿児島大学に戻ると、外来長となり、新人教育のシステム、外来の滅菌システム、担当医制度などに取り組んだ。新人の教育システムは、他大学のそれを参考にしてリフレッシュしたものなので、それほど苦労しなかったし、滅菌システムも、できるものとできないものを区別しただけで、今では当たり前になっているゴム手袋についても、予算の関係上、実施できなかった。ただ矯正治療に使う機材については、できるだけ滅菌したもの使うようにしたため、この時期、かなり大量のプライヤー、カッター類を購入した。一番、苦労したのはグループ診療から担当医制度への移行で、一旦、全ての患者のカルテを一人で見て、不正咬合の種類や治療経過、マルチブラケット治療などによって、配当数や患者を決めたが、これには時間がかかった。1000人の患者がいるとすると、全ての患者の経過を把握して上に、あまり偏りのないように6つくらいのグループと助教授、教授の患者を割り当てた。また担当医制度になると、治療状況、内容の把握ができなくなるために、2年間の新人教育が終了するときに、各自が担当した全ての症例について、皆の前で発表してもらい、その仕上りについて議論することにした。同時にグループごとにうまくいかない症例や珍しい症例については、外来長特権で、外来で指摘して、症例検討会に提出してもらうことにした。

 同期には台湾からの留学生がいて、今は台湾の苗栗市で開業しているが、次の年は台北市で、矯正専門で開業している先生が、博士号取得のために2ヶ月ごとに2週間くらい、研究に来るようになり、また他にはイギリス、クロアチア、中国からの留学生も来るようになった。イギリス、クロアチア、中国からの留学生はほとんど日本語ができなかったので、新人教育は全て英語でしたため、ずいぶん無茶苦茶英語が上達した。中国からの留学生は博士号取得も兼ねていたので、私自身、博士号は持っていないが、教授から指導教育を仰せつけられ、姿勢と不正咬合、顎発育との関係についての動物実験をすることになった。マウスを使った実験で、マウスの姿勢を変えるために、マウスの背骨が真っ直ぐになるようなゲージを作り、人為的に丸まった背を真っ直ぐにし、その結果、頭の傾きを変えるようにした。ただどうしても狭いゲージでマウスを飼うとストレスで体重が伸びず、対照群の設定が難しかったが、最終的に姿勢を変えないゲージに入れたマウスを対照群とした。頭位と顎発育を動物実験で初めて立証した研究で、中国から来た留学生は無事に学位をとり、その後、旦那さんと一緒にワシントン大学歯学部に行った。

 

このへんまでで、34、5歳の話で、結局、鹿児島大学に9年間いて、家内の実家のある弘前市で開業し、今年で28年を迎える。

2023年3月26日日曜日

深川江戸資料館から学ぶ

 





先日、東京に行ったときに、1日、自由な時間があったので、江東区の深川江戸資料館に訪れた。小さな博物館で、大江戸線の清澄白河駅に降りたものの、なかなか見つからず、ぐるっと近所を一周して、なんだこんな小さな建物かと思うような資料館であった。

 

資料館の中に入ると、江戸時代の深川の街並みが再現されていて、小さな長屋や商店がぎっしりと並んでいる。家内と二人で見ていると、年配のボランティアの方が「30分くらい、案内をしたいと思いますが、お時間ありますか」と言ってくれ、一つ一つの建物を詳しく説明してくれた。建物自体は全て復元建築であるが、どのような人物、年齢構成の家族が住んでいるかをきちんと設定し、学者の意見を取り入れながら、小物を集めて江戸時代の生活を再現している。長屋の大家の家は精米業もしており、杵があったり、臼があったり、内部はやや豪勢で、二階建てである。長屋の住人の家は、間取りが4畳半くらいしかない。大工の人の部屋は汚く、汚れているが、同じ間取りの部屋でも亡くなった夫が下級武士だった後家の人の部屋はこぢんまりと片付いている。細かい工夫がある。そしてボランティアの人は、そうした江戸時代の庶民の暮らしを、再現された部屋や建物を通じて説明してくれた。とりわけ驚いたのは、火の見櫓で、想像以上に大きな建物であった。江戸時代の街のイラストで説明してくれたが、これくらいの大きさの火の見櫓で、かなり広い範囲の火事を発見でき、その延焼、鎮火などの情報をこの火の見櫓の鐘で知らせた。また堀割にあった船宿と猪牙船も再現されており、その船の大きさに驚いた。テレビの鬼平犯科帳や忠臣蔵に登場する船はかなり小さいが、本物は大きく、頑丈に作られ、ガイドさんの説明によれば、今のタクシーと言うよりはハイヤーに近いもので、そこそこ金がなければ、気安く使えた船ではなさそうなことは、実際にこの猪牙船をみればわかる。

 

一見にしかずと言っても江戸時代の生活を見ることはタイムマシンでもなければ難しいが、この深川江戸資料館でかなり体験することができ、好きな作家、深川を舞台にした小説を書く山本一力さんの作品がより近くなり、そうした意味でも嬉しい。

 

弘前にも、仲町地区に現在、4つの武家屋敷がある。全て復元建築ではなく、実際の建物である。そして玄関にはボランティアの方が座っていて、見学者の方から質問があれば、答えてくれるが、積極的に建物の案内はしていない。また建物にはほとんど調度品はなく、どちらかというと建物の説明が主であり、江戸時代の生活を体験、経験してもらうようなものではない。武家屋敷が観光客のための施設であれば、先に紹介した深川江戸資料館の例を参考にもう少し工夫をした方が良いように思える。弘前の観光について少し考えたい。

 

具体的に言えば、

1.           建物を紹介するのではなく、江戸時代、弘前の士族の生活を説明する、体験してもらう。

以前、旧笹森家で旧弘前藩の武術の紹介があった。長い刀をどのように狭い部屋で使うかなど、初めて知ることばかりであった。また江戸時代の行燈や明治時代のランプなど、電気が普及するいぜんの夜の暗さは一度体験してみたいし、料理の作り方、食事の仕方なども時代劇のテレビや映画でそうした光景を見ても、実際の場面は知らない。こうした江戸時代の生活を体験する場として仲町の武家屋敷の活用を希望する。

 

2.           積極的なボランティアの活用とガイド

深川江戸資料館で案内していたのは5、6名の年配の方で、全てボランティアと言っていた。来館したのが平日の午前中で、来館者は少なかったが、日曜休日はもっと来館者も多く、ボランティアも多いのだろう。弘前市にも観光ボランティアガイドの組織があり、桜まつりの時は弘前城内にテント小屋を作り、希望者があれば、ボランティアガイドが城内を案内している。ただ期間外では事前に予約していないといけないし、博物館、武家屋敷、弘前城資料館、レンガ倉庫美術館、禅林街にも常時のガイドはいない。弘前に来る観光客は多いが、来てもあまりガイドによる案内もないままで終わるのだろう。旅行の思い出は、景色だけではなく、地元の人々との触れ合いも大きな要素であり、そうした意味では、地元の人によるガイドは大きな思い出となる。

 

3.           観光案内の掲示

深川江戸資料館は小さな建物だったので、見つけるのは苦労したが、それでも街のあちこちに案内図や看板などがあり、観光客へのおもてなしの気持ちが見つかる。それに比べて弘前市は観光地のくせに街の中には案内板や説明の看板は少ない。唯一あるのは、30年ほど前に作った町名の標柱くらいで、これも相当汚くなっている。駅前から中央通り、土手町、弘前城周辺などにはもっと多くの案内図を掲示すべきであろう。また明治2年弘前絵図は、私がデジタル化しており、これを利用しアプリにして現在地をこの絵図上で示せば、昔の弘前を街歩きできる。希望があれば、自由に私のデジタルデータを使ってもらって構わないし、事実、数年前には弘前青年会議所で使ってもらった。ところがいまだに弘前市から何らかのアクションはない。こちらから売り込むようなものではないが、もっと活用してほしいところである。

 

4.           外国人観光客への対応

深川江戸資料館にも、フランスからの団体客が来ていたし、東京都庁の展望台はその9割が外国人観光客で、コロナも終了して、これからは外国人観光客も増えそうである。都庁ではこうした外国人向けのボランティアガイドがいて対応していたが、流石に英語以外の各国語の対応はしていないが、深川江戸資料館の年配のボランティアガイドの人は、果敢にフラン人観光客に時折英単語を交えて説明していた。通じないかと思ってみていると案外わかっているようで、何も英語が堪能でなくとも案内はできると思った。英語の勉強も兼ねて弘前城など外国人観光客が集まるところでは、若い人の観光ボランティアを募集してもいいのかもしれない。その場合、詐欺とか警戒されるために、少なくとも弘前市の正式なガイドを示す証明書やTシャツくらいは発行しても良い。

 

私もそろそろリタイアの年齢になってきたが、できれば体が健康であれば、こうした観光ボランティア活動をやってみたいし、これまで集めた絵図や地図など、活用できれば嬉しいことであるので、希望があれば是非ご連絡してほしい。



2023年3月19日日曜日

青春時代 鹿児島編 1

 



鹿児島大学歯学部歯科矯正学講座に入局したのは、昭和60年(1985)であった。当時、矯正科には15名ほどの医局員がおり、教授、助教授に、助手が4名で、大学院生が1名、そして医員が8名ほどいた。全く矯正歯科の経験のない私を助手として採用してもらったのは、今の家内と結婚しようと思っていただけに本当に助かったが、入局して3年目の先生もまだ助手になっていないだけに肩身が狭い思いもした。先輩からは少し嫌味めいたことも言われた。当時の附属病院は矯正歯科と小児歯科が同じフロアにあり、受付も兼用で、両科の交流は活発であった。小児歯科の先生が矯正科に研修に来たり、逆に矯正歯科の先生が小児歯科に研修に行ったりした。また学生実習も両科が一緒に教える体制であり、そうした架け橋をより強固にするために、小児歯科出身の私を矯正歯科の助手に採用してくれたのだろう。

 

鹿児島大学矯正歯科は、全国の歯科大学に比べても非常にユニークなところであった。まず担当医制、患者を先生に配当してその患者を診る、のではなく、グループ診療制をとっていた。グループ診療というのは、全患者をみんなで診るというもので、具体的に言えば、午前中は検査の時間で、すべての患者は半年ごとに検査をする。朝、外来に行き、適当にチェアーに座ると、患者のカルテが置かれる。まず患者が歯科用ユニットに座ると、口腔内写真と顔面写真を撮る。そしてすぐに印象を取って、レントゲン(セファロとパントモ)のオーダーを放射線科に送り、患者の撮影をお願いする。その間に、技工室に行き、超硬石膏を真空練和器で練って注ぐ。固まり次第すぐに石膏トリマーで削る。そうこうしているうちに患者のレントゲンが出来上がる。そしてその場で、トレースして分析し、過去の分析結果や模型などから今後半年間の治療計画を立てる。1時間くらいでここまでして、教授対診となる。教授にこれまでの経過と、今後の計画を説明し、いろんな質問を受けて、問題なければ、OKなのだが、まごまごしているとカンファランス提出となる。これは週に2回ほど、外来が終わってから行うもので、規定の書式に則って治療計画をまとめて、医局員分をコピーして渡し、皆で議論する。運が悪いと週に3つ以上の症例をカンファランスに出すことになり、地獄である。午前中は大体2名くらいを検査し、午後は同じく、患者が来れば、それぞれの先生がワイヤーを変えたり、装置の型を取ったりと忙しく、4、5名は診た。毎回、患者が変わるために、カルテを見て素早くその日の治療を決めなくてはいけない。一応、助手の先生には聞いてもいいのだが、他の先生も忙しく治療しており、聞きにくい。当時はまだ新人教育のシステムができていなかったので、習うより慣れろで、必要に応じて教科書を見たり、流石にマルチブラケット法については最初の2ヶ月くらい、タイポドント実習をしたが、それだけであとは実践で鍛えた。

 

治療システムも変わっていて、オームコの「エッジロック」というセルフライゲーションブラケットを使っていた。ミラー、エンドカッター、ホウプライヤー、バードピークプライヤー、オープナーが基本セットで、このセットを金属トレーで滅菌パックに入れて、中央滅菌室で必要数を滅菌する。ほぼワイヤーを外して入れるだけだったので、それほど時間が掛からなかったが、撤去の場合は、まず教授を呼んで、撤去していいか確認し、OKが出れば、装置を外して、すぐに印象をとり、模型を作り、そしてホーレータイプの保定装置を作る。ここまで2時間ほどかかる。当日の撤去、保定装置装着が基本であった。

 

グループ診療のいい点は、大学に来ている全患者の治療にタッチできることで、毎回、違った患者を見ていると、2、3年も外来治療していると、あらゆるタイプの不正咬合に接することができる。そのため自分で開業しても、大方のケースが大学病院で経験しているので、それほど困ったことは少ない。例えば、外科的矯正や唇顎口蓋裂の症例については、大学によっては矯正科の中のチームで対応しているところがあり、そうした大学でチームに入っていなければ、開業してもこうした症例を扱ったことがないことになる。一方、鹿児島大学では、毎回違った患者のこれまでの経過や今後の治療方針を検討するので、かなりの症例に接することができた。

 

ただこのグループ診療は、その後できた日本矯正歯科学会の認定医制度に馴染まないので、私が外来長をしていた時に、一般の歯科大学と同じ担当医制度に変えた。認定医制度では、基本的に同じ術者が最初から最後まで診た患者の症例を提出するために、グループ診療の患者は認められないからである。ただグループ診療の良さも残したかったので、4つくらいのグループにわけ、それぞれの担当指導医(助手)を決め、4、5名の新人、医員を配置した。そしてグループごとに例えば200名、新患も適宜配当し、症例の難度に合わせて、指導医、医員、新人に配当してもらう。時間があればグループ内の他の患者のことも把握するようにした。また同時期から新人教育のシステムも確立するように教授から言われた。まずプロフィットの「現代歯科矯正学」をテキストにしようと考えたが、当時、まだ和訳がなく、仕方がなく英文の輪読形式で新人と一緒に読んでいったが、そのうちの大阪大学の高田先生の名訳が出たので、それ以降は、全ての医局員にこの本を購入させて、新人教育のテキストとした。さらにアングルの論文やビヨルクの骨発育の論文など、いわゆる矯正歯科の分野における基本的な論文50くらいのリストを作り、それも新人教育に使った。同時にタイポドント実習も各指導医に任せて、Class I、 II、 IIIの症例について、ワイヤーベンディング、ロウ着などの技法とともに教えてもらった。

 

2023年3月12日日曜日

江戸が消えたのはいつから

 







先日、亡くなった渡辺京二さんの「幻影の明治 名もなき人々の肖像」を読んだ。大著の「逝きし世の面影」ほど内容の濃い本ではなかったが、渡辺さんの歴史についての視点は面白い。特に司馬遼太郎史観については手厳しい批判を加えて容赦ない。「司馬が日本ほど小さい国はなかったという事実に合わぬ不思議なことを言い出すのは、実はこのゼロから始めた近代化ということを強烈に印象づけるためだ」、そして「私は司馬史観なるものの構図に、いくつかの疑念・異見をもつ。ゼロからの近代化というのがまず問題で、明治の近代化の成功は徳川期の遺産によるところが大きい」。どうして隣国の朝鮮、中国が日本と同時期に近代化がなされなかったかを見ると、渡辺さんのいうように日本では徳川期の遺産が大きく、関与しているように思える。イギリスで産業革命が起こり、欧米を中心に近代化が急速に広まったが、その後、欧米以外のアジア、アフリカ、南米などの国で、日本ほど短期に、そして順調に近代化した国はない。

 

江戸時代、特にその後期の識字率は、70-80%くらいあると言われ、農民の子供でも村の寺子屋のようなところに行き、文字と簡単な算数を習っていたし、村を束ねる名主になると、個人的に漢学、国学を学び、アマチュアながら高い見識を示す者が多数いた。もちろん明治になって小学校ができたが、初期の頃の就学率は低かった。これは親が子供に学問をさせたくなかったのではなく、それまでの寺子屋での学問で十分と考えていたからである。明治時代にできた小学校を卒業生、さらに高等教育を受けた人が指導者として活躍するのは、明治40年以降あるいは大正に入ってからと言ってもよい。例えば、明治37年の日露戦争に関係する政治家、伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、小村寿太郎など全て、江戸時代の教育を受けた人物だし、実際に戦争をした軍人、児玉源太郎、乃木希典、東郷平八郎なども同様で、ようやく少佐級で、例えば広瀬武夫少佐は、明治の小学校を卒業して、東京の攻玉社に入り、そこから海軍兵学校に進んだ。文学者でいえば、夏目漱石、正岡子規以降くらいが明治期の教育を受けた世代である。ただ正岡子規についていえば、89歳の頃から外祖父の大原観山から漢学を学んでいるし、夏目漱石も15歳の時に漢学塾二松学舎に入学して漢学を学んでいる。このことは、明治になり小学校では近代教育を受けたが、親の世代、特に旧士族においては、漢学、漢詩は教養として必須のものとして子供に学ばせたのであろう。

 

手元に最近手に入れた明治の外交官、珍田捨巳の手紙がある。珍田は安政3年生まれの完全な江戸人とみてよい。その手紙は、漢学の素養と正式な書を習った人のものであり、20歳でアメリカの大学に留学して、日本語より英語の方がうまかったという人物の手紙とは思えない。私にはほとんどわからない崩し字であるが、当時の人は珍田の手紙をスラスラと読めたであろう。戦後の政治家でいえば、吉田茂は幼少時の頃から漢学を習っていたので、珍田の手紙も全く抵抗はなかったと思われるが、これは特殊なケースで佐藤栄作、田中角栄などは読めなかったと思われる。おそらく江戸時代の最大の遺産、あるいはエトスと言って良い漢学の遺産が完全に払拭されるのは、少なくとも昭和に入ってから、それも祖父の代に漢学を習った人がいない、つまり戦後になってからであろう。昔、台湾の故宮博物館に行ったときに、知人の矯正歯科医に展示されている中国の書について読めるかと聞くと、「読めない。今の人で読める人はほとんどいない」といっていたが、全く日本と同じ状況である。おそらく明治期の教養人、例えば、森鴎外にすれば、江戸時代の書物を、私が文庫本を読めるのと同じ感覚、全く抵抗なく読めたのであろう。

 

珍田捨巳は、幼少の頃から優れた儒学者について漢学を学び、さらにきちんとした書を学んだ。英語については東奥義塾で全ての授業を英語で受け、その後、アメリカのアズベリー大学で弁論部に所属し、優秀な成績を収めた。英会話は津軽訛りのある日本語よりうまかったし、英語の本は自由に読めたし、英文も自由に書けた。完全に漢学と英学を自由にできた人物であったが、精神の中心は儒学を主体とした士族のそれであったろう。少なくとも明治のエリートは、子供の頃に習った漢学のバックボーンが教養としてあったが、昭和のエリートは、そうしたバックボーンがない無責任な官僚化を示した。

 

さらに思うのが、電話が家庭に普及する昭和3040年まで、人との連絡手段は、手紙しかなかった。手紙は、その内容だけでなく、字の上手い下手が、人物を表すため、筆で字を書く機会が多いだけでなく、正式に書道を習うことも教養人にとっては必要不可欠なことであった。大正8年生まれの、私の父親も晩年、日本芸術院恩寵賞をもらった同郷の書家、小坂奇石から書を習うくらい、書くのは好きな方だった。ただ、父親は歯科医だったので、手紙を日常的に書くようなことはほとんどないし、学生時代のノート見ても、ほぼ楷書のよる丁寧な字で書かれている。間違いなく珍田の手紙を読むことはできない。一方、明治20年代に生まれた母方の祖父は、徳島の田舎で生まれた商人であるが、残された書付などをみると達筆で、頼まれれば揮毫するほどであった。当然、珍田の手紙は読めたし、そうした手紙も書いたのであろう。要するに漢学を学び、毛筆で、崩れ字で手紙を書く世代は、大正生まれの世代くらいからは次第に少なくなり、その世代が社会にでて、ある程度の地位を得る、昭和3040年代には全く消滅したとみなせる。

 

ややテーマーがずれてきたが、漢学、毛筆、崩れ字による手紙という江戸時代の名残は、明治いっぱい続くが、次第に小さくなり、昭和3040年頃には消滅していったと思われ、それとともに専門家以外に江戸時代の本、冊子、手紙を読むことができず、ここに江戸との文化的断絶が生じたのだろう。一つの文化が、消滅するには、当たり前のことであるが、結構時間はかかり、三世代を要する。これは日系アメリカ人にも言えて、祖父の代に渡米しても、完全にアメリカ人になるのは三世くらいとなる。


2023年3月9日木曜日

青春時代 仙台編2




当時の音楽は、ネットもなく、主としてレコードを買って聞くというのが主流で、高校生の頃から好きだったロックは大学生になっても聴いていた。ブリティシュロックから、アメリカのサザンロック、リトル・フィート、チェース、さらに派生してリンダ・ロンシュタット、レオン・ラッセルなども好きでよく聴いた。さらに1970年台になるとそれまでの難解なモダンジャズから、1950年代のビバップに再考が始まり、チャーリー・パーカー、アート・ペッパー、ジョーン・コルトレーン、スコット・ハミルトンなど、あるいはフュージョン系ではジャズクルセーダズもよく聴いた。ただチューリップ、かぐや姫、オフコースなどの日本の曲はほとんど聴いていないし、クラッシックとなるとちんぷんかんぷんであった。当時の自慢は、仙台の街中を歩いていると、向こうから三人組の黒人が来る。私はすぐに、その一人がクルセーダズのジョー・サンプルと気づいて、声をかけたことがあった。手を振ってくれた。何かの公演で仙台に来ていたようだが、他の人はあまり気づかなかっただろう。


 

風呂は近所に銭湯があったので、2日ごとに行っていたが、ある時、でかい黒人の人が5名ほど風呂に入っていて、他には客がいないこともあって、緊張した。結局、この上杉荘には歯学部卒業までの4年間、お世話になった。ストーブはあったものの、灯油を買いに行くのが面倒で、あの寒い仙台でこたつだけが暖房であった時期が長かった。また洗濯は近所のコインランドリーに行ったが、山盛りになった洗濯物の上の方を紙袋に入れてコインランドリーに行くので、いつまで経っても山盛りの下の方の洗濯物が洗濯できない。一応は炊飯器やフライパン、鍋もあるので自炊はできたのだが、魚など買うと、残飯の始末が面倒で、臭いもしてくるので、できるだけ、残飯がなく、後片付けの少ないものを自炊した。結局、肉入り野菜炒め、丸味やの麻婆豆腐、刺身とご飯というコンビか、レクルトカレー、インスタントラーメンもよく食った。ただ部活をして帰ると8時頃になるので、どうしても外食が多かった。日曜日は、試合のない時は、仙台の繁華街、一番町に自転車で行き、大抵は名画座で2本立ての映画を見た。一番多い年は、年間100本以上は見ている。近くの店で食事をして、レコード店、本屋を見て、その当時できた喫茶店、「モーツアルト」でコーヒーを飲むのが最高の贅沢であった。ヒゲを生やしたマスターがカウンターの裏で黙々とコーヒを作り、ここは東北学院の綺麗な女の子がバイトしていて、それも楽しかった。これでガールフレンドでもいればいいのだが、最終学年の6年生になるまで、全く彼女ができず、そうした意味では寂しい青春であった。別の女嫌いというわけではなく、好きな人もいたが、男子校あるあるで、なかなか女性と気軽に話せられず、緊張してしまう。合同コンパ(合コン)もかなり参加し、大学生時代、計40回以上はしている。歯学部は、医学部ほどお堅いイメージがないので、宮城女子学院や東北学院などの掲示板に“合コンしませんか”の張り紙をすれば、すぐに応答があった。OL、看護師、デパートガール、東京に試合のために出向いた時には東京女子大とも合コンしたし、1対1や、1日に2回の合コンもした。ところが、合コン後、気になる子がいて1、2度デートしただけで、そのまま自然消滅するパターンが多かった。今とは違い、昔は携帯電話もなく、電話をするのは公衆電話あるいは、受け取る時は何と大家さんに呼び出してもらった。隣に住む大家さんから「広瀬さん、電話ですよ」といわれ、サンダルで隣の家に上がり込み、「すいません」と言って、電話をとる。これではなかなか彼女に連絡できない。自分の部屋にに電話を引いたのは、結局、大学を卒業してからで、一階の同級生が電話を入れたのを機に、大家ではなく、そこに電話してもらうようにしていたが、これも大変なことであった。さすがに手紙で連絡しあうということはなかったが、それでも公衆電話から彼女に連絡すると、必ず親が出てきて毎度、緊張した。

 

学校の方は、もともと数学や物理など考える教科は全くダメだが、暗記ものは得意で、医科歯科系の教科はほぼ90%が暗記ものなので、暗記ものが強い人には向いている。特に解剖は骨の名前はラテン語で覚えるため、論理性を無視してひたすら覚えるだけであるが、これは結構得意であった。そんなわけで、国試も含めてそれほど学校の試験で苦労したことはないが、一度、精神科の授業の出席日数が足りず、障害者センターに見学に行ったことがある。高校生くらいの年齢の人が多い施設であったが、いきなり女の人が私のシャツの中に手を入れてきてびっくりしたことがある。職員に聞くと、若い男性に興味があり、触りたくなるようだと言っていた。このまま施設を出れば、彼女はどうなるかと思い、障害者の性について、関連本を読んでレポートで提出して、何とか合格した。家からの仕送りは、7万円、そこからアパート代や光熱費を引くと、だいたい4万円くらい残るので、食費、服代、遊興費を入れても十分だったので、学生時代、アルバイトをしたことはない。ただ大阪に帰省する交通費はないので、その時は、実家に電話して交通費を出してもらった。実際、歯学部医学部では、カリキュラムがぎっしりとあり、帰るのは4時頃で、その後、サッカー部の練習に行っていたので、帰りは7、8時頃で、食事をすれば、アルバイトする時間はほとんどなく、幸い仕送りも多かったので、何とか生活できた。今と違い、学生のアルバイトといえば、家庭教師くらいしかなく、数学、物理に嫌いな私にとっては、受験勉強に関わるのはもうこりごりだった。

先日、高校の先輩、大森一樹監督の「ヒポクラテスたち」(1980)を観た。京都府立医大の話であるが、当時の歯学部生もこんな感じで、今の学生の方がよほど真面目で、熱心に勉強している。基本的には。全ての試験はギリギリで通り、留年しなければよく、成績評価はあったとは思うが、見たことがない。多分、留年の場合は通知があったと思うが、そうでなければ、そのまま進級し、成績がいいかどうかもわからなかった。さすがに国試の前になると、かなり緊張し、久しぶりに勉強した。学年から二名ほど国試対策委員が決まり、東京に出張して、全国の国試対策委員と協議する。国試の問題を作る先生がいる大学から、その委員が今年はこんな問題が出るという情報を得るが、ほとんどはガセネタであった。今はないが、当時は筆記試験だけでなく、実地試験もあり、歯型彫刻、エンドの根管口明示、形成、義歯人工歯配列などがあったが、この練習は大変であったが、卒業後に本当に助かった。

 

当時は卒業生の80%が大学の医局に残ったので、最終学年になると、各医局から勧誘される。私の場合は、男性の先生が少ないということで小児歯科から強引に誘われ、それほど子供が好きでもなかったが、早い時期から入局が決まっていた。入局したのは私も含めて男性が二名と女性が一名で、最初の1年間は教授がつきっきりで診てもらい、小児歯科の基礎的臨床技術を学んだ。2年目は、う蝕の基礎的な研究を手伝うかたわら、合同外来という唇顎口蓋裂児の矯正治療を行なっているところに半年ほど出向し、そこで矯正治療の基礎を学んだ。次第に小児歯科より矯正歯科に興味を持ったが、当時、同一大学で転科するのは御法度であったので、給料のもらえる助手で採用してもらえるところを探したところ、合同外来の幸地省子先生から鹿児島大学歯学部矯正歯科の伊藤学術先生を紹介していただき、トントン拍子に話が進み、鹿児島大学の助手として採用された。そうして9年間いた仙台を去った。









 


青春時代 仙台編1

 






私が一浪して東北大学に入学したのは、昭和50年、19歳の時であった。どこに住んだらよいか、仙台の地理感が全くなかったので、何かのパンフレットで見た八木山の食事付きの寮のようなところに入った。まるで牢獄のようなところで、部屋は3畳くらいで、ベッドと机を入れると、ほぼ隙間はなく、食事は朝と夜、一階の大食堂で食べ、風呂は大浴場というところであった。ここからバスで東北大学の教養部まで通うのであるが、授業を終わり、サッカー部の練習をして、バスで帰るというワンパターンの生活は本当にきつかった。山の上にあることから、仙台の繁華街に行くことも滅多になく、ここでは高校三年生の頃の家庭教師に勧められた100冊の本を2年間で読み込んだ。

 

さすがに学部に行くのはここからは遠いので、大学3年生になるとサッカー部の後輩の親がオーナーをしている上杉にあったアパートに引っ越した。確か家賃は25千円くらいで8畳くらいの部屋にしては当時でも安かった。風呂はなく、便所は共用、一口コンロと小さなシンクがあるだけだったが、冷蔵庫、ベッド、テレビ、こたつを置いても余裕があった。隣は後輩の部屋で、ここには高級スピーカーJBLとオーディオがあったので、好きなロックやジャズを聴いていた。このアパートから歯学部まで歩いて15分くらいだったが、サッカーの練習のために教養部にあるグランドまで通うのも大変だったので、自転車を購入することにした。近所の普通の自転車屋にいくと、店の前に古いロードバイクが飾っていた。確か片倉のクロモリのドロップハンドルのバイクで、値段は3万円くらいであったが、古かったのでまけてもらい2万五千円くらいで購入した。本格的なものではなく、今でいうクロスバイク風のもので、700×28C、今でこそ幅の広いタイヤも増えているが、当時の本格的なロードバイクといえば、もっと細い、21くらいの細いチューブラータイヤが一般的であった。それでも重量は10kgくらいで、これまで乗っていた普通の自転車に比べて、軽く、スピードを出して乗れたので、感動した。そのうち、少しずつ自転車用品を買い足し、まずトゥークリップという、ペダルに足を入れるものと、自転車用のシューズを購入した。その当時、自転車用シューズといえばイタリアのSIDIのもので、靴底が木でできており、グッとペダルに力を入れられた。服装は、パールイズミの青のイタリアンカラーのジャージと、ズボンは自転車用の黒のパンツをはいた。帽子は今のようなヘルメットタイプのものがなく、木綿のビアンキの帽子をかぶっていた。

 

よくサイクリングに行ったのは、松島までの30km、往復60kmのコースである。朝出て、お昼を食べて、帰るのが4時ころなので6時間くらいのサイクリングで、6、7回は行った記憶がある。それ以外は、毎日、学校、あるいは休みになると一番町まで全て自転車を使った。歯学部は朝から夕方までびっしりと授業があり、それぞれの教科書も重いので、当時、雑誌「ポパイ」で知ったデイパックに教科書を入れて自転車で通学しようと考えた。ところがポパイにはシェラデザインズやケリーのデイパックが紹介されているものの、そんなバッグは仙台では売っていない。何軒かの登山ショップを回って、ようやく見つけたのが日本製の「タウチェ」という赤のワンルームのデイパックで、これは今でも復刻版が出ている。このバッグに教科書、ノートを詰め込んで、学校に通った。信号待ちしていると、おばさんからは「あんた、自転車で山の登るのかね!」と驚かれたが、仙台の街でもデイパックをしている人はほとんど見かけなかった。靴はこれもポパイの影響を受けて、アディダスのスタンスミス、スーパースター、K-swissをよく履いた。ダウンベストはシェラデザインのものが欲しかったが、金がなく、中国製の安いものしたが、何とかパーカーはノースフェイスの60/40パーカーを買えたので、リーバイス501とカンタベリーのラグビーシャツ、ウーリッチのウールシャツ、ダウンベスト、60/40パーカー、そして真冬はフェニックスの赤のナイロンシェルのダウンパーカが標準であった。ほとんど雑誌ポパイの影響であった。こんなものに金を使っていたので、食費がなく、医学部食堂で大盛りカレーを食うか、医学部病院前の山田屋で定食、半田屋のラーメンを食うかしていた。




 






2023年3月5日日曜日

長く続く店 日本式経営

 



世界の長者番付を見ると、一位はテスラのイーロン・マスクで約29兆円、二位はアマゾンのジェフ・ペゾスの21兆円、9位までアメリカ人が並び、10位にようやくインド人のムケシュ・アンバニの11兆円が入る。日本人はというと54位にユニクロの柳井正が3兆円となる。人間いくら贅沢に暮らしても、最初の頃は家や高級車に使っても、毎年毎年、そんなこともできず、死ぬまで毎年1億円を使うのはかなり難しい。一兆円など死ぬまでに絶対に使える額ではない。なのにどうしてそんなに金を稼ぐのか。おそらく会社経営が飛躍的に伸びるにつれて資産も雪だるま式に増えていったのだろうが、それでもここには際限のない人間の欲を感じる。

 

会社をもっと大きく、そして金をもっと稼ぎたいというのがアメリカンドリームであるなら、東洋人の我々からすれば愚かな夢である。“足るを知る”、これは中国の老子の言葉であるが、これは日本人にとっては、江戸時代から戒めとして語られる言葉であり、商売においても、一時に大きな益を得るよりは、必要最小限の益を得て、そして長く続くことが大事とされてきた。100年以上続く企業は、日本が33000社、ダントツで、次がアメリカの19400社、そしてスウェーデンが14000社となる。200年以上となると、日本が1340社で全世界の65%と占める。100年以上続く会社、アジアを見ると隣国の韓国は10社、中国も韓国と同じ10社程度、台湾は比較的多く200社以上ある。

 

アメリカを中心としたグローバル企業、あるいはその経営方法は、優れたCEO、最高経営責任者が、会社の権力を集中して、大胆な経営方針により会社を刷新していく方法で、電機メーカーであるGEが金融事業に進出し、成功を収めた事例が典型的である。歯科業界においても、近年、こうしたアメリカ式の経営が主体となり、これまで取引のあった会社が別の外資系の会社のM&Aで買収、吸収される。そこのCEOは新たな経営方針として、赤字部門、あるいは採算の低い部門を削減し、新たな事業を立ち上げる。これがうまくいけばいいのだが、多くの場合は、失敗し、愚かなCEOはやめればいいだけだが、これによって歴史の長い企業が消滅する。これの繰り返しで、アメリカの多くの歴史のある生産工場、企業が次々と消滅していった。結果、ここ20年で欧米の100年以上の会社はかなり減少していった。韓国、中国に関しては、もともと会社を長く経営しようという気がなく、経営者も自分の代が良ければいいと考えているので、100年以上企業が続くことがない。

 

一方、日本の多くの中小企業は、大きな儲けよりは会社を続ける、存続して次に繋げることが第一と考えている。これは江戸時代に確立した日本の商売のやり方である。世界一古い百貨店は1838年創業のフランス、パリのボン・マルシュ百貨店だが、日本の三越は1678年創業、高島屋は1831年、大丸は1717年、松坂屋は1768年創業で、いずれもボンマルシュより古い。多くの経営コンサルタントは、アメリカ式の経営理論を唱え、企業の収益の拡大を図り、積極的な経営を勧める。確かにこうした経営方針の方が短期の収益を上げられるかもしれないが、100年企業をめざすやり方ではない。優れた経営とは、黒字幅が大きくなくても、売り上げが少しずつ増加するような経営であり、逆に急激な増加は、急激な減少を招く可能性があることから、それを避ける。こうした経営方針を唱える経営コンサルタントは少ない。

 

江戸時代の商家というのは、家の継承、存続をまず第一に考えた。息子がいても、商売に向いてないと判断すれば、娘に優秀な人物を養子にとり、継がせた。養子として商売をついだ主人は、店を潰さないで子供に引き継ぐことが最大の使命であった。こうした商家のやり方は、日本では現在でも多かれ少なかれ続いている。世界最大の自動車メーカー、トヨタの前の社長、豊田章男も、この流れであり、こうした企業は今でも多い。会社の経営を同族で行うは、向いていない人物がトップに立つと、会社自体が潰れるリスクがあるし、会社の継続を重視するあまり新たな事業に進出する勇気がないといった欠点もある。一方、業績重視で、前年度比の値ばかりを気にすると、無理な挑戦をして、結果、会社がなくなることにつながる。どちらが良いとは言えないが、少なくともアメリカ式経営が日本式経営より優れているとはいえず、例えば、世界一高い薬、脊髄性筋萎縮症の治療薬、『ゾルゲンスマ』は一回、一億六千七百万円であるが、こうした高額な治療薬が産まれるのが、アメリカ式経営である。あるいはガン治療薬である「オポジーボ」の年間の薬代は、当初は3800万円、今は安くなったとはいえ、1000万円以上かかる。優れた薬であれば、貧困国でも使えるように安い値段で多くの患者に使って欲しいと考えるのが日本的な考えとすれば、欧米では開発費に相当な費用がかかっており、それを回収し、会社に莫大な利益を得るには、このくらいの値段でということになる。目の前に死にそうな患者がいて、医師が治療には100万円いる、ないなら助けないというようなものだが、これがアメリカ医療の現実である。

 

デンツプライシロナという世界最大の歯科機材メーカーがあり、20年ほど前に日本のサンキンというメーカーを買収、吸収した。そしてそこで扱っている矯正器材も継続して販売していた。特に矯正装置の主力であるブラケットは人気があり、おそらく日本の矯正歯科医の1/3くらいはここの製品を使っており、そこそこ黒字が出ていた。ところが3年前にこの会社のCEOが変わり、この矯正分野を一切捨て、当時、流行していたアライナー事業に乗り出すことになった。ハーバードとかどこかのビジネススクールをでた経営者かもしれないが、全く自分の会社が医療系の会社とわかっていないのだろう。私たち、矯正歯科医には『今後、サンキンの製品は販売しません』という一枚の紙が会社から送られただけである。こうなると我々臨床家は、新たな代品を探すことになり、患者には大きな迷惑をかけた。幸い、日本のメーカーが、この工場と従業員を引き継ぎ、今ではサンキンの製品も流通することになったが、デンツプライシロナという会社は、医療メーカーとして決してしてはいけないこと、使われている製品販売を中止することをした。おそらくこのバカなCEO単独の問題であるが、こうしたバカなCEOがよく出るのもアメリカ的である。

 

戦争、エネルギー危機、地球温暖化など多くの問題を抱える現代世界において、長く続ける企業、会社を作る日本的経営は、もっと見直されてもいいと思うのだが。


2023年3月2日木曜日

コロナ禍により変化したこと

 




コロナ禍もようやく終息しつつあり、以前のような穏やかな日々になるのを心待ちにしている。2年間にわたる、中世時代のペスト流行に匹敵する、世界的な禍は歴史的な意味を持つ。多くの人命を失い、経済的な損失も膨大なものであろう。もし、その原因が、巷で噂されているような中国の研究所からのものであれば、戦争を除く人類史上最大の人為的ミスによる損失となろう。仮に一人、あるいは数人の研究者の不注意、研究、開発していた新しいウイルスの流出による災害であれば、世界中で約500万人の死者を出した責任は計り知れない。14世紀のペスロ流行では世界で約5000万人、1920年頃のスペイン風邪では約5000万人から1億人が亡くなった。さらに1957年に流行ったアジア風邪では100から400万人、1958年の香港風邪では約50万人が亡くなった。また近年では重症旧制呼吸器症候群SARSの記憶も新しい。問題は、中国起源の感染症が多い点であるが、一切、中国政府が情報を遮断しているだけに同じようなことが今後も起こることが心配される。

 

この2年間でそれまでの慣習がずいぶんなくなったり、新しい産業が出ている。

 

1.葬式の簡素化

これまで葬式といえば、多くの会葬者が集まるものであったが、コロナ禍により葬式そのものが身内だけでする小規模なものになり、今後ともそうした葬式を望む人が多くなった。大規模な葬儀は少なくなるだろう。

 

2.忘年会、新年会、パーティーの中止、縮小

これらもコロナ禍では、中止され、制限が緩んでも、そのままなくなったところが多い。以前から会社では、若い人を中心にあまり会社の忘年会などには参加したくないという人が多かったが、一旦、中止されてしまうと、再開する声も少なく、そのままなくなってしまったところも多い。団体客を中心として飲食店の経営は、今後とも厳しく、小グループや家族単位の客が中心になろう。

 

3.結婚式の簡素化、省略

これもコロナ前から家族や身内だけである小規模の結婚式の流れであったのが、コロナ禍で一気に加勢し、ほとんど大規模な結婚式は行われないようになった。以前は、年に2、3回は友人の子供の結婚式に呼ばれたが、ここ数年、こうしたこともほとんどなくなり、この2年はゼロとなった。また結婚式、披露宴をしないというカップルも多い。感覚的には半分以上のカップルは婚姻届を出すだけである。

 

4.会議の短縮、リモートワークの普及

コロナ災では、会社には出勤せず、在宅でのリモートワークが多くなった。最初は、そんなことは無理だと思われたが、やってみると、それほど問題がなくなったらことから、外出自粛が解禁されても、リモートワークを残す会社が現れてきたし、長い会議も減ってきた。会社によっては、従業員が出勤しないのであれば、オフィース自体必要ないと判断し、高い賃料で借りていたビルを解約し、都内から出る会社も出てきた。こうした傾向はコロナ禍が終焉しても、何らかの形で残りそうである。

 

5.アウトドア、自転車の流行

コロナ禍により、家族揃って外出する場所が減ることで、せめて感染する機会が少ない野外で、家族で楽しむアウトドアがブームになっている。車にテントやシュラフなどを積み込み、テント場に行けば、ほぼ感染リスクはなく、家族で楽しめる、こうしたことも流行の理由であろう。年配者を中心に、低い山を登る登山も流行っていたが、今のアウトドアの主流は、車を使ってのアウトドアで、これはコロナ禍を通じて広まった。また家に引きこもってばかりだと、精神的に疲れるため、自転車で遠出したり、散歩で近所を探索するのも日常的になってきた。車を持たないが、高いロードバイクを買う若者は多い。

 

6.不登校児童の増加

2021年度の不登校児童は約255千人で、20年度より25%増えて過去最高となっている。2016年が13万人程度であったから、大幅な増加であり、2022年度はさらに増えていると思われる。理由として、学校でも一時リモート授業や、コロナ禍による運動会や遠足がなくなり、学校に行く意欲がなくなったとされる。私はむしろ、学校に行かず、リモート授業でも十分に教育を受けられることに気づいた生徒が、学校に行くのを拒否したのではないかと思う。そのため、通信制の高校なども以前に比べると生徒数も増え、授業内容も進歩している。トライ式高等学校のような塾経営の学校が増えると思う。大学受験予備校の時、そこの教師の授業能力の高さ、生徒に受験テクニックを教える能力、に驚いたことがある。優秀な教師を雇いオンラインできめ細かく学習させれば、普通校と遜色ないかもしれない。

 

7.歯科医院での衛生管理

以前から、歯科医院ではマスクと手袋はかなり多くの歯科医院で実施されていたが、それでも患者ごとに手袋を変えない先生がいたり、アルコール綿で拭くだけで滅菌していない器具を使う、あるいはエプロンなども使い回しで使っている歯科医院もあった。ところがコロナ禍になると、日本でもほぼアメリカ並みの衛生管理の状況となってきた。アメリカでは1991年、キンバリーという女性が歯科医院でエイズに感染したという事件があった。真相は不明であるが、この事件をきっかけにアメリカでは一気に衛生管理が徹底されてきた。日本でも、アメリカに遅れて30年、ようやく同じようなレベルに達したし、今後もその傾向は続く。今回のコロナウイルスに関しても、歯科医院で明らかに感染したという報告はないし、知る限りにおいて、患者さんからうつされた先生もいない。

 

 

ざっとコロナ禍終焉後も引き続きそうなものを挙げてみたが、ウクライナ戦争とそれに続く、エネルギー問題などがコロナ禍とは直接関係していないことを祈る。これ以上、混乱した世界はもううんざりだ。