2023年3月9日木曜日

青春時代 仙台編1

 






私が一浪して東北大学に入学したのは、昭和50年、19歳の時であった。どこに住んだらよいか、仙台の地理感が全くなかったので、何かのパンフレットで見た八木山の食事付きの寮のようなところに入った。まるで牢獄のようなところで、部屋は3畳くらいで、ベッドと机を入れると、ほぼ隙間はなく、食事は朝と夜、一階の大食堂で食べ、風呂は大浴場というところであった。ここからバスで東北大学の教養部まで通うのであるが、授業を終わり、サッカー部の練習をして、バスで帰るというワンパターンの生活は本当にきつかった。山の上にあることから、仙台の繁華街に行くことも滅多になく、ここでは高校三年生の頃の家庭教師に勧められた100冊の本を2年間で読み込んだ。

 

さすがに学部に行くのはここからは遠いので、大学3年生になるとサッカー部の後輩の親がオーナーをしている上杉にあったアパートに引っ越した。確か家賃は25千円くらいで8畳くらいの部屋にしては当時でも安かった。風呂はなく、便所は共用、一口コンロと小さなシンクがあるだけだったが、冷蔵庫、ベッド、テレビ、こたつを置いても余裕があった。隣は後輩の部屋で、ここには高級スピーカーJBLとオーディオがあったので、好きなロックやジャズを聴いていた。このアパートから歯学部まで歩いて15分くらいだったが、サッカーの練習のために教養部にあるグランドまで通うのも大変だったので、自転車を購入することにした。近所の普通の自転車屋にいくと、店の前に古いロードバイクが飾っていた。確か片倉のクロモリのドロップハンドルのバイクで、値段は3万円くらいであったが、古かったのでまけてもらい2万五千円くらいで購入した。本格的なものではなく、今でいうクロスバイク風のもので、700×28C、今でこそ幅の広いタイヤも増えているが、当時の本格的なロードバイクといえば、もっと細い、21くらいの細いチューブラータイヤが一般的であった。それでも重量は10kgくらいで、これまで乗っていた普通の自転車に比べて、軽く、スピードを出して乗れたので、感動した。そのうち、少しずつ自転車用品を買い足し、まずトゥークリップという、ペダルに足を入れるものと、自転車用のシューズを購入した。その当時、自転車用シューズといえばイタリアのSIDIのもので、靴底が木でできており、グッとペダルに力を入れられた。服装は、パールイズミの青のイタリアンカラーのジャージと、ズボンは自転車用の黒のパンツをはいた。帽子は今のようなヘルメットタイプのものがなく、木綿のビアンキの帽子をかぶっていた。

 

よくサイクリングに行ったのは、松島までの30km、往復60kmのコースである。朝出て、お昼を食べて、帰るのが4時ころなので6時間くらいのサイクリングで、6、7回は行った記憶がある。それ以外は、毎日、学校、あるいは休みになると一番町まで全て自転車を使った。歯学部は朝から夕方までびっしりと授業があり、それぞれの教科書も重いので、当時、雑誌「ポパイ」で知ったデイパックに教科書を入れて自転車で通学しようと考えた。ところがポパイにはシェラデザインズやケリーのデイパックが紹介されているものの、そんなバッグは仙台では売っていない。何軒かの登山ショップを回って、ようやく見つけたのが日本製の「タウチェ」という赤のワンルームのデイパックで、これは今でも復刻版が出ている。このバッグに教科書、ノートを詰め込んで、学校に通った。信号待ちしていると、おばさんからは「あんた、自転車で山の登るのかね!」と驚かれたが、仙台の街でもデイパックをしている人はほとんど見かけなかった。靴はこれもポパイの影響を受けて、アディダスのスタンスミス、スーパースター、K-swissをよく履いた。ダウンベストはシェラデザインのものが欲しかったが、金がなく、中国製の安いものしたが、何とかパーカーはノースフェイスの60/40パーカーを買えたので、リーバイス501とカンタベリーのラグビーシャツ、ウーリッチのウールシャツ、ダウンベスト、60/40パーカー、そして真冬はフェニックスの赤のナイロンシェルのダウンパーカが標準であった。ほとんど雑誌ポパイの影響であった。こんなものに金を使っていたので、食費がなく、医学部食堂で大盛りカレーを食うか、医学部病院前の山田屋で定食、半田屋のラーメンを食うかしていた。




 






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