2023年3月12日日曜日

江戸が消えたのはいつから

 







先日、亡くなった渡辺京二さんの「幻影の明治 名もなき人々の肖像」を読んだ。大著の「逝きし世の面影」ほど内容の濃い本ではなかったが、渡辺さんの歴史についての視点は面白い。特に司馬遼太郎史観については手厳しい批判を加えて容赦ない。「司馬が日本ほど小さい国はなかったという事実に合わぬ不思議なことを言い出すのは、実はこのゼロから始めた近代化ということを強烈に印象づけるためだ」、そして「私は司馬史観なるものの構図に、いくつかの疑念・異見をもつ。ゼロからの近代化というのがまず問題で、明治の近代化の成功は徳川期の遺産によるところが大きい」。どうして隣国の朝鮮、中国が日本と同時期に近代化がなされなかったかを見ると、渡辺さんのいうように日本では徳川期の遺産が大きく、関与しているように思える。イギリスで産業革命が起こり、欧米を中心に近代化が急速に広まったが、その後、欧米以外のアジア、アフリカ、南米などの国で、日本ほど短期に、そして順調に近代化した国はない。

 

江戸時代、特にその後期の識字率は、70-80%くらいあると言われ、農民の子供でも村の寺子屋のようなところに行き、文字と簡単な算数を習っていたし、村を束ねる名主になると、個人的に漢学、国学を学び、アマチュアながら高い見識を示す者が多数いた。もちろん明治になって小学校ができたが、初期の頃の就学率は低かった。これは親が子供に学問をさせたくなかったのではなく、それまでの寺子屋での学問で十分と考えていたからである。明治時代にできた小学校を卒業生、さらに高等教育を受けた人が指導者として活躍するのは、明治40年以降あるいは大正に入ってからと言ってもよい。例えば、明治37年の日露戦争に関係する政治家、伊藤博文、山縣有朋、桂太郎、小村寿太郎など全て、江戸時代の教育を受けた人物だし、実際に戦争をした軍人、児玉源太郎、乃木希典、東郷平八郎なども同様で、ようやく少佐級で、例えば広瀬武夫少佐は、明治の小学校を卒業して、東京の攻玉社に入り、そこから海軍兵学校に進んだ。文学者でいえば、夏目漱石、正岡子規以降くらいが明治期の教育を受けた世代である。ただ正岡子規についていえば、89歳の頃から外祖父の大原観山から漢学を学んでいるし、夏目漱石も15歳の時に漢学塾二松学舎に入学して漢学を学んでいる。このことは、明治になり小学校では近代教育を受けたが、親の世代、特に旧士族においては、漢学、漢詩は教養として必須のものとして子供に学ばせたのであろう。

 

手元に最近手に入れた明治の外交官、珍田捨巳の手紙がある。珍田は安政3年生まれの完全な江戸人とみてよい。その手紙は、漢学の素養と正式な書を習った人のものであり、20歳でアメリカの大学に留学して、日本語より英語の方がうまかったという人物の手紙とは思えない。私にはほとんどわからない崩し字であるが、当時の人は珍田の手紙をスラスラと読めたであろう。戦後の政治家でいえば、吉田茂は幼少時の頃から漢学を習っていたので、珍田の手紙も全く抵抗はなかったと思われるが、これは特殊なケースで佐藤栄作、田中角栄などは読めなかったと思われる。おそらく江戸時代の最大の遺産、あるいはエトスと言って良い漢学の遺産が完全に払拭されるのは、少なくとも昭和に入ってから、それも祖父の代に漢学を習った人がいない、つまり戦後になってからであろう。昔、台湾の故宮博物館に行ったときに、知人の矯正歯科医に展示されている中国の書について読めるかと聞くと、「読めない。今の人で読める人はほとんどいない」といっていたが、全く日本と同じ状況である。おそらく明治期の教養人、例えば、森鴎外にすれば、江戸時代の書物を、私が文庫本を読めるのと同じ感覚、全く抵抗なく読めたのであろう。

 

珍田捨巳は、幼少の頃から優れた儒学者について漢学を学び、さらにきちんとした書を学んだ。英語については東奥義塾で全ての授業を英語で受け、その後、アメリカのアズベリー大学で弁論部に所属し、優秀な成績を収めた。英会話は津軽訛りのある日本語よりうまかったし、英語の本は自由に読めたし、英文も自由に書けた。完全に漢学と英学を自由にできた人物であったが、精神の中心は儒学を主体とした士族のそれであったろう。少なくとも明治のエリートは、子供の頃に習った漢学のバックボーンが教養としてあったが、昭和のエリートは、そうしたバックボーンがない無責任な官僚化を示した。

 

さらに思うのが、電話が家庭に普及する昭和3040年まで、人との連絡手段は、手紙しかなかった。手紙は、その内容だけでなく、字の上手い下手が、人物を表すため、筆で字を書く機会が多いだけでなく、正式に書道を習うことも教養人にとっては必要不可欠なことであった。大正8年生まれの、私の父親も晩年、日本芸術院恩寵賞をもらった同郷の書家、小坂奇石から書を習うくらい、書くのは好きな方だった。ただ、父親は歯科医だったので、手紙を日常的に書くようなことはほとんどないし、学生時代のノート見ても、ほぼ楷書のよる丁寧な字で書かれている。間違いなく珍田の手紙を読むことはできない。一方、明治20年代に生まれた母方の祖父は、徳島の田舎で生まれた商人であるが、残された書付などをみると達筆で、頼まれれば揮毫するほどであった。当然、珍田の手紙は読めたし、そうした手紙も書いたのであろう。要するに漢学を学び、毛筆で、崩れ字で手紙を書く世代は、大正生まれの世代くらいからは次第に少なくなり、その世代が社会にでて、ある程度の地位を得る、昭和3040年代には全く消滅したとみなせる。

 

ややテーマーがずれてきたが、漢学、毛筆、崩れ字による手紙という江戸時代の名残は、明治いっぱい続くが、次第に小さくなり、昭和3040年頃には消滅していったと思われ、それとともに専門家以外に江戸時代の本、冊子、手紙を読むことができず、ここに江戸との文化的断絶が生じたのだろう。一つの文化が、消滅するには、当たり前のことであるが、結構時間はかかり、三世代を要する。これは日系アメリカ人にも言えて、祖父の代に渡米しても、完全にアメリカ人になるのは三世くらいとなる。


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