2023年3月27日月曜日

青春時代 鹿児島編2

 

エッジロックブラケット 最初のセルフライゲーションブラケット



入局して3年後には、宮崎医科大学の歯科口腔外科に出向となった。宮崎医科大学は、今は宮崎大学医学部となったが、当時は宮崎市のはずれ、清武町という小さな町にある単科大学であった。教授、助教授、助手4名の小さな講座であったが、その助手の1名が鹿児島大学歯学部矯正歯科からの出向であった。もっぱら唇顎口蓋裂や顎変形症の患者の矯正歯科治療を担当した。それでも矯正患者は少なかったので口腔外科の外来、新患対応、埋伏親知らずの抜歯などをしたし、唇顎口蓋裂患児の口唇形成術、口蓋形成術、骨移植術や、顎変形症の手術は全て、第二、第三助手として手術室に入った。また当直は助手以上の仕事であったので、週に1回あるいは2回は当直を行った。通常、入院患者は7、8名だったので、夕方、数名の患者に点滴を行い、体調を聞き、当直室に入って寝る。時々、患者の訴えにより起きることもあるが、たいていは大きな問題がないが、深刻なガン患者については急激な体調悪化もあり、緊張する。稀に交通事故による救急患者が夜中に来ることがあるが、骨折があっても早急な処置が必要ないために、翌日の朝まで経過観察する。ただそれまで小児歯科、矯正歯科しか勉強していなかったので宮崎医科大学では若手の医局員に混じってCTや胸写の見方、一般検査、全身管理について勉強した。

 

鹿児島大学ではバイトが禁止であったが、宮崎医科大学では継続のバイトがあったので、近くの大きな病院の歯科に週一回行って主として抜歯をしたので、結構抜歯が上手くなった。わずか1年の口腔外科への出向であったが、顎変形症の手術、入院、管理など全て体験できたので、その後、直接治療することはないが、患者を口腔外科に紹介するときに役立った。また唇顎口蓋裂患者についても、口唇形成術、口蓋形成術、骨移植術などの手術を第一助手として見られたことは、大きな経験となった。

 

 出向して鹿児島大学に戻ると、外来長となり、新人教育のシステム、外来の滅菌システム、担当医制度などに取り組んだ。新人の教育システムは、他大学のそれを参考にしてリフレッシュしたものなので、それほど苦労しなかったし、滅菌システムも、できるものとできないものを区別しただけで、今では当たり前になっているゴム手袋についても、予算の関係上、実施できなかった。ただ矯正治療に使う機材については、できるだけ滅菌したもの使うようにしたため、この時期、かなり大量のプライヤー、カッター類を購入した。一番、苦労したのはグループ診療から担当医制度への移行で、一旦、全ての患者のカルテを一人で見て、不正咬合の種類や治療経過、マルチブラケット治療などによって、配当数や患者を決めたが、これには時間がかかった。1000人の患者がいるとすると、全ての患者の経過を把握して上に、あまり偏りのないように6つくらいのグループと助教授、教授の患者を割り当てた。また担当医制度になると、治療状況、内容の把握ができなくなるために、2年間の新人教育が終了するときに、各自が担当した全ての症例について、皆の前で発表してもらい、その仕上りについて議論することにした。同時にグループごとにうまくいかない症例や珍しい症例については、外来長特権で、外来で指摘して、症例検討会に提出してもらうことにした。

 同期には台湾からの留学生がいて、今は台湾の苗栗市で開業しているが、次の年は台北市で、矯正専門で開業している先生が、博士号取得のために2ヶ月ごとに2週間くらい、研究に来るようになり、また他にはイギリス、クロアチア、中国からの留学生も来るようになった。イギリス、クロアチア、中国からの留学生はほとんど日本語ができなかったので、新人教育は全て英語でしたため、ずいぶん無茶苦茶英語が上達した。中国からの留学生は博士号取得も兼ねていたので、私自身、博士号は持っていないが、教授から指導教育を仰せつけられ、姿勢と不正咬合、顎発育との関係についての動物実験をすることになった。マウスを使った実験で、マウスの姿勢を変えるために、マウスの背骨が真っ直ぐになるようなゲージを作り、人為的に丸まった背を真っ直ぐにし、その結果、頭の傾きを変えるようにした。ただどうしても狭いゲージでマウスを飼うとストレスで体重が伸びず、対照群の設定が難しかったが、最終的に姿勢を変えないゲージに入れたマウスを対照群とした。頭位と顎発育を動物実験で初めて立証した研究で、中国から来た留学生は無事に学位をとり、その後、旦那さんと一緒にワシントン大学歯学部に行った。

 

このへんまでで、34、5歳の話で、結局、鹿児島大学に9年間いて、家内の実家のある弘前市で開業し、今年で28年を迎える。

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