2023年3月9日木曜日

青春時代 仙台編2




当時の音楽は、ネットもなく、主としてレコードを買って聞くというのが主流で、高校生の頃から好きだったロックは大学生になっても聴いていた。ブリティシュロックから、アメリカのサザンロック、リトル・フィート、チェース、さらに派生してリンダ・ロンシュタット、レオン・ラッセルなども好きでよく聴いた。さらに1970年台になるとそれまでの難解なモダンジャズから、1950年代のビバップに再考が始まり、チャーリー・パーカー、アート・ペッパー、ジョーン・コルトレーン、スコット・ハミルトンなど、あるいはフュージョン系ではジャズクルセーダズもよく聴いた。ただチューリップ、かぐや姫、オフコースなどの日本の曲はほとんど聴いていないし、クラッシックとなるとちんぷんかんぷんであった。当時の自慢は、仙台の街中を歩いていると、向こうから三人組の黒人が来る。私はすぐに、その一人がクルセーダズのジョー・サンプルと気づいて、声をかけたことがあった。手を振ってくれた。何かの公演で仙台に来ていたようだが、他の人はあまり気づかなかっただろう。


 

風呂は近所に銭湯があったので、2日ごとに行っていたが、ある時、でかい黒人の人が5名ほど風呂に入っていて、他には客がいないこともあって、緊張した。結局、この上杉荘には歯学部卒業までの4年間、お世話になった。ストーブはあったものの、灯油を買いに行くのが面倒で、あの寒い仙台でこたつだけが暖房であった時期が長かった。また洗濯は近所のコインランドリーに行ったが、山盛りになった洗濯物の上の方を紙袋に入れてコインランドリーに行くので、いつまで経っても山盛りの下の方の洗濯物が洗濯できない。一応は炊飯器やフライパン、鍋もあるので自炊はできたのだが、魚など買うと、残飯の始末が面倒で、臭いもしてくるので、できるだけ、残飯がなく、後片付けの少ないものを自炊した。結局、肉入り野菜炒め、丸味やの麻婆豆腐、刺身とご飯というコンビか、レクルトカレー、インスタントラーメンもよく食った。ただ部活をして帰ると8時頃になるので、どうしても外食が多かった。日曜日は、試合のない時は、仙台の繁華街、一番町に自転車で行き、大抵は名画座で2本立ての映画を見た。一番多い年は、年間100本以上は見ている。近くの店で食事をして、レコード店、本屋を見て、その当時できた喫茶店、「モーツアルト」でコーヒーを飲むのが最高の贅沢であった。ヒゲを生やしたマスターがカウンターの裏で黙々とコーヒを作り、ここは東北学院の綺麗な女の子がバイトしていて、それも楽しかった。これでガールフレンドでもいればいいのだが、最終学年の6年生になるまで、全く彼女ができず、そうした意味では寂しい青春であった。別の女嫌いというわけではなく、好きな人もいたが、男子校あるあるで、なかなか女性と気軽に話せられず、緊張してしまう。合同コンパ(合コン)もかなり参加し、大学生時代、計40回以上はしている。歯学部は、医学部ほどお堅いイメージがないので、宮城女子学院や東北学院などの掲示板に“合コンしませんか”の張り紙をすれば、すぐに応答があった。OL、看護師、デパートガール、東京に試合のために出向いた時には東京女子大とも合コンしたし、1対1や、1日に2回の合コンもした。ところが、合コン後、気になる子がいて1、2度デートしただけで、そのまま自然消滅するパターンが多かった。今とは違い、昔は携帯電話もなく、電話をするのは公衆電話あるいは、受け取る時は何と大家さんに呼び出してもらった。隣に住む大家さんから「広瀬さん、電話ですよ」といわれ、サンダルで隣の家に上がり込み、「すいません」と言って、電話をとる。これではなかなか彼女に連絡できない。自分の部屋にに電話を引いたのは、結局、大学を卒業してからで、一階の同級生が電話を入れたのを機に、大家ではなく、そこに電話してもらうようにしていたが、これも大変なことであった。さすがに手紙で連絡しあうということはなかったが、それでも公衆電話から彼女に連絡すると、必ず親が出てきて毎度、緊張した。

 

学校の方は、もともと数学や物理など考える教科は全くダメだが、暗記ものは得意で、医科歯科系の教科はほぼ90%が暗記ものなので、暗記ものが強い人には向いている。特に解剖は骨の名前はラテン語で覚えるため、論理性を無視してひたすら覚えるだけであるが、これは結構得意であった。そんなわけで、国試も含めてそれほど学校の試験で苦労したことはないが、一度、精神科の授業の出席日数が足りず、障害者センターに見学に行ったことがある。高校生くらいの年齢の人が多い施設であったが、いきなり女の人が私のシャツの中に手を入れてきてびっくりしたことがある。職員に聞くと、若い男性に興味があり、触りたくなるようだと言っていた。このまま施設を出れば、彼女はどうなるかと思い、障害者の性について、関連本を読んでレポートで提出して、何とか合格した。家からの仕送りは、7万円、そこからアパート代や光熱費を引くと、だいたい4万円くらい残るので、食費、服代、遊興費を入れても十分だったので、学生時代、アルバイトをしたことはない。ただ大阪に帰省する交通費はないので、その時は、実家に電話して交通費を出してもらった。実際、歯学部医学部では、カリキュラムがぎっしりとあり、帰るのは4時頃で、その後、サッカー部の練習に行っていたので、帰りは7、8時頃で、食事をすれば、アルバイトする時間はほとんどなく、幸い仕送りも多かったので、何とか生活できた。今と違い、学生のアルバイトといえば、家庭教師くらいしかなく、数学、物理に嫌いな私にとっては、受験勉強に関わるのはもうこりごりだった。

先日、高校の先輩、大森一樹監督の「ヒポクラテスたち」(1980)を観た。京都府立医大の話であるが、当時の歯学部生もこんな感じで、今の学生の方がよほど真面目で、熱心に勉強している。基本的には。全ての試験はギリギリで通り、留年しなければよく、成績評価はあったとは思うが、見たことがない。多分、留年の場合は通知があったと思うが、そうでなければ、そのまま進級し、成績がいいかどうかもわからなかった。さすがに国試の前になると、かなり緊張し、久しぶりに勉強した。学年から二名ほど国試対策委員が決まり、東京に出張して、全国の国試対策委員と協議する。国試の問題を作る先生がいる大学から、その委員が今年はこんな問題が出るという情報を得るが、ほとんどはガセネタであった。今はないが、当時は筆記試験だけでなく、実地試験もあり、歯型彫刻、エンドの根管口明示、形成、義歯人工歯配列などがあったが、この練習は大変であったが、卒業後に本当に助かった。

 

当時は卒業生の80%が大学の医局に残ったので、最終学年になると、各医局から勧誘される。私の場合は、男性の先生が少ないということで小児歯科から強引に誘われ、それほど子供が好きでもなかったが、早い時期から入局が決まっていた。入局したのは私も含めて男性が二名と女性が一名で、最初の1年間は教授がつきっきりで診てもらい、小児歯科の基礎的臨床技術を学んだ。2年目は、う蝕の基礎的な研究を手伝うかたわら、合同外来という唇顎口蓋裂児の矯正治療を行なっているところに半年ほど出向し、そこで矯正治療の基礎を学んだ。次第に小児歯科より矯正歯科に興味を持ったが、当時、同一大学で転科するのは御法度であったので、給料のもらえる助手で採用してもらえるところを探したところ、合同外来の幸地省子先生から鹿児島大学歯学部矯正歯科の伊藤学術先生を紹介していただき、トントン拍子に話が進み、鹿児島大学の助手として採用された。そうして9年間いた仙台を去った。









 


0 件のコメント: