先日、北一輝、二二六事件を調査、研究している方が弘前に来たので、一緒に酒を飲んだ。弘前には二二六事件に関与し、処刑された対馬勝雄中尉がいて、今回の調査に含まれている。対馬中尉については、寺島英弥著、「二二六事件 引き裂かれた時刻を超えて 青年将校・対馬勝男と妹たま」(ヘウレーカ)という本がある。早速Amazonで取り寄せ読んでみた。優秀で優しかった兄、その処刑前の家族との対面の光景には泣かされる。
二・二六事件については多くの著書に書かれているが、昭和初期の財閥と政治家の癒着、汚職、あるいは不況、凶作による地方の貧困化が絡み合って、天皇を頂点にした親政を目指すものであった。もちろん、多くの軍事クーデターと同じく、軍人が政権を担う軍事国家の道である。昭和11年のニ・ニ六時件は昭和7年の五・一五事件に比べて関係者の処罰が厳しく、五・一五事件では処刑者は一人も出ず、禁固刑も軽いものだったが、二・二六事件では19人の軍人、民間人が処刑された。民間人で処刑されたのは北一輝と西田税の二人で、直接的な行動には参加しなかったが、思想的な指導者として処刑された。
青森県では、対馬勝雄中尉以外に、佐藤正三、宮本誠三が禁錮1年半(執行猶予)の判決だった。いずれも弘前中学、弘前高校、東京大学に進んだ弘前の秀才であり、養生会のメンバーで当時、養生会で理論的な指導をしていた伊東六十次郎の薫陶を受けた。弘前では同会を中心に昭和初期から日本主義、国家主義的な教育が行われ、北の地で活発な活動、論議が行われた。実際に養生会では今でも石原莞爾の「戦争史大観」の生原稿、北一輝の「国体論及び純正社会主義」の初版本がある。また伊東六十次郎と北一輝あるいは西田悦との直接的な接触や、中国革命に深く関わった弘前出身の山田純三郎と北との上海での接触はあったと思われる。対馬中尉、佐藤、宮本以外にも二・二六事件に関与した青森人は多い。ついでに言うと対馬勝雄中尉が所属していた豊橋陸軍教導学校の上官、砲兵学生隊長には弘前藩の儒学者、兼松石居の子供、兼松成器大佐で、同郷で接触はあったのだろう。兼松大佐は二・二六事件後、陸軍少将になってすぐに予備役となった。さらに弘前で国家主義の理論的リーダーであった伊東六十次郎は、終戦間際、40歳で二等兵として徴兵され、戦後はシベリアに12年間抑留され、最後の引揚者として帰還した。一種の懲罰徴兵であった。
戦後、佐藤正三は弘前市の教育行政に傾注し、昭和43年、初代の教育次長になったが病をえて亡くなった。養生会の会員には、教育行政に関わる人が多く、『養生会百年史』をみても、戦後だけでも田村清三郎(青森県教育長)、小山俊夫(教育次長)、佐藤俊雄(弘前市学務課長)、大谷誠蔵(岩木町教育長)、小田桐孫一(弘前高校校長)、佐藤正三(弘前市教育次長)、鈴木忠雄(弘前高校校長、弘前南高校校長、県教育次長)、鳴海重(弘前高校校長)などがいる。こうした先生たちは、右翼、左翼という枠から外れ、強いて言えば、郷土愛を持つ教育を目指した。
弘前のおかしな点、あるいはすごい点は、こうした養生会のような組織が現代まで残っていることである。日本中の多くのこうした組織は、戦後、消滅した。GHQによる取り締まりもあるだろうが、戦争の反動による市民からの突き上げも消滅した要因であった。もちろん弘前も古くから左翼活動が盛んな土地で、津川武一のような東北初の共産党衆議院議員が生まれたところでもある(通算5期)。ところがここは物持ちがいいところで、戦後の荒波にも関わらず、戦前の体質、文化が底辺にそのまま残った。さらに言うと江戸時代の体質、文化、さらに明治、大正のそれも継続して残っている。多くの都市では戦後、一気に古い体質、文化を捨て去ったが、弘前は地層にように残り、断層はない。さらに言うと、この地層は斜めになっており、あちこちに古い地層が出ている。地層をあえて掘る必要もなく、あちこちに露出している。





