2026年6月20日土曜日

私が最初に見た映画


 

昨日、TVで矢野顕子が勧めたいた映画シーン 確かにかっこいい


昨日、評判のいい「スターウォーズ マンダロリアン アンド グローグー」を見てきた。子連れ狼と夕日のガンマンを足したような作品で、正直、がっかりした。1977年に公開されたスターウォーズは、多分、ジョージ・ルーカスが関わっていた頃までは映画館に見にいったが、その後はテレビで放送された時に見るくらいで、あまり興味はなかった。筋が前後して全体がわからなくなったせいと、あまり未来感がしなくなったことが理由である。子供の頃、21世紀は空飛ぶ車が走り、誰もが月に観光旅行に行けると思っていただけに、今ではスターウォーズの戦闘機にリアル感が全く感じなくなった。

 

私が最初に映画をみた記憶は、親父、兄と一緒に阪神尼崎駅前の東洋劇場に「思い出のサンフランシスコ」を小学校1、2年の時と思う。トニー・ベネットの歌うヒット曲、サンフランシスコのケーブルカー、金門橋といったシーンが記憶に残っていて、自分では最初に見た映画と確信していた。ところが最近、AIで調べてみたところ、1960年代にそんな映画はないと言う。候補の作品としていろんな映画が出るので、全てYouTubeで確認するがどれも違っている。あれが幻というのか。この歳になって不思議な体験である。

 

他に当時の記憶をたぐると、東洋劇場で見た「アルゴ探検隊の大冒険」(1963)ははっきりと記憶しており、小学校2年生の頃となる。「恐竜百万年」(1966)もここで見た。ラクエル・ウェルチのおっぱいにはびっくりした。尼崎東宝で見たのは、怪獣ものと若大将シリーズで、これは友達同士で行った記憶がある。記憶では「モスラ」のピーナツの歌はよく覚えているので見た気がするが公開は1961年、5歳の時で、少し自信がない。「キングコング対ゴジラ」(1962)や「モスラ対ゴジラ」(1964)、「怪獣総進撃」(1968)までは完全に覚えている。多分、兄貴と一緒に行ったように思う。また大阪梅田にOS劇場ができた時に「これがシネラマだ」という映画をわざわざ見に行った記憶があるが、調べると1955年に大阪OSと東京帝劇の2館でのみ公開されたようで、私の生まれる前である。1962から1964年にかけてリバイバルで全国上映されたので、それを見たのかもしれない。

 

淀川長治の土曜洋画劇場(日曜)は、テレビで映画が見られるということで、一家で固唾の飲んで見た記憶があり、最初の映画「裸足の伯爵夫人」は曲と共によく覚えている。196610月で放送された第一作で、当時10歳であった。徳島県脇町で見た映画で印象深いのは「四谷怪談」(1956)、「世界残酷物語」(1962)だったが、かなり古い映画を上映していたので、いつ見たかはわからない。アニメで言うとディズニーの「101匹わんちゃん」(1962)は母親と尼崎OSで見た記憶があるが、6歳くらいである。

 

昭和40年代の尼崎の映画館といえば、尼崎東宝、東洋劇場、OS劇場、尼崎松竹は小学校の頃、よく行ったが、国道2号線沿いに二つくらいあったと思うが、行ったことはない。時代劇は一切記憶にない、多分、当時も人気がなく、あまり放映していなかったのだろう。小学校一年生くらいからの記憶ははっきりしているが、それより前は不確かであるが、カラーテレビもない時代、映画は子供だけでなく、大人の娯楽であり、映画館の通路に座って見た。大人はタバコも吸っていた時代である。

 

今はAIで昔の記憶を探ることができるようになったが、あれだけ自分では鮮明な思い出でも、今調べると間違いだったということも案外多い。人間の記憶というのも随分適当である。後年の記憶が変な形で入り、記憶を作り直しているのだろう。一方、怖いのは、ネット上に情報がないと実際にあったこともなかったことになる。例えば、私が通ってした難波幼稚園は、姉、兄、私も通った幼稚園だが、ネットで検索しても違う幼稚園の名が出てくる。AIで調べてもいい加減な答えばかりで、唯一、私のブログくらいにしか難波幼稚園のことが書かれていない。尼崎天主堂についても、AIでは全く出てこないし、Googleでも検索されず、私のブログから検索しないと尼崎天主堂の記事にはいかない。GoogleおよぶAIの最大の問題点は古い情報は自然に消失していき、検索結果にも載らなくなる。AIで聞いてみると「声の大きいWebサイト」や「多数派の意見」だけが正義となり、少数でも極めて正確な一次情報(個人ブログの記録など)が完全に無視される





2026年6月14日日曜日

他人の飯を食う

 


最近は、本当に他人の家で食事をすることはなくなった。親戚や兄弟の家で食事することも少なくなった。流石に子供の家に行けば、そこで食事をすることもあるが、それでも外食することが多くなった。

 

子供の頃、休みごとに徳島の母親の実家に行くと、二週間ほど実家あるいは周囲の親戚の家でご馳走になった。また小学校の頃は日曜日の昼頃に友達の家に行くと、一緒に昼食食べないかと友人の親から言われて食べたり、出前をとってくれることもあった。母親と親しい近所の家にもよく昼食をご馳走されることも多かった。よその家で食べるというのは普通であった。

 

中高校になると、友人は遠方に住んでいたこともあり、あまり他人に家に行くこともなかった。ただ高校2年生の夏休みに沖永良部島の行ったおり、そこで知り合った現地の女の子の家に招待されて、そうめんを食った記憶がある。その後、大学生になると、母の知人の知人という人が仙台にいて、いつも夕食をご馳走になった。ほぼ1ヶ月おきくらいに家に遊びに行き、2年くらい世話になった記憶がある。もちろん友人のアパートに行って、そこで皆で料理を作ることは多かった。卒業しても、教授の家でご馳走になったり、親戚の家に一人で遊びに行ったり、仙台で世話になった人が高松に転勤になったので、泊めてもらったりした。あとは結婚して家内の実家に2年くらいいて、家内の姉や母と一緒に食事した。あと、他人の家で食事したことは忘れたが他にもあったと思う。

 

家を建ててからとなると、ほとんど他人の家のお呼ばれしたとなると、知人の家の新築祝いや何かのパーティーで数度あるくらいで、ここ10年くらいで言えば、福岡の姉の家、東京の娘、横浜の娘に行って食事したくらい、さらに直近の2年くらいで言えば、ほぼ外食となる。逆に人を呼んで、我が家で食事したと言えば、久留米から来た先生、アメリカから来た友人、家内の友達、もちろん両親、娘、娘の友達、くらいのもので、全部でも20名くらいであろう。

 

人の家に呼ばれ、さらに食事までするのはかなり緊張するし、行けばこちらに招待しないといけないし、料理を考える、掃除もしないといけない、面倒だと思ってしまう。さらに気心の知れた人でも、好みのものはわからないし、部屋の中のアラを見つけて、後で周りの人の言いふれ回されることもあるかも知れない。私生活を見せるのは恥ずかしい。こうなるとわざわざ人を家に招くよりはどこかのレストランで会食した方がいいとなる。

 

アメリカの友人に聞くと、アメリカではホームパーティを開くのは今でもごく普通で、各自はそれぞれ料理を持ち寄って、食べるという。その方が外食するより圧倒的に安く済むというのが理由である。一方、日本ではここ数年、家に人を招いて食事したことはないという家が50-70%くらいいると言われ、よそでの食事は嫌だという子供もいる。外食はいいのだが、よそで作られた料理はたとえ祖母のものでの嫌だという。

 

娘や甥、姪に聞いても若い世代は、友人に家に行くこともあまりないし、ましてやそこの家族や知人の家で手料理を振る舞われるというとことはないという。せいぜい、皆でビールや酒、つまみ、ピザなどを買って友人の家で食べるくらいだという。店のものはいいのだが、人の作ったものは食べられないという。昔なら、友達同士で材料を買って、作った方が安上がりということで、こうしたパーティーは頻繁にしたし、近くのスーパではこれから皆で食事をしようというベトナムからの研修生の姿も見かける。

 

他人の飯を食うという言葉があるが、いろんな家庭があるということを知るためにも、是非とも若い人は先輩、親類にお呼ばれされたなら平気な顔をして食べに行ったらいい。人間というのは不思議なもので、自分の家の日常がつい世間の常識と思うようだ。ある友人が付き合っている相手の家に食事に行くと、そこの娘、と言っても30歳過ぎの妹がお父さんの膝に座っているという。かなり不気味な光景であるが、この家の常識では、仲の良い愛情表現なのだろう。こうした違和感はどこの家でもあるのが普通である。また食事も変わった料理、味付け、食事ルールが存在する。神に食前の祈りをするところもあろう。こうしたことも含めていろんな家のルールを知るようになると、家によって常識は全く異なり、その中で人間が生活しているということがわかる。許容性の低い人はこうした経験が少ないのかもしれない。


2026年6月10日水曜日

不運が運になる



先日、高校の同窓会(関東支部)に行ってきました。午後1時からの飲み会で、二次会が終わったのが5時、そのままホテルに行きました。今回のホテルは何度か利用しているホテルグランド市ヶ谷です。このホテルは防衛庁関係のホテルなのか、中国人観光客があまり見ないし、少し古いが風呂も洗い場のあるタイプで、快適なホテルです。市ヶ谷の駅に着き、階段を降りると、そこには出口がありません。一瞬、どうなっているのかわからなくなったが、周囲を見渡すと、ここは乗り換え専用口とあります。結局、駅員に事情を話し、紙印刷をもらい出てきました。これまで10回くらいはこの駅で降りたが、初めての経験で運が悪い。ホテルに着いたのが6時くらいになったので、晩御飯は近くでいいかと、ホテル前にある中華食堂日高屋という店に入りました。無性にレバニラ定食が食べたく注文すると、ご飯もニバレラも大盛りで、食い切れるかと思いましたが、かなりレベルが高く、今、話題になっている町中華でもなかなか勝てないのではないか、それでいて830円の安さでした。厨房では中国人スタッフの中国語がやたらに聞こえてきます。結果的に大満足です。日高屋は東京以外にはあまりないようです。

 

次の日は、上野に行って、美術館に行こうと計画していました、まず都立美術館に行くと、ここは休館、あれ他も休館かと思い、博物館、近代美術館も休館でした。基本的にどこも月曜日は休みのようです。そこでスマホでチェックすると上野の森美術館は月曜日もしているとのことで早速行ってみると、予約が必要で、当日券は今日に時の回と言われました。あと4時間かと思い、躊躇し、動物園はとふと思い、そこに行くと、もちろん休園でした。電車が5時半ころなので、2時でもまあいいかと、5分後にまた上野の森美術館に戻ると、2時の分は売り切れで次は3時になっており、諦めました。せめて図録だけでも買っていこうとすると、ここはチケットの半券がないと入れないという。ショックです。トボトボと不忍池を歩いていると、旧岩崎邸庭園が近くにあるというので、行ってみると、ここは誰も人がいません。見学者よりボランティアの方が多いくらいでした。明治時代の日本一の金持ちの家は贅沢を尽くしたもので、それは立派なもので、広くて見所も多く一時間ばかりいました。その後、白内障の進行防止も兼ねてオーバグラスのサングラスを売ってないかと、上野、松坂屋に行きました。初めて行くデパートで、天井の低い、100年前のオールドな百貨店です。エレベータは上り、下の表示のあるレトロなもので、逆になぜエレベーターガールがいないかと思うほどでした。12時頃だったので、どこも昼食は混むだろうと考え、デパートの地下のイートイン店に行った。歩いていると「銀座天一」という天ぷら屋に天丼のイートインがあり、席が空いていたというか8席で、3人しか客がいませんので、そこで食べることにした。この時間で、なぜこんなに空いているかという疑問もあったが、出てきた竹コース天丼は値段に比べてかなり美味しく大満足です。店頭販売している天ぷらをそのままご飯にのせたものを思っているのかもしれませんが、出来立てのレベルの高い天丼で、1600円は高くない。美味しかったよというと、すごく大きな声でありがとうございましたと言われて、満足して店を出ました。

 

結局、指定券を早い時間に変えて帰ってきた。計画通りにうまくいかなかなくても、別の楽しみがあるものなので、あんまりがっかりすることはなく、これもいい機会だと思うと、思わぬご褒美があるようです。上野に行くと、大抵はアメ横と美術館で終わってしまいますが、御徒町もいいところです。

 

家内からはなぜ、事前に美術館の休館日を調べないかと言われるが、案外記憶に残るのは旅の失敗や、本来の計画外のことが多いように思えます。今回で一番、記憶に残ったのは、上野の森美術館から不忍池に行く階段が雨のために滑りやすく、恐々降りていると、隣からガタガタとおじさんが滑り台のように降りてきた。大丈夫ですが、滑りますよねと言いましたが、本当に23段、映画のように滑り降りました。初めて見ました。また東京駅で、外国人の子供がIC 専用改札口で切符を入れようとしていたので隣の改札口を指差し、“insert your ticket into here”ととっさに英語で言った後、流石に毎週、英語を習っているのも伊達じゃないと思ったわけです。さっとフレーズが出るのがすごい。




 

2026年6月5日金曜日

鈴木雅の父、加藤信盛について

 

明治9年頃の函館


高橋政子先生は、論文(クリオへの感謝、看護教育、22(5),1981)の中で、孫の鈴木康夫氏にインタビューして「鈴木家の二代にわたる戸籍謄本を取ってもらい、――― N市は第二次世界大戦の爆撃を再三うけたので、何もかも消失、遺品らしいものは皆無であった。まさの暮らした家も跡形もなく、新居暮らしの康夫氏の断片的な思い出に頼るしかなかったが、  」とし、残った晩年の雅の写真を載せている。

 

孫の鈴木康夫氏は、2代、両親、祖父母まで戸籍をとったようだ。もう一代前の曽祖父まで戸籍は取れなかったのだろうか。明治五年の壬辰戸籍は無理だが、明治19年式戸籍が残っていれば、曽祖父の戸籍も見られ、右下に高祖父の名前がわかる。戸籍では一番古く、これより前は菩提寺の過去帳だが、寺は火災が多く、残っていないことも多い。いずれにして二代前の鈴木雅の戸籍から、父親は加藤信盛であることは確実である。

 

そこで鈴木信盛のことをGoogleで調べてみると、北海道立文書館に辿り着く。ここに静岡藩士族、加藤信盛の記録がある。11件の記録が残っている。そこでAIgoogleジェミニ)のこの記録の概要情報を全て打ち込み、「時系列にまとめて説明せよ」とした結果は以下である。

 

この一連の文書は、静岡県から製塩資本金などを借りて函館区(開拓使管内)に寄留(移住)していた加藤信盛が、その借入金の返納(年賦償還)や手続きをめぐり、静岡県と開拓使(函館支庁など)の間でやり取りされた公務記録です。

加藤信盛に関する時系列タイムライン

■ 明治12年(1879年)

  • 811日:【徴収の開始】
    • 静岡県士族で函館に寄留している加藤信盛に対し、静岡県からの貸下金を徴収する件が動き出す。
  • 922日:【返納方法の処理】
    • 貸下金の「年賦返納(分割払い)」に関する手続きが行われる。

■ 明治13年(1880年)

  • 29日:【返納金の処理】
    • 年賦返納金に関する件が処理される。
  • 421日:【資金の送金】
    • 加藤信盛からの返納金が、静岡県へ送致(送金)される。
  • 518日:【証書書き換えの照会】
    • 借入金の目的が「製塩資本金」であることが明記される。この貸下金を年賦(分割)に換える件について照会が行われる。

·       64:【証書の書き換えと一部皆納】

o   製塩資本金の年賦証書書き換えに加え、火災に遭った際の「類焼貸下金」の年賦が皆納(完済)したため、旧証書2通が返付される。

·       1012:【証書による送金】

o   年賦返納金が、払出証(為替のようなもの)をもって静岡県へ送付される。

■ 明治14年(1881年)

  • 14年中(詳細月日不明の資料群):【上納手続き】
    • 年賦の上納に関する処理が継続。
  • 1025日:【静岡県からの督促依頼】
    • 函館区に寄留する加藤の拝借金返納について、静岡県から開拓使(函館側)へ督促・取扱の依頼が入る。
  • 1031日:【所在・動向の調査】
    • 加藤信盛の「出先(現在の居場所や状況)」についての取調が行われる(返納が滞り始めた可能性を示唆)。
  • 1122日:【未納にともなう照会】
    • 加藤信盛から「貸付金の返納が無い(未納である)」ということについて、当局間で照会が行われる。

 

AI自体はかなりいい加減な回答を行うのであまり信じていないが、絵を描くときの参考と、古い文書の解釈にはよく使う。この記録については原本のコピーを見ればよりはっきりするが、明治11年あるいは12年の初めに加藤信盛は静岡から北海道(函館?)に渡り製塩業をしようとして失敗したことがわかる。この大きな理由は、明治9年「秩禄処分」、国から士族への給与支給の廃止があり、士族はこの時期を境に一気に困窮化した。そのため、藩から資金援助を受けて多くの静岡藩士が北海道に渡った。その一人が加藤信盛である。

 

鈴木雅が明治五年に横浜共立で学んだのは確実だが、いつまで学んだかについては、明治11年には鈴木良光と結婚しているので、明治10年頃にはやめたと考えた、ただ明治9年8月秩禄処分が行われてからは、娘を静岡から横浜に出して寮費、学費を出すのはかなり苦しかったはずである。明治9年中に辞めたのかもしれない。また明治11年、陸軍将校という良縁に恵まれ、娘、雅を嫁がせてから静岡から北海道に渡ったのだろう。士族にとっては厳しい時代であった。

 


2026年6月4日木曜日

拡大矯正治療について

 

AGGA装置、 前方拡大をする場合


上のような装置を成人に入れれば、こんなことになるでしょう


拡大矯正治療については、小児の上顎骨の劣成長による交差咬合のついては適用となっており、上顎を横に広げて噛み合わせを治す治療は行われる。小児期であれば、上顎骨の正中口蓋縫合がまだ閉鎖していないので、それを急速に拡大することで、そこに新たに骨ができる。ただ症例はそれほど多くない。

 

今日、日本で行われている拡大矯正歯科治療は、交差咬合の改善というよりは叢生、歯の凸凹を改善する方法と用いられている。上顎を横に広げることで場所を作り、足りないスペースを作るというもので、上顎が広くなれば下顎も自然に広くなるという理論に基づく。下の歯列についてはポーター型の拡大装置でゆっくりと拡大する方法が取られている。ところが世界ではどうかというと、最近は訴訟、歯科医師資格の剥奪など物騒なことが起こっており、少し下火になっている。ただこうした物騒なことはどこも伝えていないので、このブログで少し伝えたい。

 

1.ミュー親子の歯科医師資格の剥奪

イギリスのJohn Mewは、自然成長誘導法という独特な治療法を提唱し、日本には何度か来日して講演している。バイオブロックや口腔習癖指導により口腔の機能を改善し、健康な歯列に持っていくというもので、日本では小児歯科、一般歯科医で人気があり、研究会があるほどだ。歯科矯正雑誌にも講習会の案内や、その理論などが特集されていた。ところがその経歴みると、2017年に不適切な広告活動と患者の守秘義務違反で、2017年にイギリスの歯科医師会から歯科医師資格を剥奪されている。科学的根拠は乏しいとイギリス矯正歯科学会から完全に異端視された結果である。息子のMike MewMewingという顎をシャープにいう治療法を提唱し、父親と同じく2024年に歯科医師免許を剥奪されている。息子の場合は実際に患者に不適切な治療によるダメージを与えたことによる。親子二代にわたり歯科医師免許を剥奪されたわけである。日本に来日して講習会をしていたのは確か2017年以降であり、主催者は歯科医師資格を剥奪された先生を講師として呼んだことになるし、そのことは一切レポートしていない、これは問題である。私も今回初めて知った。

 

2.AGGA装置による拡大治療に対する集団訴訟

AGGAとはAdvanced Crozat and Goshgarian Applianceと呼ばれる装置で、基本的な古典的な拡大装置を組み合わせた治療法である。特に新しい治療法ではないがアメリカで一万人以上に使われた。この中で、成人に使い、歯根の露出や歯の動揺が起こった患者が集団訴訟を起こし、現在、訴訟中で、FDAによる刑事捜査も開始されている。2024-25年にかけて被害者を集めて大規模な巨額損害賠償を求めている。法律家の意見としては、典型的な欠陥製品による健康被害として大規模な(数十から数百億円)の和解金で解決するだろうと予想知っていて、さらに導入歯科クリニックにも医療過誤責任が追求される恐れもある。

 

3.気道拡大を謳った過剰治療への訴訟

アメリカ、カナダで2021年頃から訴訟が始まりました。この問題はAGGA装置による訴訟と関連するが、さらに科学的根拠不足という点だけでなく、医科の分野への治療として無資格診断でも問題になっている。

 

日本矯正歯科学会でも、デコボコを治すための拡大矯正治療は基本的には根拠が乏しいとして否定している。上顎については急速拡大装置などにより骨格性変化を起こしスペースの拡大に繋がるが、下顎については骨格性の変化は起こせず、側方への拡大は主として歯の傾斜によるもので、後戻りが強いとしている。でこぼこに対する治療としては、歯を抜いてその隙間を利用してデコボコを治す抜歯治療法と、歯列を拡大、前、横に広げて隙間を作る非抜歯治療法に分かれる。ここに口唇の突出度、上の前歯が前に出ていて、口が閉じられない、が関係して抜歯、非抜歯が決められる。

 

口元の突出度は審美性にも関連するので、非抜歯治療をする先生は、この点にはあまり気にしていない。患者の口元が出ている、あるいは検査の数値上、日本人の平均を超えても気にするなという。一方、矯正専門医の多くは口元が出ているのが気になるため、その改善を患者に積極的に説明する。結果として矯正歯科専門医は抜歯治療を、一般歯科医は非抜歯治療をすることになる。問題は成人患者で、拡大装置による無理な非抜歯治療をして、結果的に口元が突出しても文句は言えない。抜歯して再治療してほしいと言っても、先生によっては、私の主義、健康な歯は抜かない、でそうしたことはできない、どうしても治したいなら他のところで行ってくれと言われる。

 

個人的な感触で言えば、成人の矯正治療では、凸凹の改善+口元を引っ込めたい という要望が多いため、70-80%で小臼歯の抜歯が必要となる。それ故、非抜歯、拡大矯正治療を受けた時点で、ほぼ失敗といえよう。少なくとも、非抜歯治療で口元の突出感が残っている場合は、小臼歯抜歯での治療に切り替えて治療できるかは最初に先生に確認すべきである。ボーダラインのケースでは一度非抜歯で治療してみて、途中で抜歯に切り替えるという症例はままある。

 

 






2026年6月2日火曜日

鈴木雅 フェリス or 共立 論争 3



鈴木雅はなぜ看護師になったのか、海外留学を夢見たのかを、横浜共立学園とファリス女学院の創立理念から見ていきたい。

 

まず横浜共立学園は、横浜に溢れていた混血児の保護と教育が創立背景にあり、創立者のプライン、クロスビー、ピアソンは、それぞれ自立した婦人であり、その派遣母体である婦人一致外国伝道協会(WUNS)は女性だけの独立した団体であった。そのため、今で言うところのウーマンリブ運動の活動、女性の自立を活発に行なっていた。一人の自立した女性として社会に積極的に関わっていくと姿勢である。ちょうど幕末頃からアメリカには女性教師を育てる教育機関ができ、さらにマウントホリヨークやセブンシスターズなど、高等教育を受ける女性が多くなった。そうした新しい女性がキリスト教宣教と相まって外国へ進出した。その一つがアメリカンミッションスクールで、その教育目標は日本でも自立し、社会で活躍できる女性を育てることであった。初期の生徒の中には、アメリカに留学して女医になった菱川やす、岡見京、須藤かく、阿部はな、近代日本女子図画教育の基礎を築いた武村耕靄、鉱毒救済婦人会の発起人となった木脇園、北海道の開拓地での教育と宣教に力を注いだ渡辺かね、桜井女学校を創立した桜井ちか、横浜の社会事業の先駆者の二宮ワカ、などがいる。授業は、聖書、音楽、英語、数学、科学、倫理学など、多くは英語で教えられ、ニューヨーク州立師範学校のカタログに沿ったものだった。かなり英語教育に偏ったカリキュラムであった。

 

これに対してフェリスは、アメリカの改革派教会という、どちらかと言うと男性中心の大きな組織から派遣されたもので、キリスト教精神に基づく教養ある婦人を育てることに目標が置かれた。簡単に言えば、結婚して夫と子供の世話をする古典的な教養ある婦人になることを目指した。禁酒、婦人参政権、孤児院活動、奴隷廃止、などの女性運動は、改革派の多くの男性からは煙たがれるものであった。そのためフェリスの初期の生徒の多くは、社会的地位の高い婦女子で、そのまま良縁に嫁ぎ、積極的な社会活動は行なっていない。社会的なポジションを利用して慈善活動に参加する人もいたが。また授業のカリキュラムも、健全なる日本婦人を育てることに主眼が置かれていたため、英語教育はもちろんのこと、午前中は英語、午後からは日本学、漢学の授業、小笠原流の礼儀、裁縫、生花、琴、茶道などは必須科であった。寄宿生活も寝具、衣服、食物、動作に至るまで全て日本式で、要するに日本式の女性を育成しようとしていた。

 

フェリス女学院の創立者のメアリー・ギターは明治12年にアメリカに一時帰国し、明治14年にはユージン・ブースという男性が2代目校長となる。一方、横浜共立の校長が男性になったのは昭和11年の笹尾灸太郎からで、それまでの4人の校長はいずれも女性であった。明治30年以降は日本政府による宗教教育の禁止令と女子教育の目的が良妻賢母の育成ということになり、横浜共立学園の自立した女性を育てるという初期の教育目的は消えていく。同時に、卒業生から強い個性を持つ女性活動家もいなくなった。

 

こうした両校の創立理念の違いは大きい。雅の場合、陸軍少佐の夫が亡くなっても、その遺族年金で二人の子供を育てることは十分にできた。普通、二人の子供を親に預け、無理して看護師になろうとはしなかったはずだし、アメリカに留学しようとは決して思わない。一方、共立では女性の自立を目指す教育を受け、さらに同級、同窓生の多くが社会活動をしているのを目の当たりにみて、強い決意で看護師の道に志願し、切り開いていったと思いたい。

 

PS

鈴木雅は明治9年3月にバラによって受洗した。日本のキリスト教においても、女性の受洗者としてはかなり早い方である。同窓の武邑は明治6年(ブラウンから受洗)、菱川が明治6年(バラ)、皿城ひさが明治7年(バラ)、木脇園が明治9年(バラ)、岡見京が明治7年(バラ)、鈴木しんが明治7年(バラ)、渡辺かねが明治7年(バラ)、桜井ちかは明治7年(タムソン)、二宮わかは明治9年(バラ)、吉田まちが明治9年(バーム)など初期の共立出身者の多くが受洗している。雅も他の同窓生同様に横浜共立にいた時期に感化されて受洗したと考えられる。それに比べて大関和が受洗したのは看護学校在学時の明治20年である。明治初期、よほどでなければ若い女性が受洗することはないが、寮生活をするうちに感化されて信徒になったのだろう。通常、受洗したいと言っても一年くらいは覚悟をみる。私がいた六甲学院も170名の生徒のうち、6年間で受洗した生徒は60名近くいて、学校の影響は強い。鈴木雅も明治五年に横浜共立に入学し、信徒になりたいと考え、明治9年3月4日に受洗(日本基督教会横浜海岸教会史表1 1806-1870, 井上平三郎、1982)して信徒になった。

 

Wikipediaでは、鈴木雅は明治9年から10年にかけてフェリス・セミナリーで学ぶと書かれているが、開校したばかりの英語初学者(ABC から)が多く、午前中しか英語が学べないフェリスにわざわざ英語を学びにいく必然性はない。共立とフェリスは仲はよく、むしろ生徒数が増え、英語助手に請われて教えるか、あるいは花嫁修行として日本学、裁縫、習字、琴、などをフェリスで学ぶのならわかる(実家のある東京あるいは静岡でも学べそうだが)。ただ昭和6年発行の「フェリス和英女学校六十年史」には生徒、教師として一切の記載はない。


 

2026年6月1日月曜日

宮本輝 「湾」

 

母の実家 一番幸せなころ 昭和20年代


とにかく懐かしい。本の前半は、昭和34年頃の日本の状況を余すことなく伝えている。こうした時代の色、匂いまで文章で表現できる点では、宮本さんは日本でももっとも豊かな才能と経験を持つ作家である。宮本さんの子供時代の経験が色濃く反映された物語で、一種の流転の海の別巻と呼べよう。ある日の記憶。昭和35年頃、私が4歳くらい。梅雨の頃だろうか、尼崎の難波幼稚園の門を入った右側には紫色の紫陽花があり、その葉の上には雨に濡れたカタツムリがいる。それを見ている幼い私がいる。園長室に行くと白髪の年配の園長から毎朝、手帳のようなものにハンコをもらう。黒い修道女服を着ていた先生は石鹸のいい香りがした。こんなシーンが映画のように思い出す。ただそれだけである。作者の断片的なこうした思い出のシールをつなぎ合わせ、文章として形にする。そんな本である。

 

つい最近も作家、佐藤愛子さんが102歳で亡くなった。多くの作品を残した偉大な作家であるが、その代表的な作品といえば、やはり佐藤弥六、佐藤紅緑、サトウハチロウとその周辺を描いた「血脈」になろう。同様にどくとるマンボウで有名な北杜夫さんについても、小説家としての代表作となると「楡家の人々」であり、太宰治の代表作も、自身を色濃く反映した「斜陽」が挙げられる。作家にとって、自分の聞いたこと、見たこと、感じたこと、味わったこと、などなど実際に経験したことがより具体的な形となって文章に出てきるのではなかろうか。そしてそれは読者にとっても、具体的な説得力の強い描写となり、感動を得る。

 

戦時体験のない子供の話であり、世代、男女、社会、都市との断裂がバックボーンのように鳴っている。今から振り返ると、子供の頃の大人たちは驚くほど老けており、大成していた。子供心に自分も大人になったら、自然にああいうどっしりした、威厳のある大人になれるとばかり思っていたが、実際は全くそうでない。自分だけではない。同年齢の友人、知人も皆そうである。昭和34年当時の主人公の父親は、39歳、母親は33歳、周囲の爺さん婆さんは623歳である。昭和28年の東京物語の笠智衆と東山千栄子の約年齢はそれぞれ70歳と67歳だった。今では考えられないくらいに皆老けていた。そういえば、昭和30年代でも、年配(多分、30歳台)の婦人が赤や黄色の原色の洋服を着ているだけで、色きちがいと呼ばれて批判されていた。

 

ここまで前半の感想である。ところが、後半は少しおとぎ話となっていて、ああまた宮本輝ワールドに入ったのかと思ってしまう。連載小説の宿命、次回を期待させる、気分よく読後を終えるための仕組みかもしれないが、何もアストンマーチDB7はないかもしれない。異父違いの姉と弟の恋愛に似た感情も未消化なまま終わっている。ただこれは宮本さんだけに許される特権で、読者をしあわせな気分にさせ、明日を生きる勇気を与える、宮本さんの姿勢であり、悪い人は出てこない。この世ではない、別の世界の話である。本の読む一時、幸せな気分になり、嫌なことを忘れたい、宮本さんのファンはそうなのである。暴力、裏切り、中傷に満ち溢れた世界はもういい。また作家は、結局、経験していないことを小説にはリアルに表現できず、幸せな作家は幸せな、感謝を込めた小説を書くのだろう。

 

本のカバーを開いて欲しい、そこには五老ケ岳から眺めた舞鶴湾が描かれている。リアス式の複雑な地形、海に沿ったわずかな土地に人が住み、裏は山。海―狭い土地―山。これが舞鶴で、その間を結ぶのは船が便利なのはこのカバー絵を見ただけでわかる。小説の説明図が、そのままカバー図となっている。アイデアであり、小説の内容にも合致する。故郷の自然の風景が、思い出の中にある人は幸せである。都会しか知らない人は、すべての風景が変わり、そこは思い出、ノスタルジーしかないのである。