小説家の佐藤愛子さんが亡くなった。102歳という。昨年、亡くなった母と同じ年である。娘さんが書いた「憤怒の人 母・佐藤愛子のカケラ」(杉山響子、小学館)をちょうど読んでいる最中で、晩年の生活は、まるっきり母と同じであった。少し転んだだけで骨折、そして手術、ほとんど眠っていて、昼夜の区別がつかない、耳は聞こえない。最後は食事が極端に少なくなり、水分も取れなくなって眠るように亡くなった。老衰とはこうした死なのである。老人ホームの職員が夜中の3時に見回りに来た時にはすでに息絶えていた。母の場合、不思議なことがあった。耳は遠く、認知症も進み、こちらの存在はあまりわからないようであったが、私のブログを姉が画用紙に清書した文は読んでいた。よほど本を読むのが好きだったのだろう。
佐藤愛子さんの父親は佐藤紅緑、祖父は佐藤弥六、この父と母のことは代表作の「血脈」で書かれていて、愛子さん自体も自分に流れる津軽の血を意識し、また生まれ育った場所を愛した。「血脈」の執筆にあたり、父、祖父のことを調べたのだろう。父のことはもちろんそばにいて知っていただろうが、父の弘前時代、あるいは祖父の弥六のことはこの小説を通じて知り、自分の中にも熱い津軽の血が流れているのを知ったのだろう。今東光というと、悪名などの河内を舞台にした小説を思い起こすだろう、べらんめいな口調や行動などから河内の人のように思われるかも知れないが、本人は津軽の人と心底信じていた。同様に佐藤紅緑も有名小説家になり、阪神間、東京に住むようになると、都会人の雰囲気を身につけたが、気持ち的には生涯、津軽人としての矜持があった。流石に孫の愛子さんになると津軽を離れて二代、「血脈」を描くまで、そんな血が自分に流れているとは思っていなかったに違いない。
佐藤愛子さんの祖父、佐藤弥六は典型的な津軽の奇人で、弘前藩を代表するインテリで、慶應義塾の初期の塾生で、福沢諭吉からの信頼も厚かった。また今日のりんご王国、青森の基礎を作った人物であったが、とにかく変わっていた。いわゆるじょっぱりという性格で、自分に言いたいことを誰であろうといい、行動する。止めても怒る。校長であろうと、市長であろうと関係ない。ところが常に福沢諭吉を尊敬し、白板に福沢に名前を書いて、毎朝、手を合わせていたという。
以前、佐藤弥六の最晩年、亡くなった大正12年に書かれた書を手に入れた。今は弘前郷土文学館にあり、内容については文学館の方で解釈し、説明文がある。
全文をここに挙げる。
「朝げに夕べは測られぬは寿命なり。移り易くして頼みがたきは人の心なり。神仏は敬すべくして祈願は頼ずべからず。法律は上下相互の約束より成立てるもの。予防の道具と知るべし。無理が通ふれば道理が引っ込む。真素面で此世は渡られず。才智は身を誤るの本なり。才子は才を恃んで怠り且つ驕る。愚者は分を守て勉めて成功す。見よや業成而後才子も才ならず。愚も愚ならず。官爵は人為僥倖の名称のみ。人爵貴からず。天爵尊びて爵然と独立して奪うべからず。冨貴は順番、貴賤は廻り持。不義にして冨貴ならんよりは清廉にして貴賤なれ。凡画人は依頼心ある時は中正を失うものなり。独立自主自ら省みて疾しからず。己が言はんと欲する所を云ひ其為さんと欲する所を為す。以天賦の性を畫さざるべからず。勤倹なれば富み怠慢なれば貧す。人間の幸福は邦に勤労し家に節倹するより生ずるものなり。
大正十二年二月 八十二翁弥六書
」
この書幅が何のため、誰に書いたのはわからないが、通常、誰かに与える書にこんに長文を書くことはない。ましてや最晩年、82歳、今でいえば90歳以上の老人がこれほどしっかりした筆使いの書を書くとは見事としか言いようがない。内容的には家訓に近い感じがする。佐藤家への家訓と見ても良さそうな内容です。
佐藤愛子さんは祖父の書幅を知らないだろうが、おおよそ彼女の生き方は祖父の家訓に沿っているように思える。安心して天国に行かれよ。祖父、父からは怒られはしないだろう。佐藤家の血を引く後継者として十分に活躍した。
ご冥福をお祈りします。









