うちの叔母さん、母親の妹だが、気のいい人だが、少しおっちょこちょいのところがある。昭和33、4年頃の話である。叔母がおめかしして、着物を着て、バッチリと髪型も整え、簪もさして、京都の街を歩いていた。ふと見ると、あるホテルの入り口に、「大映〜記念パーティ」の看板があったので、何かなあと思って、そのままパーティーの会場に入って行った。受付では誰も咎められず、そのまま入ると、そこは大映の関係者だけが集まるパーティで、映画でしか見ないすごい俳優がいっぱいいる。さすがにこれは間違ったところに来たと思ったが、まあいいかとそのままパーティーを楽しんだ。市川雷蔵はいるし、その頃人気が出た勝新太郎、中村玉緒さんもいる。衣装だけは集まった人々と遜色はない。そうこうするうちに勝さんと話す機会があり、このパーティに入った顛末を話すと面白がったようだ。その折に、映画の小道具を担当する女の人と仲良くなり、その後もしばらく京都の大映撮影所に行くようになった。実家が徳島県脇町で、雑貨店をしていたので、戦前の古いかんざしや櫛などがたくさんあり、時代劇に使えるということで大映撮影所に寄贈したようだ。今でもあるかもしれない。叔母さんのアルバムには、小さな写真プリントのさらに小さく勝新太郎、中村玉緒、市川雷蔵の若かりし頃の姿が映っていた。
ある年、うちの母と一緒に徳島県脇町に帰省した。当時、船は大阪の天保山あるいは神戸港から出ていて、徳島の小松島港に着く。小松島港から脇町に行くには小松島線で徳島まで行き、そこで徳島本線に乗り換えなくてはいけない。母と叔母は、小松島から徳島に電車に乗って行くと、隣のホームに、すでに徳島駅に脇町行きの電車が止まっている。ホームが違うので、階段を登って行くととても間に合わないと判断し、ホームから線路に飛び降り、線路を横切って、隣のホームに行こうとした。着物姿である。二人は何とか飛び降り、急いで隣のホームに渡ったものの、ホームが高くて上がれない、困っていると駅員が呆れたような表情で、引き上げてくれた。連結便なので、徳島本線、脇町行きは乗客を待って、発車したので、そんなに慌てなくてもよかったのだが。とんだ恥をかいた。
叔母さんの旦那さんは、昔の典型的なお坊ちゃんで、それはいい人であった。実家は船場で、染めの前掛けを扱う大きな商家であった。学校の行き帰りは必ず、お世話のおばさんが付き添った。困らせようと電柱に隠れながら歩いたと言っていた。この商店は山崎豊子の船場物の小説にも少し登場するようだ。義理のお母さんは明治には珍しい女医さんだったようで、お金はあったようだが、商家育ちのため始末には厳しい方で、叔母さんも苦労したようだ。うちの母と一緒に徳島、脇町に来ることが息抜きだったのだろう。尼崎の実家にもよく来た。
叔母さんに会うと、いつも「トシ坊ちゃんは、私がおぶっていると、帽子が落ちたことをまだしゃべりもできないのに手で知らせた。賢い子や」と会うたびの褒めてくれる。たまたまのことだと思うが、嬉しいものだ。昭和32年ごろのことで、当時、母の妹二人が大阪の服装学校に通うために実家に住んでいた。一階は歯科医院で、その奥に6畳の台所、2階は多分、増築前なので6畳の和室が2つくらいしかないところに、父、母、祖母(父方)、姉、兄、私と、叔母2人の計8人住んでいたことになる。この頃の都会は、人がむやみに多かったのか、どこの家でも狭い部屋に住んでいた。友人の家は、6畳くらいの部屋の一家5人が住み、便所、台所が共同であった。当時、まだ独身であった叔母からすれば我が子のつもりで私を背負ったのだろう。








