先日、弘前大学の医学部図書館に行ってきて、ウィキペデアで鈴木雅がフェリス女学校を修了したとする参考文献をチェックしてみた。結論からいうと、全ては一つの論文に行き着く。少し古いが、高橋政子、“クリオへの感謝 歴史にみる看護婦群像1第1話 鈴木まさのこと”「看護教育」(22巻6号、1981年、医学書院)である。
高橋政子先生は日本の看護史界の第一人者で、すでに共著となる“日本近代看護の夜明け”(医学書院、1973)で鈴木雅のことを記述しているが、資料が少なく、不十分な点を憂慮していた。そこでフェリス女学院と最後に雅が生活していたN市(沼津市)に問い合わせたところフェリスには資料はなかったが、N市から鈴木雅の孫である鈴木康夫氏がいることを知り、直接会って、鈴木雅のこと、その夫のこと、鈴木家、加藤家のことなどを聞いた。その過程で、雅がフェリスを修了したと聞いた。以下、同論文の該当する文章を記述する。
「まさ自身がフェリス女学校の2期生であったといっていた由だが、年表づくりをしてみると明治9年(1876)年にフェリス女学院と呼ぶようになってからの2期生で、10年ごろに修学を終えたものではないだろうか」
「まさ自身がフェリス女学校の2期生であったといっていた」は、孫の鈴木康夫の記憶であり、「明治9年(1876)年にフェリス女学校と呼ぶようになってからの2期生で、10年ごろに修学を終えた」は高橋の考察である。鈴木雅の長女の出産が明治12年、結婚は明治11年と推察されたことによる。
高橋がこの論文を書いたのは1981年、鈴木雅の孫、康夫(大正8年生まれ)が62歳、鈴木雅が亡くなったのは1940年であるので死後41年、経った時期である。
「まさ自身がフェリス女学校の2期生であったといっていた」については、多分に康夫の記憶違いの可能性がある。「明治百話」(昭和6年)では大関和の話として雅は「横浜二百十二番館の女学校を卒業」と書かれており、孫の康夫も、祖母が言った二百十二番館の女学校=フェリス女学校へと記憶の変換があったかもしれない。とりわけ京都、沼津で育った康夫にすれば横浜共立学園のことは全く知らないであろう。実際、関西出身の私自身、須藤かくの調査をするまで、横浜共立学園のことは聞いたこともなかった。また「横浜共立学園六十年史」(昭和8年、国会図書館デジタルコレクションで見られので確認してください)の小島清子の思い出として、一期生として入学したのは、福沢諭吉の娘3人、姪の福沢きよ、井上馨の娘2人、木脇園、中尾さん(芸者をしていた?)、菱川やす、更木梅、金、ひさなどであった。その後、次の年、二百十二番館に移ってから入学した二期生?は、りょう(栗岡氏に嫁ぐ)、加藤まさ、桜井ちか、井深せき(井深梶之助博士の婦人)、おとり、お角(後、医者になった 須藤かく)、上田てい、吉益りょうとなっている。つまり「2期生」であったというのは正しく、明治4年に設立されたアメリカン・ミッション・ホームの2期生、明治5年入学組であった。「二百十二番館の女学校の2期生」というのが、孫の康夫の中ではいつの間にか「フェリスの2期生」に変換されていたのだろう。半分正しく、半分間違っている。ファミリーメモリー、オーラルヒストリーではよくある間違いである。
さらに高橋政子先生は、フェリスが本格的な女子教育を始めた1875年(明治8年)を一期生として、その2期生、明治9年に鈴木雅がフェリスに入学して、結婚する前、明治10年に修学を終えたとしたのだろう。
高橋先生が共著の「日本近代看護の夜明け」の文献の中には「明治百話」があり、もしこの文献中の大関和の「雅は横浜二百十二番館の女学校を卒業」の記述から、フェリスでなく、共立に問い合わせたら、共立からの回答として「横浜共立学園六十年史」の資料を得て、鈴木康夫の「フェリスの2期生」という発言も「横浜共立の2期生」の間違いと気付いたのであろう。1981年といえば、インターネットも普及していない時代で、今ほど簡単に文献検索もできず、当時としては最大限の努力をして歴史的な真実解明に努めたのだろう。頭が下がる。また鈴木康夫氏も40年前に亡くなった祖母のことを聞かれても記憶は曖昧であったのも仕方がない。フェリスでも、共立でも英語を学んだことは間違いないからだ。
その後、ほとんどの鈴木雅の関連本は、高橋先生の「クリオへの感謝 歴史にみる看護婦群像1第1話 鈴木まさのこと」(看護教育、22巻6号、1981年、医学書院)を参考に、雅はフェリス卒業ということになった。田中ひかるの「明治のナイチンゲール 大関和物語」(2023、中央公論新社)も、田中さんは親類の話を聞いたとしているが高橋先生の補強としてで、フェリス卒業という前提の内容となっている。もしこの本がNHKの朝ドラの原案にならなければ、鈴木雅の出身校など、たいした問題でなかった。実際、高橋先生の論文はよく調査して、まとまっており、私でも今回の疑問がなければ、多分、何の疑問もなく、そのまま鈴木雅=フェリスとして引用するだろう。
まとめると、高橋政子先生の1981年の論文により鈴木雅=フェリス女学院卒業という図式ができ、その後の本のほとんどはこれに倣い、孫引きし、再考されることもなく、今日に至っている。鈴木康夫が所持する戸籍、写真、まさの卒業証書などの一次資料や、他の文献から確認できる資料など有意義な資料も多いが、今のところ、出身校については、康夫のファミリメモリーを支持するものはなく、他の資料からは明治5年に横浜共立を入学し、明治9年3月にバラより受洗し。明治10年頃に修了したという結論になる。5年あれば、英語はかなり上達するが、1年ではまず無理である。
日本看護歴史学会の最近の座談会でもそうした内容のことが語られている。
https://jsnh.jp
*鈴木雅のWikipediaを見ると、以前、横浜共立学園同窓会で記述した内容が、看史研という日本看護歴史学会の略称のようなアカウント名で、何度も内容の変更が行われている。







