2026年8月2日日曜日

ベロベロという駄菓子はわらび餅に似ている

 





子供の頃、多分、昭和389年の頃、毎日のように近所の駄菓子屋さんに10円持って、訳のわからないものを食べていた。

 

今の季節、よく食べたのが、「ベロベロ」というわらび餅のようなもので、くじを引いて、当たると大きなものものがもらえる仕組みになっていた。確か一回、五円か十円くらいであった。それを新聞紙に入れて、きな粉をかけてくれる。新聞の文字が写るんではと、ちょっとだけ心配したが、数秒で食べて遊びに行く。そんな毎日であった。

 

よく行った駄菓子屋(2)は、家(1)から10mくらいのところにあり、そこが行きつけのところであった。友達とよく行ったのはセンター市場近くの駄菓子屋(3)で、ここは駄菓子だけでなく、コマやベーゴマ、ベッタンなども売っていた。また理髪店ホープとタバコ屋の間の道、難波小学校に行く道は、近所でもデンジャラスゾーンであったが、その本道から横にそれた薄汚い小道にも婆さんがやっていた駄菓子屋(6)があり、ここはこの辺に住む子供の溜まり場であった。ここの駄菓子屋の人気があったのは、店番をしている婆さんが少しボケていたあまり勘定ができないため、子供が悪さをしていたからである。

 

こうした子供向けの駄菓子屋にも流行の波があり、一番よく行く、駄菓子屋にもお好み焼きをするようになった。一枚、十円で、キャベツのみの薄い薄いお好み焼きで、先ほど述べたデンジャラスゾーン近くにも(5)、ちょぼ焼きという10センチくらいの鉄板に1cmくらいの穴があき、そこに小麦粉を溶いた液を入れて焼く、たこ焼きのようなものがあった。これも確か十円であった。

 

歯科医院の前には、同級生のお菓子屋さんがあり、和菓子、洋菓子などが売っていたが、店主が変わってからもお菓子屋さんで、店先にはガラスケース、ボックスに入ったお菓子、キャンデーが売られていたが、ここも夏場がかき氷、冬場は関東炊きをしていた。駄菓子、お菓子屋と食べ物を売る店がある時点を境に増えた。また、理髪店、ホープの近くにもお菓子屋(7)があったが、いつの間にか、漫画雑誌をおく小さな本屋になり、販売日になると週刊マガジン、サンデー、キングなどがうずたかく置かれていて、学校から帰るなり真っ先に買ったものだ。その前は、家から難波公園に行くところに貸本屋(4)があり、何度か漫画を借りたが、ここは2、3年でなくなった。難波公園にはよく紙芝居や粘土を型に入れて、銀色や金色の粉をかけて、おじさんに渡すと、採点し、点数が増えると飾っている型を交換してくれる(8)。銀玉鉄砲やゴム鉄砲をしたのもこの公園だし、センター市場近くの駄菓子屋(3)ではこうした銀玉鉄砲やさらに強力な2B弾という先をマッチ箱のヤスリ分で擦るとシューっと音がして2、3秒で爆発する。これを手榴弾がわりにして銀玉鉄砲と一緒に遊ぶ。公園に来た鳩やスズメを狙って遊んだりもした。

 

他には、難波小学校の正門前には西村文具店(9)という店があり、ノートや鉛筆などの文具以外にも、プラモデルや切手も置くようになり、プラモデルの完成品をショーウインドーに飾っていた。この店の先には本屋(10)があり、月刊少年などの付録付きの子供向けの月刊誌はここで買った。こうした子供向けの店は家から半径500mくらいにあり、そこが我々子供の世界であった。

 

近くのロピアに阿波晩茶わらび餅というのが売っていた。会社は徳島県板野郡藍住町となっている。この番茶は父母の故郷の味であり、独特な風味をもち、この阿波晩茶にもしっかりその風味が入っていた。ただ久しぶりにわらび餅を食べたせいか、むしろ子供の頃のベロベロを思い出し、こんなことを書いている。



2026年8月1日土曜日

中国による台湾侵攻はできない


中国による武力的な台湾侵攻について、最近はどうもトーンダウンしている。一番大きな理由として、ロシアによるウクライナ侵攻で、陸続きの国への武力侵攻でさえ、あれほど難しいのに、まして海を渡って台湾を武力侵攻するのはほぼ不可能であるということが、世界中の集約意見になってきた。第二次世界大戦中のノルマンディー上陸作戦あるいは、計画だけの幻の日本上陸作戦を見ても、海で隔てられたところへの侵攻は防御側の数倍の兵力が必要で、損害も多い。ましてや制海、制空が完全にできていない状況では、困難度はさらに増す。そのため、中国は、武力侵攻を諦め、認知戦などの武力を使わない方法に注力しているようだ。

 

さらに高市首相、おそらくそのブレーンが中国にとって嫌なことばかりするので、さらに厳しくなっている。中国軍にとって、もっと脅威なのが、日本の中距離ミサイルで、12式地対艦ミサイル、あるいは一番怖いのは、25式高速滑空弾で、マッハ5以上の速度で不規則な運動で飛ぶため、迎撃はほぼ不可能とされている。それでいて、日本版GPS、衛星みちびきと連動したミサイル攻撃は、中国空母にとって脅威以外にない。この地対空ミサイルは、まず偵察衛星で中国空母の数分後の経路を予想し、そこまでは衛星GPSでミサイルは飛んでいく。数十キロの射程に入ると、先頭のカメラにて画像、熱源などはら船種を同定し、一番弱い部分に突入する。精度は1m以下とされ、防御もほぼ不可能である。現在、射程2000kmの改良版を開発しており、それができれば中国のほぼ沿岸部は射程に入る。このミサイルは防ぎようがなく、現在ある3隻の空母は、ほぼこのミサイルだけで壊滅できる。小型、移動可能なので、隠して配置でき、予算的には厳しいが数百発、九州、離島に配備すれば、中国空母はほぼ外洋には出られない。

 

実際、台湾有事のシミレーションでは、中国軍は早期に台湾の周囲の海を封鎖して支援が入らないようにする。その間に、兵力を台湾に上陸させて侵攻するというシナリオである。日本、アメリカは、本土の基地が攻撃されない限り、直接的に武力投入はできない。もし本土基地、とりわけ米軍基地が攻撃されるや、アメリカ軍は即刻、アメリカにある中国資産を凍結する。これだけで中国は潰れる。絶対に中国はアメリカとは戦争しない。ウクライナ戦争と同じく、兵器の援助をするが、台湾は自分で守れということになろう。

 

日本政府としては、さすがに表立って中国と戦争することはないので、武器供与という支援になろう。その場合の、日本の中距離ミサイルは、凄まじい威力を発揮する。数さえあれば、中国からの船舶による輸送を遮断することも可能となる。ただ、いかにして弾薬、ミサイルを台湾に輸送するかが問題となる。おそらく深い海の台湾東側からの輸送となるが、中国も警戒、封鎖しているので、難しい。そこで最近、日米で計画されているのは、無人潜水艦やナルコサブのような半分海中に沈んだ無人船である。これは無人のAIによって海中を進む潜水艦で、大型のものも計画されている。これが完成すると、日本を中継基地として、台湾、東側から無人の潜水艦を利用し、中距離の地対艦ミサイルや弾薬を供給することができる。ウクライナ戦争のように輸送車が攻撃されても犠牲者は10名以下であるが、中国から台湾への兵員輸送船が撃沈されると千人単位の犠牲となる。これでは怖い。

 

中国が台湾に侵攻した場合、日本の米軍基地を攻撃することはまずないというのが常識である。というのは攻撃された瞬間にアメリカにある中国資本の凍結手続きが行われ、発動されるからである。これは中国にとって、旧ソ連型の世界に戻ることを意味する。亡国に近いリスクを犯して日本の米軍基地を攻撃することはあり得ない。結局、日本としては中国にとって、いやらしい兵器、中距離ミサイル、無人潜水艦、位置情報、通信、探索衛星、音響監視システムとそれに連動したスマート機雷、たいげい型潜水艦、もがみ型護衛艦、レールガンなどの装備を高めていくことであろう。またフィリピンへの中古護衛艦の供与、オーストラリアへのフリゲート艦の輸出など、中国周囲国への武器供与も嫌なことである。

 

防衛というのは高い費用の掛け捨て保険であり、掛け捨て金はもったいなくても何もないことが一番である。戦争だけでなく、自然災害に対する自衛隊の貢献を加味すると決して高い費用ではないように思えるが。



 

大人気の海上自衛隊の護衛艦、もがみ型

 


海上自衛隊のもがみ型護衛艦は、今、世界中で大人気である。その要目をWikipediaで調べると、基準排水量は3900トン、全長133m、最大幅16.3mという。帝国海軍で言えば、駆逐艦にしては大きく、軽巡洋艦にしては小さいというレベルで、軽巡洋艦“夕張”の基準排水量が3560トン、全長が137mで近い。ただ現行の自衛艦で言えば、あたご型が7750トン、まや型が8200トンなので、小型艦、フリゲート艦の扱いとなる。

 

もがみ型の最大の特徴は、そのステルス性で、現行の艦艇の中では、さすがにアメリカ海軍のズムウォルト級には敵わないにしても、特殊塗装の効果と相まって、レーダー上では小型ボートくらいの大きさにしか分からず、海上で20-30km、空中からでも30-40km程度まで近づかないと発見できないと言われている。ステルス機能のない通常艦では海上で35-40km、空中では100-200kmであり、この差は大きく、相手が発見できない距離で攻撃ができる。

 

さらにすごいのは乗組員数が少なく、標準で90名、これは従来の護衛艦の1/2-1/3の省力で、さらに対空、対艦だけでなく、対潜、対機雷にも対応できるマルチ機能を持つ。またこれまで一号艦の“もがみ”が令和4年に就航したのを皮切りに、12番艦の“よしい”まで順調に建造され、当初の建造費は一隻で約500億円、令和6年予算では1隻、1000億円となっている。かなり建造費が上昇しているが、アメリカのズムウォルト級は大きさが全く違うが、建造費が1隻あたり6000億円、総費用で3兆円以上かかっており、今はあまりに高いため3隻で建造中止となった。

 

ステルス性能、少ない乗務員、マルチ機能、それでいて建造費は高くないことから、コスパのいい艦艇として世界中から注目されている。つい最近ではオーストラリアの次期フリゲート艦としてこのもがみ型の性能向上型を採用することに決まった。さらにニュージランド、インドネシアも導入予定である。オーストラリアへの輸出とその後の評価を見て、さらに多くの国からの受注が見込まれる。

 

とりわけ米国海軍は、このところ、新型艦艇の開発の失敗が続いている。前述したようにズムウォルト型を当初30隻、導入する予定であったが、あまりに建造費が高く、3隻した就航せず、1988年に就航したアーレイ・バーク級が、いまだに最新艦である。さらに2017年には新型フリーゲート艦の開発を進めたが、二番艦まで建造することになったが、それ以降の建造計画は全くに白紙となった。こうした度重なる新型艦艇の計画が失敗に終わったが、中国海軍が着々と勢力を増し、それに対応するために排水量4750トンくらいの小型な艦艇の開発を早めている。ただ計画しているこの新型艦艇にはステルス性能はない。

 

さらにアメリカの造船能力の問題もあり、緊急の手段として、どうも日本との共同開発を企んでいるようである。もがみ型はレーダーや電子兵器はほぼアメリカ製のものであり、建造のノウハーを知れば、すぐに使える。カナダの次期駆逐艦が一隻8000億円という巨額な費用に比べると、もがみ型は1000億円で安く、また生産性が高い。古くなったアーレンバーグ級に変わる戦闘艦がすぐにでも大量に欲しいアメリカ海軍としては、もがみ型の向上艦は興味のある艦艇である。

 

安くて、性能が良いという日本製品が、ついには軍用品にも及ぼうとしている。軍事品の価格が恐ろしく高騰しており、最新戦闘機F-35200億円、空母で約2兆円、パトリオットミサイルが一発7億円くらい。どれも高くて、実戦に使えないレベルに達している。ウクライナ戦争でもあまりに戦闘機、爆撃機が高価、数が少ないので、もはや空中戦とう概念もなくなった。日本が開発を進めている25式地対艦誘導弾などの出現で、ほぼ中国海軍の空母も怖くて活動できない。核兵器による抑止力だけでなく、通常兵器のよる抑止力も強くなっており、もしこうした空母キラーミサイルを台湾に大量に供給するだけで、ほぼ中国の台湾侵攻は阻止できる。


2026年7月24日金曜日

鈴木雅に関する横浜共立学園六十年史にある回想  小島清子について

 

矢島楫子

「横浜共立学園六十年史」の中で、卒業生の寄稿文のひとつに小島清子(北川)さんの「思い出を語る」という文が収められている。引用すると

 

 「私は姉の北川晴子と弟の北川才太と三人で、ミッションホームが山手四十八番に開設された最初の生徒として入学したものでした。私たちの外に第一回の生徒として入学した人たちには福澤先生のお嬢さ達が三人、又福澤先生のお姪御さんで福澤おきよさん、井上馨(後の侯爵)さんのお嬢さんが二人、木脇お園さん。この人のことを伯爵夫人と渾名していました。中尾さん、名は何と言ったか覚えていませんが何でも芸者をしていたかということでした。苗字は忘れましたがお米さんという三十歳位の人もいました。菱川お安さん、この人は後医者となった。更木お梅さん、更木お金さん、おひささんなどでした。間もなく二百十二番に移りましたが、移ってから入学した者のうちには毛色の変わった人たちがいました。 略 おりょうさん(後栗岡氏に嫁す)、加藤おまきさん(後東京帝大の看護婦長となった)桜井おちかさん(桜井女塾を開いた)井深おせき(井深梶之助博士夫人)おとりさん、お角さん(後医者になった)お貞さん、おりやうさんなどであった。この二人は明治の初年最初の女子海外留学生として米国に往った上田てい子、吉松(益)りょう子さんたちで渡米後間もなく帰朝して共立に入ったのでした。これらは開校当時の事で明治四、五年頃の話ですが、それでも当時の社会においては相当の身分のある人たちの子供が入学したのです。」

 

この回想から、鈴木雅(加藤おまさ)は明治五年頃に横浜共立女学校(アメリカン・ミッション・ホーム、日本婦女英学校)に入学したことがわかる。ところが、これに対して、まずこうした卒業生の回想は適当で、記憶違いも多くて、信用できないという批判がある。例えば「加藤おまさ(後東京帝大の看護婦長)」に対して、看護婦取締役で、看護婦長ではないと言った細かい批判である。ではこの回想を書いた小島清子とはどういった人物かというと、最近、投稿された尾崎るみ先生(白百合女子大学)「若松賤子周辺の人々―義父・大川甚平衛や親友・小島清子などについて」(横浜プロテスタント史研究会、第477研究会 2026.6.20)で、詳しく書かれている。この論文によると

 

小島清子は、柳川藩士・小島正男の次女として生まれ、横浜税務勤務となった父に伴い横浜に来た。明治4年、父親が長野勤務になったので、三人に子供をできたばかりのアメリカン・ミッション・ホームに預けた。ところが明治6年に父親が東京勤務となり、芝の桜川小学校に転入した。以後、端折って紹介すると、官立東京女学校に行くも中退し、小島官吾と結婚する。官吾は後に東京府議会議員などになるが、廃娼運動にも夫婦で積極的に関わっていく。小島清子は婦人矯風会設立から関わり、書記や会計を担当し、婦人白標倶楽部の一人で、女学雑誌では女性記者8名の一人でもあった。さらに明治38年には単身で1年間、アメリカ西海岸を視察旅行し、翌年、一家でカリフォルニアに移住し、大規模農業に従事した。昭和17年ごろには日本に帰国したようなので、横浜共立学園六十年史はアメリカから投稿したことになる。

 

このように小島清子は明治期における際立ったインテリ女性であり、彼女の投稿した文書は信頼のおけるものとみなして良い。さらに矯風運動を通じて、矢島楫子、若松賤子などとも親しく、当時の進歩的な女性の一人であり、初期の横浜共立女学校の生徒のその後の動向についてもある程度知り得る立場であった。大関和、鈴木雅はともに婦人矯風会に参加していることから、書記、会計をしていた小島清子とは直接面識があったのは間違いない。

 

鈴木雅については資料が少ないので、履歴がはっきしないことが多いが、上記の記述から、明治5年、アメリカン・ミッション・ホームに入学したことはほぼ間違いなく、横浜海岸教会の記録から明治9年3月4日にバラにより受洗した確実な記録もある。当時の同窓生の多くが在学中に受洗していることから、鈴木雅も明治9年頃までは横浜共立にいたと考えても良い。その後、結婚するまでフェリスで英語を学んだ、13年まで横浜共立を修了などの意見もあるが、これについては不明である。ただ結婚する前には学校を辞めたと考えてよく、それを踏まえると明治10年頃に学校を辞めて、11年頃に結婚したと考えてもよかろう。つまり鈴木雅は、明治5年にアメリカン・ミッション。ホームに入学し、明治9年に受洗、明治10年頃に学校を辞めて、結婚した。二人の子供をもうけたが、夫が戦傷で亡くなると、明治19年に上京し、明治20年に桜井女学校附属看護婦養成所に入学した。結婚していた期間は、普通の主婦として過ごしたと思うが、横浜共立で学んだ英語は忘れなかったのだろう。



ついでに最近流行りのAIで作った文は、参考まで


「横浜共立学園百五十年史」には鈴木雅について「明治13年ごろ修了か」との記述があり、これに対してWikipediaでは「雅は共立女学校(現在の横浜共立学園)に学んだとされるも一次史料は存在しない。また同校に在籍したとされる期間は、京都や仙台に居住し出産しているため矛盾する」という批判がなされている。確かに雅は明治11年に結婚して夫の赴任先へ同行しているため、学校史が推測した「明治13年修了」という年号には誤認がある。しかし、この年号のズレを理由に「共立在籍の事実そのもの」まで否定するのは、史料批判として不当である。
「横浜共立学園六十年史」所収の小島清子の回想には、開校当初(明治5年頃)の生徒として「加藤おまき(後の鈴木雅)」の名が明確に記録されている。小島は婦人矯風会幹部や「女学雑誌」記者を務めた明治期の際立った知識人であり、同じく矯風会に属した雅とは直接面識があった。この当事者の具体的な証言は一級史料として極めて信頼性が高い。
さらに、これを裏付ける客観的データとして、明治9年3月4日付の横浜海岸教会の記録(バラ宣教師による受洗記録)が現存している。当時の同窓生の多くが在学中に受洗している史実を鑑みれば、雅は明治5年に入学し、明治9年3月時点では確実に横浜の環境下にいた(=共立に在籍していた)とみるのが自然である。
つまり、雅は「明治13年まで在籍した」のではなく、「明治5年に入学し、明治10年頃まで在籍したのち、結婚(明治11年)前に退学した」と捉えれば、京都・仙台での出産という史実とも何ら矛盾しない。後世の伝聞(孫の記憶や親戚の由緒書)のみに頼るフェリス在学説に比べ、小島清子の回想と教会の受洗記録という2つの独立した史料で裏付けられる「横浜共立在籍説(明治5〜10年)」のほうが、歴史学的に圧倒的に優位である。

2026年7月22日水曜日

大学病院の外来長という仕事(矯正歯科の場合)



私が大学病院にいたのは25歳から38歳までの13年間で、最初3年間は東北大学歯学部小児歯科、次の10年間は鹿児島大学歯学部矯正歯科にいた。途中、1年間は宮崎医科大学歯科口腔外科に出向した。東北大学にいたときは医員という役職で、日給払いの雇用であった。鹿児島大学、宮崎医科大学では助手、今でいう助教で、ようやくボーナスももらえる常勤雇用となった。

 

鹿児島大学歯学部病院では、学生実習は小児歯科と矯正歯科が一つの単位として小児患者を診るシステムであったので、小児歯科もできる私は重宝された。大学病院の診療室も小児歯科と矯正歯科は受付が同じで、フロアも同じであったので、小児歯科の先生とも親しかった。

 

そういうことで1年間の矯正歯科の基礎実習が終了すると2年目からは学生実習の指導教官となった。当時、矯正歯科から宮崎医科大学歯科口腔外科に矯正歯科の先生が1年間出向し、そこで唇顎口蓋裂患者、外科矯正患者の矯正治療を行なっていた。4年目には私もここに出向し、鹿児島大学に帰ってきてから、辞めるまで5年ほどずっと外来長をしていた。

 

医学部、歯学部のシステムでは、教授、准教授、講師、助教という職名だけでなく、講座、医局内での役割もあり、医局長、外来長、病棟長の3つが主なものである。医局長は医局内の細々としたこと、例えば医局員のスケジュール管理、カンファランス、研究会、忘年会、送別会の日時の設定から新人教育のカリキュラムなどを担当する。一般的には准教授、講師クラスがなる。外来長、外来関係一般の仕事だが、病棟のない矯正歯科では、この仕事は多岐にわたっているし、結構大きな力を持っている。講師あるいは筆頭助教がなる。

 

例えば、外来で使う機材、器具の管理、購入も外来長の管轄で、矯正歯科では毎日、多くのブラケット、バンド、ワイヤー、ゴム、印象材、石膏、が消耗される。衛生士、看護師に在庫管理をしてもらい、なくならないように補充していくのも外来長の仕事である。さらに医局員の意見を聞きながら、新しい製品を試したりすることもある。そのため、矯正歯科関係の業者が最も近づくのが各大学の外来長である。もちろん、全ての購入については教授に確認してから発注する。そのため、矯正歯科機材については医局内でも最もよく知っていた。

 

外来長の仕事の中でも最も大変なのは、矯正歯科では新規患者の配当である。当時の鹿児島大学病院矯正歯科では、新規患者も1日に1、2名だったので、基本的には外来長は新規患者全てを診る。そして大まかに見て、治療の難しさ、あるいは不正咬合の種類を把握する。矯正歯科の認定医になるためには、不正咬合のカテゴリーの沿った症例を治療しなくてはいけないので、こうした仕訳が必要となる。実は、こうした認定医制度のできるまで鹿児島大学病院矯正歯科は全国でも珍しいグループ診療をしていた。医局員に患者を配当するのではなく、医局員全員でみるシステムで、朝、診療室のチェアーに座ると、そこに来る患者をいきなり診なくてはいかない。当時、6か月ごとの検査をしており、午前中はこうした検査患者の時間となる。一つのユニットに大体午前中に2名入り、座るとすぐに患者の印象をとり、放射線科に送る。技工室で印象材に石膏をもり、それが固まったら、大まかにトリミングして、放射線科から送られるレントゲン写真をその場でトレース、分析し、教授回診に備える。教授がやってきて分析、診断、今後の治療方針を述べ、問題がなければ、次の患者もまた診る。うまくいかないと後日、カンファランスに回され、そこで協議する。こうしたグループ診療は短期間で多くの患者をみる点では優れていたが、認定医制度では医局員が最初から最後まで診た症例を出さなくてはいけないので、私が外来長をしていた時に廃止し、配当制にした。

 

他にも、本来、医局長がやるべき医局員の新人教育、一般歯科医向けの講習会、一般歯科からの症例相談もした。教授がいい人で、外来長の仕事を一任してくれ、責任だけが俺が取ると言ってくれて嬉しかったし、のびのび仕事ができた。また矯正歯科では基本的には夜間、休日診療はないのだが、外来長だけは緊急患者が来れば病院から呼び出せるようになっていた。と言ってもこんなことは年間で数回である。

 

こうした仕事に上に、自分の研究、論文執筆、さらに学会雑誌の編集委員の仕事もあり、いつも家に帰るのが10時過ぎということが辞めるまで続いたが、開業すると、こうした経験が非常に役立った。特にグループ診療、外来長をして、開業前に数千例の症例を見ていたので、実際に40年間開業していたが、初めて診る症例は割合少なかった。


 

2026年7月20日月曜日

シンシナティ美術館で開催されている「Gift From Japan」展

 







前に私がシンシナティ美術館に寄贈した40点の日本画(掛け軸)のカタログのことをこのブログで述べた。その後、今年の108日までシンシナティー美術館のConversations Galleryと言う場所で展示されている。なかなか好評とのことである。

 

https://www.cincinnatiartmuseum.org/art/exhibitions/special-features/gifts-from-japan/

 

私のコレクションは、日本ではほぼ無名の人の作品ばかりで、一番多いのが土屋嶺雪、大正から昭和にかけて神戸、姫路などで活躍した日本画家で、橋本関雪に近いモチーフを描いたことと、ほぼ展覧会に作品を出品しなかったことで全く無名のままに終わった。これまで唯一、国内で行われた展覧会は2016111日に加古川市立松風ギャラリー、「播州ゆかりの日本画家3人展 福田眉仙・森月城・土屋嶺雪」で取り上げられたくらいである。館長のAさんにも今回のことを報告すると大変喜んでくれた。ほとんど忘れられた画家が海外のそれもアメリカでも最も古いシンシナティ美術館で展示してくれたことは土屋嶺雪の名誉であるばかりか、その子孫にも嬉しいことである。

 

また香川芳園については、幕末から明治にかけて活躍した人物で、菊池芳文の最初の師匠で有名な画家で、当時は滋野芳園と名乗っていた。大英博物館、アルバート美術館、シンシナティ美術館にこれまで西山芳園の作とされていた作品について、ホウメイ博士の研究から西山ではなく、芳園平吉輝と言うことになった。ただこうした名前はおかしいし、もちろん美術史でもそんな名前はいない。そこで香川芳園=芳園平吉輝ではないかと言うことで調査し、実際に集めたのが2点と以前の寄贈した4点がある。今後の調査が期待される。

 

田中蘭谷は千葉県生まれの日本画家で、この人も絵は上手いのだが、ほとんど評価されず、都留市博物館で平成12年に「企画展 田中蘭谷展」が開催されただけである。ほとんど無名の画家であるが、動物画はうまい。前川文嶺、望月玉泉は江戸期に活躍した大阪画壇の画家であるが、今はほとんど評価されていない。立脇泰山、山元春汀は昭和に活躍した画家で、当時は非常に人気のある画家で、今でも山元春汀から改名した山元桜月の富士山の絵は人気がある。一方、近藤翠石は森琴石の弟子で大阪を中心に活躍した画家だが、今は完全に忘れられた画家であり、三浦文治は東京美術学校では期待された人物であったが、新潟で美術教師になったので、同級生の東山魁夷、橋本明治というビッグネームの陰に隠れた。才能は彼らには負けていない。

 

以上のように、私が寄贈したコレクションは無名の作家が多く、日本国内で、そもそも寄贈を受け入れる美術館はないし、個人コレクションの展覧会も開催されない。

 

今回の展覧会のカタログは、当初、美術館の経費で作ってくれたものと思っていたが、アメリカの美術館には、公的資金は10-20%しか投入されず、今回のカタログの制作費も、B女史の寄付によった。B女史は、夫婦で、日米協会で積極的な活動をし、何名もの日本人を預かったり、日本文化の普及に努力してくれている。今回の素晴らしいカタログも彼女のおかげで、大変感謝する。ありがとうございます。

 

今年の1010日から、上野の森美術館で「シンシナティ美術館展」が開催される。ゴッホ、モネ、セザンヌなど日本で未上陸の作品が見られるので是非いってみたい。またもうすぐ、東京都美術館で「大英博物館日本美術コレクション百花繚乱」が開催される。もし芳園の作品が出品されているならこれも見たい展覧会である。前回に懲りてネット予約の上に行くことにしよう。



インスタでの現地の様子

https://www.instagram.com/p/DaSodB6EaHG/?img_index=12


ちょうど草間彌生展が同時に行われていて、現代日本絵画と比較で見ている





2026年7月17日金曜日

中国、韓国のパクリ文化

 


スイスのUSMハラーのキャビネットがオシャレで、近年、人気がある。私のところでもマンションに引っ越したときにリビングに置くキャビネットが必要となった。北欧の古いキャビネットか、このUSMハラーのキャビネットのどちらにしようかと悩んでいたが、将来、娘が欲しがるものをということでベージュ色のUSMのキャビネットを購入した。

 

実は、このキャビネットは韓ドラでもよく登場するが、少しだけ違和感があるので、調べてみるとMarket Bという会社のものである。この会社がパクって、正確にいうとデザインの意匠権は消失しているのでリプロダクト品として、価格も本物の1/5から1/6の価格で売っている。若者には人気がある。この会社は、他にも意匠権の切れた名作家具のリプロダクト品を作っている会社だが、年商45億円くらいの中規模会社で、こうした戦略で世界進出を図ろうとしている。

 

韓国、あるいは中国には、いわゆるパクリ企業が非常に多い。古くは、サムソンは日本の家電を、ヒョンデは各国の自動車をパクリ、お菓子にいたっては日本で売れているお菓子のコピーばかりになっていた。農作物も自分で開発するのをやめてイチゴやブドウなどは日本で開発したものを栽培して売る。さらには日本で流行ると、すぐにそれに追随するようで、パン屋、コーヒショップ、美容院、コンビニも日本風になった。極め付けはサムソンが製薬メーカーに進出しようとしているが、はなから費用のかかる新薬開発を諦め、ジェネリック薬の生産に特化するようだ。さらに将来の輸出産業として軍事品を挙げているが、潜水艦はドイツのもののパクリで、それを韓国製として輸出しようとしている。

 

なぜこうなるかというと、韓国は成果、実績主義で、結果が出ないとすぐにクビになる。そのため新しいものを開発するよりは、日本ですでに売れているものを改良して売ろうという発想になる。ある韓国の菓子会社の製品開発会議では、日本のお菓子をずらって並べて、どの菓子を真似して売ろうかと検討するようだ。隣国が日本だったのが良かったのか悪かったのかわからないが、常に日本を真似するようになり、そしてその呪縛から逃げられなくなった。新しいことをするよりは日本を真似した方が、失敗が少ないからだ。

 

それでは日本はどうかというと、最初は韓国、中国同様にパクリばかりしていた。自動車、カメラ、おもちゃ、なんでも真似していたが、そうなると欧米からパクリ商品と言われて安くても輸出ができず、売れなくなった。その後、日本のオリジナリでないと欧米では売れないとわかり、世界最初の物を開発、発明して売っていった。オリジナルを作らないと売れない状況であった。一方、韓国、中国は、日本という先行国があるため、自分で開発するより真似た方が、経営効率がよく売れた。その成功体験がパクリ社会となった。

 

家具の話に戻そう。日本では宮崎椅子製作所のような小さな家具メーカーでも例えば、カイクリスチャンセンの椅子を復刻製作する場合でも、きちんと契約し、デザイン料を払って製作する、あるいは天童木工のようにブルーノ・マットソンにデザインして製作するという正式なやり方を行う。いずれも本家から高い製作技術を認められたことも関係する。こうして製作したものはきちんとした復刻版として高い値段でも売れる。パクるよりきちんと契約して製作するというのは日本、あるいは欧米のやり方で、これが日本の信頼に繋がる。

 

こうしたパクリ文化は、一時的に収入は上がるが、企業としてのブランド化は難しい。中国、韓国とも、いまだにソニー、ニコン、ホンダ、キャノンなどに匹敵するブランドはなく、スニーカーという狭い分野でもオニツカタイガーに匹敵する世界的ブランドは中国、韓国にはない。結局、常に欧米を中心に見てきた日本は、世界一、世界初を目指して、ブランド化に成功したが、日本というパクリやすい国が隣国にあるため、韓国、中国ともその呪縛に逃れられず、ブランド化、高価値高価格分野に進出できていない。せめて世界一のタフな時計、カシオを目指して欲しい。個人的には韓国のアウトドアメーカー、ヘリノックスと、この会社を支えるDACはすでにブランドになっている。