2026年9月11日金曜日

弘前と二・二六事件

 



先日、北一輝、二二六事件を調査、研究している方が弘前に来たので、一緒に酒を飲んだ。弘前には二二六事件に関与し、処刑された対馬勝雄中尉がいて、今回の調査に含まれている。対馬中尉については、寺島英弥著、「二二六事件 引き裂かれた時刻を超えて 青年将校・対馬勝男と妹たま」(ヘウレーカ)という本がある。早速Amazonで取り寄せ読んでみた。優秀で優しかった兄、その処刑前の家族との対面の光景には泣かされる。

 

二・二六事件については多くの著書に書かれているが、昭和初期の財閥と政治家の癒着、汚職、あるいは不況、凶作による地方の貧困化が絡み合って、天皇を頂点にした親政を目指すものであった。もちろん、多くの軍事クーデターと同じく、軍人が政権を担う軍事国家の道である。昭和11年のニ・ニ六時件は昭和7年の五・一五事件に比べて関係者の処罰が厳しく、五・一五事件では処刑者は一人も出ず、禁固刑も軽いものだったが、二・二六事件では19人の軍人、民間人が処刑された。民間人で処刑されたのは北一輝と西田税の二人で、直接的な行動には参加しなかったが、思想的な指導者として処刑された。

 

青森県では、対馬勝雄中尉以外に、佐藤正三、宮本誠三が禁錮1年半(執行猶予)の判決だった。いずれも弘前中学、弘前高校、東京大学に進んだ弘前の秀才であり、養生会のメンバーで当時、養生会で理論的な指導をしていた伊東六十次郎の薫陶を受けた。弘前では同会を中心に昭和初期から日本主義、国家主義的な教育が行われ、北の地で活発な活動、論議が行われた。実際に養生会では今でも石原莞爾の「戦争史大観」の生原稿、北一輝の「国体論及び純正社会主義」の初版本がある。また伊東六十次郎と北一輝あるいは西田悦との直接的な接触や、中国革命に深く関わった弘前出身の山田純三郎と北との上海での接触はあったと思われる。対馬中尉、佐藤、宮本以外にも二・二六事件に関与した青森人は多い。ついでに言うと対馬勝雄中尉が所属していた豊橋陸軍教導学校の上官、砲兵学生隊長には弘前藩の儒学者、兼松石居の子供、兼松成器大佐で、同郷で接触はあったのだろう。兼松大佐は二・二六事件後、陸軍少将になってすぐに予備役となった。さらに弘前で国家主義の理論的リーダーであった伊東六十次郎は、終戦間際、40歳で二等兵として徴兵され、戦後はシベリアに12年間抑留され、最後の引揚者として帰還した。一種の懲罰徴兵であった。

 

戦後、佐藤正三は弘前市の教育行政に傾注し、昭和43年、初代の教育次長になったが病をえて亡くなった。養生会の会員には、教育行政に関わる人が多く、『養生会百年史』をみても、戦後だけでも田村清三郎(青森県教育長)、小山俊夫(教育次長)、佐藤俊雄(弘前市学務課長)、大谷誠蔵(岩木町教育長)、小田桐孫一(弘前高校校長)、佐藤正三(弘前市教育次長)、鈴木忠雄(弘前高校校長、弘前南高校校長、県教育次長)、鳴海重(弘前高校校長)などがいる。こうした先生たちは、右翼、左翼という枠から外れ、強いて言えば、郷土愛を持つ教育を目指した。       

 

弘前のおかしな点、あるいはすごい点は、こうした養生会のような組織が現代まで残っていることである。日本中の多くのこうした組織は、戦後、消滅した。GHQによる取り締まりもあるだろうが、戦争の反動による市民からの突き上げも消滅した要因であった。もちろん弘前も古くから左翼活動が盛んな土地で、津川武一のような東北初の共産党衆議院議員が生まれたところでもある(通算5期)。ところがここは物持ちがいいところで、戦後の荒波にも関わらず、戦前の体質、文化が底辺にそのまま残った。さらに言うと江戸時代の体質、文化、さらに明治、大正のそれも継続して残っている。多くの都市では戦後、一気に古い体質、文化を捨て去ったが、弘前は地層にように残り、断層はない。さらに言うと、この地層は斜めになっており、あちこちに古い地層が出ている。地層をあえて掘る必要もなく、あちこちに露出している。




2026年9月7日月曜日

プラモデルは難しい

 

Classic Air Frames社の1/48 Boeing F4B 作るのが難しい



レベルの1/72 第一世界大戦 名機シリーズ 60年くらい前のもの


子供の頃はよく歯科医になるには手先が器用でないと言われ、プラモデルはすぐに買ってもらい、主として1/72の飛行機をたくさん作った。レベル、タミヤの1/72あるいは個人的に最も好きだったのはタミヤの1/100のジェット戦闘機シリーズだった。ほぼ塗装も銀一色というのもよかった。モノグラムの1/48や長谷川の1/32などの飛行機もたくさん作った。これが小学5年生から中学2年生くらいまでのことで、当時は、「航空ファン」も購読していたし、その別冊の「世界の傑作機シリーズ」も買っていた。ところが中学3年生くらいになると急に興味がなくなり、その後、長い間、プラモデルを作らないという時期が続いた。

 

再開したのはほんの2年ほど前で、近所の模型屋を行くと、昔の感覚からすると驚くほどプラモデルが高くなっている。2千円くらいは普通で、1万円を超えるものもある。それでも比較的安い長谷川や田宮の1/72の飛行機を買ってきて作ったのだが、仕事が歯科医なので、まさしくプラモデル作りには理想的な環境である。以前はヤスリでコツコツ磨いていたのが、歯科用の研磨器具を使えば、一瞬で綺麗に研磨するし、パテの代わりに歯科用レジンが使えるし、矯正用ワイヤーあるいは銀ろう着もできる。

 

ヤフーオークションを見ていると、海外のマイナーのプラモデルや古いキットが格安で売っている。調べると単体で3000−5000円のキットが6、7個入って1万円くらいで売られている。プラモデル好きの人が断捨離として放出した。これを安いと思い、3箱くらい買ったのだが、その後、一戸建てからマンションに引っ越し、家内からはあの3つの大きな段ボール、何とかならないかと言われ、またプラモデル作りを再開した。歯科用の機材は一切、人にやるか、捨てたので、マンションにはない。塗装もエナメル、アクリル塗装は匂いがキツいので、全て水性塗装にした。

 

まずレベルの1/72 第一世界大戦の傑作機シリーズ4機を作ることにした。子供頃にあったキットなので、ほぼ60年は経っている。古いキットだが組み立ては簡単だった。落とし穴はデカルで、全く台紙から剥がれない。30分水につけても剥がれす、結局はカッターナイフで削ぎ落とす、あるいは手書きでマークを描くことになった。

 

次に挑戦したのは、Classic Air Framesというアメリカの会社のBoeing F4B-4という1/48の機体で、驚くことに位置決め用の突起、ダボと穴が一切ない。大きさもいい加減で、上下の翼をつなぐ翼柱の組み立て説明図には上下とも3mmくらい切り取るようにという指示がある。3mm、上下で6mmは流石にないだろう。他の部分も同様に修正が必要と思ったが、案の定、ほとんどの部分の修正が必要だった。またエンジン部のパーツがレジンで作られているが、ニッパーではきれず、ノコギリで切り離すしかなく、難儀した。さらに接着もほとんど瞬間接着剤を使わないといけなく、位置決め用のダボもなく、2mmくらいの部品を取り付けるのに苦労した。また強度も不足しており、針金で補強するものの、追加のセメント、瞬間接着剤で汚くなった。ここで張線をする気力もなくなり、一応完成した。いずれ張線をしよう。

 

安いには理由があり、こうした作りにくいモデルは年配の方からは多分無駄な時間がかるるため嫌われ、それゆえ、安く放出されたのであろう。私の場合、作っても半年もすると完成品はゴミ箱に捨てる。プラモデルの面白さは作る過程にある。あまり簡単に作られるのでは面白みに欠けるし、そうかといってあまりに難しいのも精神上よろしくない。






2026年9月5日土曜日

生活道路の制限速度30km

 

幅が広い道だが、生活道路?

こういう道でドライバーからよく怒られる、クランクが多い

生活道路とは、定義からすれば「主として住宅街などにあり、地域住民が通勤・通学や買い物などの日常生活で利用する狭い道路」とされているが。この狭いの定義が微妙で、一応、目安としては5.5m以下のセンターラインのない狭い道とされている。AIで、「雪国では除雪した雪が道の左右に積もるために道幅の広い道が多く、これは生活道路ではないか」と聞くと、そうではなく、標識、センターラインのない道であれば、道幅が5.5m以上でも生活道路になるという。確かに警察庁のホームページでは道幅の指定はない。

 

今、弘前駅近くのマンションに住んでいるが、この地域は救急車、消防車が入らない狭い道ばかりだったので、4050年前から整備計画が始められ、今は綺麗に区画し、道幅の広い道となった。道の真ん中には融雪用の水が出る構造となっていたが、地下水が不十分ないので、今は融雪されていない。そのため、冬場は除雪車が入り、道の左右に雪を積み上げるために、車一台がやっと通り抜ける幅となる。最近の道路は、歩道や道幅を広げて、冬場はそこに雪を置くように設計されているので、雪国の道は除雪した雪の分も含めて道幅が広い。

 

マンションの近所を歩いていると、これまで三回ほど、車のドライバーから叱られたことがある。一度はすごいスピードで走り車がいきなり止まり、運転手が降りてきて、「どこを歩いているんだ」と怒鳴られた。歩道がない道なので、こちらもそんなに道の端を歩いていなかったのも原因である。

 

9月から生活道路での制限速度が30kmとなった。生活道路での交通事故が多いことによる。テレビでも報道されているので、知っている人も多いが、写真1のような道はどうだろうか。道幅は10mくらいあり、直線の道である。朝方は迂回道路として使う人が多く、大抵は50-60kmくらい、あるいはもっとスピードを出すドライバーも多い。ここ2、3ヶ月、この道で警官3人で何やら監視をしているのを見かけることが多かったが、これは生活道路の制限速度30kmが施行される前に、実態調査をしていたのであろう。

 

以前、ドライバーから怒られた道路は2枚目であるが、ここは道路が直角に曲がるクランクが多い道で、流石にドライバーも言われれば、道幅が広くても、ここは生活道路だとわかるだろうが、一枚目の直線の道路は歩道もあり、ほとんどのドライバーは生活道路と思わないだろう。真ん中の融雪用のノズルが並ぶのでこれがセンターラインに見られる。

 

この道を通過するドライバーの多くは信号を避ける迂回路として使っているので、少しでも急ごうと早いスピードを出す。仮に60kmで走ると30kmのスピード違反となり加点6点に免停30日、80kmで走ると加点12点、免停90日間、そして6ヶ月以下の懲役、または10万円以下の罰金となる。さらに自転車などにかすり、全治二週間未満の軽い怪我を負わすと、80kmで走った場合は、免許取り消しとなる。場合によっては職を失うことにもなる。

 

車に乗っていない私から言わせると、迂回路ばかり走るドライバーの精神構造がよくわからない。一度、大学病院に入院し、傷もまだ完全に治っていない状態で退院した。大学病院前からタクシーに乗ったのだが、このタクシードライバーは迂回路が好きな人で、狭い道ばかりをスピードを飛ばし、そのつど急ブレーキをかけ、傷が傷んだ。プロとしては失格である。おそらくこんな迂回路を使っても5分も違わないと思うのだが。

 

生活道路というのは全道路の80%以上あると言われ、信号や標識のない道路は全て生活道路と見做さなくてはいけない。つまり普段、迂回路として使っている道のほとんどは制限速度が30kmということを十分に知るならば、迂回路を使う意味はなくなる。私の近くの生活道路を見ていると、こうした迂回路を使う人の8割は女性で、案外、女性の方が辛抱強くないのかもしれない。くれぐれも生活道路でのスピード違反には気をつけてほしい。一発で免停になる可能性は高く、車を使う仕事の人は大きな迷惑をかける。

2026年9月1日火曜日

保険の手数料のことを少し調べた

 


うちの父親は、生命保険ではずいぶんお金を使った。保険外交員の言われるまま、いろんな保険に入り、70歳の頃は保険料だけで月に60-70万円支払っていた。節税対策もあったのだろうが、保険外交員から、言葉巧みに次々と新しい保険を勧められ、今、これに乗り換えるとお得だと言われ続け、少しずつ掛け金が上がっていった。70歳になると歯科の売り上げも減り、月の収入の多くが掛け金に変わり、流石にお袋もキレ、全て解約した。年間で800万円くらい、10年間で相当な額の金がほぼ溶けた。父は保険の手数料のからくりについては全く知らなかったのか、いい保険と勧められるとすぐに乗り換えた。ただ私も大人になり、保険に入るようになると、少しずつ保険外交員のカラクリを知るようになった。

 

今は昔ほどひどくないが、40年くらい前は、個人で保険を扱う、今の独立系の保険外交員ががむしゃらに手数料稼ぎをしていた。普通、手数料というと数%程度のものと思うが、当時の手数料は、ほぼ1年分の掛け金、70-100%くらい、2年目からは5%くらいとなる。つまり親父の場合、月70万円、年間で840万円の保険料のうち、この代理店、保険外交員に入る手数料は契約時に800万円近くになることを意味する。そして次々と新しい保険に乗り換えさせ、手数料稼ぎをする。溶けた金の大部分は、代理店、外交員の収入になった。美味しい客だった。

 

こうした信じられないほど高い手数料のことを知る人は少ない。今は手数料も下がっていると思うが、AIで調べるとそれでも30-70%の手数料を取るようだ。最近、よくモールやショッピングセンターで見かける複数の保険を取り扱う乗合代理店、例えば「保険見直し本舗」、「ほけんの窓口」などは、保険会社からの手数料をため、基本は販売員に固定給を払うシステム(+歩合)となっているが、基本的には高い手数料を前提としている。つまり、新規保険加入に契約に伴う手数料、月2万円の12ヶ月分、24万円×約40%=10万円を、保険会社から販売代理手数料として受け取り、月に50件の新規契約があれば、500万円の販売代理手数料が入り、そこから販売員の給与、テナント料などの経費を払うことになる。販売員は高い手数料の保険商品を勧めても個人の収入は固定給なので意味がない。客は勧められる数種類の保険商品の中から安くて、いい商品を選ぶことになる。それでも代理店ではノルマと歩合があるため、手数料の高い特定の商品を販売員が売ることになる。

 

おそらく一番安い保険は、これらの手数料の上乗せが少ない商品で、ネットから申し込み商品や、団体保険がこれに当てはまる。職域の団体保険や、身近なところでは都道府県団体保険、生協コープの団体保険がある、理論的には、個人の外交員=ショッピングセンターの乗合代理店>ネット保険(広告費が保険料に載せられる)>団体保険となり、同じ商品では30%くらい違う。

 

最近では、若い人を中心としてこうした保険の手数料の高さに気付き、安いネットや団体保険を利用する人が増えてきて、これまで独立系の羽ぶり良い保険屋さんの稼ぎが減ってきた。その稼ぎを補おうと、あるいは金融庁の規制により、いわゆる独立系のファイナンシャルプランナー(FP)への転職が多い。保険だけでなく、生活一般をみる、金融資産の管理もする。金融商品仲介業を兼ねるようになった。ただ保険と金融商品は分けて考えなくてはいけないルールとなっているが、多くのFPは一緒にするために、最近問題になっているソニー生命やプルデンシャル保険の事件はここに起因する。特にソニー保険は社内でのルールをかなり厳しくしている。証券会社では、一時の強引な勧誘に対する金融庁の取り締まりに懲りてかなり厳しいルールのもとで活動しているが、独立系のFPが多いソニー保険やプルデンシャル保険出身者はかなり怪しい活動をしている。個人的な経験では、かなり信頼していたFPから10年、元金保証、4%の利息の金融商品を勧められたが、調べるとケイマン諸島にあるI.Tという会社のものであった。かなりリスクの高い商品であった。これも保険商品と同じく、一年目に高い手数料が代理店に入る商品で、彼らは保険手数料の旨みを忘れられないのである。ただ、今はこうした無認可の金融商品を扱うことは海外の代理店を迂回するとしてもかなりグレイな商品である。

 

今でも保険会社の主たる新規顧客は、保険外交員、乗合代理店店舗からの場合が多い。昔であれば、この保険に入るとあなたへの手数料は幾らかと聞くと露骨に嫌な顔をされたが、今では金融庁も手数料開示を推奨しており、きちんと聞くのは顧客の正当な権利である。将来的には手数料開示は法律で義務化されることになり、それは親父が被ったような保険詐欺に遭わない良い手段と思われる。一方、これまでこうした高額な手数料について知らない一般の人は、開示される手数料をみて、なぜこんなに手数料を取るのかと質問されるが、それに関してきちんと答えられる保険外交員にならなくてはいけなくなった。多くの誠実な仕事をしている保険外交員にとって、一部の金稼ぎの人たちのせいで規制強化されるようになったのは迷惑であろう。今後は、手数料も欧米のような毎年の平準化、あるいは廃止の流れになるのではなるかもしれない。


2026年8月23日日曜日

珍田捨巳の功績 昭和天皇との関係

 

珍田捨巳の書簡


珍田捨巳は、青森県が産んだ偉人の一人だが、地元での知名度は今ひとつである。というのも、明治、大正期に活躍した外交官ではあるが、外務大臣、首相という高い地位につくことなく、役職の最高位としては昭和天皇の侍従長くらいしかない。もちろん、外交官としての業績を上げると、外務次官(外務省総務長官)として桂首相、小村寿太郎外務大臣とともに、日英同盟、日露交渉に尽力し、さらに牧野伸顕と共にパリ講和会議の代表となった。こうした功績により、のちに伯爵となった。ただあくまで黒子としての活躍であり、表立って舞台に出ることは少ない。大河ドラマや映画では、小村寿太郎、桂太郎が出ても、珍田が出ることない。また小説では吉村昭の「ポーツマスの旗・小村寿太郎」、漫画では能條純一の「昭和天皇物語」には昭和天皇の側近として登場する。

 

昭和天皇と珍田捨巳の関係は、大正10年(1921)の皇太子(昭和天皇)の欧州訪問の訪欧供奉長に任命されたことによる。これは宮内大臣の牧野伸顕による推挙によるものだが、外務省を含む首脳部でもそれほど反対意見がなく、すんなり決まったようだ。英語力、キャリア、とりわけ駐英大使を務めたことが決め手となった。当時、政府、あるいは山縣有朋はじめ元老たちは若い皇太子の成長に危機感を持っていた。大正天皇が肉体的、精神的に公務を担当することが次第に困難となり、皇太子による摂政が現実味を増した。ただ今のままの皇太子ではとても摂政に任には耐えられないと思われており、その対策として登場したのが皇太子の訪欧であった。近代的な元首として欧州の皇族たちと知り合い、そこで学ぶ必要があると考えられた。ただ皇太子の訪欧は予想以上の反対運動、貞明皇后、東宮大夫、東郷平八郎、頭山満なども反対したが、原敬首相の強い決意で実現した。

 

大正1033日(1921)から93日までの6か月間のヨーロッパ各国の歴訪である。この間、一時期を除く、ほぼ全期間、珍田は皇太子(昭和天皇)と一緒にいた。通訳を兼ねていたので、常に皇太子の傍にいて、案内した。宮中の生活しか知らない皇太子にとって、これほど他人といつも一緒のいたという経験はなかった。ちなみに訪欧の時点で、昭和天皇は19歳、珍田は64歳、父親の大正天皇は41歳、祖父の明治天皇は生きていれば68歳なので、昭和天皇と珍田の関係は、孫と祖父の関係に近い。

 

昭和天皇は、生前、自分が一番楽しかったのはこの時の訪欧のことと語っており、その思い出とともに珍田の姿が鮮明に残っていたのだろう。訪欧後、珍田はそのまま東宮大夫、さらに侍従長となり、昭和天皇の即位式を全うしてから亡くなった。訪欧での二人の関係はその後も珍田の死まで続いた。摂政時代、昭和天皇は各地に行幸したが、遠方には年配の珍田の体の負担を考え、帯同せず、亡くなると、すぐに命を出して、即日に従一位に叙任させた。極めた異例のことであり、亡くなったその日に従一位に叙任されるのは基本的に首相経験者、元老で、伊藤博文、山縣有朋、山本権平、などに限られ、外務大臣の経験もない珍田が叙任することは通常考えられない。昭和天皇の強い命(めい)による。

 

昭和天皇にとって、珍田は自分の祖父のような、父のような存在であり、多くの影響を受けた。まずイギリス国王の立憲君主のあり方を珍田の通訳を通じて知り、学んだ。そしてキリスト教についても珍田の影響により宥和な態度を持つようになり、皇太子(平成天皇)の英語の家庭教師にクエーカー教徒のヴォイニング婦人を選び、皇太子の妻、美智子様はカトリック系の聖心女子学院であった。神道の総帥という立場ながらキリスト教の対して寛大だったのは珍田の影響があった。さらに自分の子供、義宮正仁親王の妃として津軽家から華子さんを迎えた一因かもしれない。さらに昭和天皇は戦争中も含めてリベラル、やや親英米派に近い考えの持ち主で、これは牧野伸顕、珍田捨巳の影響が濃い。もし昭和天皇が、訪欧の経験、側近の牧野、珍田、杉浦重剛らのリベラル、合理主義的教えがないまま、成長したなら、軍部、特に陸軍が求めるような右翼的な天皇になった可能性もあった。また珍田は自分の後継の侍従長として鈴木貫太郎を勧めたが、これが最終的に終戦に結びついた。

 

もっと評価して良い人物と思う。一番その功績を評価しているのが、昭和天皇であった。AIを使えば、若き昭和天皇の欧州訪問のドラマ、映画を皇太子と珍田の関係から描けると思うが。


2026年8月20日木曜日

左翼思想に感化された頃

 



ちょうど高校生くらいの話だ。大学の学園闘争はピークを過ぎたが、それでも高校にも少しその影響が入ってきた頃だった。阪神間でも灘高校や神戸高校でも校則撤廃を起因としたライトな学園闘争があった。我が六甲学園でも、昭和45年頃だが、頭髪の自由化を求めて高校2、3年生が灘高校など他校の運動に感化されて、活動を行った。それまで中学、高校生とも坊主という厳しい校則で、ドイツ人校長が校門の前に立ち、そこで髪の長さをチェックし、そのまま帰宅させ、散髪屋に行かせた。また学校には電気バリカンは2、3台あり、生徒に自由に使わせた。クラスに一人くらい散髪の得意なクラスメートがいて、髪を刈ってもらった。当時、中学生は坊主のところがほとんどであったが、流石に高校生で全校生、坊主というところはなく、これに対して高校2年生、3年生が反対していた。最終的には耳を露出させるという髪型という条件で認められた。

 

この時代、大学生も高校生も左翼的な思想がカッコよく思われた。私も高校2年生頃から当時、朝日新聞で持ち上げられていた中国の文化大革命を偉大なものと見ており、京都大学の竹内好教授などによる中国礼賛本を貪るように読んでいた。中国はすごい、医療から教育まで全て無料、地上の天国のような国で、その指導者、毛沢東と周恩来のような政治家が日本にも現れないのかと本気で思っていた。革命は正しいと考えていて、毛沢東語録の解説本なども読んでいた。ところが大学に入る頃になると、少しずつ文化大革命の実態が漏れてきて、これはおかしいと気づいた。そこで大学2年生の頃、昭和50年に中国が外国人解放政策をとり、団体旅行に限り、中国旅行に行けることになった。実際、中国はどうなのか、自分の眼で見たいと思い、親に援助してもらい、香港、広東、昆明、北京のツアーに参加した。常に公安の監視下に置かれ、買い物も外国人専門店でないと買えなかった。博物館に行くと多くの掛け軸が破られたまま展示されていて、文化大革命の爪痕があちこちに見られた。北京での通訳の女性は、文化大革命中、日本語のできるインテリとして僻地に下牧させられ、ようやく北京に帰ってきたというキャリアの人だった。疑問のことを尋ねると、よほど辛い目にあったのか、文化大革命のひどさを語ってくれた。私の大好きな中国解放軍の行進曲、「三大紀律八項注意」をハミングすると怒っていた。

 

帰国後、多くの文化大革命批判の本を読むにつれ、次第に中国礼賛の気持ちは萎んできて、最終的には卒業の頃に発生した中越戦争で、完全に中国に対する気持ちは切れた。日本の多くの左翼はベトナム戦争反対を唱えていて、基本的にはベトナム支持者が多かったが、そのベトナムに帝国主義的な行動で中国が侵略したという事実は、多くの左翼はこの時点で、左翼思想から離れていった。私自身、大学2年生頃に中国に行ったことをきっかけに、さらに藤田省三の「転向の思想史的研究」を読み、人はいかにして簡単に転向し、それも左翼からウルトラ右翼に転向するのかが理解できた。さらにあれだけ大学闘争をしていた活動家が何事もなかったように大企業に勤める事例を多く見てくると、左翼のいうことが全く信じられなくなった。一時期は、仙台の勾当台公園に座っていると左翼活動家がベンチに座っている私に左翼活動に参加するように誘われた時はかなり腹が立ち、議論した。最後は、大学というぬくぬくとした生活を過ごすのではなく、即刻、大学を辞めて、北朝鮮に行けと言うと、急に泣き出した。悪いことをしたと反省している。今なら、それはそれ、何とか誤魔化す知恵はあるが、あの純粋な若者にはきつい言葉であった。

 

結局、左翼の思想を含めて、こうした理論を突き詰めていくと、最終的には思想、信念のために死ねという陽明学、あるいは吉田松陰の考えになり、左翼で言うならテルアビブ空港乱射事件、右翼で言うなら政治家の暗殺に行き着く。思想でも逃げ道を立たれると怖い。一方。辺野古の左翼活動家を見ていても、60歳以上の人が多い。20歳から活動をしているなら、彼らが理想とする社会主義国、まず中国で言うなら、大躍進による数千万人の餓死、文化大革命、ウイグル、チベット民族弾圧、ソ連で言うならスターリンによる粛清など、北朝鮮の拉致問題、など社会主義のさまざまな問題を見てきたはずである。その上でまだこうした活動をしていること自体が信じられない。どこかで思想自体の限界を感ずるはずだが。

2026年8月11日火曜日

シンシナティ美術館、「Gifts From Japan」展



シンシナティ美術館、「Gifts From Japan」展

 

現在、アメリカ、オハイオ州、シンシナティ美術館では、私が寄贈したコレクションを展示した「Gifts From Japan」が開催されている。40点の作品を寄贈したが、そのうち9作品を8月30日まで展示し、その後、作品を変えて10月まで展示する予定である。

 

現在、シンシナティ美術館では、世界で最も人気のある日本人現代画家、草間彌生展が開催されており、その流れとして私のコレクション展も開催しており、会期もほぼ同じとなっている。草間彌生展は没入型展示スペースが設けられているため入場制限しているが、人気があり、なかなか予約が取れないようだ。この草間彌生展の出口のすぐ隣に「Gifts From Japan」がやっているので、入場者はそのままこの展示も見るというわけだ。さらに美術館の入り口に近いので無料の観客を見ていく。草間彌生と明治、大正の古い日本人画家との対比が面白いという感想が多い。8月末までの一期の展示は全て土屋嶺雪の作品で、動物画が多い。精緻な動物画は観客にも人気があるようだ。後期は9月から始まるが、香川芳園、田中蘭谷、前川文嶺、三浦文治らの作品を展示する予定である。

 

ただ実際の展示の写真を見ると、大きな美術館では掛け軸の作品はどうも見劣りする。掛け軸は和室のような小さな部屋で座ってみるものなので、掛け軸だけの展示は美術館としてもやりにくい。100号以上の作品や屏風、襖絵などが、展示しやすい。そのため、個展や公募展などでは、普通、10号といった小さな作品ではなく、最低でも50号、できれば100号くらいの作品を持っていきたい。10号の優れた作品でも100号の作品には大きな会場では見劣りする。欧米では家自体が大きいので、100号を超える作品も個人が購入して家に飾ることもあるが、日本でも30号くらいの作品でも嫌がる。売れる絵は10号以下、5号、さらに0号という絵も人気がある。

 

画家は、名を売るためには、公募展や個展を開く必要がある。そこに大きな作品を展示し、名前を売る。そして実際に生活にために売る絵は小さな作品となる。展覧会用の絵と生活のための絵は違う。奈良美智さんのような世界的な画家となると、大きな作品であっても世界中の買い手がいるが、普通な画家にとって、50号以上の作品はあくまで展覧会用のもので、展示終了後は、どこかにしまわれたままとなる。うちのお袋のような素人画家でも、展覧会に出品のための30号以上の作品や屏風がたくさんあり、母の死後、処分には大変苦労した。号サイズがわかりにくいので、少し説明すると10号は53cm30号は91cm100号になると162cmくらいとなる。こんな大きな作品はよほど大きな家に住んでいないと飾られない。こうした傾向は、洋画だけでなく、日本画でも同じで、江戸時代でも襖絵、屏風はよほどのことでないと描く機会は少なく、収入のメインは掛軸となる。ましてや今回のコレクションの画家は、公募展や展覧会には背を向けていたので、その作品の多くは掛軸となる。

 

とりわけ、個人的に好きな作品は、三浦文治さんの「立葵」という作品である。三浦は大正15年(1926)に東京美術学校の日本画科に入学した。この年度は優秀な画家が多く、東山魁夷、橋本明治、加藤英三、山田申吾など、後に日本画の大家となった人たちが集まった。なかんずく、三浦は在学中にも帝展の入選も重ねており、同期の中でも抜きん出た才能があるとされ、卒業の同期生とともに六篠社というグループを作り、その中心となって活動し、昭和11年にはベルリンオリンピックの絵画部門に出品した。戦争が厳しくなるにつれ、故郷の新潟に疎開し、終戦後はそのまま新潟で美術教師を務め、中央画壇には戻らなかった。今回、シンシナティ美術館に寄贈した三浦の絵は昭和9年という最も充実した時代の作品で、その天才性は小さな作品であるが、表している。立葵を描いた歴代の作品の中でも優れたものの一つと思われる。昭和八年には友人の東山魁夷はドイツに留学している。おそらく三浦も戦後、東京に戻り、東山らと中央画壇で活動していれば、同級生と同様な活躍があっただろう。シンシナティの人たちからどうのように評価されるか楽しみである。