2020年6月4日木曜日

昭和天皇の侍従長



 天皇を直接補佐する官職として、内大臣と侍従長がいて、前者はより政治的な事柄を、後者は天皇の生活全体を補佐する。戦前の昭和天皇の侍従長は、初代が珍田捨巳(2年間)、鈴木貫太郎(7年)、百武三郎(8年)、藤田尚徳(2年)であり、内大臣は牧野伸顕(10年)、斉藤実(1年)、湯浅倉平(4年)、木戸幸一(5年)である。鈴木貫太郎、斉藤実は二・二六事件で、それぞれ重傷、死亡し、藤田尚徳は終戦により、職を解かれたが、内大臣と侍従長の在任期間は概して長い。珍田は在職期間こそ2年間と短いが、大正10年の皇太子欧州訪問の責任者、帰国後にそのまま東宮大夫になり、即位に伴い侍従長となったので、皇太子時代も含めると昭和天皇に仕えたのは7年間くらいとなる。

 こうした在任期間の長さにより、昭和天皇と最も接点のある人物が侍従長であり、内大臣であったので、二・二六事件でも斉藤実、鈴木貫太郎、牧野伸顕らが襲撃対象になっている。侍従武官は陸軍から出向するため、侍従長については鈴木以降バランスをとり海軍から出ることになり、鈴木、百武、藤田はいずれも海軍大将であった。さらにいうと、この三人はすべて東京の攻玉社の卒業生であり、鈴木、百武は藤田尚徳の父、攻玉社の藤田潜の教え子であった。珍田と鈴木は11歳違い、鈴木と百武は4歳、百武と藤田は8歳違いであり、侍従長になった年齢は、珍田が71歳、鈴木は61歳、百武は64歳、藤田は64歳と、いずれも当時としては老齢であった。

 昭和天皇は、その生涯、決して変わらなかった政治姿勢の一つとして、米英協調主義がある。日本の外交方針として様々な選択があるが、昭和になると陸軍を中心として、ソビエトと敵対し、さらに勢いのあるナチ、ドイツとの連携を深めようとする動きが活発となる。ドイツとの軍事同盟はイギリス、さらにはアメリカと敵対することにつながり、昭和天皇は最後までこうした方向性に抵抗を示した。天皇側近でもアメリカ留学経験ある珍田捨巳と牧野伸顕は、こうした英米協調の強い支持者であり、欧米あるいは国際連盟を中心とした世界を常に考え、天皇に進言した。もともと昭和天皇は若い日の欧米視察で、とりわけ英国王室に強い感銘を受けたので、珍田や牧野の考えに同調した。珍田、牧野は、昭和天皇に対して強い尊王の姿勢を示しつつ、年長者として厳しい態度で接した。珍田は病のため、職半ばで侍従長をやめたが、後継者として高潔な人格の鈴木貫太郎を次の侍従長として推薦した。鈴木の妻、たかが、昭和天皇の子供時代、十年間、養育係をしていたことも関連があったのだろう。鈴木と牧野のコンビは1929年から1935年までの6年間、陸軍の暴走を止めようと紛争するが、牧野は持病のため、鈴木は襲撃により辞職する。

 今、「木戸幸一 内大臣の太平洋戦争」(川田稔著、文藝春秋)を読んでいるが、どうもこの人物は昔から嫌いで、昭和天皇も事務的な能力は評価していたようだが、人物的には陸軍同調、三国同盟支持者としてあまり好きでなかったように思える。明治天皇もそうだが、昭和天皇も実直な人物を好きなようで、内大臣より接触の多い侍従長では、地方出身者を好む。珍田は弘前、鈴木は野田(生まれは堺市)、百武は佐賀の生まれで、藤田は東京生まれであるが、気持ちは父母の故郷、弘前に近い。昭和天皇は戦後、三女、和子を百武に1年間、花嫁修行に出すほど人格的に信頼しており、在任期間の短い藤田についてははっきりしないが、珍田、鈴木に対しても他の官僚に比べてはっきりと愛情を持っている。
 
 最後の弘前藩藩主、津軽承昭の娘、津軽理喜子は、牧野の推薦で昭和天皇の皇太子時代の女官として務め、また理喜子の妹の寛子は徳川義恕に嫁ぎ。その長男の義寛は戦後、侍従長になり、昭和天皇の最後を見取り、次女、祥子は女官長、皇太后宮女官長として香淳皇后の崩御まで仕えた。こうしたことも含めて皇室と弘前の関係は深く、今はどうだろうか、市内の高校には皇室女官の推薦枠があった。津軽の女性が皇室で歓迎されていたのだろう。

2020年6月1日月曜日

弘前ねぷた 新型コロナウイルス 退散のために是非やろう



 弘前桜祭りに続いて、夏に行われる弘前ねぷたも中止に決まった。市民の健康を考慮してのことと思うが、桜祭りとねぷたを同じにしてもらっては困る。弘前桜祭りはあくまで、長い冬を耐えた人々が桜咲く季節を喜ぶものにあるのに対して、弘前ねぷたは、その由来は諸説あるものの、農作物の豊作を願い、厄災と邪悪を追い払う宗教的な要素が入っている。そうした意味では新型コロナウイルスが流行っている今年こそ、その厄災を追い払い、人々の健康を願うために弘前ねぷたを運行する。

 もちろん今までのような多くの団体が参加する合同運行は、三密の徹底のためにもすべきではないが、弘前市役所、商工会議所などのねぷた、せめて一台を流すことはできるのではないだろうか。人との距離をとった囃子方と最低限の曳き手で構成された“新型コロナウイルス退散”のねぷた、小型ねぶたでも良い、を運行する。

 こうした時期では、もし感染者が出たらという怖れから、何事も自粛するという方が問題が少なく、むしろ感染者が出るかもしれないというリスクを負って開催する方が勇気がいる。新型コロナウイルスについては、まだわかっていないことが多いが、100年前のスペイン風邪の教訓を考えると、第二波、第三波と続き、多くの人が抗体をもった時点で終了する。確実なワクチンが開発され、従来のインフルエンザと同様になるには少なくとも後23年はかかる、その間にリスクはあるが皆に勇気を与え、病気の終息を願うためには、何より弘前ねぷたを実施することが重要である。

 一台でもよい、弘前ねぷたを運行し、そして古式に則り、燃やすなり、川に流すなり、きちんと“なぬかびおくり”を行い、新型コロナウイルス退散を願う行事をすることが、これからの弘前ねぷたの歴史においても必要なことである。五所川原の虫送りもそうだが、こうした行事は、冷害、害虫、台風、疫病などの自然災害を何とか退散して欲しいという人々の強い願いを形にしたものであり、楽しみでもあると同時に、かなり宗教的な側面も含む。今はこうした宗教的な側面はほとんどなくなり、人々が楽しむ観光的なものとなったが、ここはその原点としての意味、自然災害を追い払うという点から弘前ねぷたがある。この際なので、一切の観光的な側面をなくし、運航日、運行時間や運行経路も秘密にしておき、単純に弘前ねぷたを運行するのもいいかもしれない。

 スペイン風邪は1918年に起こった前流行と、191920年に起こった後流行の二段階に分かれ、この時の青森県の感染者は前期が5104名、後期が2890名の計8085名であった。当時の人口は756454名であったのでほぼ感染率は1%であった。青森県で最初に罹患したのは191810月末に、三本木の畜産学校生徒が東京で感染し、その後、弘前市、青森市、八戸と感染が広がり、11月に大鰐町の小学校教員が最初の犠牲者となる。特にひどかったのは北津軽郡嘉瀬村(現:五所川原市)で6756人のこの村で47名の死亡者が出た。後期の流行は1919年の12月に軍隊内の新兵を中心に発生し、瞬く間に36名の死亡者が出た。後期の感染者は少なかったが、死亡者は多く、青森県で1920年の125日から3月末までに891名の死者が出た。特に青森市と五所川原市は死亡者が多く、それぞれ565名、110名の死者が出た。全国的にも死亡率は徳島県、兵庫県のつぐ3位であった(“日本を襲った スペイン・インフルエンザ”“(速水融著))。

 1919年と1920年に弘前ねぷたを運行したか、はっきりしないが、戦争期間(1938-1947)を除いて中止していないようなので、多分、行なっていたのだろう。弘前ねぶたと同様の厄災退散を願う祭りに京都の祇園祭と大阪の天神祭がある。いずれも本年度は祭りが中止となったが、祇園祭は八坂神社で、天神祭は大阪天満宮で関係者のみによる疫病退散の神事のみを行う。ただねぷた祭りは、これといった神社での神事はなく、行事そのものが疫病退散となる。風水の関係からいえば、弘前市は3つの水車と2つの柄杓からなり、悪気は岩木川に流されるようになっている。その考えから、ねぷたは藤田記念庭園を出発し、反時計回りに弘前城の周囲を周り、岩木川で燃やし、流す運行が一番、短い。さらに大きく囲むとなると、茂森町から新寺町に抜け、紺屋町、代官町、田町、そこから西に上っていき、浜の町に行くコースが考えられる。弘前市が宗教的な行事を行うことは戦後、基本的には禁止されているが、厄災、邪気を追う祭りは、宗教的な意味を超えた原初的な願いであり、市民を勇気づける、例えばブルーインパルスのようなものであり、是非とも小さなねぷたであっても実現して欲しい。どうしてもできない場合は、トラックの荷台に小さいねぶたを載せ、スピーカーで囃子を流しても良い。要は疫病から弘前市民を守る願いである。単純にやめるという発想ではなく、その中で何ができるか、ジョッバリ精神で検討して欲しい。



2020年5月25日月曜日

試験は嫌だ



 中島らもさんの本の中で、灘高校の2.3年からほとんど勉強をせず、親の勧めで一応、神戸大学の入試を受けたが、名前を書いただけで全くわからず、そのまま退出したようなことが書かれていた。その後も何度のこの時のことが悪夢として蘇ったようだが、こうした経験を持つ人も多いと思う。

 高校の期末、中間試験の成績が悪くても、次回頑張ればと思うだけだが、本番の入試でこうしたことがあると、具合悪い。中島らもさんは確か化学の試験でそうなったようだが、普通、一問もできないというのは、多分、物理と数学くらいで、他の生物、化学、国語、英語、世界史、日本史などは点数が低くとも何か書ける、それに対して、特に数学の入試は5,6問くらいしかなく、わからない場合は、それこそ白紙である。

 私の場合、高校3年生の5月くらいにはサッカー部を引退し、受験モードに入るはずだったが、どうにもやる気が起こらず。一応は頑張ったフリだけして全くやる気はなかった。毎日、スタートレックの再放送を深夜、見続けた。特に理科系なのに数学が悪く、いつもひどい点を取っていた。その結果、現役の時の東北大学の入試、とりわけ数学はひどく、2時間くらいの試験でいくら考えても一問もできず、あれほど焦ったことはない、その瞬間に落ちたと思ったのは中島らもさんと同じで、そのまま帰ろうかと思ったが、わざわざ仙台まで来たので来年の予行ということで、他の科目も受けた。終了時間だけが、知らぬ間に過ぎている嫌な感じはいまだに思い出す。今の受験生には信じられないだろうが、当時は大学が受験のための旅館を斡旋してくれた。何も知らず、申し込むと汚い旅館に5、6名詰め込まれ、寝言を言う人やいびきがうるさい人も一緒で、ほとんど眠れない状況であった。これは失敗した、

 浪人中も相変わらず数学の点数のばらつきが大きく、点数により志望校の判定も変わり、BからEまでバラバラであった。受験科目は英語、数学、生物、化学、国語、世界史であったが、とりわけ数学の比重が高い。数学以外はある程度の点数は取れるので、数学が出来不出来が合否につながる。ところが一浪後の東北大学の試験は奇跡が起こり、現役の時は5問中正解0であったが、この時は5問中4.5問の正解であった。これは合格したと思った。もちろん東京医科歯科大学の数学は散々であった。

 実はコロナ騒ぎで延期になったのだが、新しい矯正専門医制度が今年から始まり、そのペーパー試験が3月に予定されていた。この歳になりペーパー試験かと嫌になったが、それでも1月頃より出題範囲を中心に勉強していた。ところがこれがなかなか覚えられず、焦った。2月頃に試験が正式に無期延期に決まり、今日に至っているが、するとまたすべてまた忘れてしまった。昔は暗記ものに強かったが、急速に暗記能力は減少しており、自分でも認知症かと怖いくらいである。最近ではネット試験もあり、センター試験のような選択問題はいけそうだが、記述式や数学の試験は難しい。今年の受験試験は何とか終了できたが、来年はどうなることやら。受験生にとっては大変な一年になりそうだが、私のような64歳になって試験を受ける人もおり、お互いに頑張りましょう。

2020年5月20日水曜日

贋作考 望月玉泉





 掛け軸の真贋は難しく、私のような素人にはわからない。谷文晁、円山応挙のような有名人になると世に出る作品の99%は贋作とされ、真作はほとんどない。一方、全く無名の画家については、そもそも贋作する必要性がないため、ヤフーオークションに出品される作品は真作で、私が集めている土屋嶺雪で言えばこれまで贋作に出会ったことはない。ただ今でこそあまり有名でない、例えば女性南画家の野口小蘋については、明治時代、大変有名で多くのファンがいて高い価格で取引されたため贋作は多い。

 今回5250円で入手した望月玉泉の“水辺萩 岩河鹿”の掛け軸については、真作の可能性は半分くらいある。望月玉泉は望月派の四代目で、帝室技芸員となる明治を代表する画家である。まず、強いインパクトを与える岩については、一見して岩には見えないが、そこに張り付くカエルはうまい。また岩の周囲にある萩の花も綺麗に描かれているが、どうも浮いている。個々の描写はうまいが、全体的には何となく変である。箱の横書きには“水邊萩 岩河鹿 明治三十三子年”まで読めるが、以降ははっきりしない。「大日本書画名家鑑 落款印譜編」を見ると望月玉泉の項があり、印譜が載っている。それと今回、購入した絵と比較すると、印譜の大きさは一致するが、泉の字の左下の切れが一致しない。国立国会図書館にある“玉泉書帳面”でも同様に“泉”の字の右下の切れがある。印鑑については押し方や朱の付け方で多少変わるが、わざと印鑑の一部を欠けさせている場合もある。

 以前、西山翠嶂の贋作をつかまされたが、この時も一応、署名と印をチェックし、署名はやや異なるが、印は比較的一致していた。ただ絵は上手く、完全な贋作とは疑わなかった。ところがほぼ同じ構図の掛け軸が他に見つかり、贋作と判明した。そこそこの画家に同じ構図で何枚か描かせ、同じような京風の絵を描く画家の署名と印を真似、売ったのだろう。同じ画家のコピーが多く出回るとすぐにバレるが、違った画家名であれば、しばらくバレなかったのだろう。こうした贋作手法もある。

 私は骨董店や画廊にはめったに行かない。嫌いなわけではないが、個人的にあまり有名でない画家の作品を探しているので、ヤフーオークションの方が集めるのが効率良いからである。忘れられた画家は、人気がないということで、高値がつかない。そうした商品を持つ、あるいは交換会で買う骨董屋は少ないので、見つけるのが非常に難しい。集めている土屋嶺雪についても五年ほど前は誰も買う人がいなかったし、オークションにも出なかった、それが最近では少しずつオークションにも出るようになり、出品者の協力者がいてある程度の値段になるまで落札価格も上がるようになっている。極端な価格まで誘導せず、ある程度の利益が見込める価格で引き下がるので、こちらもそれほど気にしていない。もう少し説明すると、ゼロ円スタートの作品では誰一人入札する人がいないと1000円で落札されることもある。タダで仕入れてもこれでは利益にならず、せめて5000円で売れてほしい。知り合いの骨董商や社員に5000円まで競ってもらい、利益になるようにする。昔のヤフーオークションと違い、入札履歴を見ても相手の評価が見られないようになっているためは、実際にこうしたことがあるかはっきりしないが、それでも一人で評価が500以上中には数千の人は、とても個人のコレクターとは思えない。

 お宝を発見して儲けようとするなら、ヤフーオークションは贋作があまりに多いが、ほとんど誰にも知られていない、逆に言えば高く売れない画家の作品を趣味あるいは学問的で集めるにはいい場所ではないかと思っている。

2020年5月10日日曜日

NHK BSプレミアム 静かに咲く弘前公園の名桜





 昨日、NHK BSプレミアムで静かに咲く弘前公園の名桜“を見た。本当に綺麗な映像で、番組途中に何度も涙した。弘前公園閉鎖が決定した4月10日から急遽、番組制作を決定したのであろうから、製作者とって、それは大変であったろうと想像できる。約40分の番組の中には、ドローンを使った撮影あり、弘前出身のアナウンサー、副島萌生さんの解説あり、同じく弘前出身の画家、奈良美智さんのインタビューありで、内容豊富で、編集も加えれば、ギリギリの日程だったろう。

 民法と違いNHKでは番組作りにかなりの予算と人員、時間をかける。ブラタモリのような定番番組でも制作会議で決定されてから2ヶ月以上かかり、制作会議に提出する企画書作成を考えれば、もっと期間を要する。さらにファミリーヒストリーのような調査番組では、調査期間も入れれば半年以上はかかるだろう。それをたった1ヶ月で企画、予算、撮影、編集など大変ハードな日程であったろうし、とりわけ実際の制作を担当したNHK青森支局の努力には敬服する。さらに土曜日の午後1時半からの放送枠は既に決まっていたと思うが、それを変更して、この番組を無理やりねじ込んだのは、青森県、弘前市の熱意によるものであった思う。

 ただ映像を見ていると、ものすごく綺麗な景色で、まるで天国にいるようだが、一方、奈良さんは桜にとって大きな休息と言っていたが、こうした誰一人いない弘前公園は、むしろ梶井基次郎の“櫻の樹の下には屍体が埋まっている”という有名なフレーズを思い出した。桜が美しいのは、その樹の下に屍体が埋まっていて、その腐敗物が栄養になっているからで、美と醜のコントラストが印象的である。小説家の円地文子は弘前の桜を見て「花に酔わされた気分になったのははじめて」と言った。圧倒的にリッチに咲く弘前の桜には、こうした思いを引き起こすが、誰もいない公園の姿は逆に寂しさを通り越して、むしろ怖くなる。これほど美しいものの奥には醜があるという感覚だろうか。人間が圧倒的に美しい自然に一人対峙すると、もちろん美しいという感動があるが、その恐ろしさにむしろ逃げ出したくなる気持ちにもなる。やはり隣に人がいて、その美しさを共用することで安心できる。

 流石に番組宣伝する時間まではなかったため、視聴率はあまり出ないであろうし、見忘れた人も多かったと思う。確か523日頃にBSK放送で再放送されるようであるが、見逃した人は是非見てほしい。あとは弘前市とNHKの番組、映像使用の版権交渉があると思うが、観光館、美術館での使用だけでなく、海外への観光キャラバンなどにも利用できればいいので、出来るだけ幅広い活用を考えた版権交渉を行い、さらにできればYoutubeに配信してもらうように交渉して欲しい。テレビを見ない若者や海外に住む青森県出身者には故郷の美しい景色をyou-tubeを通じて見て欲しい。

 添付した動画は、弘前大学の裏にある緑地に咲く桜である。今年、開館予定の弘前レンガ倉庫美術館はもともと日本酒の製造工場であった。ここで使う電力は、弘前市紙漉沢にある水力発電所から、この緑地にある送電所を経て福島酒造工場に送られた。今は小さなレンガ小屋があるだけで、周りはたくさんの桜の木で覆われている。弘前公園の桜とは違い、ほとんど人の手が入っておらず、ひたすら上に上に伸びており、これほど高い桜の木の林は珍しい。いつも弘前公園とほぼ同じ時期に満開の季節となるため、ここ十年ほど毎年、散歩がてらに見に行くようにしている。中には入れないために門のところからの撮影であるが、それでも弘前市の隠れた桜の名所として近所の人からは楽しまれている。弘前公園と違い、高い位置に桜があるため、圧迫感は少なく、開放的である。ここはいつもの年も誰もいないので、今年も昨年も全く同じ表情で、嬉しい。

2020年5月8日金曜日

切ない歌がききたい 川井龍介 著



 最近、ちょっと新しい読書経験をした。以前、お会いしたことのある川井龍介さんの新著「切ない歌がききたい」(旬報社、2020)である。これは川井さんが切ない歌としてセレクトした日本の歌37曲と海外の歌25曲の計62曲、この紹介と説明が3ページ分量で書かれている。説明の中には、同じ歌手の他の作品や関連する作品も載っている。

 以前であれば、こうした音楽解説の本、例えば、ジャズ名盤ベスト1000という本があっても、本の内容を確認するのは、実際にCDを買うしかなかった、あるいはこうした本を通じてCDを買っていた。ところが今や書かれている作品そのものをYouTubeで検索して聞くことができる。例えば、本書で紹介されている「アンフォゲッタブル」、それもナタリー・コールと父親のナット・キング・コールのヴァーチャルデイオもyoutubeにある。画面上に映し出される亡くなった父親の画像とのディオ、とんでもなく美しい演奏で感動する。あるいは著者は名曲「My Funny Valentine」でもChet Bakerのものを選ぶ。渋い選択である。こうした1ページごとに紹介された曲をYoutubeで検索し、聴きながら本を読む、これの繰り返しで、通常、このボリュームの本なら2日くらいで読了するが、この本でいえば一週間くらい、間もおいたが、かかった。本自体の面白さもあるが、著者には悪いが、音楽そのものの感動が多く、大変楽しい経験であった。片手に本、片手にMac-Air、本と音楽のコラボレーションである。

 私の家に初めてステレオがきたのが、小学三年生くらいの時で、ちょうど歯科医院も景気の良い時で、父親が家具調ステレオを奮発して購入した。兄と少年ケニアや零戦はやとなどのソノラマを購入したり、姉は当時のヒット曲のレコードを買って聴いていた。中学に入ると、どうも周りの友人は少し不良がかったやつが多かったせいか、数人で金を出し合い、それで友人のSくんが梅田のLPコーナーでロックのレコードを購入して、それを皆で回して聴いていた。レッドツエッピリン、シカゴ、ディープパープル、キングクリムソン、ピンク・フロイド、EL&Pなどで、ビートルズやボブ・ディランは前の世代であった。同時に姉は、神戸山手女子短大のフォークソング部に入っていたので、ブラザースフォーやジョン・バエズ、マイク真木なども懐かしい。姉はアリスの堀内孝雄と一緒に歌ったことが自慢である。それでも中学、高校は自分のステレオがなかったし、金もなかったのでレコードもあまり買えなかった。大学に入ると幾分、ロック好きを自称していたので、吉田拓郎などのフォークは嫌いであったが、友人にオフコースの好きなやつがいたので、結構フォークも聴いたし、仙台のライブハウスにも何度か行った。この頃から音楽趣味のレパートリーも変わり、Jazzやソウルも好きになり、一度、O.V. Wrightの仙台公演に行くとガラガラでみんな前に集まって聴いた記憶がある。また仙台市内の道でクルセイダースのメンバーにばったり会い、ジョ・サンプルにハイと挨拶したら返事してくれたこともある。Jazzも新しいのはほとんど聞かず、アートペッパー、マイルズデービス、チャーリーパーカーなどビバップばかり聴いていた。その後、結婚して子供ができるとあまり音楽を聴かなくなったが、それでもIPodが登場すると再び音楽を聴きだし、この頃になるともはやジャンルは何でもよく、若い頃毛嫌いしていた、フォークや歌謡曲、あるいは果ては民謡まで聴きだした。三橋美智也も好きである。川井さんとは年齢も同じで、彼は高校時代、どちらかというとフォーク、ブルース派であっただろうが、その後、分野に捉われずにいろんな曲を聴くようになった過程も似ていて、この本で紹介された曲は知らなかった曲も含めて共感できる。1950-1960年代生まれの方には是非ともお勧めしたい本である。

 可能性としては、アマゾンプライムなど無料で見られる映画も増え、同じような映画案内の本があれば、本を読んで、映画を見ることもできるかもしれない。ただその場合は、一冊読むのに数ヶ月かかるかもしれない。

2020年5月6日水曜日

好きな映画





 大好きな映画“ある日どこかで”のDVDを2本持っているので、1本を四人の友人に順番に貸したが、その感想が人によって違うのが面白い。四人の仲間のうち、一人は大感激して面白いと言ってくれ、もう一人はいくつか気になることがあるが、面白かったと言ってくれたが、残り二人は全くわからない、面白くないと言う。私に言わせればあの名作がどうして面白くないのかと思うが、これが好みというもので、人それぞれということか。

 ただ“ある日どこかで”のようなラブロマンスを面白いという人は、本好きで、小説もよく読む傾向があるのに対して、面白くないという人は、そもそも小説などの本を読むことも少ない。同様なことは、音楽についてもそうで、あの曲は好きだと言う人は色んな音楽を若い頃から聞いているようで、要するに感激しやすい人は、音楽なり小説、映画で、感激するようなトレーニングを受けているのだろう。一方、あまり感激しない人は、性格的に冷たいといったものではなく、そうしたトレーニングが欠けているのだろう。

 私は、昔から色んなことに興味があり、幼稚園頃は絵ばかり書いていたし、なぜか戦艦の設計士になるといって、定規で戦艦の設計図を書いていた。その後、顕微鏡、天体観察、スロットレーシングなどに夢中になったし、漫画については創刊から少年マガジンを愛した。中学になるとサッカー、映画などに目覚め、大学卒業まで続けた。流石に大学卒業して結婚すると、趣味は読書だけになったが、それでも落ち着いてくると、まず自転車、キリム(ラグ)、北欧陶器、そして今はブログ、郷土史研究、骨董(絵画)となっていった。家内に言わせると、少しイッテイル性格のようで、どれも本格的にやり始めてしまう。そのため、こうした方面については、かなりの知識があるのだが、どうしたことか周りにあまり趣味が一致する人は少ない。もちろんサッカー部の友人とはサッカーの話で盛り上がるが、それ以上の一致はない。

 女の人のグループでは、同じような趣味、好みで盛り上がるようなことも聞くが、どうも男同士、男女間でそうしたことは少ないようだ。家内とは性格的には合うところが多いが、それでも趣味となるとほとんど一致点はなく、これまで数冊の本を書いたが、家内はほとんど読んだことはないし、このブログを見ることはない。そうかといって家内の好きな韓国ドラマやガーデニングにはこちらはあまり興味ない。男女の相性ではないが、結婚まで発展するのはお互いの相性が合うことが大事であるが、さらに夫婦で趣味まで一致するカップルは少ないだろう。夫婦で旅行が好きだと言う人はいるだろうが、行き先や料理、あるいは宿泊先まで一致することはないだろう。

 今は仕事の方が忙しくて、習い事や歴史研究会などに入ることはしていないが、引退したら、こうした活動にも積極的に参加してみようと思う。やってみたいことは、雪の研究、昔の津軽の冬の暮らしと雪について調べてみようと思うが、壮大なテーマでかなりの日数がかかるだろう。音楽は苦手だが、ハーモニカやサックスができたらかっこいいだろう。一応、ホーナーのクロマティック二台と、ローランドのエアロフォンがあるので、あとは練習だけなのだが。絵についても母親から少し習い、機材もあるのだが、これだけは余程暇にならないと描こうとは思わない。プラモデルは、歯科の機材を駆使すれば、まだ何とか作れると思うが、老後はもはや無理であろう。あと書道は少しやってみたいが、人に教えてもらうのも気が進まない。色々とやってみたいこともあるが、これだけはその時の年齢や体力にも関係するので決めるのは難しい。

休日にみて面白かった映画(amazon prime号泣ものが多い
1.     オッド`・トーマス 死神と奇妙な救世主
2.     ぼくは明日、昨日のきみとデートする
3.     坂道のアポロン
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4.     スタートレックI