2026年8月20日木曜日

左翼思想に感化された頃

 



ちょうど高校生くらいの話だ。大学の学園闘争はピークを過ぎたが、それでも高校にも少しその影響が入ってきた頃だった。阪神間でも灘高校や神戸高校でも校則撤廃を起因としたライトな学園闘争があった。我が六甲学園でも、昭和45年頃だが、頭髪の自由化を求めて高校2、3年生が灘高校など他校の運動に感化されて、活動を行った。それまで中学、高校生とも坊主という厳しい校則で、ドイツ人校長が校門の前に立ち、そこで髪の長さをチェックし、そのまま帰宅させ、散髪屋に行かせた。また学校には電気バリカンは2、3台あり、生徒に自由に使わせた。クラスに一人くらい散髪の得意なクラスメートがいて、髪を刈ってもらった。当時、中学生は坊主のところがほとんどであったが、流石に高校生で全校生、坊主というところはなく、これに対して高校2年生、3年生が反対していた。最終的には耳を露出させるという髪型という条件で認められた。

 

この時代、大学生も高校生も左翼的な思想がカッコよく思われた。私も高校2年生頃から当時、朝日新聞で持ち上げられていた中国の文化大革命を偉大なものと見ており、京都大学の竹内好教授などによる中国礼賛本を貪るように読んでいた。中国はすごい、医療から教育まで全て無料、地上の天国のような国で、その指導者、毛沢東と周恩来のような政治家が日本にも現れないのかと本気で思っていた。革命は正しいと考えていて、毛沢東語録の解説本なども読んでいた。ところが大学に入る頃になると、少しずつ文化大革命の実態が漏れてきて、これはおかしいと気づいた。そこで大学2年生の頃、昭和50年に中国が外国人解放政策をとり、団体旅行に限り、中国旅行に行けることになった。実際、中国はどうなのか、自分の眼で見たいと思い、親に援助してもらい、香港、広東、昆明、北京のツアーに参加した。常に公安の監視下に置かれ、買い物も外国人専門店でないと買えなかった。博物館に行くと多くの掛け軸が破られたまま展示されていて、文化大革命の爪痕があちこちに見られた。北京での通訳の女性は、文化大革命中、日本語のできるインテリとして僻地に下牧させられ、ようやく北京に帰ってきたというキャリアの人だった。疑問のことを尋ねると、よほど辛い目にあったのか、文化大革命のひどさを語ってくれた。私の大好きな中国解放軍の行進曲、「三大紀律八項注意」をハミングすると怒っていた。

 

帰国後、多くの文化大革命批判の本を読むにつれ、次第に中国礼賛の気持ちは萎んできて、最終的には卒業の頃に発生した中越戦争で、完全に中国に対する気持ちは切れた。日本の多くの左翼はベトナム戦争反対を唱えていて、基本的にはベトナム支持者が多かったが、そのベトナムに帝国主義的な行動で中国が侵略したという事実は、多くの左翼はこの時点で、左翼思想から離れていった。私自身、大学2年生頃に中国に行ったことをきっかけに、さらに藤田省三の「転向の思想史的研究」を読み、人はいかにして簡単に転向し、それも左翼からウルトラ右翼に転向するのかが理解できた。さらにあれだけ大学闘争をしていた活動家が何事もなかったように大企業に勤める事例を多く見てくると、左翼のいうことが全く信じられなくなった。一時期は、仙台の勾当台公園に座っていると左翼活動家がベンチに座っている私に左翼活動に参加するように誘われた時はかなり腹が立ち、議論した。最後は、大学というぬくぬくとした生活を過ごすのではなく、即刻、大学を辞めて、北朝鮮に行けと言うと、急に泣き出した。悪いことをしたと反省している。今なら、それはそれ、何とか誤魔化す知恵はあるが、あの純粋な若者にはきつい言葉であった。

 

結局、左翼の思想を含めて、こうした理論を突き詰めていくと、最終的には思想、信念のために死ねという陽明学、あるいは吉田松陰の考えになり、左翼で言うならテルアビブ空港乱射事件、右翼で言うなら政治家の暗殺に行き着く。思想でも逃げ道を立たれると怖い。一方。辺野古の左翼活動家を見ていても、60歳以上の人が多い。20歳から活動をしているなら、彼らが理想とする社会主義国、まず中国で言うなら、大躍進による数千万人の餓死、文化大革命、ウイグル、チベット民族弾圧、ソ連で言うならスターリンによる粛清など、北朝鮮の拉致問題、など社会主義のさまざまな問題を見てきたはずである。その上でまだこうした活動をしていること自体が信じられない。どこかで思想自体の限界を感ずるはずだが。

2026年8月11日火曜日

シンシナティ美術館、「Gifts From Japan」展



シンシナティ美術館、「Gifts From Japan」展

 

現在、アメリカ、オハイオ州、シンシナティ美術館では、私が寄贈したコレクションを展示した「Gifts From Japan」が開催されている。40点の作品を寄贈したが、そのうち9作品を8月30日まで展示し、その後、作品を変えて10月まで展示する予定である。

 

現在、シンシナティ美術館では、世界で最も人気のある日本人現代画家、草間彌生展が開催されており、その流れとして私のコレクション展も開催しており、会期もほぼ同じとなっている。草間彌生展は没入型展示スペースが設けられているため入場制限しているが、人気があり、なかなか予約が取れないようだ。この草間彌生展の出口のすぐ隣に「Gifts From Japan」がやっているので、入場者はそのままこの展示も見るというわけだ。さらに美術館の入り口に近いので無料の観客を見ていく。草間彌生と明治、大正の古い日本人画家との対比が面白いという感想が多い。8月末までの一期の展示は全て土屋嶺雪の作品で、動物画が多い。精緻な動物画は観客にも人気があるようだ。後期は9月から始まるが、香川芳園、田中蘭谷、前川文嶺、三浦文治らの作品を展示する予定である。

 

ただ実際の展示の写真を見ると、大きな美術館では掛け軸の作品はどうも見劣りする。掛け軸は和室のような小さな部屋で座ってみるものなので、掛け軸だけの展示は美術館としてもやりにくい。100号以上の作品や屏風、襖絵などが、展示しやすい。そのため、個展や公募展などでは、普通、10号といった小さな作品ではなく、最低でも50号、できれば100号くらいの作品を持っていきたい。10号の優れた作品でも100号の作品には大きな会場では見劣りする。欧米では家自体が大きいので、100号を超える作品も個人が購入して家に飾ることもあるが、日本でも30号くらいの作品でも嫌がる。売れる絵は10号以下、5号、さらに0号という絵も人気がある。

 

画家は、名を売るためには、公募展や個展を開く必要がある。そこに大きな作品を展示し、名前を売る。そして実際に生活にために売る絵は小さな作品となる。展覧会用の絵と生活のための絵は違う。奈良美智さんのような世界的な画家となると、大きな作品であっても世界中の買い手がいるが、普通な画家にとって、50号以上の作品はあくまで展覧会用のもので、展示終了後は、どこかにしまわれたままとなる。うちのお袋のような素人画家でも、展覧会に出品のための30号以上の作品や屏風がたくさんあり、母の死後、処分には大変苦労した。号サイズがわかりにくいので、少し説明すると10号は53cm30号は91cm100号になると162cmくらいとなる。こんな大きな作品はよほど大きな家に住んでいないと飾られない。こうした傾向は、洋画だけでなく、日本画でも同じで、江戸時代でも襖絵、屏風はよほどのことでないと描く機会は少なく、収入のメインは掛軸となる。ましてや今回のコレクションの画家は、公募展や展覧会には背を向けていたので、その作品の多くは掛軸となる。

 

とりわけ、個人的に好きな作品は、三浦文治さんの「立葵」という作品である。三浦は大正15年(1926)に東京美術学校の日本画科に入学した。この年度は優秀な画家が多く、東山魁夷、橋本明治、加藤英三、山田申吾など、後に日本画の大家となった人たちが集まった。なかんずく、三浦は在学中にも帝展の入選も重ねており、同期の中でも抜きん出た才能があるとされ、卒業の同期生とともに六篠社というグループを作り、その中心となって活動し、昭和11年にはベルリンオリンピックの絵画部門に出品した。戦争が厳しくなるにつれ、故郷の新潟に疎開し、終戦後はそのまま新潟で美術教師を務め、中央画壇には戻らなかった。今回、シンシナティ美術館に寄贈した三浦の絵は昭和9年という最も充実した時代の作品で、その天才性は小さな作品であるが、表している。立葵を描いた歴代の作品の中でも優れたものの一つと思われる。昭和八年には友人の東山魁夷はドイツに留学している。おそらく三浦も戦後、東京に戻り、東山らと中央画壇で活動していれば、同級生と同様な活躍があっただろう。シンシナティの人たちからどうのように評価されるか楽しみである。




2026年8月8日土曜日

超富裕層の弘前旅行

 



世界の富裕層向けの旅行では、一週間の予算で一人1000万円以上という。金には糸目をつけないが、最高の経験をしたい人である。こうした超富裕層向けのトラベルガイド会社もあり、客の要望に沿って、旅行の計画をしていく。最近読んだスティーブ・ジョブズ1.0の真実では、こうした超VIPの客に関しては、タクシードライバー、寿司屋、旅館などが決まっており、ジョブズは京都ではいつも俵屋旅館に泊まる。まあトラベル会社からすれば、客の無理の要求があっても東京、京都、大阪では何とかなるであろう。ところがもし客が青森県に行きたいと言えば、どういった旅行計画を立てるだろうか。金は無限だが、お客には満足をしてもらわなくてはいけない。世界中のあらゆる豪華ホテル、レストランに知っている客である。

 

20年前のことだが、藤崎のアップルホテルにアメリカの名門、モルガン家の人が夫婦で来た。秘書が藤崎の出身だったので、ここを選んだという。地元の人との交流会もあり、モルガンさんと皆から呼ばれ、満足して帰り、その後、また来たようだ。もちろんアップルホテル側では最高に部屋に泊まってもらい、最高の料理を出したのであろうが、いかんせん、そんな高級な部屋、料理はなく、当時でいえば、一人あたりの宿泊費は朝夕の二食込みで一人1万円くらいだった。モルガンさんからすれば、散々、高級ホテルに行ったし、豪華な食事をしたのだが、一周回って、こうしたチープな宿と食事が面白かったのだろう。これは参考にならない。

 

少し違う話であるが、弘前ロータリークラブに入っていた頃の話だが、ある年、弘前ロータリーで地区大会を行うことになった。その懇親会をどこでするということになり、それでは弘前公園の本丸にテントをはり、そこで野外の懇親会をして花火も上げればいいのではという提案があった。流石に重要文化財でそんなことはできまいと思っていたが、皆、何とかなると平気で言っていた。ロータリークラブの名士なら、市長ともツウーカーそんなこともできるのだろうとその時は思った。結局、雨が降ると大変ということで、旧弘前偕行社で懇親会を行った。ここで懇親会を開くというのも難しいことだが。

 

ということは弘前ではコネとそれに見合う費用を出せば、通常の観光地以外のこともできそうである。そうした意味で、不可能なことも含めて、ウルトラ富裕層のガイドプランを考えてみたい。

 

弘前市、あるいは周辺の高いホテル、旅館といえば、星野リゾートの界・津軽か、最近できた1日1組限定のOTTABIOがある。いずれも食事付きで一名3−5万円くらいのハイクラスのホテルである。ただ1日100万円以上の予算のウルトラ富裕層にはこれでも安いが、これ以上に高いホテルは青森にはない。そこで普段は宿泊できない施設も含めて考える。まずお寺、実際、弘前の最勝院で1日1組限定の寺泊をしている。これは滅多にない経験ができる。朝食は精進料理が提供される。できれば、夕食はここから近い日本料理の「陽」か、イタリア料理の「サッシーノ」を勧める。日本最高の津軽三味線奏者、渋谷和生さんの生演奏を夜の五重塔前で聴く、最高の贅沢である。他の候補としては、藤田記念庭園内の日本家屋や平川市の盛美園も交渉すれば宿泊可能である。食事は、陽あるいはサッシーノから出張料理で、風呂は藤田記念庭園ではトレーラーハウス、盛美園ではアップルランドの温泉を貸切でいいだろう。ベッドやソファーは最高級、あるいは客が希望するものをあらかじめ運び、セッテングすればよかろう。最高のスタッフを配置してサービスを行う。

 

多分、現実的なウルトラリッチ層(外国)に対する弘前観光としては

 

1日目

青森空港―ハイヤーにて弘前観光 ― 陽(夕食)― 最勝院

五重塔前で津軽三味線(渋谷和生演奏)、津軽手踊り

 

2日目

ハイヤーにて白神山地―散策―森林でのキャンピング(コック、ベッドなど全て持ち込み)

3日目

ハイヤーで青森空港

 

寺での瞑想という体験と世界遺産での自然をゆっくり楽しむプランで、天候、季節にめぐまれれば最高の旅行となろう。

2026年8月5日水曜日

うちの叔母さん

 

尼崎市東難波

うちの叔母さん、母親の妹だが、気のいい人だが、少しおっちょこちょいのところがある。昭和33、4年頃の話である。叔母がおめかしして、着物を着て、バッチリと髪型も整え、簪もさして、京都の街を歩いていた。ふと見ると、あるホテルの入り口に、「大映〜記念パーティ」の看板があったので、何かなあと思って、そのままパーティーの会場に入って行った。受付では誰も咎められず、そのまま入ると、そこは大映の関係者だけが集まるパーティで、映画でしか見ないすごい俳優がいっぱいいる。さすがにこれは間違ったところに来たと思ったが、まあいいかとそのままパーティーを楽しんだ。市川雷蔵はいるし、その頃人気が出た勝新太郎、中村玉緒さんもいる。衣装だけは集まった人々と遜色はない。そうこうするうちに勝さんと話す機会があり、このパーティに入った顛末を話すと面白がったようだ。その折に、映画の小道具を担当する女の人と仲良くなり、その後もしばらく京都の大映撮影所に行くようになった。実家が徳島県脇町で、雑貨店をしていたので、戦前の古いかんざしや櫛などがたくさんあり、時代劇に使えるということで大映撮影所に寄贈したようだ。今でもあるかもしれない。叔母さんのアルバムには、小さな写真プリントのさらに小さく勝新太郎、中村玉緒、市川雷蔵の若かりし頃の姿が映っていた。

 

 ある年、うちの母と一緒に徳島県脇町に帰省した。当時、船は大阪の天保山あるいは神戸港から出ていて、徳島の小松島港に着く。小松島港から脇町に行くには小松島線で徳島まで行き、そこで徳島本線に乗り換えなくてはいけない。母と叔母は、小松島から徳島に電車に乗って行くと、隣のホームに、すでに徳島駅に脇町行きの電車が止まっている。ホームが違うので、階段を登って行くととても間に合わないと判断し、ホームから線路に飛び降り、線路を横切って、隣のホームに行こうとした。着物姿である。二人は何とか飛び降り、急いで隣のホームに渡ったものの、ホームが高くて上がれない、困っていると駅員が呆れたような表情で、引き上げてくれた。連結便なので、徳島本線、脇町行きは乗客を待って、発車したので、そんなに慌てなくてもよかったのだが。とんだ恥をかいた。

 

叔母さんの旦那さんは、昔の典型的なお坊ちゃんで、それはいい人であった。実家は船場で、染めの前掛けを扱う大きな商家であった。学校の行き帰りは必ず、お世話のおばさんが付き添った。困らせようと電柱に隠れながら歩いたと言っていた。この商店は山崎豊子の船場物の小説にも少し登場するようだ。義理のお母さんは明治には珍しい女医さんだったようで、お金はあったようだが、商家育ちのため始末には厳しい方で、叔母さんも苦労したようだ。うちの母と一緒に徳島、脇町に来ることが息抜きだったのだろう。尼崎の実家にもよく来た。

 

叔母さんに会うと、いつも「トシ坊ちゃんは、私がおぶっていると、帽子が落ちたことをまだしゃべりもできないのに手で知らせた。賢い子や」と会うたびの褒めてくれる。たまたまのことだと思うが、嬉しいものだ。昭和32年ごろのことで、当時、母の妹二人が大阪の服装学校に通うために実家に住んでいた。一階は歯科医院で、その奥に6畳の台所、2階は多分、増築前なので6畳の和室が2つくらいしかないところに、父、母、祖母(父方)、姉、兄、私と、叔母2人の計8人住んでいたことになる。この頃の都会は、人がむやみに多かったのか、どこの家でも狭い部屋に住んでいた。友人の家は、6畳くらいの部屋の一家5人が住み、便所、台所が共同であった。当時、まだ独身であった叔母からすれば我が子のつもりで私を背負ったのだろう。


2026年8月2日日曜日

ベロベロという駄菓子はわらび餅に似ている

 





子供の頃、多分、昭和389年の頃、毎日のように近所の駄菓子屋さんに10円持って、訳のわからないものを食べていた。

 

今の季節、よく食べたのが、「ベロベロ」というわらび餅のようなもので、くじを引いて、当たると大きなものものがもらえる仕組みになっていた。確か一回、五円か十円くらいであった。それを新聞紙に入れて、きな粉をかけてくれる。新聞の文字が写るんではと、ちょっとだけ心配したが、数秒で食べて遊びに行く。そんな毎日であった。

 

よく行った駄菓子屋(2)は、家(1)から10mくらいのところにあり、そこが行きつけのところであった。友達とよく行ったのはセンター市場近くの駄菓子屋(3)で、ここは駄菓子だけでなく、コマやベーゴマ、ベッタンなども売っていた。また理髪店ホープとタバコ屋の間の道、難波小学校に行く道は、近所でもデンジャラスゾーンであったが、その本道から横にそれた薄汚い小道にも婆さんがやっていた駄菓子屋(6)があり、ここはこの辺に住む子供の溜まり場であった。ここの駄菓子屋の人気があったのは、店番をしている婆さんが少しボケていたあまり勘定ができないため、子供が悪さをしていたからである。

 

こうした子供向けの駄菓子屋にも流行の波があり、一番よく行く、駄菓子屋にもお好み焼きをするようになった。一枚、十円で、キャベツのみの薄い薄いお好み焼きで、先ほど述べたデンジャラスゾーン近くにも(5)、ちょぼ焼きという10センチくらいの鉄板に1cmくらいの穴があき、そこに小麦粉を溶いた液を入れて焼く、たこ焼きのようなものがあった。これも確か十円であった。

 

歯科医院の前には、同級生のお菓子屋さんがあり、和菓子、洋菓子などが売っていたが、店主が変わってからもお菓子屋さんで、店先にはガラスケース、ボックスに入ったお菓子、キャンデーが売られていたが、ここも夏場がかき氷、冬場は関東炊きをしていた。駄菓子、お菓子屋と食べ物を売る店がある時点を境に増えた。また、理髪店、ホープの近くにもお菓子屋(7)があったが、いつの間にか、漫画雑誌をおく小さな本屋になり、販売日になると週刊マガジン、サンデー、キングなどがうずたかく置かれていて、学校から帰るなり真っ先に買ったものだ。家から難波公園に行くところに貸本屋(4)があり、何度か漫画を借りたが、ここは2、3年でなくなった。難波公園にはよく紙芝居や粘土を型に入れて、銀色や金色の粉をかけて、おじさんに渡すと、採点し、点数が増えると飾っている型を交換してくれる(8)。銀玉鉄砲やゴム鉄砲をしたのもこの公園だし、センター市場近くの駄菓子屋(3)ではこうした銀玉鉄砲やさらに強力な2B弾という先をマッチ箱のヤスリ分で擦るとシューっと音がして2、3秒で爆発する。これを手榴弾がわりにして銀玉鉄砲と一緒に遊ぶ。公園に来た鳩やスズメを狙って遊んだりもした。

 

他には、難波小学校の正門前には西村文具店(9)という店があり、ノートや鉛筆などの文具以外にも、プラモデルや切手も置くようになり、プラモデルの完成品をショーウインドーに飾っていた。この店の先には本屋(10)があり、月刊少年などの付録付きの子供向けの月刊誌はここで買った。こうした子供向けの店は家から半径500mくらいにあり、そこが我々子供の世界であった。

 

近くのロピアに阿波晩茶わらび餅というのが売っていた。会社は徳島県板野郡藍住町となっている。この番茶は父母の故郷の味であり、独特な風味をもち、この阿波晩茶にもしっかりその風味が入っていた。ただ久しぶりにわらび餅を食べたせいか、むしろ子供の頃のベロベロを思い出し、こんなことを書いている。



2026年8月1日土曜日

中国による台湾侵攻はできない


中国による武力的な台湾侵攻について、最近はどうもトーンダウンしている。一番大きな理由として、ロシアによるウクライナ侵攻で、陸続きの国への武力侵攻でさえ、あれほど難しいのに、まして海を渡って台湾を武力侵攻するのはほぼ不可能であるということが、世界中の集約意見になってきた。第二次世界大戦中のノルマンディー上陸作戦あるいは、計画だけの幻の日本上陸作戦を見ても、海で隔てられたところへの侵攻は防御側の数倍の兵力が必要で、損害も多い。ましてや制海、制空が完全にできていない状況では、困難度はさらに増す。そのため、中国は、武力侵攻を諦め、認知戦などの武力を使わない方法に注力しているようだ。

 

さらに高市首相、おそらくそのブレーンが中国にとって嫌なことばかりするので、さらに厳しくなっている。中国軍にとって、もっと脅威なのが、日本の中距離ミサイルで、12式地対艦ミサイル、あるいは一番怖いのは、25式高速滑空弾で、マッハ5以上の速度で不規則な運動で飛ぶため、迎撃はほぼ不可能とされている。それでいて、日本版GPS、衛星みちびきと連動したミサイル攻撃は、中国空母にとって脅威以外にない。この地対艦ミサイルは、まず偵察衛星で中国空母の数分後の経路を予想し、そこまでは衛星GPSでミサイルは飛んでいく。数十キロの射程に入ると、先頭のカメラにて画像、熱源などはら船種を同定し、一番弱い部分に突入する。精度は1m以下とされ、防御もほぼ不可能である。現在、射程2000kmの改良版を開発しており、それができれば中国のほぼ沿岸部は射程に入る。このミサイルは防ぎようがなく、現在ある3隻の空母は、ほぼこのミサイルだけで壊滅できる。小型、移動可能なので、隠して配置でき、予算的には厳しいが数百発、九州、離島に配備すれば、中国空母はほぼ外洋には出られない。

 

実際、台湾有事のシミレーションでは、中国軍は早期に台湾の周囲の海を封鎖して支援が入らないようにする。その間に、兵力を台湾に上陸させて侵攻するというシナリオである。日本、アメリカは、本土の基地が攻撃されない限り、直接的に武力投入はできない。もし本土基地、とりわけ米軍基地が攻撃されるや、アメリカ軍は即刻、アメリカにある中国資産を凍結する。これだけで中国は潰れる。絶対に中国はアメリカとは戦争しない。ウクライナ戦争と同じく、兵器の援助をするが、台湾は自分で守れということになろう。

 

日本政府としては、さすがに表立って中国と戦争することはないので、武器供与という支援になろう。その場合の、日本の中距離ミサイルは、凄まじい威力を発揮する。数さえあれば、中国からの船舶による輸送を遮断することも可能となる。ただ、いかにして弾薬、ミサイルを台湾に輸送するかが問題となる。おそらく深い海の台湾東側からの輸送となるが、中国も警戒、封鎖しているので、難しい。そこで最近、日米で計画されているのは、無人潜水艦やナルコサブのような半分海中に沈んだ無人船である。これは無人のAIによって海中を進む潜水艦で、大型のものも計画されている。これが完成すると、日本を中継基地として、台湾、東側から無人の潜水艦を利用し、中距離の地対艦ミサイルや弾薬を供給することができる。ウクライナ戦争のように輸送車が攻撃されても犠牲者は10名以下であるが、中国から台湾への兵員輸送船が撃沈されると千人単位の犠牲となる。これでは怖い。

 

中国が台湾に侵攻した場合、日本の米軍基地を攻撃することはまずないというのが常識である。というのは攻撃された瞬間にアメリカにある中国資本の凍結手続きが行われ、発動されるからである。これは中国にとって、旧ソ連型の世界に戻ることを意味する。亡国に近いリスクを犯して日本の米軍基地を攻撃することはあり得ない。結局、日本としては中国にとって、いやらしい兵器、中距離ミサイル、無人潜水艦、位置情報、通信、探索衛星、音響監視システムとそれに連動したスマート機雷、たいげい型潜水艦、もがみ型護衛艦、レールガンなどの装備を高めていくことであろう。またフィリピンへの中古護衛艦の供与、オーストラリアへのフリゲート艦の輸出など、中国周囲国への武器供与も嫌なことである。

 

防衛というのは高い費用の掛け捨て保険であり、掛け捨て金はもったいなくても何もないことが一番である。戦争だけでなく、自然災害に対する自衛隊の貢献を加味すると決して高い費用ではないように思えるが。



 

大人気の海上自衛隊の護衛艦、もがみ型

 


海上自衛隊のもがみ型護衛艦は、今、世界中で大人気である。その要目をWikipediaで調べると、基準排水量は3900トン、全長133m、最大幅16.3mという。帝国海軍で言えば、駆逐艦にしては大きく、軽巡洋艦にしては小さいというレベルで、軽巡洋艦“夕張”の基準排水量が3560トン、全長が137mで近い。ただ現行の自衛艦で言えば、あたご型が7750トン、まや型が8200トンなので、小型艦、フリゲート艦の扱いとなる。

 

もがみ型の最大の特徴は、そのステルス性で、現行の艦艇の中では、さすがにアメリカ海軍のズムウォルト級には敵わないにしても、特殊塗装の効果と相まって、レーダー上では小型ボートくらいの大きさにしか分からず、海上で20-30km、空中からでも30-40km程度まで近づかないと発見できないと言われている。ステルス機能のない通常艦では海上で35-40km、空中では100-200kmであり、この差は大きく、相手が発見できない距離で攻撃ができる。

 

さらにすごいのは乗組員数が少なく、標準で90名、これは従来の護衛艦の1/2-1/3の省力で、さらに対空、対艦だけでなく、対潜、対機雷にも対応できるマルチ機能を持つ。またこれまで一号艦の“もがみ”が令和4年に就航したのを皮切りに、12番艦の“よしい”まで順調に建造され、当初の建造費は一隻で約500億円、令和6年予算では1隻、1000億円となっている。かなり建造費が上昇しているが、アメリカのズムウォルト級は大きさが全く違うが、建造費が1隻あたり6000億円、総費用で3兆円以上かかっており、今はあまりに高いため3隻で建造中止となった。

 

ステルス性能、少ない乗務員、マルチ機能、それでいて建造費は高くないことから、コスパのいい艦艇として世界中から注目されている。つい最近ではオーストラリアの次期フリゲート艦としてこのもがみ型の性能向上型を採用することに決まった。さらにニュージランド、インドネシアも導入予定である。オーストラリアへの輸出とその後の評価を見て、さらに多くの国からの受注が見込まれる。

 

とりわけ米国海軍は、このところ、新型艦艇の開発の失敗が続いている。前述したようにズムウォルト型を当初30隻、導入する予定であったが、あまりに建造費が高く、3隻した就航せず、1988年に就航したアーレイ・バーク級が、いまだに最新艦である。さらに2017年には新型フリーゲート艦の開発を進めたが、二番艦まで建造することになったが、それ以降の建造計画は全くに白紙となった。こうした度重なる新型艦艇の計画が失敗に終わったが、中国海軍が着々と勢力を増し、それに対応するために排水量4750トンくらいの小型な艦艇の開発を早めている。ただ計画しているこの新型艦艇にはステルス性能はない。

 

さらにアメリカの造船能力の問題もあり、緊急の手段として、どうも日本との共同開発を企んでいるようである。もがみ型はレーダーや電子兵器はほぼアメリカ製のものであり、建造のノウハーを知れば、すぐに使える。カナダの次期駆逐艦が一隻8000億円という巨額な費用に比べると、もがみ型は1000億円で安く、また生産性が高い。古くなったアーレンバーグ級に変わる戦闘艦がすぐにでも大量に欲しいアメリカ海軍としては、もがみ型の向上艦は興味のある艦艇である。

 

安くて、性能が良いという日本製品が、ついには軍用品にも及ぼうとしている。軍事品の価格が恐ろしく高騰しており、最新戦闘機F-35200億円、空母で約2兆円、パトリオットミサイルが一発7億円くらい。どれも高くて、実戦に使えないレベルに達している。ウクライナ戦争でもあまりに戦闘機、爆撃機が高価、数が少ないので、もはや空中戦とう概念もなくなった。日本が開発を進めている25式地対艦誘導弾などの出現で、ほぼ中国海軍の空母も怖くて活動できない。核兵器による抑止力だけでなく、通常兵器のよる抑止力も強くなっており、もしこうした空母キラーミサイルを台湾に大量に供給するだけで、ほぼ中国の台湾侵攻は阻止できる。