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| 明治9年頃の函館 |
高橋政子先生は、論文(クリオへの感謝、看護教育、22(5),1981)の中で、孫の鈴木康夫氏にインタビューして「鈴木家の二代にわたる戸籍謄本を取ってもらい、――― N市は第二次世界大戦の爆撃を再三うけたので、何もかも消失、遺品らしいものは皆無であった。まさの暮らした家も跡形もなく、新居暮らしの康夫氏の断片的な思い出に頼るしかなかったが、 」とし、残った晩年の雅の写真を載せている。
孫の鈴木康夫氏は、2代、両親、祖父母まで戸籍をとったようだ。もう一代前の曽祖父まで戸籍は取れなかったのだろうか。明治五年の壬辰戸籍は無理だが、明治19年式戸籍が残っていれば、曽祖父の戸籍も見られ、右下に高祖父の名前がわかる。戸籍では一番古く、これより前は菩提寺の過去帳だが、寺は火災が多く、残っていないことも多い。いずれにして二代前の鈴木雅の戸籍から、父親は加藤信盛であることは確実である。
そこで鈴木信盛のことをGoogleで調べてみると、北海道立文書館に辿り着く。ここに静岡藩士族、加藤信盛の記録がある。11件の記録が残っている。そこでAI(googleジェミニ)のこの記録の概要情報を全て打ち込み、「時系列にまとめて説明せよ」とした結果は以下である。
この一連の文書は、静岡県から製塩資本金などを借りて函館区(開拓使管内)に寄留(移住)していた加藤信盛が、その借入金の返納(年賦償還)や手続きをめぐり、静岡県と開拓使(函館支庁など)の間でやり取りされた公務記録です。 加藤信盛に関する時系列タイムライン ■ 明治12年(1879年)
■ 明治13年(1880年)
· 6月4日:【証書の書き換えと一部皆納】 o 製塩資本金の年賦証書書き換えに加え、火災に遭った際の「類焼貸下金」の年賦が皆納(完済)したため、旧証書2通が返付される。 · 10月12日:【証書による送金】 o 年賦返納金が、払出証(為替のようなもの)をもって静岡県へ送付される。 ■ 明治14年(1881年)
AI自体はかなりいい加減な回答を行うのであまり信じていないが、絵を描くときの参考と、古い文書の解釈にはよく使う。この記録については原本のコピーを見ればよりはっきりするが、明治11年あるいは12年の初めに加藤信盛は静岡から北海道(函館?)に渡り製塩業をしようとして失敗したことがわかる。この大きな理由は、明治9年「秩禄処分」、国から士族への給与支給の廃止があり、士族はこの時期を境に一気に困窮化した。そのため、藩から資金援助を受けて多くの静岡藩士が北海道に渡った。その一人が加藤信盛である。
鈴木雅が明治五年に横浜共立で学んだのは確実だが、いつまで学んだかについては、明治11年には鈴木良光と結婚しているので、明治10年頃にはやめたと考えた、ただ明治9年8月秩禄処分が行われてからは、娘を静岡から横浜に出して寮費、学費を出すのはかなり苦しかったはずである。明治9年中に辞めたのかもしれない。また明治11年、陸軍将校という良縁に恵まれ、娘、雅を嫁がせてから静岡から北海道に渡ったのだろう。士族にとっては厳しい時代であった。
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