鈴木雅はなぜ看護師になったのか、海外留学を夢見たのかを、横浜共立学園とファリス女学院の創立理念から見ていきたい。
まず横浜共立学園は、横浜に溢れていた混血児の保護と教育が創立背景にあり、創立者のプライン、クロスビー、ピアソンは、それぞれ自立した婦人であり、その派遣母体である婦人一致外国伝道協会(WUNS)は女性だけの独立した団体であった。そのため、今で言うところのウーマンリブ運動の活動、女性の自立を活発に行なっていた。一人の自立した女性として社会に積極的に関わっていくと姿勢である。ちょうど幕末頃からアメリカには女性教師を育てる教育機関ができ、さらにマウントホリヨークやセブンシスターズなど、高等教育を受ける女性が多くなった。そうした新しい女性がキリスト教宣教と相まって外国へ進出した。その一つがアメリカンミッションスクールで、その教育目標は日本でも自立し、社会で活躍できる女性を育てることであった。初期の生徒の中には、アメリカに留学して女医になった菱川やす、岡見京、須藤かく、阿部はな、近代日本女子図画教育の基礎を築いた武村耕靄、鉱毒救済婦人会の発起人となった木脇園、北海道の開拓地での教育と宣教に力を注いだ渡辺かね、桜井女学校を創立した桜井ちか、横浜の社会事業の先駆者の二宮ワカ、などがいる。授業は、聖書、音楽、英語、数学、科学、倫理学など、多くは英語で教えられ、ニューヨーク州立師範学校のカタログに沿ったものだった。かなり英語教育に偏ったカリキュラムであった。
これに対してフェリスは、アメリカの改革派教会という、どちらかと言うと男性中心の大きな組織から派遣されたもので、キリスト教精神に基づく教養ある婦人を育てることに目標が置かれた。簡単に言えば、結婚して夫と子供の世話をする古典的な教養ある婦人になることを目指した。禁酒、婦人参政権、孤児院活動、奴隷廃止、などの女性運動は、改革派の多くの男性からは煙たがれるものであった。そのためフェリスの初期の生徒の多くは、社会的地位の高い婦女子で、そのまま良縁に嫁ぎ、積極的な社会活動は行なっていない。社会的なポジションを利用して慈善活動に参加する人もいたが。また授業のカリキュラムも、健全なる日本婦人を育てることに主眼が置かれていたため、英語教育はもちろんのこと、午前中は英語、午後からは日本学、漢学の授業、小笠原流の礼儀、裁縫、生花、琴、茶道などは必須科であった。寄宿生活も寝具、衣服、食物、動作に至るまで全て日本式で、要するに日本式の女性を育成しようとしていた。
フェリス女学院の創立者のメアリー・ギターは明治12年にアメリカに一時帰国し、明治14年にはユージン・ブースという男性が2代目校長となる。一方、横浜共立の校長が男性になったのは昭和11年の笹尾灸太郎からで、それまでの4人の校長はいずれも女性であった。明治30年以降は日本政府による宗教教育の禁止令と女子教育の目的が良妻賢母の育成ということになり、横浜共立学園の自立した女性を育てるという初期の教育目的は消えていく。同時に、卒業生から強い個性を持つ女性活動家もいなくなった。
こうした両校の創立理念の違いは大きい。雅の場合、陸軍少佐の夫が亡くなっても、その遺族年金で二人の子供を育てることは十分にできた。普通、二人の子供を親に預け、無理して看護師になろうとはしなかったはずだし、アメリカに留学しようとは決して思わない。一方、共立では女性の自立を目指す教育を受け、さらに同級、同窓生の多くが社会活動をしているのを目の当たりにみて、強い決意で看護師の道に志願し、切り開いていったと思いたい。
PS:
鈴木雅は明治9年3月にバラによって受洗した。日本のキリスト教においても、女性の受洗者としてはかなり早い方である。同窓の武邑は明治6年(ブラウンから受洗)、菱川が明治6年(バラ)、皿城ひさが明治7年(バラ)、木脇園が明治9年(バラ)、岡見京が明治7年(バラ)、鈴木しんが明治7年(バラ)、渡辺かねが明治7年(バラ)、桜井ちかは明治7年(タムソン)、二宮わかは明治9年(バラ)、吉田まちが明治9年(バーム)など初期の共立出身者の多くが受洗している。雅も他の同窓生同様に横浜共立にいた時期に感化されて受洗したと考えられる。それに比べて大関和が受洗したのは看護学校在学時の明治20年である。明治初期、よほどでなければ若い女性が受洗することはないが、寮生活をするうちに感化されて信徒になったのだろう。通常、受洗したいと言っても一年くらいは覚悟をみる。私がいた六甲学院も170名の生徒のうち、6年間で受洗した生徒は60名近くいて、学校の影響は強い。鈴木雅も明治五年に横浜共立に入学し、信徒になりたいと考え、明治9年3月4日に受洗(日本基督教会横浜海岸教会史表1 1806-1870, 井上平三郎、1982)して信徒になった。
Wikipediaでは、鈴木雅は明治9年から10年にかけてフェリス・セミナリーで学ぶと書かれているが、開校したばかりの英語初学者(ABC から)が多く、午前中しか英語が学べないフェリスにわざわざ英語を学びにいく必然性はない。共立とフェリスは仲はよく、むしろ生徒数が増え、英語助手に請われて教えるか、あるいは花嫁修行として日本学、裁縫、習字、琴、などをフェリスで学ぶのならわかる(実家のある東京あるいは静岡でも学べそうだが)。ただ昭和6年発行の「フェリス和英女学校六十年史」には生徒、教師として一切の記載はない。







