2026年6月4日木曜日

拡大矯正治療について

 

AGGA装置、 前方拡大をする場合


上のような装置を成人に入れれば、こんなことになるでしょう


拡大矯正治療については、小児の上顎骨の劣成長による交差咬合のついては適用となっており、上顎を横に広げて噛み合わせを治す治療は行われる。小児期であれば、上顎骨の正中口蓋縫合がまだ閉鎖していないので、それを急速に拡大することで、そこに新たに骨ができる。ただ症例はそれほど多くない。

 

今日、日本で行われている拡大矯正歯科治療は、交差咬合の改善というよりは叢生、歯の凸凹を改善する方法と用いられている。上顎を横に広げることで場所を作り、足りないスペースを作るというもので、上顎が広くなれば下顎も自然に広くなるという理論に基づく。下の歯列についてはポーター型の拡大装置でゆっくりと拡大する方法が取られている。ところが世界ではどうかというと、最近は訴訟、歯科医師資格の剥奪など物騒なことが起こっており、少し下火になっている。ただこうした物騒なことはどこも伝えていないので、このブログで少し伝えたい。

 

1.ミュー親子の歯科医師資格の剥奪

イギリスのJohn Mewは、自然成長誘導法という独特な治療法を提唱し、日本には何度か来日して講演している。バイオブロックや口腔習癖指導により口腔の機能を改善し、健康な歯列に持っていくというもので、日本では小児歯科、一般歯科医で人気があり、研究会があるほどだ。歯科矯正雑誌にも講習会の案内や、その理論などが特集されていた。ところがその経歴みると、2017年に不適切な広告活動と患者の守秘義務違反で、2017年にイギリスの歯科医師会から歯科医師資格を剥奪されている。科学的根拠は乏しいとイギリス矯正歯科学会から完全に異端視された結果である。息子のMike MewMewingという顎をシャープにいう治療法を提唱し、父親と同じく2024年に歯科医師免許を剥奪されている。息子の場合は実際に患者に不適切な治療によるダメージを与えたことによる。親子二代にわたり歯科医師免許を剥奪されたわけである。日本に来日して講習会をしていたのは確か2017年以降であり、主催者は歯科医師資格を剥奪された先生を講師として呼んだことになるし、そのことは一切レポートしていない、これは問題である。私も今回初めて知った。

 

2.AGGA装置による拡大治療に対する集団訴訟

AGGAとはAdvanced Crozat and Goshgarian Applianceと呼ばれる装置で、基本的な古典的な拡大装置を組み合わせた治療法である。特に新しい治療法ではないがアメリカで一万人以上に使われた。この中で、成人に使い、歯根の露出や歯の動揺が起こった患者が集団訴訟を起こし、現在、訴訟中で、FDAによる刑事捜査も開始されている。2024-25年にかけて被害者を集めて大規模な巨額損害賠償を求めている。法律家の意見としては、典型的な欠陥製品による健康被害として大規模な(数十から数百億円)の和解金で解決するだろうと予想知っていて、さらに導入歯科クリニックにも医療過誤責任が追求される恐れもある。

 

3.気道拡大を謳った過剰治療への訴訟

アメリカ、カナダで2021年頃から訴訟が始まりました。この問題はAGGA装置による訴訟と関連するが、さらに科学的根拠不足という点だけでなく、医科の分野への治療として無資格診断でも問題になっている。

 

日本矯正歯科学会でも、デコボコを治すための拡大矯正治療は基本的には根拠が乏しいとして否定している。上顎については急速拡大装置などにより骨格性変化を起こしスペースの拡大に繋がるが、下顎については骨格性の変化は起こせず、側方への拡大は主として歯の傾斜によるもので、後戻りが強いとしている。でこぼこに対する治療としては、歯を抜いてその隙間を利用してデコボコを治す抜歯治療法と、歯列を拡大、前、横に広げて隙間を作る非抜歯治療法に分かれる。ここに口唇の突出度、上の前歯が前に出ていて、口が閉じられない、が関係して抜歯、非抜歯が決められる。

 

口元の突出度は審美性にも関連するので、非抜歯治療をする先生は、この点にはあまり気にしていない。患者の口元が出ている、あるいは検査の数値上、日本人の平均を超えても気にするなという。一方、矯正専門医の多くは口元が出ているのが気になるため、その改善を患者に積極的に説明する。結果として矯正歯科専門医は抜歯治療を、一般歯科医は非抜歯治療をすることになる。問題は成人患者で、拡大装置による無理な非抜歯治療をして、結果的に口元が突出しても文句は言えない。抜歯して再治療してほしいと言っても、先生によっては、私の主義、健康な歯は抜かない、でそうしたことはできない、どうしても治したいなら他のところで行ってくれと言われる。

 

個人的な感触で言えば、成人の矯正治療では、凸凹の改善+口元を引っ込めたい という要望が多いため、70-80%で小臼歯の抜歯が必要となる。それ故、非抜歯、拡大矯正治療を受けた時点で、ほぼ失敗といえよう。少なくとも、非抜歯治療で口元の突出感が残っている場合は、小臼歯抜歯での治療に切り替えて治療できるかは最初に先生に確認すべきである。ボーダラインのケースでは一度非抜歯で治療してみて、途中で抜歯に切り替えるという症例はままある。

 

 






2026年6月2日火曜日

鈴木雅 フェリス or 共立 論争 3



鈴木雅はなぜ看護師になったのか、海外留学を夢見たのかを、横浜共立学園とファリス女学院の創立理念から見ていきたい。

 

まず横浜共立学園は、横浜に溢れていた混血児の保護と教育が創立背景にあり、創立者のプライン、クロスビー、ピアソンは、それぞれ自立した婦人であり、その派遣母体である婦人一致外国伝道協会(WUNS)は女性だけの独立した団体であった。そのため、今で言うところのウーマンリブ運動の活動、女性の自立を活発に行なっていた。一人の自立した女性として社会に積極的に関わっていくと姿勢である。ちょうど幕末頃からアメリカには女性教師を育てる教育機関ができ、さらにマウントホリヨークやセブンシスターズなど、高等教育を受ける女性が多くなった。そうした新しい女性がキリスト教宣教と相まって外国へ進出した。その一つがアメリカンミッションスクールで、その教育目標は日本でも自立し、社会で活躍できる女性を育てることであった。初期の生徒の中には、アメリカに留学して女医になった菱川やす、岡見京、須藤かく、阿部はな、近代日本女子図画教育の基礎を築いた武村耕靄、鉱毒救済婦人会の発起人となった木脇園、北海道の開拓地での教育と宣教に力を注いだ渡辺かね、桜井女学校を創立した桜井ちか、横浜の社会事業の先駆者の二宮ワカ、などがいる。授業は、聖書、音楽、英語、数学、科学、倫理学など、多くは英語で教えられ、ニューヨーク州立師範学校のカタログに沿ったものだった。かなり英語教育に偏ったカリキュラムであった。

 

これに対してフェリスは、アメリカの改革派教会という、どちらかと言うと男性中心の大きな組織から派遣されたもので、キリスト教精神に基づく教養ある婦人を育てることに目標が置かれた。簡単に言えば、結婚して夫と子供の世話をする古典的な教養ある婦人になることを目指した。禁酒、婦人参政権、孤児院活動、奴隷廃止、などの女性運動は、改革派の多くの男性からは煙たがれるものであった。そのためフェリスの初期の生徒の多くは、社会的地位の高い婦女子で、そのまま良縁に嫁ぎ、積極的な社会活動は行なっていない。社会的なポジションを利用して慈善活動に参加する人もいたが。また授業のカリキュラムも、健全なる日本婦人を育てることに主眼が置かれていたため、英語教育はもちろんのこと、午前中は英語、午後からは日本学、漢学の授業、小笠原流の礼儀、裁縫、生花、琴、茶道などは必須科であった。寄宿生活も寝具、衣服、食物、動作に至るまで全て日本式で、要するに日本式の女性を育成しようとしていた。

 

フェリス女学院の創立者のメアリー・ギターは明治12年にアメリカに一時帰国し、明治14年にはユージン・ブースという男性が2代目校長となる。一方、横浜共立の校長が男性になったのは昭和11年の笹尾灸太郎からで、それまでの4人の校長はいずれも女性であった。明治30年以降は日本政府による宗教教育の禁止令と女子教育の目的が良妻賢母の育成ということになり、横浜共立学園の自立した女性を育てるという初期の教育目的は消えていく。同時に、卒業生から強い個性を持つ女性活動家もいなくなった。

 

こうした両校の創立理念の違いは大きい。雅の場合、陸軍少佐の夫が亡くなっても、その遺族年金で二人の子供を育てることは十分にできた。普通、二人の子供を親に預け、無理して看護師になろうとはしなかったはずだし、アメリカに留学しようとは決して思わない。一方、共立では女性の自立を目指す教育を受け、さらに同級、同窓生の多くが社会活動をしているのを目の当たりにみて、強い決意で看護師の道に志願し、切り開いていったと思いたい。

 

PS

鈴木雅は明治9年3月にバラによって受洗した。日本のキリスト教においても、女性の受洗者としてはかなり早い方である。同窓の武邑は明治6年(ブラウンから受洗)、菱川が明治6年(バラ)、皿城ひさが明治7年(バラ)、木脇園が明治9年(バラ)、岡見京が明治7年(バラ)、鈴木しんが明治7年(バラ)、渡辺かねが明治7年(バラ)、桜井ちかは明治7年(タムソン)、二宮わかは明治9年(バラ)、吉田まちが明治9年(バーム)など初期の共立出身者の多くが受洗している。雅も他の同窓生同様に横浜共立にいた時期に感化されて受洗したと考えられる。それに比べて大関和が受洗したのは看護学校在学時の明治20年である。明治初期、よほどでなければ若い女性が受洗することはないが、寮生活をするうちに感化されて信徒になったのだろう。通常、受洗したいと言っても一年くらいは覚悟をみる。私がいた六甲学院も170名の生徒のうち、6年間で受洗した生徒は60名近くいて、学校の影響は強い。鈴木雅も明治五年に横浜共立に入学し、信徒になりたいと考え、明治9年3月4日に受洗(日本基督教会横浜海岸教会史表1 1806-1870, 井上平三郎、1982)して信徒になった。

 

Wikipediaでは、鈴木雅は明治9年から10年にかけてフェリス・セミナリーで学ぶと書かれているが、開校したばかりの英語初学者(ABC から)が多く、午前中しか英語が学べないフェリスにわざわざ英語を学びにいく必然性はない。共立とフェリスは仲はよく、むしろ生徒数が増え、英語助手に請われて教えるか、あるいは花嫁修行として日本学、裁縫、習字、琴、などをフェリスで学ぶのならわかる(実家のある東京あるいは静岡でも学べそうだが)。ただ昭和6年発行の「フェリス和英女学校六十年史」には生徒、教師として一切の記載はない。


 

2026年6月1日月曜日

宮本輝 「湾」

 

母の実家 一番幸せなころ 昭和20年代


とにかく懐かしい。本の前半は、昭和34年頃の日本の状況を余すことなく伝えている。こうした時代の色、匂いまで文章で表現できる点では、宮本さんは日本でももっとも豊かな才能と経験を持つ作家である。宮本さんの子供時代の経験が色濃く反映された物語で、一種の流転の海の別巻と呼べよう。ある日の記憶。昭和35年頃、私が4歳くらい。梅雨の頃だろうか、尼崎の難波幼稚園の門を入った右側には紫色の紫陽花があり、その葉の上には雨に濡れたカタツムリがいる。それを見ている幼い私がいる。園長室に行くと白髪の年配の園長から毎朝、手帳のようなものにハンコをもらう。黒い修道女服を着ていた先生は石鹸のいい香りがした。こんなシーンが映画のように思い出す。ただそれだけである。作者の断片的なこうした思い出のシールをつなぎ合わせ、文章として形にする。そんな本である。

 

つい最近も作家、佐藤愛子さんが102歳で亡くなった。多くの作品を残した偉大な作家であるが、その代表的な作品といえば、やはり佐藤弥六、佐藤紅緑、サトウハチロウとその周辺を描いた「血脈」になろう。同様にどくとるマンボウで有名な北杜夫さんについても、小説家としての代表作となると「楡家の人々」であり、太宰治の代表作も、自身を色濃く反映した「斜陽」が挙げられる。作家にとって、自分の聞いたこと、見たこと、感じたこと、味わったこと、などなど実際に経験したことがより具体的な形となって文章に出てきるのではなかろうか。そしてそれは読者にとっても、具体的な説得力の強い描写となり、感動を得る。

 

戦時体験のない子供の話であり、世代、男女、社会、都市との断裂がバックボーンのように鳴っている。今から振り返ると、子供の頃の大人たちは驚くほど老けており、大成していた。子供心に自分も大人になったら、自然にああいうどっしりした、威厳のある大人になれるとばかり思っていたが、実際は全くそうでない。自分だけではない。同年齢の友人、知人も皆そうである。昭和34年当時の主人公の父親は、39歳、母親は33歳、周囲の爺さん婆さんは623歳である。昭和28年の東京物語の笠智衆と東山千栄子の約年齢はそれぞれ70歳と67歳だった。今では考えられないくらいに皆老けていた。そういえば、昭和30年代でも、年配(多分、30歳台)の婦人が赤や黄色の原色の洋服を着ているだけで、色きちがいと呼ばれて批判されていた。

 

ここまで前半の感想である。ところが、後半は少しおとぎ話となっていて、ああまた宮本輝ワールドに入ったのかと思ってしまう。連載小説の宿命、次回を期待させる、気分よく読後を終えるための仕組みかもしれないが、何もアストンマーチDB7はないかもしれない。異父違いの姉と弟の恋愛に似た感情も未消化なまま終わっている。ただこれは宮本さんだけに許される特権で、読者をしあわせな気分にさせ、明日を生きる勇気を与える、宮本さんの姿勢であり、悪い人は出てこない。この世ではない、別の世界の話である。本の読む一時、幸せな気分になり、嫌なことを忘れたい、宮本さんのファンはそうなのである。暴力、裏切り、中傷に満ち溢れた世界はもういい。また作家は、結局、経験していないことを小説にはリアルに表現できず、幸せな作家は幸せな、感謝を込めた小説を書くのだろう。

 

本のカバーを開いて欲しい、そこには五老ケ岳から眺めた舞鶴湾が描かれている。リアス式の複雑な地形、海に沿ったわずかな土地に人が住み、裏は山。海―狭い土地―山。これが舞鶴で、その間を結ぶのは船が便利なのはこのカバー絵を見ただけでわかる。小説の説明図が、そのままカバー図となっている。アイデアであり、小説の内容にも合致する。故郷の自然の風景が、思い出の中にある人は幸せである。都会しか知らない人は、すべての風景が変わり、そこは思い出、ノスタルジーしかないのである。





2026年5月24日日曜日

運送用のドローン、空飛ぶトラックの開発



ドローンというと、普通、バッテリー、電動モーターとプロペラが何個かついた小型の無線誘導機(マルチコプター)を考える。この分野では、圧倒的に中国がリードしており、市場も独占している。こうしたドローンに小型カメラなどを積み、上空からの撮影映像はよく見るが、積載量、稼働時間も少なく、活動は限られている。例えば、ウクライナ戦争でも近距離の偵察などには安価な民生用ドローンが使われているが、実際に爆弾を積み、長距離攻撃するドローンは民生用のものと違い、エンジンもレシプロあるいはジェットエンジンを搭載し、価格も数千万円から数十億円する。

 

そのため、バッテリーを搭載した電動のドローンは安価ではあるが、実際に産業に使われているのは、農地に肥料、殺虫剤をまく、インフラ設備の点検などに限られている。航続力と積載量がネックとなり、離島などへの本格的な輸送などには使われていない。ここで次世代のドローンとして注目されているのは、エンジンで発電し、それでモーター、プロペラを回すというハイブリット型ドローンである。これなら航続力、積載量も大幅に改善でき、これまでの輸送手段を抜本的に変えることができる。重いバッテリーを少なくでき、ガソリン、水素で電気を作り、モーターでプロペラを回す方法である。

 

このハイブリット型のドローンがこれからの実用的な活用のメインと予想されている。ハイブリット型ドローンで最も重要なものは、発電用の小型、高出力、耐久性の高いエンジンとなる。実は、日本でもレシプロエンジンによる無人ヘリ、ドローンがヤマハで実用化されており、1988年から農業用として販売されている。エンジンはオートバイ用を改良したもので、さらに川崎重工業もカワサキのバイクエンジンを活用した無人へりを開発している。現在、進められているガソリンエンジンの無人ヘリは、川崎重工業のもの、三菱重工+ヤマハのもの、ホンダはホンダジェットのエンジンを発電用とした空飛ぶクルマを開発している。200kgの荷物を積んで、100-200kmの航続距離を目指している。200kmの航続距離があれば、日本では有人離島の90%はカバーでき、災害時でも大きな威力となろう。さらに戦場においても、攻撃、輸送、偵察などかなり広範囲な任務を行うことができる。軍用ドローンには汎用性はなく、戦争以外に活用はないが、輸送用のドローンは用途が広い。

 

ただこうした運送用ドローンも中国は大きくリードしており、すでに飛行機型(W5000)であるが、5トンの貨物、2600kmの航続距離を記録した。他にも多くの運送用ドローンが開発されているが、今のところまだヘリコプタータイプのハイブリットドローンはできていない。マルチコプターに比べてヘリコプタータイプの利点は、構造的に長い歴史を持ち、スピードが速く、悪天候にも強度が強い。さらにガソリンエンジンのハイブリット型にすれば、飛行先のところで短時間にガソリン給油をすればすぐに飛び立て、飛行するにつれてガソリンが減って重量は軽減していく。

 

最初に述べたように、現在、日本はこの分野では、ヤマハ、川崎、三菱重工、ホンダが民間でしているが、これにヘリコプター、ミサイル技術に優れているスバル、さらに発電用ガソリンエンジンとして注目されているロータリーエンジンに強いマツダを加えた開発チームを作り、政府が主導して中国の運送用ドローンを凌駕する製品を作ってもらいたい。ヘリコプターは複雑な駆動系を有し、製品精度も含めて、この分野はまだまだ日本にも勝算がある。一時期、空飛ぶタクシーが話題になったが、むしろ空飛ぶトラックが本当に必要であり、ぶら下げタイプのモジュールにして、着陸先でAIを利用した細かい操作が可能であれば、モジュールキャッチャなどの設備があれば、どこでも物資を届けられる。工夫すれば病人も運搬できるかもしれないし、災害時に必要な機材を運ぶにも使われ、応用範囲は広い。特に山岳、離島の多い日本では、運送用ドローンの活用用途は広く、ハイブリット、レシプロにとらわれずに政府で大きな予算を出して開発して欲しい。




現在のヤマハの農業用の無人ヘリの価格は1300万円、三菱との共同開発しているドローンは5000-10000万円と予想されている。自衛隊の安いヘリでも数十億円なので、5000万円とすると一機のヘリの予算で、数十機の無人ドローンを揃えられる。自衛艦からの哨戒も可能であれば、用途は限りなく広い。陸海空で使用が可能で、あらゆる災害でも場所を選べず物資の運搬、あるいは負傷者の輸送が可能となる。



*上記のことをAIで何度も議論した結論です。AIはすごい

電動ドローンはバッテリーの重量効率や、例えば冬の日本海(新潟〜佐渡)の暴風・着氷という過酷な天候の壁があり、長距離・高積載の「空飛ぶタクシー」としての運用は技術・保険料・着陸場所の面から商業的に不可能です。
しかし、中国企業が苦手とする精密機械駆動を持つ「200kgを乗せ、200km運行可能な無人のハイブリッドヘリ」にし、用途を「人が乗らない離島・山間部限定の貨物輸送や緊急医療」に絞れば状況は一変します。地上に人がいないルートを飛ぶことで法律や安全コストが大幅に緩和され、維持費を機体価格の10%程度に抑えた黒字化モデルが成立します。
ここに防衛省を巻き込み、平時は地方の救急・物流、有事は軍事補給として共有する「官民共同モデル」を構築すれば、開発費を国費で賄いつつ、世界の島嶼国へ輸出もできる日本唯一の必勝パターンとなります。さらに自衛隊が最初の百機を一括購入する約束(初期需要)があればメーカーはリスクを負わず量産できる。







 

2026年5月20日水曜日

ヤフーオークションと買取価格

 

コーカサス カザック・カラチョフの絨毯 査定額は2000円


大橋歩さんの原画 掲載されている本込みで2000円


20年以上前からになるのか、ヤフーオークションにハマり、ずいぶんここで買った。落札したのは、100点くらいで、主として日本画、掛け軸、版画(明治、江戸)、北欧陶器、ガラス、プラモデル、原画、弘前もの(手紙、絵葉書など)などであるが、自分で決めた原則がある。一つはオークションでは見もしないで購入するため、実際買うとがっかりすることもあるし、稀に偽物であることもあるので、3万円以上にものはオークションで購入しないことにしている。唯一、シンシナティー美術館に寄贈した香川芳園の大国主の絵は研究対象であり、“京都府画学校出仕”と署名された貴重なものであることから何としても落札しようとし、結果、8万円超えとなった。それ以外の購入品についてはすべた3万円以下のもので、コレクターとしてはケチの部類に入るだろう。青森のような田舎に住んでいると、近くに骨董屋、画廊も少ないので、ネットで買うことが多い。友人のプレゼントもネットオークションで買う。

 

シンシナティー美術館のHさんとNさんは三度も弘前に来てくれた。わざわざ来てくれたのでお土産を渡すことにしているが、あまり高価なものは負担になるので1万円以下、できれば5千円以下のものを探す。最初に来たときは、弘前の版画家、下澤木鉢郎の作品をプレゼントした。確か1万円くらいで購入した。わずかな白黒の色彩で見事に冬の弘前を表現したもので、大変喜ばれた。2回目に来た時は明治時代の版画家、揚州周延の版画がこれもオークションで、1万円前後で出ていたので、コンデションのいいものを落札してプレゼントした。3回目に来た時は、よく行く成田書店で、弘前で数多く出版されている豆本の中でも、版画が多く、弘前の郷土玩具と風景を扱った四冊を購入し、これをあげた。いずれもあまり荷物にならないものを選んだ。もちろん全て額なしで、ファイルに挟んでプレゼントした。

 

娘にも、あまりありがたがっていないと思うが、絵のない暮らしは無味乾燥なので、絵やカラフルな北欧陶器を送ることにしている。フィンランドのイラストレーター、マッティー・ピックヤサムの原画イラストを一枚一万円くらいで神戸のmarkkaというところで大量に売っていたので3枚ほど購入し、あげたが、明るい画風で気に入ってもらった。またスウェーデンの版画家、Mona Johanssonの作品も好きなので、これも1万円前後なので落札して送ったが、これはイメージが暗くて喜ばれない。また北欧のテーブルウエアについては、主としてヤフーオークションとMother Sweedenという会社から購入したものを送っている。

 

以前、ネットで購入した平凡パンチの表紙で有名な大橋歩さんの原画、いくらくらいするかとネット買取業者に写真を添付して送ったところ、買取価格が、その原画が載っている本、「すてきが好き 大橋歩のファッションイラストレーション集」込みで2000円とのことであった。本を2000円で買ったので、原画の値段は0円査定ということであった。この買取価格は、あまりに大橋さんに失礼なので、アパレル会社に務める娘にやった。大事にしてほしい。他に20万円くらいで買った19世紀のアンティーク、コーカサスの絨毯と1940年に作られたイラン、セネのキリム、も5件ほどに査定に出したが、いずれも買取価格は2000円であった。白鶴美術館に関わる中東ラグの第一人者、竹原さんが厳選したものだが、それでも買取価格はこんなものである。本棚にベルント・フリーベリなどの北欧陶器が飾っているが、おそらくオフハウスやセカンドストリートに持って行っても五百円くらいなのだろう。今は素人でも画像検索で、どんなものでも売値はわかるので、買い手のボリュームを考えてこの値段にしているのだろう。リユース商売の鉄則は、いかに安く買い、高く売るに尽きる、さらに言えば早くという要素も含まれる。とりわけ在庫ばかりが増えると、倉庫代なども高くつく。すぐに売れるものが、買取額が高い。先に述べたコーカサス絨毯でも、多分、セカンドストリーで2000円の査定、絨毯専門店で2、3万円、そして売値が20万円くらいになるのだろう。洋服店の祖利益率はだいたい70%くらいで高いが、魚屋、電気屋、コンビニは30%くらいの商売が多い中、リユース店の場合は、中古車業者などと違い、なかなかすぐに売れる商品は少ない。洋服店以上の祖利益率は高いのだろう。おそらく90%は欲しいだろう。ただ高く仕入れれば、売値は上がり、売れないという循環となり、中古家具、中古絨毯、画廊、古着(高級)などの商売も厳しい。またメリカリなどでせいで中古価格が決まってくると、ますます安く買取ができなくなる。おそらく大手のリユース店では、収益より回転を上げて薄く利益を上げ、価値のあるものだけを独自ルートでもっと収益を上げるようなやり方があるのだろう。


畦地梅太郎の小型版画8枚で4000円とイケアのフレーム3500円、一万円以内


 

 



2026年5月15日金曜日

佐藤愛子さんが亡くなった 偲ぶ


 

佐藤弥六の書


小説家の佐藤愛子さんが亡くなった。102歳という。昨年、亡くなった母と同じ年である。娘さんが書いた「憤怒の人 母・佐藤愛子のカケラ」(杉山響子、小学館)をちょうど読んでいる最中で、晩年の生活は、まるっきり母と同じであった。少し転んだだけで骨折、そして手術、ほとんど眠っていて、昼夜の区別がつかない、耳は聞こえない。最後は食事が極端に少なくなり、水分も取れなくなって眠るように亡くなった。老衰とはこうした死なのである。老人ホームの職員が夜中の3時に見回りに来た時にはすでに息絶えていた。母の場合、不思議なことがあった。耳は遠く、認知症も進み、こちらの存在はあまりわからないようであったが、私のブログを姉が画用紙に清書した文は読んでいた。よほど本を読むのが好きだったのだろう。

 

佐藤愛子さんの父親は佐藤紅緑、祖父は佐藤弥六、この父と母のことは代表作の「血脈」で書かれていて、愛子さん自体も自分に流れる津軽の血を意識し、また生まれ育った場所を愛した。「血脈」の執筆にあたり、父、祖父のことを調べたのだろう。父のことはもちろんそばにいて知っていただろうが、父の弘前時代、あるいは祖父の弥六のことはこの小説を通じて知り、自分の中にも熱い津軽の血が流れているのを知ったのだろう。今東光というと、悪名などの河内を舞台にした小説を思い起こすだろう、べらんめいな口調や行動などから河内の人のように思われるかも知れないが、本人は津軽の人と心底信じていた。同様に佐藤紅緑も有名小説家になり、阪神間、東京に住むようになると、都会人の雰囲気を身につけたが、気持ち的には生涯、津軽人としての矜持があった。流石に孫の愛子さんになると津軽を離れて二代、「血脈」を描くまで、そんな血が自分に流れているとは思っていなかったに違いない。

 

佐藤愛子さんの祖父、佐藤弥六は典型的な津軽の奇人で、弘前藩を代表するインテリで、慶應義塾の初期の塾生で、福沢諭吉からの信頼も厚かった。また今日のりんご王国、青森の基礎を作った人物であったが、とにかく変わっていた。いわゆるじょっぱりという性格で、自分に言いたいことを誰であろうといい、行動する。止めても怒る。校長であろうと、市長であろうと関係ない。ところが常に福沢諭吉を尊敬し、白板に福沢に名前を書いて、毎朝、手を合わせていたという。

 

以前、佐藤弥六の最晩年、亡くなった大正12年に書かれた書を手に入れた。今は弘前郷土文学館にあり、内容については文学館の方で解釈し、説明文がある。

全文をここに挙げる。

 

「朝げに夕べは測られぬは寿命なり。移り易くして頼みがたきは人の心なり。神仏は敬すべくして祈願は頼ずべからず。法律は上下相互の約束より成立てるもの。予防の道具と知るべし。無理が通ふれば道理が引っ込む。真素面で此世は渡られず。才智は身を誤るの本なり。才子は才を恃んで怠り且つ驕る。愚者は分を守て勉めて成功す。見よや業成而後才子も才ならず。愚も愚ならず。官爵は人為僥倖の名称のみ。人爵貴からず。天爵尊びて爵然と独立して奪うべからず。冨貴は順番、貴賤は廻り持。不義にして冨貴ならんよりは清廉にして貴賤なれ。凡画人は依頼心ある時は中正を失うものなり。独立自主自ら省みて疾しからず。己が言はんと欲する所を云ひ其為さんと欲する所を為す。以天賦の性を畫さざるべからず。勤倹なれば富み怠慢なれば貧す。人間の幸福は邦に勤労し家に節倹するより生ずるものなり。

                              大正十二年二月  八十二翁弥六書

 

この書幅が何のため、誰に書いたのはわからないが、通常、誰かに与える書にこんに長文を書くことはない。ましてや最晩年、82歳、今でいえば90歳以上の老人がこれほどしっかりした筆使いの書を書くとは見事としか言いようがない。内容的には家訓に近い感じがする。佐藤家への家訓と見ても良さそうな内容です。

 

佐藤愛子さんは祖父の書幅を知らないだろうが、おおよそ彼女の生き方は祖父の家訓に沿っているように思える。安心して天国に行かれよ。祖父、父からは怒られはしないだろう。佐藤家の血を引く後継者として十分に活躍した。

 

 

ご冥福をお祈りします。






2026年5月13日水曜日

津軽のカミサマ

 



今、ネットフリックスで、占い師で有名だった細木数子の一生を描いた作品が放送され、話題になっている。私自身、占いはあまり信じない方だが、それでも人から貴方の今年の運命はこうだから注意しなさいと言われれば、少しは気にする。

 

あれは開業前のことであるが、1994年の年末、家内の母親が津軽地方独特の慣わし、カミサマ(ゴミソ)と呼ばれる占い師のところに行き、開業して成功するか見てもらった。そのお告げでは、5年以内に失敗するからやめた方がいいというものだった。すでに医院もほとんどでき、あとは開業するだけの段階であったので無視した。ただ後になっても嫌な気分は残った。

 

こうした何か迷いごとがあれば、カミサマのところに相談に行くのは、津軽地域ではごく普通である。テレビなどではイタコの口寄せなどが興味本位で語られることは多いが、実際、亡くなった人の言葉を口寄せで聞くというより、何か迷いごとや家族の運勢を占ってもらうことが多い。岩木山山麓の赤倉地域は昔から霊場として有名でだが、普通の家に神棚のようなものがあり、女性の占い師が、相談に乗ることが多い。一番多いのは結婚相手、就職、病気などで、占い料も結構安くて確か3千円くらいである。信じる人はたとえ、私のように高額な費用を払った事業でも辞める人がいるようで、わけがわからない。もちろん、占いなので、文句は言えない。私の場合はその後、30年間、開業していたが、特に問題はなく、占いは100%外れた。逆に言えば、よく本物の神様でもないのにカミサマと称して、人の運命を平気に語れるなと、その厚顔さに呆れる。

 

ただ大阪人としては、この占い師は頭が悪いと思ってしまう。なぜなら占いで悪い結果を喋り、3千円の鑑定料をとるくらいなら、それを解決する方法を伝授しないと金にはならない。たとえば、今年開業するのはかなり危険であるが、この仏様を毎日、祈祷すれば、難を逃れるとし、その仏像を十万円で売ればいい。人の運命を言い切るくらいの勇気があるのであれば、その厚かましさのまま、解決法も伝授すべきであろう。

 

よくあるのは結婚相談で、母親が娘の結婚を相談にきて、やめた方がいいというお告げをもらったとする。これを娘に言えば、当然母と娘の間に軋轢が生まれる。外れても娘は親を恨むだろうし、当たれば親はそれ見た事かと思うだけである。いずれもいいことはない。宗教ではその解決法を提示するが、津軽のカミサマは言いっぱなしであり、それもオブラートに包んだ表現が苦手な津軽人はひどいことをいう。

 

うちの両親は、神戸の宗教団体に入り、何かさまざまな悩みを教祖に相談していたが、大抵は何らかの解決法、教祖が家にきて、祈祷するなどをしていた。つまり占いとその解決がパックとなっていた。この宗教団体には多くの地元企業のオーナーが相談に来て、成功した場合は、多大の寄付をしていた。中には今では超有名な企業の会長が、企業の方針を決定するためのよく相談に来ていた。2つの方針があったとしよう、熟考に熟考を重ねても決断をできない案件に関して、最後をこの教祖に決めてもらうということで、コイントスで決めるよりはましと考えたのだろう。気持ちに踏ん切りをつける上でも、こうした霊感を持つ教祖が必要だったのだろう。大本教の出口王仁三郎に可愛がられた教祖であった。個人的は今でも尊敬している。

 

寺山修司の描くおどろおどろしい世界は今でも津軽では残っており、日常生活の中にカミサマのような存在が時折、顔を出すところである。そしてあそこのカミサマはよく当たるとして、何度も訪れる人も多い。近くのロピアでも、レジ前に電気治療器?の案内をする会場があったが、連日、満員御礼状態が続き、ロングランとなり、今は五階にさらに大きな会場を作っている。ここもいつ見ても満員である。また健康食品の催眠商法も弘前では人気があり、会場前は自転車でいっぱい、中を覗くとたくさんの老人がいる。聞いた話では他県に追っかけに行く老人もいるようだ。