最近は、本当に他人の家で食事をすることはなくなった。親戚や兄弟の家で食事することも少なくなった。流石に子供の家に行けば、そこで食事をすることもあるが、それでも外食することが多くなった。
子供の頃、休みごとに徳島の母親の実家に行くと、二週間ほど実家あるいは周囲の親戚の家でご馳走になった。また小学校の頃は日曜日の昼頃に友達の家に行くと、一緒に昼食食べないかと友人の親から言われて食べたり、出前をとってくれることもあった。母親と親しい近所の家にもよく昼食をご馳走されることも多かった。よその家で食べるというのは普通であった。
中高校になると、友人は遠方に住んでいたこともあり、あまり他人に家に行くこともなかった。ただ高校2年生の夏休みに沖永良部島の行ったおり、そこで知り合った現地の女の子の家に招待されて、そうめんを食った記憶がある。その後、大学生になると、母の知人の知人という人が仙台にいて、いつも夕食をご馳走になった。ほぼ1ヶ月おきくらいに家に遊びに行き、2年くらい世話になった記憶がある。もちろん友人のアパートに行って、そこで皆で料理を作ることは多かった。卒業しても、教授の家でご馳走になったり、親戚の家に一人で遊びに行ったり、仙台で世話になった人が高松に転勤になったので、泊めてもらったりした。あとは結婚して家内の実家に2年くらいいて、家内の姉や母と一緒に食事した。あと、他人の家で食事したことは忘れたが他にもあったと思う。
家を建ててからとなると、ほとんど他人の家のお呼ばれしたとなると、知人の家の新築祝いや何かのパーティーで数度あるくらいで、ここ10年くらいで言えば、福岡の姉の家、東京の娘、横浜の娘に行って食事したくらい、さらに直近の2年くらいで言えば、ほぼ外食となる。逆に人を呼んで、我が家で食事したと言えば、久留米から来た先生、アメリカから来た友人、家内の友達、もちろん両親、娘、娘の友達、くらいのもので、全部でも20名くらいであろう。
人の家に呼ばれ、さらに食事までするのはかなり緊張するし、行けばこちらに招待しないといけないし、料理を考える、掃除もしないといけない、面倒だと思ってしまう。さらに気心の知れた人でも、好みのものはわからないし、部屋の中のアラを見つけて、後で周りの人の言いふれ回されることもあるかも知れない。私生活を見せるのは恥ずかしい。こうなるとわざわざ人を家に招くよりはどこかのレストランで会食した方がいいとなる。
アメリカの友人に聞くと、アメリカではホームパーティを開くのは今でもごく普通で、各自はそれぞれ料理を持ち寄って、食べるという。その方が外食するより圧倒的に安く済むというのが理由である。一方、日本ではここ数年、家に人を招いて食事したことはないという家が50-70%くらいいると言われ、よそでの食事は嫌だという子供もいる。外食はいいのだが、よそで作られた料理はたとえ祖母のものでの嫌だという。
娘や甥、姪に聞いても若い世代は、友人に家に行くこともあまりないし、ましてやそこの家族や知人の家で手料理を振る舞われるというとことはないという。せいぜい、皆でビールや酒、つまみ、ピザなどを買って友人の家で食べるくらいだという。店のものはいいのだが、人の作ったものは食べられないという。昔なら、友達同士で材料を買って、作った方が安上がりということで、こうしたパーティーは頻繁にしたし、近くのスーパではこれから皆で食事をしようというベトナムからの研修生の姿も見かける。
他人の飯を食うという言葉があるが、いろんな家庭があるということを知るためにも、是非とも若い人は先輩、親類にお呼ばれされたなら平気な顔をして食べに行ったらいい。人間というのは不思議なもので、自分の家の日常がつい世間の常識と思うようだ。ある友人が付き合っている相手の家に食事に行くと、そこの娘、と言っても30歳過ぎの妹がお父さんの膝に座っているという。かなり不気味な光景であるが、この家の常識では、仲の良い愛情表現なのだろう。こうした違和感はどこの家でもあるのが普通である。また食事も変わった料理、味付け、食事ルールが存在する。神に食前の祈りをするところもあろう。こうしたことも含めていろんな家のルールを知るようになると、家によって常識は全く異なり、その中で人間が生活しているということがわかる。許容性の低い人はこうした経験が少ないのかもしれない。






