2026年4月9日木曜日

タクシーでの会話

 


車を持っていないので日頃タクシーを使うことが多い。その際、運転手と無言でいるのは、何となく気詰まりなので会話をする。昨日のNHKBSではニューヨークのケネディー空港からタクシーで自宅に帰る乗客と運転手のやりとりだけの映画、「ドライブ イン マンハッタン」を放送していた。おしゃれで自立したニューヨーカーの女性と運転手の会話は、ごくありふれた内容から始まり、そして自宅に近づきにつれ、彼女にとって人生の決断を迫るナイーブな話題になっていく。年配の愛人とスマホで際どい会話をしながら、女性と運転者の会話が続く。これだけの内容で2時間近い映画を作るのはすごい。

 

30年前だが、大阪、伊丹空港から実家の尼崎に向かうタクシーで、運転者との会話が弾んだ。もう都会での生活に疲れ、老後はどこかに転住したい。そして最近はタクシーに乗りながら、どこかいいところがないか、ずっと考えているという。運転手は私より年配で60歳は超えていただろう。当時、私は鹿児島大学に勤務していたが、その前年まで宮崎医科大学に勤務していた。宮崎医科大学は宮崎市の近郊の清武町というところにあり、ここは物価も安く、また一戸建ての80坪くらいの家が新築で、2000万円台、中古では1000万円代で買えたため、この地でリタイヤ生活をする人も多かった。そうした話をしていると、運転者は実は前から宮崎の清武には興味があって調べていたんですという。そこで冬は暖かかいし、鹿児島に比べて火山灰がない、宮崎市内まで車で、20分くらいで行けるなどとしゃべっていると、実家の近くまで来てしまった。運転手は会話に夢中で通り過ぎそうになった。実家に到着すると、運転者はわざわざ降りて、本当に勉強になったと随分、感謝された。ひょっとすると、この運転手は今、宮崎、清武に住んでいるかもしれない。

 

東京、新宿、紀伊国屋書店前で、タクシーを拾おうとするも何故か断られる。ようやくタクシーを拾え、目黒の椿山荘まで行った。後ろの席で家内とのしゃべっていると、運転手からお客さんは関西の方ですかと聞かれた。はい、兵庫県の尼崎ですというと、運転手も私も尼崎出身ですという。尼(アマ)のどこですがというと、尾浜西口近くという。中高の6年間、私は家の近くのバス停から阪急塚口駅に通ったが、尾浜西口は途中のバス停で、馴染みがあった。尼崎のことをあれこれ話していると、懐かしいのか、タクシー運転手になった理由や、東京では700万円以上の収入があり、同僚の中でも一番多い、そのコツは、などしゃべった。東京のタクシー運転手はあまり話さないと思っていたので、こちらも楽しく、あっという間にホテルに到着した。降りるときには、運転者から今日はいい話ができて嬉しいですと喜んでくれた。

 

鹿児島に母親が遊びに来た。タクシーに乗って市内を案内することにした。後ろの席で、母親と話していると、運転手が「あのう 失礼ですか、お客さんは徳島の方ですか」と突然、言われた。母は徳島県脇町の出身だが、徳島を離れ、尼崎に住んで、すでに50年経っていた。少し徳島訛りが残っていたのだろう。運転手によれば、鹿児島に来て20年経つが、徳島の方と会うのは初めてなので、話しかけたと言う。話しているうちにタクシーの運転手は母の実家近くの出であることがわかり、ずっと懐かしそうに話し合っていた。地元にいるとその土地の方言には無頓着になるが、地元を離れて、故郷の方言を聞くことは少なくなると、聴覚が高まり、ちょっとしたアクセントの違いでバレるようだ。私も最近になり、津軽弁のわずかなアクセントの違いがわかるようになったし、鹿児島生まれも、関西弁でも大阪、神戸、京都の違いも判別できる。タクシーの密室で、こうした故郷の言葉の断片を聞くと、運転手も懐かしいと思うのだろう。

 

タクシーの運転手は毎日、毎日、多くのお客さんと密室で接する職業だが、映画のようにお互いもう二度と出会わない関係なので、中にはかなり深刻な、奇妙な会話もあるのかもしれない。タクシー運転手から作家になった梁石日さんもいる。


2026年4月8日水曜日

自転車の交通違反に青点制度

家の近くの歩道、法律上は自転車は右の車道



 

最近できた弘前中央駅近くの歩道、自転車も走れる
上土手の歩道、中土手、下土手も1車線にして自転車も通れるようにしたら





今年の4月から、自転車の交通違反に青点制度が導入されることになり、従来の

注意から罰金というペナルティーを課すようになった。その理由として自転車の事故が減っていないというらしいが、車を所有せず、歩きか自転車の私にとっては異議を申したい。

 

もちろん、信号無視、スマホを見ながらの運転などについては、どしどし取り締まってほしいが、これだけは問題と思われるのは、車道通行である。自転車による歩道通行については、多くの議論がなされ、実際に罰金とされるのは、進行区分違反(歩道通行)6000円と歩道徐行等義務違反の3000円となる。安全確保のためにやむを得ない場合を除き基本的には車道を走れということである。

 

自転車に乗っている人は、すべて感じていると思うが、狭い道で車道を通行することは本当に怖く、特に大型車両、トラックやバスが横を通りすぎると恐怖を感じる。車道の左には白線が引かれ、その内側を自転車が走るということになるが、狭いところでは20cmくらいしかなく、側溝蓋などがある場合もある。一度、その蓋に自転車のタイヤが挟まり死にそうになったこともある。また駐車していて、そこを迂回することあるが、右車線を走る車と接触しそうになることもある。警察は、後ろを確認して迂回しろと指示するが、自転車走行中に後ろを振り返り、車を確認することはかなり難しい。バックミラーをつけろという人もいるが、これも見にくい。

 

自転車事故が増えたと言っても、自転車同士の事故はほとんどなく、自転車と人、対人事故は自転車事故の25%くらい、年間で300件くらいの死亡、重傷事故が発生している。残りの80%は自転車と車の事故であり、欧米では自転車専用道の整備により自転車事故は減少している。また日本でも自転車専門道を整備したモデル地区では事故が30-40%減少したとしている。

 

法の整備も大事であるが、それと並行して自転車道に整備が必要であろう。さらに弘前で言えば、歩道の幅が広くて3m以上のところもある。その半分くらいのところに点字ブロックがあるが、その右側、車道よりは走っていいのだろうか。違反にならないのであろうか。

 

これについてAIで調べてみた。「3m幅の歩道があり、真ん中に点字ブロックがある。車道よりの1.mの部分は、自転車が走行しても違反にならないの」と尋ねると、回答は「結論から言うと、その状況で自転車が歩道を走行することは、原則として結論から言うと、その状況で自転車が歩道を走行することは、原則として違反(交通法規則違反)になります。理由は以下の通りです。自転車は「軽車両」: 道路交通法上、自転車は車道の左側を走るのが原則です。歩道の区分: 歩道の幅が3mあり、点字ブロックで仕切られていても、そこが法令上の「普通自転車解歩道通行可」の指定(標識や表示)がない限り、自転車で走行することはできません。」となる。

 

車道の白線内が30cmで、歩道の点字ブロック車道側が150cmあっても車道を走らなければ違反となる。さらに歩道には車は止まっていないが、車道には車が止まっており、迂回する必要がある。雪国では冬季の雪捨て場所として歩道をかなり広くする。ところによっては5mを超える歩道があるが、誰も歩いていない。その歩道を自転車が通れずに、車が多い、車道を走らせること、特に高齢者の自転車走行は事故を増やすと奨励しているようなものである。

 

最近では、弘前でも自転車解歩道通行可標識がある歩道を見かけるがわかりにくい。幅が3m以上ある歩道であれば、田舎ではほとんど通行人がいないことから、点字ブラックを道に真ん中に設置し、車道側の部分を黄色などで着色し、普通自転車解歩道通行可能の標識をたて、「自転車道、徐行」と書けばいいだろう。冬場の雪の積もった歩道を走る自転車はいない。車にとっても車道を走る高齢者の自転車ほど怖いものはない。東京の竹下通りの歩道を走る自転車と田舎の5mもあるほとんど通行人のいない歩道では、環境は全く違う。一律に法令を厳しくして罰金刑にしても自転車事故は減らない。むしろ、標識を立て、ペンキで歩道の半分を塗った方が効果的に思えるのだが。

 



 

2026年4月5日日曜日

鈴木雅 フェリス or 共立 論争


朝ドラ「風、薫る」が始まり、その関連本もたくさん出てきた。ところが二人の主人公のうち、大家直美のモデルとされる鈴木雅ついては、どこで英語を習得したかは意見が分かれる。ドラマの原案とされる「明治のナイチンゲール 大関和物語」(田中ひかる)ではフェリス卒業とし、「大関和と鈴木雅の人生」(MSムック)、「戦う白衣の天使 大関和・鈴木雅ものがたり」(櫻庭由紀子)、「大関和がわかる」(月刊Newsがわかる編集部)、「大関和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール」(青山誠)、「風、薫る ご案内ブック」(TVガイドMOOK)、「大関和 明治のナイチンゲール」(別冊太陽 日本の心)も鈴木雅はフェリスを卒業としている。一方、「もうひとりのナイチンゲール 鈴木雅の生涯」(伊多波碧)、「風、薫る Part1(NHKドラマ・ガイド)、「月刊 エキスパートナース20264月号」(その看護。誰がはじめた?「風、薫る」のモチーフはこんな人 明治のナース・大関和と鈴木雅)では共立女学校修了としている。NHKでは、天理大学、鈴木紀子教授はじめ日本看護歴史学会がチームを組んで時代考証を担当しており、ここでは鈴木雅は共立女学校修了としている。

 

原案の田中ひかるさんは鈴木雅の子孫からフェリスを卒業したという証言を得たようで、また高橋政子、「日本近代看護の夜明け」は鈴木雅の孫から証言を聞き(原著は読んでいない)、採択した。さらに鈴木雅が生存中に出版された「女子の職業 新撰百種」(福良虎雄、明治30年)でも、根拠は示していないが、横浜フェリス女学校の卒業生だとしている。

 

一方、篠田絋造は「明治百話」(昭和6年)の中で、大関和の話として鈴木雅は横浜二百十二番館の女学校(共立女学校)を卒業したとしている。また昭和8年の横浜共立学園60年史の中で、一期生の小島(北川)清子さんが「思い出を語る」という文の中で、明治5年に入学した生徒の中に加藤おまさ(後東京帝大の看護婦長になった)がいたと書いている。

 

まとめると、1。子孫から聞いた話として、鈴木雅はフェリスを卒業した、2。友人(大関和)、同窓生(北川清子)の話では共立ということになる。ただいずれも当時、卒業という制度がまだなかったので、卒業したというのは間違いで、修了といった方が良い。

 

この場合、最も確実な一次資料は、学校での在籍記録、卒業証書、本人の文章、写真などであるが、鈴木雅の場合、これは残っていない。次に信憑性の高い資料は、同時代の知人、友人の証言であり、これは大関、北川が該当する。特に大関の証言は生存中のもので信憑性は高いし、また北川清子の話も、個人的には信頼性は高いと思う。なぜなら北川が同窓生として挙げた「菱川お安さん、この人は後医者となった。―――お角さん(後医者になった)」の記述は、ここ5年くらいの研究で初めて解明された事実であり、他の同窓生についても正確である。一方、子孫の証言はファミリーメモリーと言われ、記憶の欠落や誇張が見られことがある。英語教育ではフェリスの方が有名なこと、昔は共立女学校のことを横浜二百十二番館の女学校と称し、横浜百七十八番館のフェリスと近くで間違えられたことなどが理由として挙げられる。横浜二百十二番館の女学校と言われれば、普通、フェリスだと思ってしまう。いずれにしても、現状では、鈴木雅がフェリスにいたという根拠は子孫のファミリーメモリー以外にはない。今後の新たな根拠が出現するのを期待したい。歴史は新たな資料により簡単に変更され、朝ドラでも鈴木雅の設定を全く変更したのは、情報が錯綜する状況では卓見であった。

 

一方、横浜共立学園150年史では「鈴木雅1857年生まれ。1872年ごろ入学、1876年バラよる受洗、1881年(明治14)年ごろ修了か。」となっているが、明治15年頃から卒業制度ができ、卒業者に名前がないので、その前に修了としたのだろうか。夫の鈴木良光が亡くなったのは1883年、二人の子供がいたことから、さすがに1881年まで学校にいたとは思えず、これは間違いだと思う。1881年以前に学校を辞めて結婚したのだろう。鈴木雅の周辺の人、例えば大山捨松23歳、大関和19歳、岡見京25歳、井深梶之助の妻、せき21歳、若松賎子25歳と、高等教育を受けた女性は当時の女性に比べてやや結婚年齢が遅く、おそらく鈴木雅も20-22歳くらいで結婚したと考えると、1877から1879年頃には学校を辞めていると推測できる。


 

菱川やす、岡見京がアメリカに留学したのが26歳、1885年、須藤かくが留学したのが30歳、1893年の時であった。鈴木雅も二人の子供残して33歳でアメリカに留学しようと決意した(1891年頃)。背景としてこうした同窓生に触発されたと思いたい。現在でも、二人の幼い子供がいるシングルマザーが33歳でアメリカに留学に行くのはよほど勇気がいる。

*国立国会図書館デジタルコレクションで、”鈴木まさ”で検索をかけると4000くらいヒットし、その中で該当する人物を探したが、1976年までほとんど引っかからない。看護史研究で著名な高橋政子先生が1976年頃に明治期の看護婦として”鈴木まさ”を取り上げ、その際に、フェリス卒業との記載したため、その後の論文、本で孫引きされていったのか。
 

2026年4月3日金曜日

キリスト教系の学校を卒業して

 

ザビエル大学(シンシナティ)

私が通っていたのは、兵庫県神戸市の六甲学院という学校である。創立は1937年だから、来年でちょうど百周年となる。イエズス会が母体となる学校で、大学は上智大学、他には横浜の栄光学院、広島の広島学院、そして福岡の上智福岡中高校がある。

 

イエズス会は、スペインのイグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルにより作られた修道会で、教育には熱心で世界中に同系統の学校がある。私がいたのは1968-1974年の6年間で、生徒数は一学年160名、四クラスであった。数学、英語、国語、理科の4教科の先生はクラス担任として6年間一緒であった。

 

学校には10名近い外国人神父と同じく10名くらいの日本人神父がいて、学校横の修道院に住んでいた。校長はドイツ人、他にはスペイン人、アメリカ人の神父がいた。皆、イエズス会の襟なし白シャツに黒の上下のスーツのようなものを着ていた。宗教の時間が週に一回あったが、それほど宗教色はなく、放課後に信者を中心に公教要理というものがあったが、一度も行ったことはない。生徒の締め付けはキツく、学生服のカラーは上まで留める、電車では座らない、学校に持ってくる金は500円、髪は坊主頭、映画館に行く時は親と一緒など、細かい校則のようなものがあった。私が入学する少し前まで、学生鞄もなく、黒い風呂敷に教科書を入れて持ち運んだ。学校に行くと、制服は汚れるからと、自分の席で白い体操着に着替え、制服は椅子のところにかける。宿題を忘れると、自分の机の横に正させられる。学校の正門の前に校長がいて、髪の毛が長いと帰宅させ、切らせるか、学校で切る。水泳は全員が泳げるようになるまで校長自ら教え、京都の久美浜に臨海学舎、また登山のために立山に山小屋を、また瞑想のために学校横に一万坪の庭園を作った。

 

一般的なイメージからすれば、キリスト教系の学校といえば、おしゃれなイメージであるが、六甲学院の場合、戦前の学校のイメージが根強く残っていた。極め付けは便所掃除で、冬でも短パン一丁でタワシと雑巾だけで便所を掃除するし、教室の掃除は掃き掃除だけでなく、毎日、雑巾で拭き掃除もする。

 

ただ山の上の学校で6年間160名の生徒がいると、隔離された場所となり、多感は中学生、高校生はすぐに染まり、最初はキリスト教の信者は数名であったのが、卒業時には数十名になった。生徒同士も仲が良く、昨年行った卒業50周年の同窓会ではネット参加も入れると100名近くなった。亡くなった同級生を除くと150名での参加数としては多い。私自身、キリスト教のやや偽善的な雰囲気が嫌いなこと、学校の規則の多さにうんざりしたことなどから、卒業して20年くらいは全く同窓会にも興味がなかったし、数人の友人を除いて付き合うこともなかったが、この歳になると何よりクラスメートで会うのが楽しい。弘前に来てからも別の用事で教会に行くことがあるが、昔を思い出し、いいなあと思う。亡くなった同窓生のために、同級生の神父がミサをしてくれるのもうれしい。二年ほど前も上智大学の教会でミサがあり、参加した折には、教会の地下にある秘密のカタコンベのような墓地に案内してもらった。同窓生で、在校時の先生のネームプレートを探した。東京、四谷とは思えない不思議な雰囲気であった。

 

キリスト教系の学校で教育されると何か影響を受けるかと聞かれると、特に何もないとしか答えようがないが、それでも同級生を見ていると、皆のために、正しいことをしようという精神はあるようだ。昔、同級生がなくなり、その子供が六甲学院の生徒だった時は、皆で金を集めて奨学金にしようという動きもすぐに出た。会社を辞めてリタイア生活後も地域のボランティア活動をしている連中も多い。先日も、日本のサッカー界の重鎮、賀川浩さんが亡くなったが、親戚がいないため、その葬式一切を賀川さんの知人でサッカー部の後輩が行った。大掛かりな式で費用もかかったため、同級生が寄付を募ったところすぐに目標額に達した。何かを頼まれると、金にならなくても、正しいことであれば、協力するという気持ちは、キリスト教系の学校でも教育のおかげかもしれない。政治家、経営者が汚職収賄恐喝事件で逮捕された卒業生はあまり聞かない。昨年、アメリカのシンシナティーからお客さんが来た。シンシナティにはゼビア大学があり、1831年創立の高校もある。この知人の旦那さんがこの高校の出身で、なんとなく考え、雰囲気が似ていると言われた。教育法が近いのかもしれない。

 



2026年4月1日水曜日

風、薫る 考察

 


NHKの連続テレビドラマ「風、薫る」が始まった。どのような展開になるかはっきりしないが、現時点で気になる点を挙げる。

 

1.主要なキャストについて、そのモデルになった人物の生年月日

 

大関和(1858-1932、安政5年生まれ)と鈴木雅(1858-1940,安政4年生まれ)で同年齢である。そして鈴木雅が育つ教会の牧師、吉江善作のモデル、植村正久は1858(安政4)生まれで、これも大関、鈴木とほぼ同じ年齢となる。さらに大山捨松は1860年(安政7年)生まれで、大関、鈴木より2歳若い。ちなみに大山捨松は明治四年に11歳でアメリカに留学した。一緒に渡米した吉益亮子(1857年、安政4年生まれ)と上田悌子(1857年、安政年生まれ)は留学途中で帰国し、その後、横浜にできた日本婦女英学校(横浜共立女学校)に入学し、鈴木雅とは同級生であった。また教会で英語を教えるメアリーのモデルはマリア・ツルーで、1840年生まれ、大関、鈴木より18歳も年上となる。清水卯三郎は本名のままであるが1829年生まれ、外科医の今井益男のモデルは佐藤三吉(1857年生まれ)、入院患者、丸山忠蔵は新宿中村屋の創設者、中村愛蔵(1870年生まれ)となる。朝ドラでの歴史史上、「あさが来た」の主人公、廣岡浅子(1849年生まれ)に次ぐ古い時代を舞台にしたドラマであり、主人公は江戸時代の人である。つまり大関和、鈴木雅、植村正久、佐藤三吉、は同年齢、大山捨松は2歳年下、中村愛三に至っては12歳年下となる。

 

2.大関和は家老の娘というが

大関和の父親、弾右衛門は家老も務めた黒羽藩の重臣とされているが、それでも家禄は200石くらいである。一方、鈴木雅の父親、加藤信盛は幕臣で、鳥羽伏見の戦いから箱館戦争まで参戦している。黒羽藩は禄高18000石程度の小藩であり、戊辰戦争の出兵数は417名、その半分が農兵であるのことから、家臣は200名程度であろう。一方、幕臣は2万人程度、旗本だけでも5千人ほどおり、200石の家禄は幕臣では多い方ではない。そのため大関和は家老の娘ということで注目されがちであるが、実態においては鈴木雅の家格、家禄とそれほど違わないように思える。番組の主人公の一人は史実通り、もう片方は孤児という設定は、番組構成としては面白いが、鈴木雅の子孫からクレームが来ないのだろうか。

 

3.明治の孤児事情

江戸時代、両親が亡くなって孤児になった子供は基本的には親類に、あるいは稀であるが、寺に引き取られた。明治になると、キリスト教宣教師による孤児救済活動が行われるようになり、菊池章太「カトリック修道女会による明治期の孤児救済活動家」に詳しい。それによると、横浜でカトリックの幼きイエス会修道女が孤児養育を始めたのは明治5年である。鈴木雅が生まれたのは1858年で、教会で孤児養育が始まったのは1872年で14歳の時となる。ドラマ「風、薫る」では鈴木雅をモデルにした大家直美は生後間も無く親に捨てられ、教会で育ったという設定だが、14歳までどうしていたかの説明は難しい。番組では大家直美の生まれを実際より5歳ほど遅くして、看護婦養成所(1886)には23歳くらいの入学にしている。そうすると、可能性としては、教会ではないが、1863年にできたヘボン塾の家の前に捨てられた設定ができる。ヘボン婦人、クララは孤児を支援、教育したという事実はある。

 

4.鈴木雅との関係者

鈴木雅が在籍した当時の共立女学校の同窓生には、先に述べたアメリカ留学途中で帰国した吉益亮子と上田悌子がいる。同年齢で友達だった可能性もある。この二人は一緒に渡米した大山捨松とはもちろん面識はある。また福沢諭吉の娘や井上馨の娘とは同級生、のちに井上の妻、武子は大山捨松らと共に看護婦教育所の設立に尽力している。また同級生の桜井ちかは桜井女学校を設立し、この学校は大関、雅が入学した附属看護婦養成所を作る。また当時、桜井女学校の実質的な校長であったツルーは雅の共立女学校の時の恩師であった(外国人は校長になれず、矢嶋揖子が校長)。菱川安はシカゴ女子医科大学、岡見京はペンシルベニア女子医科大学、須藤かくと阿部はなはシンシナティー女子医科大学に留学し、女医になった。また水上せきは明治学院の総理となった井深梶之助と結婚したし、植村正久と横浜共立女学校の関係も深い。鈴木雅を取り巻く人物は、のちの雅の生涯に影響を与え、関係していったかもしれない。ある意味、鈴木雅の方が大関和より看護教育に関係する人物との接点は多かったし、看護協会や日本婦人衛生会などの組織化するに当たっても、共立女学校および父親の幕臣時代の有力者に頼りやすかった。

 

5.鈴木雅の英語

看護婦養成所に入学した時には、すでに外国人教師の通訳、英語で書かれた教科書の翻訳ができるほど英語レベルに達していた。3で述べたように教会で孤児養育が始まったのは明治5年以降、外国人宣教師たちの主たる活動は日本での宣教活動で、孤児の教育をメインにしていない。そうした環境で孤児たちが高い英語能力を身につけるのはかなり難しい。もちろん簡単な挨拶や会話などはできるとは思うが、通訳をして、本を翻訳するためには正規の教育を受けないと難しい。一つの方法としては、キリスト教系の学校に校費生として入ることである。将来的に宣教師になる前提で、海外、主としてアメリカの篤志家の支援を得て、教育を受ける。これについては前にブログで述べたが、可能性はある。それ以外の方法としては、いい家庭に養子に行き、そこから学校に通うという方法である。実際の人物としては、若松賎子(松川甲子)が近い。甲子は会津藩藩士の娘だが、1歳の時に父親が隠密として出たきり、亡くなり、また6歳の時に母親も亡くなり、親戚の養子となった。その後、養母の勧めでギターの英語塾に入塾し、幼児の頃から英語を学び、当時の女性として抜群の英語力を有していた。ただ番組ではすでに大家直美はマッチ工場で働き、生活して、英語でタメ口を話すというシーンがあったので、どちらでもなさそうだ。

 

番組の設定に沿うと、主人公の大家直美は、1863年(文久3年)の10月から12月生まれで、生後すぐにできたばかりの横浜のヘボン塾の前に捨てられ、最初はヘボン婦人、クララ・ヘボンにその後は、1870年からはメアリー・ギターのもと、フェリスセミナリー、あるいは1871年からメアリー・ブライアンのアメリカン・ミッション・ホームに預けられ、英語教育を受け、1879年からは植村正久の日本基督一致教会あるいは富士見町教会(1887年に設立だが、少し変更して)で育てられ、1886年に看護婦養成所に入学ということか。


2026年3月22日日曜日

もうひとりのナイチンゲール 鈴木雅の生涯

 


今春から始まるNHKの連続ドラマ,「風、薫る」に関連する本が出版されてきた。鈴木雅については資料が少ないため、大関和に比べてどの本も記述は少ない。ドラマの原案となった「明治のナイチンゲール 大関和物語」(田中ひかる、中央公論新社)でも、最近刊行された「戦う白衣の天使 大関和・鈴木雅ものがたり」(櫻庭由紀子、内外出版社)も、記述の多くは大関和についてであり、鈴木和については少なく、しかも横浜のフェリス出身という設定になっている。鈴木の最も大きな特徴は看護学校に入学する前に英語が堪能であったことが挙げられ、日本語のできない看護教育のヴィッチ先生の通訳をしていたほどである。英語をABCから初めて1年や2年くらいで、ネーティブの外人の授業の通訳をするほどのレベルにはならないことは、すべての日本人は知っている。ましてや英語が日本に導入され始めた日本において、ネーティブの外国人と同じように話せる女性はわずかであったであろう。英語が堪能であった鈴木雅は日本でも極めて稀な女性であり、その背景をドラマできちんと説明しないとおかしなことになる。

 

その点、先週、刊行された伊多波碧著、「もうひとりのナイチンゲール 鈴木雅の生涯」は、幕臣の父親、静岡藩での英学教育、そしてそれに触発された横浜共立女学校(現:共立学園)の入学、修練をしっかりと記述することで、これまでの本では十分説明できなかった鈴木雅の英語力を示せたと思う。ほとんど資料のない状況で、さすがに多くの著書を手がけた伊多波さんだと思う。常々思うが、本当に小説家は嘘が上手い。わずかな情報からさも本当と思わせるような嘘を紡ぎ出し、そこに読者を連れて行く。見事である。

 

NHKの朝の連続ドラマ「風、薫る」についても、ようやくその内容がわかってきた。鈴木雅をモデルにした大家直美という人物が登場する。母親に捨てられ物心がついた時から牧師に育てられ、その環境の中で外国人宣教師の妻から英語を習うという設定である。もうひとりの主人公、大関和をモデルにした一ノ瀬りんは家老格の名家の娘という設定で、大関和の史実と同じであるが、鈴木雅については履歴がはっきりしないことから、ドラマ構成上、大幅に設定が変えられている。家老の娘と孤児という対比はドラマとしては面白い。そして大家を育てる牧師としては植村正久をモデルにした吉江善作という人物が登場する。それでは、明治初期にこうした孤児が教会で育てられ、そこで英語を学ぶようなことはあったのだろうか。実際の鈴木雅(加藤雅)が横浜共立女学校に入学するのは明治五年であるので、当時、日本人が主催する教会はないが、元々、横浜共立女学校(アメリカカン・ミッションホーム)は、混血児の保護と教育を主眼としており、中には日本人孤児がいてもおかしくはなかった。確かに一期生を見てみると学費も高かったことから殿様の娘のような裕福な家庭の子供が多かったが、それでも明治12年頃には貧農の生まれ?の阿部はなが共立女学校に入学し、その学費、寄宿代費は、アメリカの支援者の寄付によって支えられていた。阿部はな自身は孤児ではないと思うが、フィリップという支援者から1881年には102ドル、1886年には58ドルに寄付があり、これは6年分の学費と寄宿代費に相当する。教会自体の運営は米国などにある本部によるもので、牧師個人で孤児を引き取り、教育させることは実際できないが、それでも支援者がいて、その人が資金を出すなら、ドラマの大家のようなケースもありえた。ドラマ内容がまだはっきりしないが、日本人の教会にくる宣教師夫人から英語を習ったという設定では、少しくらいの英語はできるようになっても、通訳できるようなレベルになるのは難しい。共立女学校の初期の教育のようにほとんどの教科が英語で授業が行われ、英語詩の暗記が英文添削など英語まみれの寄宿生活を数年以上することが必要となる。のちに青山学院大学の院長になる弘前出身の笹森順造は、青森県立第一中学校、早稲田大学を卒業し、アメリカに留学するが、全く英語が分からず、地元の小学校に入学しようとするが25歳では許してもらえず、聴講生として入学し、召使のような生活をしながら、ようやく2年後にデンバー大学に入学した。日本で17年も英語を教わったのに全く役に立たなかったと述べている。それほど英語の取得は難しい。

 

同じような外国人教師による英語教育を受けたドラマとしては「花子とアン」を思い出すが、そのモデルとなった村岡花子(1893-1968)と鈴木雅(1858-1940)とは35歳も歳が離れており、時代が全く違う。村岡が6歳の明治32年はほぼ男女とも小学校は義務教育であったが、鈴木が6歳の元治元年はそもそも近代小学校制度がなく、寺子屋世代であった。日本最古の女子校、フェリスができたのが明治三年、鈴木が12歳の時である。つまり村岡花子を描いた「花子とアン」は、次の世代、鈴木雅の娘の時代の話なのである。こうした時代背景に破綻がないか、注意深くドラマをみようと思う。

 

 


2026年3月19日木曜日

迫力暗記法



子供の頃から、暗記だけは得意であった。大量のものを短期間で暗記できた。ただ欠点はすぐに忘れることで、よく天才が一旦記憶すると写真のような形で頭に残るというが、そうした類のものではない。大学生の頃だったが、ドイツ語かラテン語の試験で、前夜に500くらいの単語を一気に覚え、答案に書いて、いざ見直そうと思うと、もう忘れており、見直しできず、そのまま試験用紙を提出した記憶がある。

 

中学、高校になっても、世界史、日本史、などの暗記ものは成績が良く、ずっと90点以上の点数であった。それに比べて、思考力を答う数学、物理はからっきし弱く、学力試験や模擬試験でもこの両科目が足を引っ張っていた。大学入試では、生物、化学、物理の3教科から2教科で受験できる学校があったため、物理を捨てることができたが、数学はどこの学校も必須であった。英語、国語(漢文、古文)、化学、生物などは、暗記ものの範疇に入るため、何とかなったが、流石に数学は暗記ものでなく、唯一、数III、微分積分が暗記ものに近かった。そのため、学校の学力試験や模擬試験でも数学の成績が決め手となり、校内の学力試験の数学が25点しか取れず、175名中159番というひどい時もあれば、逆に数学の点数がいい時は22番ということもあった。最後までこうした落差の大きい成績であった。

 

高校を卒業して、最初に大学受験した時も数学が5問中、0.5問しかできず、数学の試験が終わった瞬間、落ちたと思った。その後、神戸の大道学園という予備校の試験にも落ちて、一人、大阪のYMCA予備校を受け、豊中校には入れず、天王寺校に入ったが、ここでも数学はやはり苦手だった。ところが一浪で受けた試験では、本当にたまたまであったが、数IIIが主体で、5問中、4.5問(答えは合っていた一問は半分として)正解という奇跡が起こり、合格した。

 

私の記憶法というのは、ひたすら口でぶつぶつ喋って、何度も、何度もページをめくっていくというもので、自分で迫力暗記法と勝手に命名した。試験直前になると、例えば世界史の場合、1ページ、数秒で次々と、「ハンイバル、カルタゴ、カンナエの戦い、紀元前216年」と喋っていく。友人からはすごいなあと言われていたが、少しイッテいる人と思われていたのだろう。この暗記法は、歯学部に入ってからも活躍し、6年間の授業や国家試験でも苦労したことはない。実際、歯学部に入ると、これは医学部でもそうだが、思考力より暗記力が大事で、授業や試験のほとんどが暗記ものであった。数学のような思考力を問うものはなかった。その最たるものは歯科医師国家試験で、ほぼ100%大量の本を読み、記憶する。たぶん医学部でも、暗記ものより数学や物理の好きな人は入学後、苦労したかもしれない。一般の人には信じられないかもしれないが、解剖学では骨の名称はラテン語の正式名でひたすら暗記していく。膨大な量であるが、全く平気であった。

 

その後、月日は流れ、三年前、66歳の時に新しい矯正歯科専門医制度が発足し、筆記試験を受けることになった。最初の試験であるので、かなり大まかな出題範囲のため、プロフィットという人の書いた“プロフィットの現代矯正学”の新版を買い、何度も読み、矯正歯科の基本知識をおさらいし、さらにこれまでの歯科医師国家試験(歯科矯正)などを解いたりした。ところが若い時にあれだけ得意であった暗記が全くできない。例えばターナー症候群の特徴と咬合を述べよという問題の回答でも、以前は簡単に覚えられたのだが、66歳になると全く覚えられない。半年くらい、診療の合間に勉強したが、一週間も勉強の間があくと、前に覚えていたことをすっかり忘れている。笑っちゃうくらいの記憶力の低下である。

 

最終的には自分で問題を作り、それを回答するとやり方で何とか、覚えることができ、専門医試験でもまあまあの成績は取れたと思う。試験終了後、皆で答え合わせをするのだが、五人の先生で、“三番目の問題の回答はAだったよなあ”というと、三人に先生がそうだと答えるが、一人の先生は間違ったと落ち込んでいた。この光景は高校、大学でよく見たものである。この五人の先生はいずれも日本を代表する60歳以上のベテランの矯正歯科の先生で、その光景は面白かった。60歳を過ぎての暗記もの試験は相当厳しい。たぶん大学の教授でも受験勉強しないと難しいのでは。

 

今ではさらに記憶力が低下し、まず人の名前が覚えられないを越して、忘れていく。たぶん忘れてもAIで検索すれば簡単に検索できるという安心感も影響している。イーロンマスクはAIの進歩で医者は必要なくなると言っているが、実際、医学部の授業のほとんどが暗記ものであること、人間の暗記の限界と年齢による衰えを考慮すると、診断、治療法の多くはAIに置き変わる未来が予想される。ただマスクがいうように外科あるいは歯科治療などの手技をロボットが置き換わるようになるには、まだまだの時間が必要だろう。