2024年5月25日土曜日

歯科矯正相談料 新設

 



今年の6月かの診療報酬改定で、矯正歯科相談料という項目が新設された。これは学校歯科検診で不正咬合を指摘され、顎変形症が疑われる子供が歯科医院を受診した場合、取れる点数である。420点に初診料267点が加算されるので計687点(6870円)なので、これは高い点数である。私のところの矯正相談料が自費で3300円なので、よほど良い。さらにパントモやセファログラムも加算されるので、間違いかもしれないが、これにパントモの340点とセファロの300点、計1327点(13270円)となる。

 

もちろん矯正治療そのものは、顎変形症やその他の先天疾患を伴う症例以外は保険適用のない自費診療である。そのため、患者に提供する文書には診断結果は記載しないといけないが、治療法について必ずしも記載する必要はない。例えば、反対咬合患者であれば、上あごに比べて下あごが大きく、将来的に外科矯正の適用になるかもしれない程度の記載でいいことになる。具体的な治療法、下顎を何ミリ下げる手術をする、高校1年生頃に上顎の小臼歯と下顎の第三大臼歯を抜歯して、一年半から二年の術前矯正をしてから、弘前大学医学部病院などで手術するといった細いスケジュールをあげる必要はないだろう。

 

ただ問題となるのは、中学2、3年生以降であれば、成長がある程度終了しているので、手術を併用した顎変形症の診断は可能であるが、それ以前の小学生では診断が難しい。ここでは将来的には手術が必要な場合もありますよということになる。親からすれば、なんとか手術を回避できないかとなるが、その場合の早期治療は自費という説明となる。

つまり、診断は保険でできるが、治療するのは自費でということになり、これはおかしな、あるいは片手落ちの制度といえよう。小児で将来的に顎変形症、手術を併用する手術になりそうと診断されても、治療は保険がきかない、自費治療になるということである。患者の親にすれば、将来手術になるまでほっておけというのか、相談だけ保険が適用され、治療するなら自費というのはおかしいというと文句も言いたくなる。医療は、早期発見して、重篤にならない前に治療をするのが鉄則であり、早期に発見しても治療できないのはこの鉄則からも外れる。

 

もちろん厚労省のこうした矛盾点はわかっており、今回の矯正相談料の利用度により将来的な子供の矯正治療の予算を予想しようと思っているのだろう。利用度が多く、予想される矯正治療費が莫大なものになるなら、そのままにするし、それほどでなければ、例えば反対咬合に診断、治療については保険適用にするといった流れかもしれない。先日も学校歯科医になっている郡部の中学校に歯科健診にいった。生徒数は述べで90名くらいであったが、う蝕はほとんどなく、治療すべき歯数は10本くらいであった。不正咬合については、主として顎の変形のある生徒、ひどい不正咬合の生徒に、要精査をつけたが十数名いて、う蝕歯より多い結果となった。このままでは、学校歯科健診も不正咬合をチェックする場になるかもしれない。

 

イギリス、フランス、ドイツや北欧では、重度の小児の不正咬合については、保険適用になっている、それでなくても若い世代にとって、あまり利用しないのに高額な健康保険の負担については、不満が多く、それに対応する形で、市町村も高校生までの医療費無料化などの政策を行っている。老人ばかり医療費を使うなということである。その流れからすると、子供の矯正治療費が保険適用できるなら、若い世代にとっては、これは大きな朗報となる。保険適用というのは、すべての人に可能性のある病気について、その費用は等しく負担するという趣旨であり、不正咬合についてもその可能性はすべての子供にある。それゆえ、今回の矯正相談料の新設は、将来的な矯正治療の全保険化の一歩として捉えていきたい。

 

矯正歯科医院側の問題点としては、これまで相談および検査、診断はすべて自費で行ってきたが、今回の矯正相談料の新設で、保険医療機関であれば、学校検診の通知書を持ってきた場合は、保険で検査、分析、診断までする必要があるかということだ。私のところで言うなら、一般的な流れでは、まず相談料3300円、治療をするならパントモ、写真、セファロ、模型をとり、検査料の33000円、そしてその結果を説明する、トータルで36300円かかる。これを保険でするなら、まず初診料と矯正相談料、さらにパントモ、セファロ、スタディモデルで1377点となる。ここで問題になるのは、顎変形症では顎口腔機能診断料2300点、口蓋裂では歯科矯正診断料1500点が取れたので、ほぼ自費料金と同じ収入となった。相談料とこの診断料との整合性が問題となろう。もう一度詳しく見ないといけないが、新設の矯正相談料は確か診断結果のみを文書で提供すればいいようで、詳しい治療方針は必要ないことになる。さらにここまで保険で検査して、実際の治療を自費でするとなると、これは混合診療ではないかという疑問も生まれる。細かいことを言うと、自費治療になった場合は、初診に遡って全額自己負担となり、具体的に言えば、自費治療になった段階で、これまで保険費用を返却して(支払基金、市町村)、新たに自費での診断料を取るという流れになる。これはこれで手続きはかなり難しそうだ。逆に保険療養が認められている相談料を自費にするのは保険医療機関では禁止されている。おそらく厚労省の見方としては、治療が自費診療ということになっても、診断だけであるので、混合診療に当たらないという解釈だと思う。一般的な流れとしては、まず生徒が学校健診の通知表を持って近くの歯科医院を受診する。おそらくセファロ撮影機はないので、パントモと視診だけで重度な不正咬合かを判断し、場合によっては矯正専門医を紹介する(歯科矯正相談料2)。紹介された矯正歯科専門医院では、さらに必要な検査(セファロ)を行い、診断結果を説明する(歯科矯正相談料1)。18歳以下の子供の医療費は多くの市町村で無料なので、ここまで費用はかからない。治療の希望があり、顎変形症と診断されたなら、さらに必要な検査を追加し、口腔外科を受診させて、顎口腔機能診断料2300点をとり、経過観察するか、実際の治療に入る。一方、小学生では手術がどうか確定できず、自費でも早期治療を受けたいという患者には、平行模型などの追加検査をして、今後の治療計画を説明して、自費治療による矯正治療が開始される。

 

 


2024年5月23日木曜日

津軽地域の顎変形症患者

 


前回のブログでは、青森県、津軽地域の唇顎口蓋裂患者のことを書いた。その後、顎変形症患者についてもようやく集計が終わったので報告する。

 

開業した1995年から2023年までの、顎変形症患者数は414人、年平均では14.8名となる。これは検査に入った患者の数で、初診で説明を受けて、手術までしたくないと諦めた患者は含まれない。この患者を含めれば、450人以上となる。また414名のうち、検査だけして、治療に入らなかった、あるいは動的治療途中で転医、稀に来なくなった患者は20名くらいで、ほぼ90%以上は手術を受けて保定に入った患者である。

 

不正咬合別に見ると、下顎前突(反対咬合)が最も多く、359名(86.7%,次に多いのは顔面非対称(顎のずれ)で30名(7.2%,そして上顎前突の25名(6.0%)となる。下顎前突の中には顎のずれを併用する患者も多い。また近年は、上顎前突の患者も多くなっている。推移をみていくと、多少の増減はあるものの、年間15名程度の患者が確実にいて、また近年は上顎前突の患者も増えて、20名近くになっている。

 

地域別に見ると、弘前市からの患者が205名(49.5%,青森市の患者が28名(6.8%,

五所川原市が36名(8.7%,弘前周辺の市町村が124名(30.0%)、県外(主として北秋田)が21名(5.1%)となっている。弘前市とその周辺の市町村、黒石、藤崎、板柳などで全体の80%近くになっている。

 

コナロが流行する2022年以前は、18歳以下の患者が多く、成人患者の割合は20-30%であったが、その30-40%が顎変形症例であり、比率は高い。つまりインビザラインのような主として成人を対象にする歯科医院では、その30-40%が顎変形症患者といえよう。

 

連携機関は、2010年頃までは、ほとんどが弘前大学医学部附属病院、歯科口腔外科で手術をしてもらい、たまに東北大学病院や大館市立病院(秋田大学)で手術をしてもらった。近年では弘前大学で研修を受けた先生が八戸市立市民病院で受け入れているので、ほぼ半分の患者はこちらでしてもらっている。弘前大学医学部歯科口腔外科の手術実績を見てみると、顎変形症の年間手術数は20-30症例なので、うちと青森市のI矯正歯科のケースがほとんどだと思われる。県南の八戸市の患者はおらず、八戸のN矯正歯科で矯正治療をしていると思われる。そのほか、青森県の大きな病院として青森県立病院などの他の医療機関での症例はいない。

 

手術を受けた年齢については、今回調べていないが、女子では高校一年生頃から術前矯正を行い、高校二年生で手術、高校三年生で保定というスケジュールを組めるが、男子では成長が終了していない場合も多く、高校卒業後に始めることも多い。県外に進学、就職する場合は、そちらに紹介することになる。

 

Skeletal Class Iというのは、上下のアゴの前後的にずれがない状態をいい、Skeletal Class IIは主として下顎が小さい場合、Skeletal Class IIIというのは下顎が大きい場合をいう。平均よりズレた症例が手術の対象になるならば、下顎のずれ、大きい症例と同数の小さい症例もいるはずで、理論的にはSkeletal Class IIIIIの外科矯正症例は同数にならなくてはいけないが、実際はClass IIIの方が圧倒的に多く、今後、Class IIの外科矯正患者も増えると思われる。またSkeletal Class Iであっても正面からの顎のずれ、顔面非対称の症例もそこそこいてこれも外科矯正の対象となる。

 

外科矯正を受ける多くの患者さんにとって、歯並びより顔の形の方がコンプレックスがあるため、ボーダラインの症例で、手術を併用した治療法と、歯の移動による代償的な治療法の二案を提示しても、ほとんどは外科矯正を選択する。多分、費用も保険適用になるからだと思うが、今後も患者数はさらに増えそうである。ただ大学病院の問題は、教育機関であるため、公立病院のように同じ先生がいつも手術するわけではなく、専門医を取るために若い先生が手術をすることも多く、結果に少し波がある。仕方がないことかもしれないが、せっかく顎離断の手術をマスターしても、一般歯科で開業するのは勿体無い。東京には顎変形症専門医院があり、数千症例の手術をしており、こればかりは大学病院で十数例の手術をしたところで、手術時間、出血量、結果もかなわない。

2024年5月16日木曜日

津軽地域の唇顎口蓋裂患者



7月に弘前市歯科医師会で講演を頼まれた。2年後に閉院ということでの依頼だったので、これまでの30年の矯正臨床を振り返ってみようと、先日から過去の症例を調べている。主として唇顎口蓋裂患者と外科的矯正患者に絞って調べている。

 

1995年に開業して29年、弘前大学医学部附属病院形成外科とタッグを組んで、唇顎口蓋裂患者の矯正治療を行なってきた。総数で174名であった。だいたい形成外科からは3,4歳ころに紹介され、最初は虫歯予防、口腔衛生指導を主体とした治療を行い、上の前歯が出てくること、小学1、2年生頃から一期治療を開始し、その後、骨移植などを行いながら、中学2、3年生頃からマルチブラケット装置による二期治療を開始、終了後、2年間の保定で卒業とする。ここまで約15年、174名の患者のうち、ここまでいく患者は半分もいない。残りの半分は一期治療でこなくなる場合が多い。費用は、市町村の補助や自立支援援助でカバーできるので、負担はないが、それでも長期にわたって通院するのは難しいのだろう。北秋田やむつなど遠方から来る場合は、さらに厳しい。また経済的理由で、費用はかからないと言っても子供の矯正治療どころでない場合も多い。おそらく他の医院で矯正治療はしていないと思うので、不正咬合のままであろう。18歳以上になっても保険は適用できるので、是非とも受診されたら良い。

 

開業したての95年度は18名の患者数がいた。これは形成外科がこれまで持っていた患者を開業と同時に紹介した結果ではあるが、その後、10年くらいは10名程度の患者がきた。ところがここ10年ほどは5名以下となっている。当初は、近くに矯正歯科医院が3軒できたからかと思ったが、実際に他院で口蓋裂の患者はほとんど見ていない。もっぱら弘前大学形成外科―>当院という流れのようである。最近では、年間の紹介患者数も3名程度になっている。

 

一つの要因として、手術医療機関の多様化が挙げられる。インターネットなどで口唇裂の手術件数やランキングなどが紹介されており、地元の大学病院でなく、わざわざこうした病院で手術するケースも見受けられるようになった。そのため矯正治療が始まる頃になると、東京の歯科大学などから紹介される症例もたまにあるようになった。こうした歯科大学では、矯正歯科もあるので不正咬合の治療は矯正歯科でと言うことになろうが、実際に1ヶ月おきに治療に行くのは難しく、そのままになっている場合も多いだろう。それ以上の問題としては、出生数の低下が挙げられる。弘前市、五所川原市、藤崎町、平川市、板柳町、黒石市、つがる市を合わせても昨年度の出生数は約1500人、最近の調査では、唇顎口蓋裂児の出生率は1万人に17人、約600人に一人で、この計算からすれば、弘前市周辺の推定の唇顎口蓋裂児の出生数は2ないし3人となる。おそらく青森市の出生数1300人を加えても、八戸などの南部を除く津軽エリアの毎年の唇顎口蓋裂患者数は5、6名程度となろう。青森県全体でも、10名程度である。当院では、唇顎口蓋裂患者以外にも、トリチャ・コリン症候群、第一第二鰓弓症候群、クローズン症候群などの先天性疾患の患者も25名ほどいるが、さらに頻度は小さくなる。

 

出生数の低下により、こうした疾患数は低下するのは、当たり前のことであるが、一方、形成外科、矯正歯科ともに、ある程度の臨床レベルを獲得するためには、症例数を必要とする。ところがこのように症例数が少なくなると、形成外科では手術、矯正歯科では矯正治療をする経験が少なくなることを意味し、それは臨床レベルの低下を意味する。そうであるなら、臨床を集約化して、そこで治療を受ける方法もある。例えば、第一第二鰓弓症候群では小耳の子供が多く、その再建手術が必要となるが、これは高度な手技が必要となる。そのため、東日本ではほとんど札幌医科大学形成外科の四柳先生が手術をしている。年間で120-130症例の手術を行なっている。そもそも第一第二鰓弓症候群の頻度は5千人に一人と言われ、2023年の日本の出生数75.8万人で計算すると150人と言うことになる。もちろん再手術なども含めてケース数であるが、それでも、ほぼここで集約して手術が行われている。おそらく年間1、2例のところに比べると結果も雲泥の差があると思う。この考えで言えば、唇顎口蓋裂患者の手術については、東北のどこかに拠点を決めてそこで、集中的に手術をした方が、ドクターの教育あるいは患者にとっても良い結果が得られるかもしれない。ただ、矯正治療については、マルチブラケット装置になると少なくとも2年間月に1度通うとなると負担が相当に大きい。例えば、仙台に拠点を置くとすると、青森県から毎月、通院するのはかなり厳しい。

 

現実的には、患者数が減っても地元の矯正歯科医で見てもらうことになりそうだが、これだけデジタル化が進んでいる時代、こうした少数症例については、東北大学などにデーター集約の拠点を設け、診断、治療法などのAIを使ってある程度サポートするシステムを作っても良いかもしれない。


 

2024年5月13日月曜日

青森県立美術館 美術館堆肥化宣言

マチスです








子供の頃から絵は上手い方であった。小学5年生の時であったか、図工の時間、クラスの女の子が空を紫色に塗っていて驚いたことある。当時、図工の猪俣先生に習った、筆を洗った水で空を描くというテクニックに有頂天になっていただけに、なんで空が紫なんだという感覚は忘れられない。現実にある風景をいかに忠実に表現しようかとしていただけに、青い空、曇った空を紫に表現する彼女の感覚にびっくりしたし、図工の猪俣先生も絶賛していた。ただ彼女は絵の才能が特別あったのではなく、たまたまこの時、紫色の空にしただけであった。

 

昨日、フランク・ロイド・ライト展が最終であったので、家内と一緒に青森県立美術館に行った。建築家の展覧会というのは難しく、写真と設計図いっぱいの展覧会で、あまり面白くはなかった。普段は企画展だけいくのだが、今回は一般展も見たが、とりわけ棟方志功のでっかい肉筆の壁画には驚いた。大きな鳥を描いたもので、わずか2日と書き上げたというが、まるで富岡鉄斎の代表作の富士の絵に匹敵する迫力があった。これを見たただけでも行った価値はあった。おまけの展覧会の「美術館堆肥化宣言」という変わった企画展が開催されていて、現代アーティストから農家の人、写真家など様々な人々の作品が展示されていて、これは面白かった。とりわけすごいと思ったのは、いわゆるブリュットアートと言われる障害をもった人々の作品で、これについては以前から興味があって、2016.11.2ブログと2016.9,8のブログでも紹介した。今回、発表したのは弘前大学教育学部有志という集団で、作家の名前も書いていたが、記録するのを忘れた。強烈な個性を全面に出した色彩とフォルムで、こうした作品を見て、私が小学校の時に味わった紫の空と同じようなショックを覚えた画家も多いだろう。

 

まず女性の3点の肖像画、紹介では“子どもあとりえプランタン蔵(2022)”となっているが、マチスの傑作である。フォルムと色使いはすごいとしか言えない。ピカソ的とも言えようが、全く影響は受けていない。二点目の作品は、斜め線を多く描いたもので、うちの家内はたくさんの鯉のぼりと言えっていたが、私には楽しそうな小魚に見えた。色使いと余白、あるいは縦に流れた線もアクセントになっている。説明には「ほほえみおらんど蔵」(2023)となっている。ニューヨークのメトロポリタン美術館にあってもおかしくはない。作品から多くの発想を産むのは、現代抽象画にとっては重要な要素となる。三番目の作品は、ブリュットアートかどうかわからないが、完成度が高く、どこかで売っていれば書いたいと思った程だ。逆に完成されすぎて、最初の二点ほどのインパクトはないが、それでも売れる作品であり、画家として十分に生活できるであろう。

 

最後に棟方志功の鳥の絵を紹介するが、あんなにでかい2、3mある鳥は見たことがない。写真で見ると四曲の屏風のように思えるが、実物は遥かに大きく、壁画である。個人の家の依頼で描かれたというが、よくこんな大きな作品を家に入れられたものだと思った。あの大きな美術館でも狭いくらいであった。棟方も子供の頃から目が悪く、ある意味、ブリュットアートの範疇でみた方が良いかもしれない。左目はほぼ失明、右目の視力も低く、本人も言うようにモデルを使ってもよく見えないため、心に感じたものを表現した。もし棟方の視力がよければ、彼の作品は違ったものになったかもしれない。

 

草間彌生は、統合失調症の幻覚、幻聴から逃れるために絵で表現したとしているが、彼女しか見えない、感じられないものが作品として強烈な個性を放っているし、モネも晩年はほとんど視力がない中で、蓮池の連作を描き続けた。アンリー・ロートレックは、骨形成不全症で身体発育不全であったし、ゴッホも間違いなく統合失調症などの症状があった。山下清は日本のブリュックアートのはしりと言ってもよかろう。つまり偉大な芸術家の中にも、今ではブリュットアートとされる人も多くいて、殊更健常者と区別する必要もないかもしれないが、やはり、特別な教育も必要であろう。今回の展覧会では、あえてブリュックアートと言う括りを外して展示していたが、それでも強烈な個性を発揮していた。もっと画商なども積極的に応援、支援し、販売につながるようなところにきているように思える。さらに多少の技工が必要で費用もかかる、油彩画にもチャレンジしてほしい。さらに言うなら商売、あるいは作家として生活できるように、作品の販売も含めた支援も必要であろう。





2024年5月11日土曜日

 歯科医師国家試験の思い出

 



私が歯学部を卒業して、歯科医師国家試験を受験したのは、昭和56年であった。筆記試験と実技試験の二つがあった最後の方の年で、確か数年後には実技試験が廃止された。

 

筆記試験の準備は、1年ほど前からクラスの成績優秀者数名が担当委員となった。東京で行われる全国的な対策委員会に出席して、傾向と対策を伝授され、持ち帰ってクラスで説明する。国家試験の問題は各大学の教授が作り、ある程度、教授名が絞られるので、そこの大学の学生が傾向を調べてくる。最初の頃は数ヶ月ごとの集まりだが、受験日が決まると、頻回な集まりとなり、受験日直前になると電話で、こんな問題が出るぞといった伝言がしょっちゅう回ってくる。実際、ほとんどがガセネタであったが、唯一、ある大学から出た情報は正しく、事前に問題が漏れていた。後に問題となり、新聞でも取り上げられた。今は物忘れが酷いが、当時は暗記ものが得意であったので、それほど受験に苦労した記憶がない。歯学部、医学部の授業についていえば、暗記ものが得意な学生は楽である。受験が終わると、自己採点のために、みんなが解答を持ち寄り、正誤の検討をする。私は12回生であったが、開校以来国家試験に誰一人落ちたことはなかったので、初めて落ちると、大変なことになるというプレッシャーがあった。今でこそ合格率が常に100%ということはあり得なかったが、これがずっと100%であったのはよく考えると奇跡的であった。幸い私の学年も全員合格したのでほっとした。国試の結果発表前に、私は母校の小児歯科講座に入局したが、講師、助手の先生とその年の国家試験の小児歯科の問題を解いていた。答えに苦しむような問題だったが、突然、教授室から教授が出てきて、その問題について懸命に説明する。自分が作った問題だったようだ。

 

今は無くなった実技試験を紹介しよう。親父の世代の実技試験というと、実際の患者さんを大学病院に連れてきて、その手技を見て試験官が採点するというものだった。この方法は患者集めに苦労するが、今でも世界中で行われている試験方法で、最も実践的な試験法である。私らの時代では、実技試験は2日にわたって行われる。全部床義歯の人工歯配列は、咬合器に装着した蝋堤に人工歯を配列していくのであるが、何しろ、学生の頃はこの工程だけで2日を要したものを、2時間で仕上げる。もちろん筆記試験が終わり、実技試験までの1ヶ月、毎日、朝から夕方までひたすら実技試験の練習をするのであるが、実際に受験する頃になると、1時間くらいでほぼ配列し、あとがずっと研磨して仕上げる。試験監督のリーダーは、よその大学の教授であったが、補助官は自分の大学の教官であったので、試験中に問題があれば、肩を叩かれ、こそっと注意をもらう。補綴の実技試験のときは、突然、試験場に吉田教授が現れ、受験生の作品を見ながら、でかい声で「今年の学生は上手だ」と言い放つ。試験監督が母校の後輩と見越しての圧力である。他には歯型彫刻、根管口明示、二級インレーの形成とワックスアップなどがあった。この実技試験は、落とすと、次回には仕返しをされるので、落とせないという事情があった。実際に全国の試験でも実技試験で落とすことはなかったので、次第に試験をやる意味がなくなり、廃止された。ただ卒業し、国家試験にも合格し、医局に入局しても、そのまま基礎訓練ができていたが、実技廃止後は、医局内で基礎訓練が必要となった。実技試験の評価は難しく、実際の採点は、かなり感覚的であり、報復を恐れれば試験官の教授は、どうしても不合格者は出せなかっただけ、ある程度の基準を作れば、試験としては問題なかった。実際に、日本矯正歯科学会の臨床指導医(旧専門医)の症例試験で言えば、細かな採点基準があり、合格者は30%くらいであった。国家試験の実技試験でも、通常のゆるい基準でも、歯科医に向いていない手先の器用でない人が必ず存在し、5%くらいの不合格者が出ても不思議でない。それを言えば、臨床研修医でも、研修の最後には、研修医の評価を行い、不合格ということもありうるのだが、実際はほぼ100%合格する。以前、担当者に診療研修医に不合格になる医師、歯科医について聞いたところ、精神的な問題で、不合格になる人がたまにいるとのことであった。

 

私が知る限り、日本を除く他のすべての歯科医師国家試験では実習試験がある。アメリカの場合は、州ごとに試験を受けなければ、開業はできず、実際の患者の治療を試験官が採点する。韓国の国家試験では、支台歯形成やセファロ分析もあるという。


2024年5月6日月曜日

細見くんのこと

 



子供の頃、小学4年生の頃だったろうか。友人の細見くんの家に行ったことがある。当時、週刊漫画雑誌の全盛の頃で、最初にマガジンとサンデー、少し遅れてキングの3冊が毎週発行されていた。子供に人気があったのはマガジンであったが、サンデー連載のサブマリン707も読みたかった。一家で2冊の漫画を買うことは許されていなかった。それでうちはマガジン、お前はサンデーを買い、読み終わったら取り替えっこしようと友人と協定を組むこともあった。ただ細見くんだけはクラスで唯一、マガジン、サンデー、さらにキングも購買していた。キング自体はそれほど好きでなかったが、それでも工夫して百万円貯める「フータくん」という藤子不二雄さんの漫画を読みたかった。

 

細見くんの家に行くと、ランドセルを捨てて、玄関前の部屋でサンデーとキングを貪るように読んでいた。ある日、細見くんがうちの父親の勲章を見せてやると言われ、入ったこともない奥の部屋にこっそり忍び込み、勲章を見せてもらった、数個はあっただろうか。細見くんのお父さんは2、3度見たことがあるが、かなり年配の人で、最初はおじいさんかと思った。お母さんとはずいぶん歳は離れていた。細見くんは、うちのおとんは昔、戦争中、将軍だったと漏らしたことがあった。小学生でも戦争ものはよく漫画で読んでいたので、すでにその頃、少将、中将、大将という軍隊の階級は知っていた。将軍というのは映画や雑誌などでは知っていた存在だが、身直に知ったは初めてで、へえと思った。うちの親父も陸軍中尉であったので、親が軍人だっというのは珍しくはなかったし、祖父が将軍、将官であったとしてもおかしくはない。ただ親が将官であるのは驚きで、そのため今でもこのエピソードを覚えている。

 

小学4年生というと、西暦でいうと1966年頃で、終戦後21年経過している。ポツダム昇進で大佐から少将になったとしても、早くて陸軍士官学校の39期、昭和2年(1927)の卒業となる。終戦時の年齢は40歳くらいとなる。通常、少将になるのは大正10年卒(1921)の33期くらいからなので、終戦時、45歳以上、私が細見くんの家に行ったころは66歳頃となる。確かにこのくらいの年齢であったように思える。細見惟雄中将という人物もいるが経歴は違う。当時は、まだまだ親父も含めて太平洋戦争などに従軍していた人は普通にいたというより、大人はほとんど元軍人であった。

 

今になって思うのは、細見くんのお父さんも戦後、かなり苦労したのだろう。うちの母の妹の旦那、叔父さんは戦前、脇町中学校でもトップに近い成績で、陸軍士官学校、さらに陸軍大学校を出た軍人エリートで、最終階級は少佐であった。戦前は皆から憧れ、尊敬もされていたしが、戦後は逆風となり、徳島県脇町で小さなお菓子屋をしていた。また同じ町のおじさんの友人は、これも海軍兵学校卒業のエリートであったが、戦後は牧師をしていた。元軍人といった人々の人生も戦後、大きく変わった。細見くんのお父さんも、うがって考えると、妻子とも空襲などで失い、戦後に細見くんの母親と知り合い、ひっそりと暮らし、歳をとって生まれた我が子を溺愛したのかもしれない。

 

尼崎の繁益先生は、太平洋戦争中にラバウル航空隊で零戦に乗っていたという。戦後、命からがら内地に戻り、歯科大学に入学し、歯科医となって、親父の歯科医院の近くで開業し、親父とも仲が良かった。ラバウル航空隊というと撃墜王の坂井三郎を思い出すが、繁益先生が赴任した頃は、大きな空中戦もなく、ひたすら逃げていたと笑って話していた。親父にしても、昭和16年に招集されて、満州に行き、戦後は、捕虜になってモスクワ南方のマルシャンスク捕虜収容所に収容され、日本の帰ってきたのは昭和23年であったので、7年間、軍人生活をしたことになる。酒巻和雄少尉は、脇町中学校の歴史の中でも最も優秀な生徒であった教師をしていた長谷川の叔父さんが言っていたが、真珠湾攻撃で日本人初めての捕虜となった。

 

歴史的に考えると、明治では日露戦争(明治37年)までは、まだまだ江戸時代、戊辰戦争を経験した人が主力であったろうし、昭和10年頃はまだまだ日清、日露戦争を経験した人が幅を利かせていたのだろう。そして昭和40年頃までは大東亜戦争、太平洋戦争の経験者が普通にいた時代で、そうした意味では、周りに戦争を経験したことが全くない、久しぶりの時代なのだろう。終戦から79年、大坂夏の陣が終了したのが慶長20年(1615)、それから79年というと1694年、元禄時代。今は戦争のない、いい時代なのだろう。


2024年5月3日金曜日

兼松石居の月儀帖?

 



次のページ、このページが悩まされる、兼松石居の書?



兼松石居は、幕末の弘前藩を代表する儒学者で、同時に洋学も学んだ知識人であった。森鴎外の「渋江抽斎」にも登場する人物であるが、近年はほとんど忘れられた存在となっている。藩校であった稽古館が今の東奥義塾に移行していったのは、この人物の大きな存在が働いている。東奥義塾の創立者の一人といってもよかろう。

 

十年ほど前のことか、突然、兼松石居の直系の子孫の方から冊子が送られてきた。家にあっても宝の持ち腐れなので利用してほしいというものだった。「石居兼松誠成言遺稿」と題されたものであった。表紙裏は明治16年3月7日の日付の新聞で、石居が亡くなったのが、明治1012月なので、死後五年くらいにまとめられたものである。表題は「再帰 月儀帳」となっている。月儀帳とは1月から12月までの章草体の手紙の手本であり、中身はよくわからないが、そうした文章が書かれている。

 

もらってすぐに弘前図書館に持っていったが、特に興味を持たれることがなく、必要なさそうなムードであったので寄贈をためらわれた。弘前博物館の人が昔言っていたが、博物館は物の墓場であり、ここの来るともはや社会に流通することはないという意味である。本に関しても、図書館の寄贈用紙に記入し、そのまま図書番号をつけられ、所蔵庫の奥深くにしまわれ、二度と日の目をみないのはわかりきっている。

 

寄贈を躊躇われたもう一つの理由は、遺稿となっているが、兼松石居本人に書であるか、はっきりしなかったことがある。久しぶりに見てみると達筆な書で、流石に星野素関に書を学び、幕末の名筆家、平井東堂と並び称せられる力量を持っている。また明治の弘前を代表する書家、高山文堂は石居の弟子の一人である。本といったが、実際は、書面をとじたもので、一冊限りの書帖に近いものである。この書帖の途中に印が入っている。これまでなんとはなく見てみたが、急に森林助の「兼松石居先生傳」に石居の書が載っていたのを思い出した。その写真の印をみると完全に一致し、この書帖は兼松石居自身の遺稿であることがわかった。

 

書の上手さについては素人なのでよくわからないが、躊躇わない真っ直ぐで、自在な書であり、種々の書体を悠々と使っていて楽しい。遺稿とあるので、兼松石居本人の書であると思われるが、あまり他の手紙や書がないので、比較検討ができない。


一番大きな疑問は月儀帖の最後に 


「以高山氏蔵本謄写 明治十四年孟夏之吉 兼山山一弓」となっていて、“高山文堂が所蔵している兼松石居の書を書き写した 明治14年の初夏 兼山山一弓”と読めそうである。兼松石居は兼兼山という号を持つが、兼山一弓という別号はないし、門下生にもこうした名はない。誰かわからないが、この遺稿自体をこの兼山という人が書いたのか。ただ、その前面の印章は間違いなく兼松石居のものであり、兼松石居の月儀帖を兼山という人がコピーし、石居の印を押し、さら遺稿として直系の子孫に残すというのはどうかなあと思ってしまう。

 

このページがなければ兼松石居本人の遺稿と考えられ、公的機関に寄贈したいと思っているが、この点が解明されなくてはいけない。誰か詳しい人がいれば教えて欲しい。