津軽は奇人・変人の多いところである。「津軽奇人伝」(原子昭三著)という本があるほどで、さらには一冊では書ききれず「続津軽奇人伝」まで発行された。以前のブログでも書いたが(2013.10.4)、個人的に津軽を代表する奇人、変人を挙げると、小説家の佐藤愛子の祖父、佐藤弥六、慈善運動家の佐々木五三郎、今東光の父、今武平、冒険家の笹森儀助、中国革命に協力した山田良政、純三郎兄弟、考現学の今和次郎、版画家の棟方志功、小説家の葛西善蔵、画家の平尾魯仙がいる。詩人の福士幸次郎もよほど変わっており、佐藤紅緑に息子のサトウハチロウの教育的監視を頼まれていながら、変人ハチロウも驚くほど、無邪気に過ごす人物である。これらの奇人・変人の共通するのは、多くは貧乏であり、ある意味、生活破綻者と言ってもいいかもしれない。奥さんや子供には相当な苦労を強いた。今なら、奥さんは早々に離婚していたであろう。最近でいえば、奇跡のリンゴで有名な木村秋則さんもそうである。一旦、何かに熱中すると、金も家族も目に入らず、一気に進んでいく、こうした生き方をした。
この津軽の奇人、変人の系譜の中に一人また加わった。画家、版画家の今純三である。兄の考現学を作った早稲田大学教授の今和次郎も一生、ジャンバーで通すという変わった人であったが、それでも早稲田の先生をしていて、生活的に困ることはなかった。ところが、弟の今純三は、青森県立師範学校の絵の先生をし、定期的な収入があり、生徒からも愛されていたが、突如、芸術は一部の金持ちのためではない、良い絵を安い値段でみんなに買ってもらい楽しんでもらおうと、学校を辞め、自宅で印刷を始めた。エッチングの薬品や機材を買って、朝から晩まで自分で作品を描いて、一家総出で印刷した。ただ絵は安くても売れず、次第に貧乏になっていく。それなのに怪我をしたカラスを拾ってきて、家で飼い、家がカラスのクソだらけになったり、またある日は、愛していたレコードを斧で叩き割り、蓄音機は分解されてエッチングの機械の一部となった。金がなく、魚屋から安値で鱈とホッケの頭50ほどを買ってきて塩辛のような酒のつまみを作って売ろうとするが、結局、娘の弁当におかずになる。そうした貧窮の中で病気となり亡くなる。遺骨は今家の墓所に埋められるが、墓石がなく、参拝者がその辺の小石を遺骨の埋まっているあたりに立てて供養する。
今純三の娘、小倉ミキが書いた「父・今純三のこと」にはこうしたエピソードがたくさん書かれている。県立師範学校の生徒や多くの人からは慕われ、この本には追悼文も収められている。津軽の人は情熱的な教育者になることが多く、知人の一人、浜田英一は、純三の死ぬ一週間前に病院で会った際に、次のような言葉を聞いた。全文を引用する。
「私は思うのだが、情熱とは、最初に思ったことを生涯やり続ける意志があることだと思う。それはなかなか大変だ。まず、カンナガラを集め、木屑の木っ葉を集めてくる。一本のマッチで点火をし、次に小割りの薪をくべてしばらく炎が勢いづき、徐々に大きな薪を燃やし、石炭も石油も燃やし続け、最後に、鉱脈の中に青い炎に点火することだ。けれども、なかなかその鉱脈に点火しがたいのだ。プツリと、そこで燃やし続けた火が消える。そんなことがあるものだ。しかし、もう一度初めに戻って、カンナガラを集め、小さな薪を燃やすことから始めようとするには、前の五倍も十倍もの勇気がいると思う。そしてまた燃やし続けるのだが、人の生命には限りがあって、途中で命が尽き、そこで倒れる。鉱脈に点火することが出来なかったりする。それだっていいじゃないかーー私はそうは思っていない。」
レンブラントの晩年の言葉に「一人広野を行く時も高く頭をもたげ微笑みてゆけ」と同じ精神だと浜田はいう。貧困のため、友人、知人からの見舞いの食品に喜ぶ子供たち、感謝する妻を残して死にゆく画家の最後の言葉である。名もない、金もない画家が人生を嘆いて、あえて負け惜しみの発言をしたわけではない。高貴な奇人である。












