2024年12月8日日曜日

初代ボンダルI-Mac とI-Mac G4

 



古いパソコンが何台かあり、早く処分しなくてはいけない。診療所で使っていた最初のパソコンはApple LC630で、これも倉庫にまだある。二台目は美しいボンダルカラーの初代I-mac G3、そしてお椀型をした未来的なI-mac G4、さらに3代目、4代目、5代目、6代目と、新しくなるたびに購入しているが、古いパソコンは捨てられないで置いている。

 

初代I-macI -Mac G4はインテリアとしても人気があるので、近くにあるインテリアショップPPPに、動作しているようなら譲るよと言ったが、全く動かない。You tubeで調べると、I-mac G4については内臓電池切れの可能性もあるので、アマゾンで古い型の内蔵電池を購入し、分解して取り付けてみた。全く動かない。これは捨てるしかしょうがないと考えたが、付属している小型スピーカーは何とかならないか。このスピーカーは、有名なスピーカーメーカー、ハーマン・カードン製なのだが、このIMacしか使えない特殊なジャックとなっている。そこでYou-tubeで調べると、少し細工をして小型パワー・アンプを購入すれば、使えるとのことであった。

 

まず、スピーカから出ている線を切り離し、内部のリード線は出してきて、これを小型のパワーアンプにつけて鳴らす。早速、アマゾンで中国製の一番安いパワー・アンプ、3000円くらいのを買って、診療所にあるI-macにつないでみた。このアンプは、ブルーツース、USB、イヤホン端子で接続可能であるが、USBが一番音質がよい。今のI-macは以前のものに比べて格段に音質が良くなったものの、こうして小型のスピーカーに繋ぐと、さらに音質は良くなった。もちろん、20年も前の、それもパソコン付属のスピーカーなので、最新のスピーカーに比べると音質は劣るであろう。特に低音はあまり出ない。ただボーカルは素直な音で、パソコンの前で聴くならこれくらいで十分である。

 

パソコンの横におく小型スピーカーはあるようであまりなく、デスクの大きさを考えると、できるだけ小さいものが良い。IMac付属のスピーカーはそれこそ10cm足らずのものなので、あまり場所をとらないのでちょうど良い。他に良さそうな大きさのスピーカーというと、エレコムやバッファローのものなどがあるが、見た感じで良さそうなのはJBL PebblesCreative Pebbleが良さそうである。また音質を聞いたことがあるスピーカとしてはEclipse TD307がクリアな音質で最高である。現行のTD307MKは昔のものより大きくなったので、パソコン用のスピーカーとして旧式の3脚タイプのものが良い。ただパワー・アンプが必要である。

 

初代のIMacも何とかならないかと、You-tubeに解説に沿って分解してみたが、途中で、どうしてもネジが特殊ドライバ−でなければ外せないので、諦めた。少し前に韓国ドラマで、主人公がこの初代ボンダイI-macを使っていた。このI-macはブラウン管のモニターを使っているので、これを取り除けば、かなり大きな容量があるので、おそらく液晶モニターに変えて、中に例えば、アップルミニなどを入れれば、十分に使えそうである。

 

まだまだたくさんのパソコンがあるが、どんどん捨てていきたいが、廃棄するのは結構面倒である。




2024年12月5日木曜日

ヤコブセンのオイルランタン、インガー・パーソンのティポット

 





スウェーデンのMother Swedenという主として北欧陶器を扱うネットショップをよく利用する。これまで4回ほど利用したが、期待通りの良品が届けられ、満足している。ただスウェーデンからの発送のために3ヶ月くらい、忘れた頃に届く。ところが今回は11/24に注文して、12/4に届いた。ちょうど10日である。送料は3500円なので、急行便ではないが、早い。国際書留便だそうだ。

 

娘にやろうという口実で、以前から北欧陶器を買っているが、実際、二人の娘はそれほど欲しがっているようでもない。歳をとるとそろそろ断捨離も考えなくてはいけず、少しずつ整理しているが、それでも欲しいものが出てくる。今回は、Mother Swedenのネットを見ていると、ヤコブセンのオイルランプ、30000円のが、半額の15000円で売っていた。以前からオイルランプには憧れがあり、ゆらゆらした炎を見ると落ち着くなあと考えていたが、どうもキャンプをするわけでなく、屋内用のおしゃれなものを探していた。ヤコブセン、いいなあと思った。

 

ヤコブセンというと、デンマークのデザイナーのArne Jacobsenの名を浮かべる人が多いと思う。私も最初見た時、アルネ・ヤコブセンはこんなオイルランタンのデザインもしていたのかと思ったが、実はこのオイルランタンは、スウェーデンのHans agne Jakobssonのデザインしたものであった。彼は、照明デザイナーで、北欧産のパイン材を使った照明器具は日本でも人気がある。

 

少しオイルは入っている真鍮の容器が汚れているが、通常3-5万円くらいするので、安いと思う。せっかくスウェーデンまで注文するなら、送料は同じなので、他にも何かいいのがないかと探すと、インガー・パーソンのティーポットが9000円だった。小さなサイズのものはよくあるが、大きなサイズのものは珍しい。通常、これも3万円くらいするのでお買い得である。オイルランタンと一緒に注文した。

 

本日、届けられ、ティーポットはほぼ新品で、使われた形跡はない。日本茶のポットで言えば、5杯分くらいの大きさである。こうしたポットは日常的に使っていった方がいいのかもしれない。オイルランタンは火を使うので、屋内で使うのはちょっと怖い。そこでアマゾンで超小型のRED電球を3つ注文した。ランプの真ん中にあるガラス筒の中に入れれば、REDランプになると考えたからである。同時に、オイルとチャッカーも注文して、怖いが外でランタンに火をつけてみたい。

 

どうも大阪人は、安くなると一気に購買欲が出る本性があるようで、オイルランタンも半額でなければ購入しなかっただろう。こうして荷物は増えていくのだが、やめられない。ただデザイナーものは丁寧に使えば、欲しがる人がいて、ゴミにはならないと信じている。それにしても中古家具、あるは中古雑貨、陶器を扱うお店は大変である。以前は、スウェーデンのネットショップに日本語でオーダーでき、10日で着くなんてありえなかった。日本の業者はわざわざ北欧に行き、あちらのショップに行って商品を仕入れ、コンテナ船便で日本に送る。2、3ヶ月はかかるだろう。商品を購入してもすぐに売れるものではないため、仕入れ値の少なくと2、3倍の価格をつけなくてはいけないが、あまり仕入れ値が高いと、売れない。どれだけ安く、売れそうなものを仕入れるかにかかっている。ところが最近では、このMother Sweden以外にも日本語で注文できる海外のネットショップがあり、E-bayなどでも買える。そうかといって実店舗で商品を見てもらってから買ってもらうためには、上客が多い、いい場所で店を日本にもつ必要があり、家賃も高い。逆にこれだけ円安であれば、日本の陶器や雑貨などを英語、フランス語、ドイツ語で、ネットで欧米で売れば、そこそこ儲かるかもしれない。古伊万里の200年以上前にものでも、100ドルでは売れるだろう。23千円で仕入れれば、儲けが出る。






2024年12月1日日曜日

大鰐線廃止

 



1127日の報道で、弘前と大鰐を結ぶ弘南鉄道大鰐線が2027年度末で廃止を前提として休止にするということになった。ピーク時は390万人の利用者がいたが今では30万人しかおらず、経営的にも限界にきたためだとしている。会社側はずっと廃止を考えていたが、沿線の自治体から継続を請願され、支援も受けていたので、何とか続けていた。ところがコロナ禍による乗客の減少や脱線事故で、もはや継続できないと決意したわけで、さすがに弘前市側も民間の経営にこれ以上口だすわけにいかず今回ようやく認めたのであろう。

 

最近は、こんな話ばかりで、おそらく大鰐線が廃止される2027年になると残念がる市民が増え、急に乗客が増え、大混雑になるのだろう。今泉書店、ホテルニューキャッスル、紀伊国屋書店、弘前食品中央市場、開雲堂、イトーヨーカドー、毎度である。あまり利用しないくせに、なくなると、寂しいという。大鰐線といっても車のある人からすれば、ほとんど利用しないだろう。私は車を持っていないので、年間、4、5回は利用する。特に大鰐温泉に行くときは、弘前―大鰐の往復乗車券とワニカムの入浴券とお買い物券がついて1000円という“さっパス”というセットをよく利用した。季節ごとに変わる車窓の景色を見ての鉄道は、ちょっとした旅行気分に浸れる。

 

大鰐線が廃止されると、通学に支障が出るため、代替わりのバス運行になるかというと、これも、そもそも弘南バス自体の経営は厳しく、また運転手不足から、厳しい状況である。さらにいうならもう一つの私鉄、黒石までの弘南線は存続するといっても、ここも年間9600万円程度の赤字であり、補助金で何とかやっている状況である。大鰐線がいらないというのと同じ論理で、弘南線も必要ないと言える。

 

駅前、土手町にまず映画館がなくなり、スーパー、デパートもなくなり、さらに本屋、鉄道もなくなり、駐車場だけがある。これは街というよりは空疎な空間というもので、人々は広い空間に散らばって住み、車で必要な店に行って買うという社会である。ドーナツ化現象と呼ばれるもので、基本は車社会を前提としており、車がない若年者、老人、病人には住みにくい社会である。さらにいうと、車も一家に一台では足りず、一人一台必要であり、結果的には五人家族で、5台車があるという家も珍しくない。さらにいうと完全な車社会となると、道路整備だけでなく、雪国の青森では除雪、排雪作業も必須となり、大きな出費となる。今後もガソリン価格や車の保険料は高くなる一方であり、車にかかる個人の負担も増えていく。一方では、国は高齢者の免許返納を訴えながら、唯一の移動手段の鉄道、バスもないとどうするのだろうか。

 

このブログでもこれまでも何度も大鰐線の廃止を反対してきた。それは車がなくなったらどうするのかということにつながる。弘前市会議員の中にも大鰐線を廃止しろと強く言う人もいるが、こうした人は一度、車のない生活をしたことがあるのか。昔と違い、土手町に行けば、弘前駅前に行けばと言う時代ではなく、何か欲しいと言えばその店に行かなくてはいけず、自分の家からそこまで車なしでどういくのかを考えてほしい。新しい冬用の靴を買おうとしよう。私が住む坂本町は市内の中心なので、便利は良い。まずヨーカドー、今はシーナシーナに歩いて行くか、ヒロロにいく。またビブレに行こうとするなら、まず弘前駅裏まで歩いて、そこから百円バスに乗り、ビブレに行く。あるいは自転車やタクシーで行くことになる。それでは中心から少し離れた弘前市新町から弘前駅に向かうとしよう。工業高校前のバス停から弘前駅に向かうバスは1日に12便だが、朝夕以外は2時間に一本、さらにビブレに向かうにはここから百円バスに乗り換えることになる。費用も片道300円となる。さらに遠方の高杉くらいになると、高杉南口から弘前駅までは3便しかない。このように駅に行くバスが10分おきに出ている東京や大阪とは、状況が全く異なり、地方ではバスによる移動は非常に制約される。これなら定刻運転される鉄道の方がよほど移動しやすい。バスによる移動は便数が多いと、便利であるが、地方にように1日に数便しかないと、日常的に利用するのはかなり困難となり、利用客は減る。実際に弘南バスを見ても百円バスはかろうじて乗客がいるが、その他の便は朝夕を除けばほとんど利用客がおらず、経営的に厳しく、将来的にはバス路線も赤字で便数を減らす、廃止されることは覚悟しておかなくては行けない。

 

つまり大鰐線の廃止は赤字によるものであれば、黒石までの弘南線も廃止されるし、これまで弘南バスがカバーしていたバス網もなくなることになる。車を持っていない人は、歩くか、自転車かタクシーしか使えないことになる。公共交通機関というのは、交通インフラの基本的なものであり、是非とも国県市町村が整備すべきものである。簡単に交通弱者を排除して良いものではない。少数の人々に対象に税金を使うのはもったいないという合理的な観点でいうなら、聴覚障碍者の音響式信号機は必要ないし、視覚障害者に対する点字ブロックも必要ないと言えるが、健康な人々でもいつ、こうした障害を持つかわからないので、こうした設備は必要なことになる。大鰐線で言えば、乗客が減ったとはいえ30万人の利用者がいる。大鰐線の廃止するのではなく、弘前市が買取り、費用がかからないBRTに変換できないだろうか。BRTとはBus Rapid Transitの略で、簡単に言えば線路を舗装道に、電車をバスの置き換えたもので、初期投資はかかるものの、維持費は安く、定時便、例えば15分おきの運行も可能となる。さらに通常道路の走行も可能なので、弘前駅から直接に乗ることも可能となる。専用道なので自動運転も可能かもしれない。またBRTといった大袈裟なものでなくても、バス専用道として、弘南バス、スクールバスや観光バスのみ利用できる道にするような方策はないのであろうか。廃止は仕方ないが、何らかの代案を検討してほしいし、国、県の補助など資金面も含めて、弘前市、市長の手腕が求められる。


2024年11月24日日曜日

令和6年 弘前市立博物館後援会視察研修

 






10年以上前から知人に誘われて弘前市立博物館の後援会に入っている。たしか年間3000円くらいの会費で、展覧会の入館料が無料になる。特別企画展になると入館料が1000円くらいになるので、年に何回かの展覧会に行けばペイする。ただし通常展については65歳以上であれば、弘前市民であれば無料である。

 

この後援会では、年に一度、視察旅行を行なっており、魅力的な企画をしているが、私の診療所は土曜日が一番忙しくて、なかなか行けなかった。ところが1123日(土曜日)が休日で、初めてこの後援会の視察研修に参加できた。昨年度は、最勝院の五重塔の内部を探検するという魅力的なものであったが、当日の豪雪のためにこの五重塔だけの視察しかできす、他施設の視察をできなかった。そこで今回は昨年できなかった視察を行う、題して「弘前の宝を歩いて観よう! 最勝院境内・新寺町編」。

 

まず最勝院では、修理が終了した仁王像、堀江佐吉碑、キリスト信徒の墓などの解説、案内の後、つい最近寄贈となった青森ねぶた牛頭天王の除幕式に参加した。2023年度のねぶた大賞を取った力作で、頭部と手が寺宝、牛頭天王がある場所に設置された。牛頭天王の名は知っていたが、どういった仏かは記憶になく、具体的なイメージがわかない。ただ病魔退陣を願う仏のようなので、将来的にはコロナ惨禍の記念碑的なものになろう。

 

その後、弘前高校の横にある。袋宮寺の十一面観世音立像を見させていただいた。以前にも観覧されている観光客がいたので、お声かけして入り口のドアを開けて一緒に見た記憶があるが、今回は中に入ってじっくりと拝むことができた。6m近い大型の仏像で、まずその大きさに驚く。さらに通常、こうした大型仏は、それを安置する建物も大型であるが、この仏について言えば、ギリギリの大きさで、単に周りを建物で囲んだようなもので、お顔を見るのが難しい状態になっている。以前、アメリカの美術館のキュレーターに高照神社にあった江戸時代の絵馬を見せたことがあったが、外の寒気がそのまま入る室内の保管状況を相当心配していたのを思い出す。この仏も野晒しとは言えないが、冬は周りが雪で覆われた寒い弘前では、保存の点からすれば最勝院の仁王像同様に厳しい環境にある。

 

次に訪れたのは報恩寺、ここの木像の藩主坐像を見学した。報恩寺は、江戸時代、新寺町でも大きさでは大円寺、慈雲院に次ぐ寺で、今は当時の1/3程度の敷地になっている。弘前藩主の墓があり、禅林街の長勝寺とともに寺格が高い寺である明治二年弘前絵図を見ると、入り口には善入院、一乗院、万智院、理教院、観明院、光善院、正善院などの塔頭寺院が見られる。寺内には檀鐘(壇鐘?)、経蔵、本堂、座敷、庫裡とともに御霊家、御影堂がある。ここに安置されていたのが、八代藩主、津軽信明坐像、九代藩主、津軽寧親像、その他である。二体はほぼ等身大の坐像で、特に丁寧親像はかなりリアルで生前の藩主を彷彿させる。徳川家康が東照宮に祀られるように武士像が神式の神殿に祀られるのは親和性があり、問題ないのだが、神鏡が異常に大きく、正面からは藩主の顔が見えない。さすがにこれは、坐像製作当時のものではなかろう。江戸末期の各地で30cmを超える巨大和鏡が作られたが、その流行からなのだろうか。

 

次に行ったのは西福寺の円空作の仏像で、これも実物はかなり大きい。ほぼ実物大、150cmあろうか。円空仏というのはもう少し小さなものと思っていた。下にはスラムダンクの作者、井上雅彦さんの似顔絵色紙と哲学者、梅原猛さんの色紙が飾ってあった。漫画家の井上雄彦さんは円空の大ファンで、本まで出しており、青森にも円空仏を拝観のために来たようである。

 

最後は、貞昌寺の釈迦涅槃像を見た。貞昌寺は、山田兄弟の碑があるため、以前はよく行ったし、綺麗な庭も中に入らせてもらったこともあったが、この釈迦涅槃像は初めて見た。2mを超える大型の仏像で、涅槃像の絵はたくさんあるが、像は珍しい。

 

今回の企画では、なかなか普段行けない、見られないものを視察できて個人的には大変満足している。弘前にはこうしたまだまだ知られていないお宝がさりげなく飾られている。この界隈だけでも、なかなか一般の人が見られないところとしては、まず北新寺町にある「中舘家住宅」がある。先日、訪れたが、中は明治期に建てられた近代和風建築で、今年、国の登録有形文化財に登録された。当主から建物の説明を受けたが、今後、明治期の建物も弘前のお宝になりそうである。貞昌寺から近い加藤味噌醤油醸造元も明治4年の建築で、中はどうなっているか見てみたい。また近くの旧町田家住宅も古い。このあたりには明治以降の近代建築が多い。またお宝といえば、一番小学の朝陽小学校も古い記録があるはずで、見てみたい。和徳小学校については、千葉寿夫先生の研究で、古い教育資料が充実していることがわかったが、そうした資料の展示はない。

 

今回のコースなどはもっと小中学校の遠足あるいは課外授業で取り入れるべきで、まず街を好きになるためにはお宝を見学するのも一つの方法であろう。身近なところにもお宝はある。











2024年11月21日木曜日

兵庫県知事選挙に見るファシズム(ナチ、旧日本軍)による情報統制との相似性

 

ナチスによる国会議事堂他事件 共産党員の仕業とされた



兵庫県知事選挙では、パワハラ、おねだり疑惑でマスコミに叩かれていた齋藤元彦さんが圧勝した。あんな悪人がどうして圧勝できたのか、ここ数日、じっくりYou-tubeを見ていると疑問点が多く、ある意味、兵庫県民の良識を見た思いである。

 

知事を辞職し、最初の選挙演説ではわずか一名の視聴者に訥々と演説していた写真は、かわいそうだとは少し思ったが、それ以上によくもう一度選挙に出たなあとその強心臓に驚いた。2、3ヶ月前までは、毎朝、ワイドショーで徹底的に叩かれ、片山副知事を含めて、テレビ、水戸黄門に出てくる悪徳代官さながらに扱われて、もう完全にこの人は終わったと思っていた。今回の大逆転は将来、ドラマになるかもしれない。

 

NHK党の立花さんは、クセが強く、すごく嫌いな人であったが、今回の活躍はすごい。特に県民局長の自死の原因を不倫関係と関係づけ、これまでのパワハラによるとされる筋書きを変えたことにある。

 

個人的に、最も危惧感を感じたのは、まず県会議員、NHK、各社新聞記者、民法テレビ局が、県民局長の自死の原因の一つに、コンピューターにあった不倫相手の情報だと分かっていながら、全て情報をシャットアウトした点にある。自分たちに筋書き、知事のパワハラによる自死、を押し通した。今回暴露された百条委員会の非公開の音声によると、片山副知事が不倫関係のことを言おうとすると、朝日新聞の記者は猛然と、個人情報を出すな、不倫相手が死んだらどうすると脅して、一切の情報を遮断した。私が知る限り、新聞、雑誌、テレビ、などあらゆるマスコミで、週刊現代を除き齋藤知事を擁護したところは一つもなかった。

 

私自身も、今回ばかりはマスコミに洗脳され、齋藤知事はとんでもない最低の人と思っていた。普段から情報は広く集め、自分で判断すると考えていただけに、こんなに簡単に洗脳されるのかと情けなくなった。一方、マスコミが真実を遮断して、自分たちの都合のいい情報のみを流せば、普通の人にとって、真実を知ることはできないとも感じた。戦前の日本においては、戦争について情報管理が行われて、敗戦についての情報は完全に統制された。ミッドウエイ海戦で負けてもその事実は伏せられた。正しい情報が伏せられると、我々市民はどうしようもない。柳条湖事件やナチスによる国会議事堂放火事件もそうである。前者は中国軍による挑発、後者は共産党員に犯罪とされ、戦争、弾圧に使われた。

 

戦後のマスメディアは、こうした戦争への加担の反省から始まった。ところが今回の騒ぎで悪質なのは、県民局長の本当の自死の原因を知りながら、マスコミ、左翼は、自分たちが正義と考える、知事のパワハラで自死したという筋書きを押し通したことである。それも全てのマスコミが同じ方向をとり続けた。戦前の翼賛体制と同じであり、いくら戦争に負けていても、勝っていると国民を騙し続けた体制と瓜二つなのである。まだしも戦前は、軍部主導の体制を批判した斎藤隆夫議員がいたが、今回は誰一人、叩かれていた齋藤知事を援護、濡れ衣だと唱えるジャーナリストがいなかった。自由に冤罪をマスコミが作り、それも全員一致で行われる恐怖がある。

 

齋藤知事当選後は、あれだけ知事を批判していた県会議員、マスコミは、全て口にチャックしているが、こうした集団的な処刑は、彼らが最も嫌がるファシズムの基本的な手法であり、今回の件でももう少しで成功しそうであった。彼らは自分たちがナチス、旧日本帝国と同じことをやっている自覚はあるのだろうか。自分たちは全くファシズムと同じことをし、真実を捻じ曲げて、自分たちが考える正義を押し付けようとしていることを、よくよく反省すべきである。これは若者を中心に、既存のマスコミに対しる不信感を招くことに繋がり、今度はSNSによるカリスマ的な盲目的な信仰、例えば第二のヒトラーを出現させる萌芽となる。

 

もしマスコミに自浄作用があるとすれば、今回の事件に関与した、特に県民局長の公用パソコンの内容を知りながら、それを伏せた記者、マスコミ関係者は、マスコミ全体の信用を貶めた点では会社の金の横領と同程度の罪に当たり、社内での第三者による調査と、きちんとした公開説明が求められる。また同様に百条委員会の県会議委員についても、無理やり知事を辞職させ、県政を混乱させた責任を、今度は知事と入れ替わって、きちんとした説明を公の場で釈明しなくてはいけない。もちろん齋藤知事にも問題があるならきちんと調査した上、結論を出すべきで、今後の弁護士による第三者による調査委員会の結論を待ちたい。というよりなぜ県会議員は早急に不信任案を提出して、知事の辞職に追い込んだのか、これも反省すべきである。


2024年11月20日水曜日

マイシューズ

 


今でこそ、冬用のブーツだけで5足以上、普通の靴で10足以上あり、家の大きな靴箱もいっぱいになっている。

 

子供の頃を考えると、高校卒業する1970年代後半まで、常に靴は一足であった。破れて履けなくなると、母親にそれを示して、新しい靴を買ってもらった。その際もすぐに足が大きくなるので、大きめの靴を買うように言われた。私の場合は、三和商店街の一番奥にある靴屋さんまで母親と一緒に買いに出かけた。汚れないようにビニールに包まれた靴見本から好きな靴を探し、奥からサイズに合う靴を試着した。買ってしばらくはうれして、家の中で履いて怒られた。

 

こういう状況は、中学になっても同じで、普通の紐のズック靴を履いていた。高校になると、サッカー部だったので、黒のサッカーシューズ以外にトレーニングシューズが必要でオニツカタイガーのリンバーを買ったのを思い出す。毎日に通学、運動、場合によってはクラブの練習にもこの靴を履いていたので、大体一年くらいで破れてきて、その都度、母親から小言を言われた。今は歳をとって激しい運動もできないのか、靴の寿命も伸びて二十年前の靴もまだ現役である。

 

同世代の友人に聞いても子供時代の靴は一足であったという。ただ青森県でいうと、冬用の靴として長靴があった。ゴム製の黒い長靴で、薄くて、厚い靴下を履いても冬場は寒かったという。さらに雪が長靴の中に入るのか、いつも足先が霜焼けで、家に帰り、靴を脱ぐと、痒かったという。うちの家内は家に帰ると、母親が暖かいお湯で足を洗ってくれたという。そういうことで北国では冬用の長靴とそれ以外の靴の2足が標準であった。

 

こうしたことは子供だけでなく、大人、女の人が別だが、うちの父親の場合も、下駄と革靴2足しかなかった。下駄は何種類かあって、近所に散策用と飲み屋に行く時用は別であった。滅多に靴を履くことはなかったが、会合などに出かけるときは黒の革靴を履いた。昔の人は物持ちがよく、1、2足の革靴を何度も修理して履いていた。そういうこともあり、尼崎にいたときは五人家族であったが、各自の所有する靴の数は知れているので、小さな靴箱で十分であった。今ではこの大きさの靴箱で一人分である。

 

当時、靴はそんなに高かったのか、よくわからないが、それでも子供用の普通の運動靴はせいぜい1000から2000円くらいで(もっと安かった?)、物価を考慮しても今の1万円には決していかない。むしろ靴は一足、破れたら買い替えるというルールがあったのではなかろうか。実際、運動会の徒競走用のゴム足袋は運動会のわずか1日しか持たない代物であったし、200-300円はしたように思えるが、皆買った。家内に聞いても足袋を買ったというが、うちの医院の衛生士、60歳に聞くと普通の運動靴で運動会を走ったという。おそらく昭和昭和40年代後半までのことであろう。

 

思い起こせば、昭和30年、40年代は日本もまだまだ貧しく、また戦争を体験した世代も多かったことから、何でももったいないという人が多かった。今と違って既製服が少なかったことから、自分で洋服を縫っていた人も多かった。当時の婦人雑誌には必ず、本で紹介した洋服の型紙があり、生地を買って、この型紙で服を作るとというのが普通であった。流石にスーツやブレザーなどは自分で作れないので、子供服でも近所の洋装店で誂えることが多かった。私の子供心に近所に洋装店でサイズを測って注文服を作った記憶がある。

 

こうしたこともあり、当時は服も靴も高く、少数のものを使い回して使用していた。子供であれば、尼崎であれば、年に一足、青森では冬用の長靴も合わせて2足、尼崎であればほぼ年中短パンであったような気がするし、多分数種類の上着とズボンだけであったと思う。小学校の6年生の時にLeeかリーバイスのジーパンを買ってもらったが、それこそ大きくなってサイズが合わなくなるまで、夏も冬も毎日履いていた。多分、洗濯も滅多にしなかった。個人的に一足以上の靴を持つようになったのは、大学に入り、雑誌ポパイなどを読み始め、ファッションに目覚めた頃からだ。

2024年11月17日日曜日

和日庵 鳴海要吉  (上林暁)

 




私自身、私小説というものはあまり好きでない。高校の時も、文章がうまくて学校誌にエッセイや読書感想を書いていた友人がいたが、私にはそんな才能はひとかけらもないと思っていた。大学に入ってからはかなり本を読むようにはなったが、それでも純文学の本についてはいまだに苦手であり、唯一好きな作家は宮本輝さんで、彼の小説は出版されればすぐに買って読むし、楽しみである。そうしたこともあり、本屋で買う本というと、郷土史、評伝もの、戦記、ノンフィクションなど、純文学以外のジャンルのものが主体となる。

 

ところが2、3年前に弘前の昔の繁華街、土手町の横道にあるかくみ小路に「まわりみち文庫」という今風の古書店ができてから、純文学の本、エッセイ集を買うことが多くなった。10坪もない小さな店内なので、置かれる本のジャンルも絞られ、私の好きなジャンルはあまりなく、若い方が好むような本が多い。昔は土手町に紀伊国屋書店弘前店があり、その後、中三デパートにジュンク堂ができたので、こと本に関しては全く不自由しなかったが、いずれもなくなると本格的な本屋はなくなり、好きなジャンルの本を大型店でぶらぶらして買うことができなくなった。

 

今回、紹介する「星を撒いた街」(上林暁傑作小説集、夏葉社)も、このまわりみち文庫で買った本である。この本屋がなければ一生巡り会わなかった本である。

 

まず文体が素晴らしい。綺麗な、上品なというはこうした文体なのだろう。戦前の文体のせいか、現代の我々からするとわかりにくい表現もあり、文の途中で考えてしまう。この本の中でも最も好きなのは、津軽が産んだ詩人、変人、鳴海要吉の飄々とした生き方を描く「和日庵」で、この中にも“掌を口蓋に当てながら附け足した”との文がある。“附け足した”は数秒考え、ああ“つけたした”と分かったが、はて“掌を口蓋に当てながら”とは。掌は「しょう」としか読めないが、意味は手のひら、あるいは「掌を返す」を“たなごころをかえす”というのだから“たなごごろをこうがいに”あるいは“てのひらをこうがいに”と読むのか。それでも手のひらを口蓋に当てるとはどんな格好だが、最後までわからない。美しい文で、これだけでも買った甲斐がある。

 

鳴海要吉については拙書「津軽人物グラフィティー」の中の“今東光と津軽の人たち”の中でも取り上げたが、奇人の多い津軽でも、楽しい奇人として群を抜いており、さまざまな小説家が彼を取り上げた。田山花袋は「トコヨゴヨミ」という要吉の発明した万年暦のことを、秋田有情は「緑の町」、岩間泡鳴は「1日の労働」で、今東光は「うらぶれた詩集」と「東光金蘭帖」で彼を取り上げている。とりわけおもしろいエピソードは「東光金蘭帖」にある。

 

「僕の知人鳴海うらはるという詩人は津軽の産で、短躯矮小、色が黒かったが美男に属した。しかしながら、鳴海の貧乏といえば名代のもので、田山花袋は「怖るべき貧乏」の代名詞に「恐るべきうらはる」と名付けたほどで、僕の家などに遊びに来るにも履き物を見ただけで、この恐るべき理由がわかった」、片方が草履で、片方が下駄で、よく歩けるものだと感心し、「こんなのを履いて訪問されるとどうしたって新しいのが、古くても満足な自分のを提供せざるにはいられない。田山花袋さんならずとも、僕は心ひそかに懼れをなしていたのは当然だった」としている。貧乏でも全く気にしておらず、超然としている。

 

こうしたエピソードを聞くと、同じく津軽出身の福士幸次郎や版画家の棟方志功を思い出す。また私小説の葛西善蔵や佐藤弥六―佐藤紅緑―イチローの佐藤一族にも当てはまる。それでは近年の津軽の奇人と言われて、思いつくのは、奇跡のリンゴで有名な木村秋則さんで、一度お会いしたことがあるが、不思議な魅力を持つ人物だった。弘前ロータリークラブのパーティに招待され、確か弘前市長もきていたが、作業服で出席され前歯が欠けていた。どんな話をしたか忘れたが、ボソボソ喋り、津軽弁もあってあまりわからなかった。確か映画の話をしたような記憶がある。それで思い出したのは、考現学で有名な今和次郎もいつもジャンバー姿で、宮中に招かれた際もジャンバーで行こうとした逸話がある。

 

今和次郎、木村秋則さんの動画をあげるが、津軽のある種の人物の雰囲気が二人にはある。