1、ちびっこのど自慢
小学校の5、6年生の頃だったが、当時、絶大な人気の「ちびっこのど自慢」という
番組があった。小中学校の歌自慢が集まり、審査員が点数をつけてチャンピオンを選ぶという今ではありきたりの番組であるが、これがハシリで、放送時間になると子供たちはテレビに齧りついて見ていた。番組の終わりに、出演希望者は下記住所まで応募してくれというテロップがあったので、面白半分で応募してみた。バカである。すると何月何日にテレビ局に集合と言った返事が来た。焦った。子供のことなので、予選があるとは全く思いつかず、えっ、番組に出場しないといけないのかと恐怖に囚われた。全く歌うのは下手だし、あんな番組に出るのは100%無理である。テレビ局に行かないと番組に穴が空くと思ったが、そのまま行かなかった。あとで番組出演をすっぽかし、テレビ局の人から怒られるのではとずいぶん、不安で、後ろめたかった。当たり前だが全くの杞憂であった。
2.長嶋茂雄のサイン
小学校1年生くらいから少年マガジンをずっと買っていた。当時は野球選手がスターの住所が平気で誌面に書かれていて、ファンレターを出そうと思っていた。大好きな巨人の長嶋茂雄選手のサインが欲しかったので、長島の住所宛に、オバQのハンカチを買ってきて、さらに返信用の封筒、切手も貼って送った。さすがに返事はないと思っていたが、しばらくすると何と長島から返事が来た、急いで封筒を開けるとオバQにハンカチにサインして送ってくれたのだ。これは大興奮で、すぐにクラスに友人に自慢したのは言うまでもない。これに味を占めて、王貞治選手にも同様にハンカチと返信用に封筒、切手を入れて送ったが、そのまま返事はなかった。王選手は嫌いになった。その後、勉強机の大切にしまったいたが、いつの間にかなくなってしまった。
3.上田侃太郎(かんたろう)
尼崎の名物爺さんで、小学校の頃から中学、高校くらいまで20年近く尼崎市会議員はじめ、多くの選挙に出馬した。汚い自転車の後ろに上田かんたろうと書かれた幟を立て、“うえだかんたろう をよろしく”と連呼していた。子供達は爺さんを揶揄いながら後ろをつけまわした。選挙中だけではなく、年がら年中、近所を走っていた記憶がある。最終的には大学に入った頃なので、かなり歳を取ってから、多分80歳過ぎてから尼崎市市会議員にはれて当選した。多分、死ぬまでに夢を叶えさせようと思った人が多く、当選したのだろう。1期か2期務めて落選した。白の開襟シャツに帽子、グレーのズボンという格好で、色んな選挙に出ていたが、両親に聞いてもどこの人かわからなかった。何をしていた人であろうか。
4.飛行機ビラ
今では信じられないが、昭和39年ごろは、飛行機からチラシを空中に散布する空中宣伝があった。大空からチラシがばら撒かれ、なかなか落ちてこない。小学校3年生の頃、このばら撒かれたチラシを追って走っていき、ふと気づくと全く知らない土地にいたことがあった。家の近くと難波小学校までの道はよく知っていたが、チラシを追っているうちに小学校の西側に行ってしまったのである。このまま迷子になるのかとかなり不安になったが、泣きながらしばらく歩いていくと難波小学校が見え、安心した。小学校4年生以降になると友人もこの西側にも多くいたので、ここも子供の縄張りになっていった。東は庄下川、西は蓬川、南は阪神線、北は市役所くらいまでが難波小学校のエリアで、自転車で走り回っていた。
5.不思議な家
幼稚園の頃、東難波町の三角公園近くに、友人のOくんの家があった。幼稚園の帰りには彼の家でよく遊んだ。作りは旅館で、大きな入り口に玄関があり、そこから長い廊下があり、左右に多くのドアが付いていた。ドアを開けると中には4畳半くらいの狭い畳の部屋があり、窓があるだけで何もない空間である。こうした部屋が20くらいあり、そこでかくれんぼをして遊んだ。大人になって考えると、この旅館のような建物は、連れ込み宿で、男女がこの狭い部屋で行為に及んだのだろう。幸い、幼稚園が終わる正午にはお客さんもおらず。鬼ごっこにはいい場所になっていた。昭和40年頃になると、もう少し阪神尼崎駅寄りのところにラブホテルが乱立し、多い時は六件くらいのラブホテルが固まってあった。出来島の塾の帰りは9時頃になるが、酔っ払いの多い三和商店街を抜けて、日弘前楽器を右に曲がると三和ミュージックがあり、周辺には立ちんぼが多くいた。ここを通り、真っ直ぐに歩くと、今度はラブホテル街となり、そして暴力団の事務所の前が自宅であった。お世辞にも柄のいいところではなかった。






