2026年5月20日水曜日

ヤフーオークションと買取価格

 

コーカサス カザック・カラチョフの絨毯 査定額は2000円


大橋歩さんの原画 掲載されている本込みで2000円


20年以上前からになるのか、ヤフーオークションにハマり、ずいぶんここで買った。落札したのは、100点くらいで、主として日本画、掛け軸、版画(明治、江戸)、北欧陶器、ガラス、プラモデル、原画、弘前もの(手紙、絵葉書など)などであるが、自分で決めた原則がある。一つはオークションでは見もしないで購入するため、実際買うとがっかりすることもあるし、稀に偽物であることもあるので、3万円以上にものはオークションで購入しないことにしている。唯一、シンシナティー美術館に寄贈した香川芳園の大国主の絵は研究対象であり、“京都府画学校出仕”と署名された貴重なものであることから何としても落札しようとし、結果、8万円超えとなった。それ以外の購入品についてはすべた3万円以下のもので、コレクターとしてはケチの部類に入るだろう。青森のような田舎に住んでいると、近くに骨董屋、画廊も少ないので、ネットで買うことが多い。友人のプレゼントもネットオークションで買う。

 

シンシナティー美術館のHさんとNさんは三度も弘前に来てくれた。わざわざ来てくれたのでお土産を渡すことにしているが、あまり高価なものは負担になるので1万円以下、できれば5千円以下のものを探す。最初に来たときは、弘前の版画家、下澤木鉢郎の作品をプレゼントした。確か1万円くらいで購入した。わずかな白黒の色彩で見事に冬の弘前を表現したもので、大変喜ばれた。2回目に来た時は明治時代の版画家、揚州周延の版画がこれもオークションで、1万円前後で出ていたので、コンデションのいいものを落札してプレゼントした。3回目に来た時は、よく行く成田書店で、弘前で数多く出版されている豆本の中でも、版画が多く、弘前の郷土玩具と風景を扱った四冊を購入し、これをあげた。いずれもあまり荷物にならないものを選んだ。もちろん全て額なしで、ファイルに挟んでプレゼントした。

 

娘にも、あまりありがたがっていないと思うが、絵のない暮らしは無味乾燥なので、絵やカラフルな北欧陶器を送ることにしている。フィンランドのイラストレーター、マッティー・ピックヤサムの原画イラストを一枚一万円くらいで神戸のmarkkaというところで大量に売っていたので3枚ほど購入し、あげたが、明るい画風で気に入ってもらった。またスウェーデンの版画家、Mona Johanssonの作品も好きなので、これも1万円前後なので落札して送ったが、これはイメージが暗くて喜ばれない。また北欧のテーブルウエアについては、主としてヤフーオークションとMother Sweedenという会社から購入したものを送っている。

 

以前、ネットで購入した平凡パンチの表紙で有名な大橋歩さんの原画、いくらくらいするかとネット買取業者に写真を添付して送ったところ、買取価格が、その原画が載っている本、「すてきが好き 大橋歩のファッションイラストレーション集」込みで2000円とのことであった。本を2000円で買ったので、原画の値段は0円査定ということであった。この買取価格は、あまりに大橋さんに失礼なので、アパレル会社に務める娘にやった。大事にしてほしい。他に20万円くらいで買った19世紀のアンティーク、コーカサスの絨毯と1940年に作られたイラン、セネのキリム、も5件ほどに査定に出したが、いずれも買取価格は2000円であった。白鶴美術館に関わる中東ラグの第一人者、竹原さんが厳選したものだが、それでも買取価格はこんなものである。本棚にベルント・フリーベリなどの北欧陶器が飾っているが、おそらくオフハウスやセカンドストリートに持って行っても五百円くらいなのだろう。今は素人でも画像検索で、どんなものでも売値はわかるので、買い手のボリュームを考えてこの値段にしているのだろう。リユース商売の鉄則は、いかに安く買い、高く売るに尽きる、さらに言えば早くという要素も含まれる。とりわけ在庫ばかりが増えると、倉庫代なども高くつく。すぐに売れるものが、買取額が高い。先に述べたコーカサス絨毯でも、多分、セカンドストリーで2000円の査定、絨毯専門店で2、3万円、そして売値が20万円くらいになるのだろう。洋服店の祖利益率はだいたい70%くらいで高いが、魚屋、電気屋、コンビニは30%くらいの商売が多い中、リユース店の場合は、中古車業者などと違い、なかなかすぐに売れる商品は少ない。洋服店以上の祖利益率は高いのだろう。おそらく90%は欲しいだろう。ただ高く仕入れれば、売値は上がり、売れないという循環となり、中古家具、中古絨毯、画廊、古着(高級)などの商売も厳しい。またメリカリなどでせいで中古価格が決まってくると、ますます安く買取ができなくなる。おそらく大手のリユース店では、収益より回転を上げて薄く利益を上げ、価値のあるものだけを独自ルートでもっと収益を上げるようなやり方があるのだろう。

 

 



2026年5月15日金曜日

佐藤愛子さんが亡くなった 偲ぶ


 

佐藤弥六の書


小説家の佐藤愛子さんが亡くなった。102歳という。昨年、亡くなった母と同じ年である。娘さんが書いた「憤怒の人 母・佐藤愛子のカケラ」(杉山響子、小学館)をちょうど読んでいる最中で、晩年の生活は、まるっきり母と同じであった。少し転んだだけで骨折、そして手術、ほとんど眠っていて、昼夜の区別がつかない、耳は聞こえない。最後は食事が極端に少なくなり、水分も取れなくなって眠るように亡くなった。老衰とはこうした死なのである。老人ホームの職員が夜中の3時に見回りに来た時にはすでに息絶えていた。母の場合、不思議なことがあった。耳は遠く、認知症も進み、こちらの存在はあまりわからないようであったが、私のブログを姉が画用紙に清書した文は読んでいた。よほど本を読むのが好きだったのだろう。

 

佐藤愛子さんの父親は佐藤紅緑、祖父は佐藤弥六、この父と母のことは代表作の「血脈」で書かれていて、愛子さん自体も自分に流れる津軽の血を意識し、また生まれ育った場所を愛した。「血脈」の執筆にあたり、父、祖父のことを調べたのだろう。父のことはもちろんそばにいて知っていただろうが、父の弘前時代、あるいは祖父の弥六のことはこの小説を通じて知り、自分の中にも熱い津軽の血が流れているのを知ったのだろう。今東光というと、悪名などの河内を舞台にした小説を思い起こすだろう、べらんめいな口調や行動などから河内の人のように思われるかも知れないが、本人は津軽の人と心底信じていた。同様に佐藤紅緑も有名小説家になり、阪神間、東京に住むようになると、都会人の雰囲気を身につけたが、気持ち的には生涯、津軽人としての矜持があった。流石に孫の愛子さんになると津軽を離れて二代、「血脈」を描くまで、そんな血が自分に流れているとは思っていなかったに違いない。

 

佐藤愛子さんの祖父、佐藤弥六は典型的な津軽の奇人で、弘前藩を代表するインテリで、慶應義塾の初期の塾生で、福沢諭吉からの信頼も厚かった。また今日のりんご王国、青森の基礎を作った人物であったが、とにかく変わっていた。いわゆるじょっぱりという性格で、自分に言いたいことを誰であろうといい、行動する。止めても怒る。校長であろうと、市長であろうと関係ない。ところが常に福沢諭吉を尊敬し、白板に福沢に名前を書いて、毎朝、手を合わせていたという。

 

以前、佐藤弥六の最晩年、亡くなった大正12年に書かれた書を手に入れた。今は弘前郷土文学館にあり、内容については文学館の方で解釈し、説明文がある。

全文をここに挙げる。

 

「朝げに夕べは測られぬは寿命なり。移り易くして頼みがたきは人の心なり。神仏は敬すべくして祈願は頼ずべからず。法律は上下相互の約束より成立てるもの。予防の道具と知るべし。無理が通ふれば道理が引っ込む。真素面で此世は渡られず。才智は身を誤るの本なり。才子は才を恃んで怠り且つ驕る。愚者は分を守て勉めて成功す。見よや業成而後才子も才ならず。愚も愚ならず。官爵は人為僥倖の名称のみ。人爵貴からず。天爵尊びて爵然と独立して奪うべからず。冨貴は順番、貴賤は廻り持。不義にして冨貴ならんよりは清廉にして貴賤なれ。凡画人は依頼心ある時は中正を失うものなり。独立自主自ら省みて疾しからず。己が言はんと欲する所を云ひ其為さんと欲する所を為す。以天賦の性を畫さざるべからず。勤倹なれば富み怠慢なれば貧す。人間の幸福は邦に勤労し家に節倹するより生ずるものなり。

                              大正十二年二月  八十二翁弥六書

 

この書幅が何のため、誰に書いたのはわからないが、通常、誰かに与える書にこんに長文を書くことはない。ましてや最晩年、82歳、今でいえば90歳以上の老人がこれほどしっかりした筆使いの書を書くとは見事としか言いようがない。内容的には家訓に近い感じがする。佐藤家への家訓と見ても良さそうな内容です。

 

佐藤愛子さんは祖父の書幅を知らないだろうが、おおよそ彼女の生き方は祖父の家訓に沿っているように思える。安心して天国に行かれよ。祖父、父からは怒られはしないだろう。佐藤家の血を引く後継者として十分に活躍した。

 

 

ご冥福をお祈りします。






2026年5月13日水曜日

津軽のカミサマ

 



今、ネットフリックスで、占い師で有名だった細木数子の一生を描いた作品が放送され、話題になっている。私自身、占いはあまり信じない方だが、それでも人から貴方の今年の運命はこうだから注意しなさいと言われれば、少しは気にする。

 

あれは開業前のことであるが、1994年の年末、家内の母親が津軽地方独特の慣わし、カミサマ(ゴミソ)と呼ばれる占い師のところに行き、開業して成功するか見てもらった。そのお告げでは、5年以内に失敗するからやめた方がいいというものだった。すでに医院もほとんどでき、あとは開業するだけの段階であったので無視した。ただ後になっても嫌な気分は残った。

 

こうした何か迷いごとがあれば、カミサマのところに相談に行くのは、津軽地域ではごく普通である。テレビなどではイタコの口寄せなどが興味本位で語られることは多いが、実際、亡くなった人の言葉を口寄せで聞くというより、何か迷いごとや家族の運勢を占ってもらうことが多い。岩木山山麓の赤倉地域は昔から霊場として有名でだが、普通の家に神棚のようなものがあり、女性の占い師が、相談に乗ることが多い。一番多いのは結婚相手、就職、病気などで、占い料も結構安くて確か3千円くらいである。信じる人はたとえ、私のように高額な費用を払った事業でも辞める人がいるようで、わけがわからない。もちろん、占いなので、文句は言えない。私の場合はその後、30年間、開業していたが、特に問題はなく、占いは100%外れた。逆に言えば、よく本物の神様でもないのにカミサマと称して、人の運命を平気に語れるなと、その厚顔さに呆れる。

 

ただ大阪人としては、この占い師は頭が悪いと思ってしまう。なぜなら占いで悪い結果を喋り、3千円の鑑定料をとるくらいなら、それを解決する方法を伝授しないと金にはならない。たとえば、今年開業するのはかなり危険であるが、この仏様を毎日、祈祷すれば、難を逃れるとし、その仏像を十万円で売ればいい。人の運命を言い切るくらいの勇気があるのであれば、その厚かましさのまま、解決法も伝授すべきであろう。

 

よくあるのは結婚相談で、母親が娘の結婚を相談にきて、やめた方がいいというお告げをもらったとする。これを娘に言えば、当然母と娘の間に軋轢が生まれる。外れても娘は親を恨むだろうし、当たれば親はそれ見た事かと思うだけである。いずれもいいことはない。宗教ではその解決法を提示するが、津軽のカミサマは言いっぱなしであり、それもオブラートに包んだ表現が苦手な津軽人はひどいことをいう。

 

うちの両親は、神戸の宗教団体に入り、何かさまざまな悩みを教祖に相談していたが、大抵は何らかの解決法、教祖が家にきて、祈祷するなどをしていた。つまり占いとその解決がパックとなっていた。この宗教団体には多くの地元企業のオーナーが相談に来て、成功した場合は、多大の寄付をしていた。中には今では超有名な企業の会長が、企業の方針を決定するためのよく相談に来ていた。2つの方針があったとしよう、熟考に熟考を重ねても決断をできない案件に関して、最後をこの教祖に決めてもらうということで、コイントスで決めるよりはましと考えたのだろう。気持ちに踏ん切りをつける上でも、こうした霊感を持つ教祖が必要だったのだろう。大本教の出口王仁三郎に可愛がられた教祖であった。個人的は今でも尊敬している。

 

寺山修司の描くおどろおどろしい世界は今でも津軽では残っており、日常生活の中にカミサマのような存在が時折、顔を出すところである。そしてあそこのカミサマはよく当たるとして、何度も訪れる人も多い。近くのロピアでも、レジ前に電気治療器?の案内をする会場があったが、連日、満員御礼状態が続き、ロングランとなり、今は五階にさらに大きな会場を作っている。ここもいつ見ても満員である。また健康食品の催眠商法も弘前では人気があり、会場前は自転車でいっぱい、中を覗くとたくさんの老人がいる。聞いた話では他県に追っかけに行く老人もいるようだ。






2026年5月12日火曜日

高校生の部活動を考える 北越高校の事故から


テレビタレント、前の国会議員の杉村太蔵さんが、テレビで今回の北越高校のバス事故について、公共交通手段を使って移動できないような遠征試合はそもそもおかしいのではないかと語っていた。杉村太蔵さんというと昔はお馬鹿キャラであったが、最近は発言もしっかりしており、共感を得るものが多く、今回の彼の発言に私は全面的に賛成である。事故の責任云々は連日テレビで放送されているが、いくら強豪校とはいえ、他県、それも距離の離れたところまで遠征して試合するのはどうかなあと思ってしまう。事故があった北越高校のソフトテニス部は新潟では圧倒的に強く、インターハイでも女子が準優勝したこともある。強豪校で、実力を高めるためには自分たちより強いクラブと練習試合することは大事なことなのだろう。これのもっと極端な例は、高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグ プレミアムリーグで2011年から始まった。24チームが西と東の地区に分かれ、ホームアンドアウェイで試合をする。移動には大きな費用がかかり、年間で数百万円になるというが、一部は日本サッカー協会が補助している。このリーグに参加している青森山田高校などは学校に何チームもあり、これらのチームもそれぞれ遠征するので、トータルの遠征費は大変な金額となる。

 

私が中高校の時はどうだったかというと、当時の六甲学院のサッカー部は兵庫県でも強豪校で、全国高校総体に出場したり、近畿大会でも優勝した。北越高校ほどではないが、それほど弱くもなかった。年間でもかなり多く、他校との練習試合をしたが、車で移動することはなく、神戸市内あるいは阪神間の学校に限定していた。現地集合あるいは学校から電車、バスで移動した。他県との学校と試合することは、近畿大会、高校総体、全国高校サッカーくらいで。そうした大会に出場するチャンスがなければ他県とのチームと試合することは稀であった。

 

他県まで行って練習試合をするようになったのはいつ頃かとAIで調べると、平成6年(1994年)に高校野球で“他県への遠征を含む練習試合”が解禁された。つまり32年前までは他県まで練習試合に行くことは禁止されていた。解禁された一番大きな理由として雪国、寒冷地の不利解消、グランドが使えない冬場の練習のため、などが挙げられた。一方、反対意見としては、遠征費を出すことができない学校との経済的格差、野球への過度な偏重などが挙げられている。その後、野球以外の他の部活にも広まり、今や他県へ遠征して強豪校と練習することが常態化した。

 

日本の社会で問題と感じていることは一度、決まったことはなかなか変えないことである。他県へ遠征して練習試合をすることが解禁されたのは、32年前で、逆に言えば、それまでの何十年間は禁止されていた。今回の問題は氷山の一角で、こうした事故は後を絶たない。ここで、元に戻すことは検討できないのだろうか。学校での部活、特にスポーツについては、学業の一環としての活動であり、プロの選手を育てるものではない。先進的なスポーツシステムが確立しているサッカーで言えば、プロサッカー選手は、ほとんどが各チームの下部組織(U-12.15.18)から入ってきており、高校のサッカー部からプロになる選手は限られている。生徒数の減少、学校の部活も地域のスポーツクラブに移行しており、オリンピック選手もむしろ学校よりこうした民間のクラブが主体となっている。

 

このような現実を考えると、学校での部活は、せいぜい趣味の範囲にとどめ、どうしても本格的にスポーツをしたい人は民間のクラブに入れば良い。もちろん趣味の範囲のスポーツなので、県外までの遠征は禁止すればいいし、全国大会も必要ない。せいぜい県大会、あるいは東北大会のような地域大会くらいであろう。欧米では小中高校のスポーツの全国大会は基本的には存在せず、過激な競争を警戒している。昔、うちの子供が中学生の頃に、膝の十字靭帯が切れて入院したことがある。その時に一番驚いたのは小学校で肩、肘を壊して手術を受けた子供が2名入院していた。大人ならいざ知らず、小学校で肩肘を壊し、手術を受けるとは完全に指導者の責任である。

 

学校での部活活動が民間のスポーツクラブへの移行という流れの中で、他県への遠征、練習試合の禁止、全国大会(特に小学生の)の廃止の議論が必要と思われる。特に全国大会を廃止すれば、他県の強豪校に練習試合をする必要も減るので、自然に経費のかかる遠征も減るだろう。北越高校では今でもアホみたいに練習しているのだろう。ソフトテニスのプロは全国で10名、試合だけで生活している選手は3-5名、ソフトテニス人口は50-60万人、つまり一生懸命、他県に遠征して、全国大会に出場し、優勝したとしても、それで食っていけるのは10-20万人の一人という現実を考えると、一生懸命練習して上手くなるのはいいのだが、何のために必死になっているのか、指導者はよくよく考えるべきである。全ての指導者には、少なくとも子供のメンタル、身体に対する配慮が必要で、国のガイドラインでは、部活の練習時間は、平日では一日2時間以内、週に2日以上の休養日が決められている。これを極端に超える場合は、大会出場の停止くらいの処分が必要で、こうしたガイドラインの遵守も含めて北越高校を調査してほしい。かわいそうだが、こうしたスポーツ校は全国にあり、その実態について文科省でも正確に把握し、見せしめでもいいので厳しい処分を課すことを検討してほしい。


 

2026年5月9日土曜日

一万時間の法則

 



映画「かくかくしかじか」は、漫画家、東村アキコさんの自伝的な映画で、大泉洋が演じるスパルタ教師、日高先生が圧倒的に面白い。日高先生の口癖は「描け、描け、とにかく描け」と叫ぶ。それに反発して主人公は仮病まで使って脱出しようと思うが、最後は結局、そのスパルタ絵画塾でひたすらデッサンの練習をする。

 

一万時間、何かに熱中して取り組めば、その分野のプロになれるという法則がある。この「かくかくしかじか」の原作者、東村アキコさんも大学卒業するまでは漫画が好きで、漫画家になりたいと思っていたが、漫画を描くことはなかった。本格的に漫画を描き始めたのが24歳の頃で、デビュー作を書いている。おそらく絵を描き始めたのは、日高先生の塾に行ってから、17歳頃からで、美術大学卒業までの5年間と、卒業後の2年間だけでは、多分に1万時間に達しなかったのだろう。その後、モーニングで連載を持つようになったのは31歳の時で、絵を描き始めて14年間でプロになった。デビュー後、漫画家として生きようと決意した後は、多分1日十時間以上、年間で300日、3000時間は漫画を描いたとすると、約4年で一万時間に達する。

 

私の場合、矯正歯科の患者を診ていた時間は1日で五時間ほど、年間220日として、1100時間、これが42年間で46200時間となる。逆に一般歯科の先生では、120人来る患者のうち1名が矯正患者、治療時間が30分とすると、年間で110時間、一万時間に到達するまでに90年以上かかることになる。本についてどうかというと、本格的に読書をしだしたのは大学に入ってからで、その後は、年間百冊読み、50年間、5000冊となる。一冊二時間として本を読んできた時間は、すでに一万時間に達しているだろう。一方、書く方でいうと、ブログを始めたのは20076月からで19年近くになる。ブログ数は1844件で、一編書くのに通常一時間ほどなので、1884時間、まあ2000時間くらいであろうか。さらに本を五冊描いているが、それぞれ、300時間くらいはかかっているので計1500時間で、ブログと本で3500時間くらいか。これでは死ぬまでに一万時間に達しないだろう。

 

とにかく描け、描け、だけでは、今はなかなか人がついてこないと思うが、どの世界でも経験、実践が必要なことは間違いない。多分、専門にして10年、一万時間が、多くの実例から必要な時間、期間なのだろう。私など、毎週1回、ここ15年くらい英語のレッスンを受けているが、午後7時間半から9時までの1時間半、5人で集まっているので、一人一人の時間は少ないとしても、1.5×50×15=1125時間となる。レッスン以外の日は1分も勉強していない。太平洋戦争当時、アメリカ軍のよる情報取得を目的とした日本語学校のカリキュラムでは14時間の授業が週6日、4時間以上の自習を戦前は3年間、戦時下は18ヶ月であった。3年間で7200時間、18ヶ月で3600時間となる。おそらく配属後も含めれば1万時間に達するのだろう。

 

もちろん個人の素質、教育システム、などにも影響するだろうが、どんな天才でも1ヶ月の練習でピアノやサッカーのプロにはなれず、天才の上の長期の練習をして初めてプロになれる。今後、AIの発達により何十年かけて習得した技能が一瞬でいらなくなる時代が来ると思うが、それでもAIで代替わりできない、そして長い年月の修業が必要なものはなくならないし、価値が今以上に出てくる。一万時間というのは結構長い時間であり、これからトライする人はよほどよく考え、AIの取って代わるものでない、生き残れるかを検討すべきである。逆に言えば、プロになるのに1万時間かかるような技能はAIに置き換われず、なまじ有名大学の文系に行くよりは、農家、大工、料理人、美容師、などの技能を1万時間学ぶ方が有望なのかもしれない。もし若く、一万時間かけるものはと言われれば、ギターやピアノのような楽器を選ぶであろう。一日一時間、年間300時間、大学生など時間があれば、もっと練習をすれば25年間くらいで一万時間に達するだろう。一生の趣味になる。もちろん仕事も、18時間のうち実働4時間、年間で1000時間働ければ10年でその仕事のプロになれそうなので、寿司職人、大工、左官、自動車整備など経験、技能を要する仕事であれば、それくらいは頑張りたいものである。


2026年5月2日土曜日

日本のオタク文化


以前、昭和12年、イギリス、ロンドンに飛んだ朝日新聞社の神風号のイラストを描いた。太平洋戦争以前の飛行機の方が、機体が洗練されていないので面白い。この神風号については、イギリス側の鮮明な写真は多く残っていて、また副操縦士、堀越賢爾についても興味があったので、以前のブログでも取り上げた。イラストの参考本としては、2007.8に発行された航空ファン「日本人が熱狂した大飛行 神風号とニッポン号」を持っているので、それに載っている写真を使った。東京、立川飛行場を出発したのは昭和1246日の午前2時の真夜中であった。滑走路を強力なアメリカのスペリー社の探照灯で照らし、出発した。この直前の画像が航空ファンに載っている。この写真は朝日新聞社の資料提供となっているが、他の多くの写真は田村俊夫という方から提供された。

 

この田村俊雄という人を調べてみると、東京の会社員の方で、飛行機関係の本を集めるのが趣味で、国内のみならず海外でも飛行機関係の資料を集め続けた。そして「J-Bird写真と登録記号で見る戦前の日本機」という大部の本を出版した。昭和20年までのすべての民間飛行機の登録番号順に機名、愛称、エンジン、所有者などを網羅した究極のオタク本と呼べる。こうしたミリタリーオタクと呼ばれる人は日本には数多くおり、極めて狭い分野の研究を行っている。田村さんは、その一人である。映画監督の宮崎駿さんもミリタリーオタクであるが、それ以上にすごいのは片渕須直監督で、日本陸海軍機塗装の第一人者である。当時の機体内部色を自分で再現しようかというほどの入れ込みで、こうした細部にこだわるアマチュアの研究者が多くいて、ミリタリーものを出版すると多くの間違いが指摘される。

 

他国のことはそれほど知らないが、航空関係の図書は欧米のものが多く、航空史、航空機のアマチュア研究者も多い。それに比べてアジアでは、こうしたアマチュアのオタク研究者は少ないように思える。アジアでは日本が唯一と言ってもよかろう。航空ファンが創刊されたのが昭和27年で、すでに74年の歴史を持ち、プラモデル製作も含めて日本の飛行機ファンの数、年齢層は広い。おそらく韓国でも中国でも飛行機が好きな人は大勢いるが、韓国で航空関連の雑誌が創刊されたのが1989年、中国でもアマチュア向けの世界航空が出版されたのが1999年頃、台湾には民間航空を主として扱った世界民航雑誌が1997年に創刊された。そのほかではタイの航空専門誌は2013年、ベトナムは2025年、インドネシア、フィリピンにはない。日本以外のアジア諸国では、空軍の歴史が短いのが理由の一つである。

 

ここからは勝手な推理であるが、飛行機、ミリタリー関係についてのオタクは日本では古くから大勢いたが、日本以外のアジアでは、ごく最近になって出始めたくらいで、こうしたアマチュアの趣味一般についても、数、内容についてもアジアでは日本が突出しているように思える。書店の雑誌コーナを眺めれば、あらゆる種類の趣味雑誌が並んでいる。そして歴史が長い。自転車専門誌のサイクルスポーツも創刊が1970年、自動車雑誌になるとモーターファンは1925年創刊、カーグラフィックは1962年とすごい歴史を持つ。盆栽に至っては大正十年創刊という盆栽という雑誌もあった。こうした趣味を扱った雑誌の背景には、趣味を楽しむ多くの人が存在し、書店に並ぶ趣味の雑誌を数と歴史を考察すると、日本というのはよほどオタク、趣味人の多い国だと痛感される。

 

日本では、江戸時代という平和で文化的な時代があり、庶民の中にも趣味を楽しむ人が多かった。とりわけ驚くは算術と本草学(博物学)で、どちらもひどく高度な趣味であるが、町人、農民に中にも多彩な趣味人がいて、全国的に盛んであった。もちろん茶道、華道、などだけでなく、三味線や琴も習う人、俳句や短歌を嗜む人、書を愛でる人は普通にいた。こうしたオタク文化は江戸時代に発展した。他のアジア諸国については詳しいことは知らないが、それでもこうした多様多種の趣味を庶民が持つような文化は日本以外になかったのではなかろうか。江戸時代、庶民は絵画を愛し(浮世絵版画)、詩を吟じ(俳句)、草木をめで(園芸)、音楽を奏で(三味線、琴)、演劇を楽しむ(歌舞伎)、贔屓のスポーツを見る(相撲)、お笑いを楽しむ(落語)、ペットを飼う(犬、猫、金魚)、などなど、これらの趣味の多くは今でも残っている。それに対して朝鮮の庶民の趣味といえば、演劇ではタルチュム、パンソリなど素人劇に近いプリミティブなもので、また音楽でもサムルノリ、ミノと呼ばれる民謡のようなもの、文芸においても時講と呼ばれる俳句のようなものがあったが、文盲率の低さで日本ほど活発ではなかった。

 

広い意味では日本文化は今のアニメ、ゲームの繋がるオタク文化の系統である。韓国では伝統文化として日本の俳句に当たる時調というものがあるが、数百万人という俳句人口に比べて愛好者は格段に少なく、ヘグムと呼ばれる弦楽器も日本の三味線人口に全く及ばない。






 

2026年5月1日金曜日

好意、親切=感謝の連鎖

 


私は、道で迷っている人がいれば、「どうしましたか。お探しのところがあるのですか」と聞く方だし、観光地で写真撮影をしているカップルやグループがいれば、「写真撮りましょうか」と声がけする方である。少し親切にしただけで、ものすごく感謝されたり、喜ばれたり、楽しい会話になることもあり、なんだか一日、暖かい気分になり、嬉しい。

 

ところが最近では、どうも断れることが多い。道はスマホでわかると思っているのだろうし、スマホが盗まれるのを恐れているのかもしれないが、中にはひどい扱いをされることがある。昨年の弘前桜祭り、外国人のカップルに写真を撮りましょうかと尋ねると、男性から「No! No!」と険しい顔で否定され、彼は指を立てて怒った。身なり綺麗にしているし、そんな怪しそうではないと自分では思うが、せめて「No Thank you」くらいは言って断ったらと思う。これ以降、決して外国人、それも白人には向こうから言われない限り、無視することにしている。同様に、道を探している観光客にも、親切に教えようとしても、答えもせず手で横に振って追い払われたこともある。何か、詐欺師か、悪者になった感じで気分は悪い。おそらくこうした人は、他の場所、機会でも同じような対応をするのだろう。

 

人には、親切にする人とそうでない人、親切を受けて感謝する人とそうでない人がいて、多分、親切にする人=感謝する人、親切にしない人=感謝しない人になのだろう。親父は歯科医をしていて、子供の頃は夜間、診療が終わってからでも急患が来れば診ていたが、応急処置をして次の日には来るようにと言っても来ない患者がいた。あくまで好意、親切心から夜中に診療しても、痛みがなくなれば来ない、こうしたことがたて続きに起こると、夜間に電話が来ても居留守を使うようになる。10人が感謝しても、一人が好意を踏みにじれば、二度と親切はしない。これが現実である。

 

関係ない話になるが、診療所に来ると、トイレに入り、いつもトイレットパーパーを半分くらい使い、三度も詰まらせる人がいた。注意をするとかなりキレられたが、おそらく、スーパー、駅、デパート、会社などあちこちで同様なことをしているのだろう。1000人が正しいトイレの使い方をしていても、一人が間違った使い方をすれば、トイレットペーパーは置かなくなる、注意書きをするところも出てくる。問題は、こうした親切をバッサリと拒否する人やトイレを詰まらせる人は、自分が悪いことをしているとは思っていないことである。注意すれば多分キレルので、誰も何も言われない。本人は周囲にどれだけ迷惑をかけているのかわかっていない。

 

最近では、人との接触をさける、煩わしいと思う人が増えてきた。それでも人に親切にされたら、感謝する、喜ぶくらいはしてもよさそうではないか。親切を素直に喜ばない、拒否する態度は、自然に周りの人から親切されなくなり、孤独化していく。最初に述べた白人カップルも片方の女性が彼氏の態度に嫌そうな顔をしていて、何か注意をしていた。多分、写真を撮ってあげると親切に言ってくれているのに、あんなひどい態度を取らなくてもと言っていたのだろう。ただこの白人男子も、過去に写真を写しましょうといわれて好意に甘えたところ、スマホを盗まれた経験があったのかもしれない。好意―感謝の連鎖を続けるのは意外と難しい。百人連鎖が続いて一人のせいで切れてしまう。最近は、電車やバスで席を譲られることがある。以前は少しムッとしたこともあるが、近頃はよく感謝して好意に甘えるようにしている。好意、親切を受けたら、素直に受けて感謝する、好意―感謝の連鎖を切ってはいけない。

 

今年の弘前桜祭りでは、家内と二人で弘前城を散歩していたところ、台湾、中国の女の人から身振りで写真撮りましょうかという誘いがあった。もちろん喜んで撮ってもらい、感謝した。その日、一日楽しい気分になった。一人の白人男性の行為にめげずに、また「Can I take your picture」と言おう。