2026年3月4日水曜日

歩行者優先の土手町

 

メルボルンでは街の活性化を目的に、車の侵入を制限、禁止するエリアを拡大している



弘前でも随分前からコンパクトシティー、中心市街活性化などの政策が計画されているが、それほど成果が上がっていないどころか、そのメインになる土手町の凋落がひどい。土手町近くの知人の歯科医、古書店まわりみち文庫の店主も、中三デパートがなくなってから、土手町は決定的に寂れたという。前は診察を受けてから、本を眺めてから中三に行くというパターンが崩れたという。まず今泉書店がなくなり、次に紀伊国屋書店がなくなり、サイクマ、そして中三デパートがなくなり、今は土手町に大型店自体がほとんどなくなった。大型店といえば、数年前に建ったハッピードラッグくらいで、ルネスが一度再開されたもののまた閉館したままだし、あとは銀行、マンションくらいで、最近は土手町の道沿いに普通の住宅が建てられるようになったし、空き地は駐車場になっている。代官町にいたっては、個人店がなくなり、大きなアパートが建てられており、繁華街というよりは普通の住宅地になりつつある。

 

中三デパートの跡地についても、何度か東奥日報でも取り上げられ、東京の不動産会社が取得したようで、マンション建設を計画しているという。ただ弘前の中古マンション市場を見ていると、土手町のマンションは中三デパートがなくなったため、以前より売れにくくなっており、近くに食料品を購入できるスーパーがないだけに新築マンションを建設しても売れるか、心配であろう。ここ10年くらいで新たに4つくらいのマンションが弘前でも建つが、最初ほど売れなくなり、ニューキャスルホテルの跡地もそのままになっている。

 

土手町に新たな商業施設を作っても、もはや客を呼べるようにはならないように思える。少子化、若者の流出に伴い、弘前の人口は相当減っており、大型の商業施設を作っても建築費に見合う集客は不可能であろう。こうした前提の上、実現は不可能と思うが、思い切った方法としては、土手町全体を歩行者天国、遊歩道公園にすることである。今でも土手町を通る車のほとんどはただの道として使っており、仮にこれが通行止めになっても、中央通りなど迂回路はあり、実際、カルチャロードやねぷたで通行禁止になってもそれほど問題はない。土手町で店をしている人から見れば、車が通らなくなると客が来なくなるというが、店の前に車が止まっているのは、蓬莱橋近くのクレープ店の前くらいであるし、駐車場ばかりの商店街は寂しい。

 

逆に中土手から下土手全てを、公園にして、冬場も完全に融雪、除雪するようにして、ジョギングや散歩するようにできれば、マンション、住宅の住民は家の前に公園になり、また雰囲気のいい公園なら喫茶店、レストラン、などの客も増えそうである。もちろん弘前駅から上土手町のプロムナードを見ても、全く人通りは少ないが、それでもたまには朝市があったり、子供たちが水場で遊んでいたり、高校生のカップルが歩いたりするのは楽しい。条件としては、完全な融雪と除雪で、冬場の大雪の季節でも、ここに来ればスニーカでジョギング、散歩ができる、犬の散歩もOKであることが重要である。冬場のワーキングコースとしてヒロロが解放されているが、それに続く、えきどてプロムナード、さらに旧大成小学校跡地も公園になるようなので、これに土手町が公園化されれば、弘前駅から弘前城までの遊歩道が完成する。自転車道も整備できれば個人的には嬉しい。さらにいうなら土手町で若者が新たな店を出す場合は、市から補助金が出るような制度や、キッチンカー向けの電気、水道施設の完備など、小さな映画館も欲しい。

 

これは夢のような話で、まず実現することは難しい。すでに土手町側からしか入れない駐車場もあり、車の通行止めになると商売ができないし、自宅がある人も大変である。ただ車中心の社会だから土手町もそれに合わせようとするのはナンセンスで、郊外の大型店舗に敵わない。緑があり、ゆっくり散歩しながら小さな雑貨屋さんや食堂、喫茶店、プティックに入ったり、天気がよければ、外にテーブルと椅子があり、そこでコーヒを飲みながらサンドイッチを食べるのもいい。車社会に対応するために土手町にも多くの駐車場ができたが、欠けた櫛のようになり、逆に来客数は減っている。結局、土手町の車の交通量と買い物客数とは無関係であり、むしろ実際に歩く人の数、買い物にくる人の数を測るべきである。少なくとも土手町を公園化しても今と同じように歩く人は急には多くならないと思うが、それでも居心地のいい空間になれそうである。歩行者優先の設計が必要である。

2026年3月2日月曜日

今純三

 


津軽は奇人・変人の多いところである。「津軽奇人伝」(原子昭三著)という本があるほどで、さらには一冊では書ききれず「続津軽奇人伝」まで発行された。以前のブログでも書いたが(2013.10.4)、個人的に津軽を代表する奇人、変人を挙げると、小説家の佐藤愛子の祖父、佐藤弥六、慈善運動家の佐々木五三郎、今東光の父、今武平、冒険家の笹森儀助、中国革命に協力した山田良政、純三郎兄弟、考現学の今和次郎、版画家の棟方志功、小説家の葛西善蔵、画家の平尾魯仙がいる。詩人の福士幸次郎もよほど変わっており、佐藤紅緑に息子のサトウハチロウの教育的監視を頼まれていながら、変人ハチロウも驚くほど、無邪気に過ごす人物である。これらの奇人・変人の共通するのは、多くは貧乏であり、ある意味、生活破綻者と言ってもいいかもしれない。奥さんや子供には相当な苦労を強いた。今なら、奥さんは早々に離婚していたであろう。最近でいえば、奇跡のリンゴで有名な木村秋則さんもそうである。一旦、何かに熱中すると、金も家族も目に入らず、一気に進んでいく、こうした生き方をした。

 

この津軽の奇人、変人の系譜の中に一人また加わった。画家、版画家の今純三である。兄の考現学を作った早稲田大学教授の今和次郎も一生、ジャンバーで通すという変わった人であったが、それでも早稲田の先生をしていて、生活的に困ることはなかった。ところが、弟の今純三は、青森県立師範学校の絵の先生をし、定期的な収入があり、生徒からも愛されていたが、突如、芸術は一部の金持ちのためではない、良い絵を安い値段でみんなに買ってもらい楽しんでもらおうと、学校を辞め、自宅で印刷を始めた。エッチングの薬品や機材を買って、朝から晩まで自分で作品を描いて、一家総出で印刷した。ただ絵は安くても売れず、次第に貧乏になっていく。それなのに怪我をしたカラスを拾ってきて、家で飼い、家がカラスのクソだらけになったり、またある日は、愛していたレコードを斧で叩き割り、蓄音機は分解されてエッチングの機械の一部となった。金がなく、魚屋から安値で鱈とホッケの頭50ほどを買ってきて塩辛のような酒のつまみを作って売ろうとするが、結局、娘の弁当におかずになる。そうした貧窮の中で病気となり亡くなる。遺骨は今家の墓所に埋められるが、墓石がなく、参拝者がその辺の小石を遺骨の埋まっているあたりに立てて供養する。

 

今純三の娘、小倉ミキが書いた「父・今純三のこと」にはこうしたエピソードがたくさん書かれている。県立師範学校の生徒や多くの人からは慕われ、この本には追悼文も収められている。津軽の人は情熱的な教育者になることが多く、知人の一人、浜田英一は、純三の死ぬ一週間前に病院で会った際に、次のような言葉を聞いた。全文を引用する。

 

「私は思うのだが、情熱とは、最初に思ったことを生涯やり続ける意志があることだと思う。それはなかなか大変だ。まず、カンナガラを集め、木屑の木っ葉を集めてくる。一本のマッチで点火をし、次に小割りの薪をくべてしばらく炎が勢いづき、徐々に大きな薪を燃やし、石炭も石油も燃やし続け、最後に、鉱脈の中に青い炎に点火することだ。けれども、なかなかその鉱脈に点火しがたいのだ。プツリと、そこで燃やし続けた火が消える。そんなことがあるものだ。しかし、もう一度初めに戻って、カンナガラを集め、小さな薪を燃やすことから始めようとするには、前の五倍も十倍もの勇気がいると思う。そしてまた燃やし続けるのだが、人の生命には限りがあって、途中で命が尽き、そこで倒れる。鉱脈に点火することが出来なかったりする。それだっていいじゃないかーー私はそうは思っていない。」

レンブラントの晩年の言葉に「一人広野を行く時も高く頭をもたげ微笑みてゆけ」と同じ精神だと浜田はいう。貧困のため、友人、知人からの見舞いの食品に喜ぶ子供たち、感謝する妻を残して死にゆく画家の最後の言葉である。名もない、金もない画家が人生を嘆いて、あえて負け惜しみの発言をしたわけではない。高貴な奇人である。

 


2026年2月27日金曜日

『家に探る苗字となまえ』(井戸田博史著、吉川弘文館、2025)

 

明治8年弘前地籍図 駒越付近


弘前の近代史を調べていると、江戸後期、幕末の人の苗字と名前につては、悩まされる。というのは江戸時代の士族は、多くの名を持っていて、さらに簡単に名を変えるため、同じ人物であっても、資料により別の人物のように見える。例えば、植物学者で弘前大学の学長でもあった郡場寛の父親、白戸(郡場)直世は箱館戦争で重傷を負い、その治療のために酸ヶ湯温泉を開拓した。白戸家の実家の場所を特定する際、徳田町にある白戸浪江の家が怪しいが、ところが白戸直世の父親の名は白戸東太郎である。さらに調べると東太郎は通称で、実名は白戸浪江であることがわかった。つまり白戸浪江(東太郎)―白戸直世―郡場寛となる。

 

こうしたこともあり、以前からこの苗字、通称、実名などについて整理したいと考えていた。最近、再販された『家に探る苗字となまえ』(井戸田博史著、吉川弘文館、2025)は参考になった。

 

この本を参照に少し解説する。

 

明治になるまで、日本の苗字、名前は複雑で、足利尊氏の弟、直義を例にすると

足利(名字) 左馬頭(官名、通称) 源(氏) 朝臣(姓) 直(実名) となる。

 

また乃木希典の父は

乃木(苗字) 十郎(通称)  源(氏) 希次(実名)  となる

 

氏は、源、平、藤原、橘の4つでほとんどカバーされ、また氏の尊貴を示す称号である姓も次第に無実化していき、通常は、苗字+官名、通称+実名が重視されるようになった。

 

大石内(苗字)蔵助(官名)良雄(実名)や堀部(苗字)安兵衛(官名、通称)武庸(実名)となる。さらに幼名、字、号などもあるし、改名も頻繁に行われたので、滝沢馬琴は35の名前があった。

 

士族については、こうした名前であったが、士族以外の百姓、商売人は、苗字はなく、主として通称で呼ばれていた。ただ明治になると、こうした通称のみでは近代的中央集権国家を確立するには不都合で、戸籍法の実施、徴兵制などを実施するには、全国民を苗字と名で掌握する必要が出てくる。そこでまず最初に出された法案は明治三年9月の「平民苗字許容令」で、さらに明治82月には「平民苗字必称令」が出され、ここで国民皆姓が完成した。

 

当初は、苗字+実名でしか認めなかったが、庶民の多くは通称、律令などに由来した官名(兵衛、衛門、助)を称していたので、権兵衛を権平に、太郎左衛門を太郎にしたが、一方、政府高官でも大久保一蔵(苗字+実名)は大久保利通、大隈重信(通称は八太郎)、西郷隆盛(通称は吉之助)にしたが、板垣退助(苗字+通称、実名は正形)や大村益次郎(実名は永敏)とさまざまで、特に実名を持たない庶民は困ったことになり、明治五年5月には実名か通称のいずれか一名ということになった(復名禁止令)。

 

こうした観点で、明治二年弘前絵図と明治八年弘前地籍図を比べると、前者は明治三年の平民苗字許容令以前のもので、士族しか名前が載っていないが、ここでの記載はほぼ苗字+通称で、苗字+実名は少ない。その後、明治8年には平民苗字必称令」が出るが、明治八年地籍図では、すべての平民にも苗字がついており、少なくとも弘前市内では国民皆姓となっていたことがわかる。さらに明治311月には国名、旧官名禁止令が出され、基本的には苗字+実名となっているものの、実際、明治二年弘前絵図と明治八年弘前地籍図を見ても通称から実名に変わったものは少ない(権平のように兵衛を兵にするようなものも含めて)。どうも日常では苗字+通称の方がしっくりくるように思ったのだろうが、次の代になると次郎左衛門のような通称よりは隆仁のような実名ぽい名前が選ばれるようになった。


青森県の新築住宅着工 2割減

 


225日の東奥日報によると2025年度の青森県の新設住宅着工戸数は前年度の19.8%減の3454戸になり、1961年以来64年ぶりに4千戸を下回ったことを伝えている。

 

1970年から80年頃は18000戸の新設住宅着工戸数があったことを考えると、およそ1/6になったことを意味し、減少は八年連続で、さらに着工数が減りそうである。そして新聞では、その原因を資材、金利の上昇が影響していると分析している。

 

具体的にいえば、私が家を建てた1995年、青森県の住宅建築費は普通、坪40-50万円くらい、安い工務店で建てれば40坪の家で1600万円くらいだった。80坪の土地付きで2800万円以下で立派な家が建てられた。当時の青森県の平均所得は約299万円であった。そして今は青森県でも住宅建築費は坪100万円以上かかり、建てるとなると家だけで4000万円、土地を入れると5千万円以上となる。この30年で40坪の住宅で1600万円から4千万円、土地は幾分やすくなったとしても総額で3千万円から5千万円になった。そして青森県の平均所得は2024年度が305万円で、1995年度とほとんど変わらない。また人口も1995年度が150万人、2024年度が120万人と30万人も減少している。

 

つまり所得がほとんど変わらないのに、新築の家を建てようとなると80坪の土地付き住宅(40坪)が2800万円から5000万円になったことを意味する。全額、35年で借金するとなると、金利2%2800万円では毎月9.3万円が、5000万円では毎月16.6万円となる。所得300万円、月収25万円のうち借金の返済が17万円、68%となる。共稼ぎしていても厳しい数値である。

 

これを東京で考えると一億円のマンションを購入した場合の月々の返済額は33.2万円であるが、東京の平均所得は644万円で、月収で54万円、返済額は61%となる。返済額の比率は青森県とあまり違わないが、共稼ぎの男女の収入が同じと仮定すると、青森県では25万円×2-17万円(返済)=33万円だが、東京では54万円×2―33万円(返済)=75万円が生活費となる。つまり青森県では家の返済以外の生活費が33万円しかないが、東京では75万円あることを意味する。実際、東京の方が物価は高いが、それでも光熱費、食費などは大きな差がなく、東京以上に経済的に厳しい。青森県で、5000万円の家を建て、返済して生活費に月75万円を残すには、夫婦で92万円の収入、つまり年収で4612=552万円の所得が必要となる。青森県ではこうした高収入の仕事は少ない。

 

10年前であれば、積水ホームなどの大手建築会社より地元の工務店で家を建てる方がよほど安かったので、青森県ではあまり大手メーカーの建物はなかったが、最近では、地元工務店と値段的に競合してきたので、大手メーカの建物が多くなった。なぜこうしたことが起こるのかはわからない。資材が高騰しているのは間違いないが、大手メーカーはスケールメリットと工期の短縮で値段に転化していないのか。

 

新築住宅着工は、建設会社のみならず、電気工事、水道工事、塗装工事、家具の購入、など周辺産業への波及効果が大きく、地域経済に利する。その大きな経済効果が以前の1/6になったことはそれだけ景気も悪化することを意味する。以前であれば、普通の仕事を真面目にしていれば、60坪くらいの一戸建て住宅は何とか購入できたが、今や夫婦共稼ぎでもかなり厳しい状況であり、それが婚姻件数の減少、出生数の減少につながり、さらに県人口の減少につながっている。

 

周囲を見回しても、空き家や駐車場ばかりとなり、若い人は東京などの都会に就職し、地元には年配の世代ばかりが残る。スーモなどで中古住宅の物件を見ても500万円以下の物件がかなり多い。おそらく子供が東京などの都会に住み、亡くなった親の家を処分しようとしているのだろう。これがなかなか売れず、結局は建物の解体費、固定資産税がかかり、負の遺産となっていく。こうした物件が徐々に増えており、解体費が売却費より高い場合は、相続者は遺産放棄して国の所有となるが、確か売れない場合は、相続放棄しても国に負担金を払わないといけなかったと思う。実際、青森県の郡部ではこうした土地が増えている。


2026年2月25日水曜日

マイブーム

 



弘前上空の神風号


少し前までのマイブームは、矯正用ワイヤーを用いての1/24の自転車作りであった。矯正用機材の一つ、コバルト・ニッケル合金、0.4mm0.5mm0.8mm0.9mmサイズのワイヤーが多量にあったので、これを活かして何かできないかと思ったのが、ミニチュア自転車作りであった。自転車の構成としては、ホイール+タイヤ、フレーム、ステム、ハンドル、ペダル、変速機、チェーンとなる。ロードレーサーのフレームは大体22mmくらいなので、やや細いが0.9mm線で構成すれば作れると考えた。トップ、ダウンチューブなどは0.9mm線をろう着すれば、なんとかできると考え、最初は得意の自在ろう着、つまりフリーハンドで2つ、3つのワイヤーを銀ロウでろう着した。ただ平行性などが難しく、アマゾンで自由に動くジグが安く売っていたので、これを使うと完全に思ったようにろう着できる。ステム、ハンドル、ペダルあるいはブレーキも何とか自作でき、フロントギアも腕時計の部品を使える。ただホイールについては金属製の丸リングに0.4mm線をろう着したりしたが、うまくできなかった。それでも何とかできたので、三点ほど知り合いの中古家具屋さんに東京(Tokyo Modernism 2025)に持って行ってもらって、売れるか試してもらった。3000円くらいで売れるなら、老後の趣味にしようと思っていたが、これがさっぱり売れない。

 

Facebookで調べると、埼玉のMasayuki Yamamotoさんという方が1/12であるが、超人的な技術を駆使して極めて精巧な自転車模型を作っているのを知った。チェンを一個づつ作るという信じられない精巧さで、依頼を受けて製作しているプロ?の方である。この人に作品に比べれば、私のものなど大人と赤ちゃん、虫以下のレベルで、これで自転車製作は諦めた。矯正用ワイヤー、プライヤー、ジグ、バーナも他の先生にあげた。もう作れない。

 

その後、1/24のタミヤ、ハセガワのフィギュアを作っていたが、どうもオタクぽくなり、ややエッチな路線に行きそうになったので、子供の頃に描いていた飛行機の絵を描くことにした。中学1、2年生の頃から航空ファンという雑誌が好きで、別冊の世界の傑作機シリーズも模型作りの参考に買った。そこにはおまけのような形で折りたたみ紙面でカラーの美しい飛行機の側面図が描かれていて、楽しみだった。その後、小池繁夫という天才的な飛行機画家が現れ、タミヤやハセガワのプラモデルの多くのボックスアートは彼が描いた。独特の空気感があり、飛行機イラストでは世界的に人気がある。私も彼のイラスト作品集を買ったが、本当にすごい。さすがにこの領域に行くのは無理であるが、老後の楽しみ程度で、飛行機の絵を描いてみることにした。

 

一つには戦記物漫画で有名な滝沢聖嶺さんの絵を参考に、2B鉛筆でざっとラフ画を描いていき、次第に細い鉛筆、0.01のサクラ、ピグマで輪郭を描き、水彩で着色しようと思った。飛行機のイメージは、前の家から捨てずに持ってきた世界の傑作機シリーズが百冊くらいあるので、その中から好きな飛行機を選んで、写真を探した。また最近はYouTube で飛行中の飛行機をデジタルで再現している作品がたくさんあるので、それも参考にした。他にも飛行機イラストレーターで有名なのは、ロマン・ユーゴーという方で、その著書「Angel Wings」を購入した。絵は素晴らしいが、内容はあまり理解できず、アニメのストーリーについて外国ものは違和感が強い。

 

日本の爆撃機を中心に描いてきたが、少し風景も入れようと、昭和12年、朝日新聞主催で、東京―ロンドン間を飛行した神風号を描いた。最初は着陸地のロンドン上空を飛んでいる姿を描こうと思ったが、急遽、弘前上空を飛んでいるところを描こうと思った。史実にそうしたことはない。昭和12年当時の弘前といえば、ほぼ民家は板葺で、押さえに石を多数、屋根の上に置いた。トタン屋根も少しずつ普及してはいたものの、まだまだである。そうした弘前の上空を飛ぶ神風号を描いた。今回はマスキング液を使って光沢部を描こうとした。まあまあうまくいったが、背景が全くいただけない。水彩画の基本を学ばなければいけない。

 

最近のイラストは、ほとんどデジタルで書いており、飛行機イラストも、飛行機の位置を自由に動かし、構図も色々と変更できるし、雲や海、森などの表現やボカシも自由にできる。それに比べて筆で描くのはかなり面倒であるが、逆にAIを使えばいくらでも精密な絵を描けるため、デジタルで描いた絵とAIで描いた絵の見分けはできない。




2026年2月15日日曜日

子供の頃の遊びを老後楽しむ

96式陸上攻撃機

四式重爆撃機

93式重爆撃機、宮崎駿の風立ちぬにも出ていました

一式陸上攻撃機


仕事もやめ、引退生活をしている。人からは暇でしょうと言われるが、本人はそれなりに忙しい。やっていることは、漫画を読み、本を読み、映画を見、テレビを見、絵を描き、プラモデルを作り、ブログをして、散歩をしている。これだけじゃ暇なので、以前、ふるさと納税で買った電子サックスを吹いているが、ドレミから先、シャープ、フラットキーが覚えられない。ハーモニカは、マンション生活で近隣の迷惑になるかもしれないので、吹けない。ネットオークションもマンションの収納が少なく、むしろさらに断捨離をしないといけないくらいで、買うと確実に家内に叱られる。靴、服もできるだけ減らしたいので、新しいものは買いにくい。アマゾンの注文がずいぶん減った。最近、アマゾンで購入したものでいえば、ロマン・ユゴーの“Angel Wings”、”戦闘機の描き方 翼と機体“、これらは飛行機の絵を勉強するために購入した。他には筆やハセガワのフュギアなどで、さらにヤフーオークションでの落札はほとんどない。

 

つらつら考えると、今やっていることの多くは子供の頃にしていたことで、歳をとって昔のことをしているだけである。漫画については、小学校の低学年頃から少年マガジンを高校三年生までずっと読んでいたし、その前は近所の貸本屋で借りていたほどで、その歴史は長い。本も小学生の頃からずっと読んでおり、今でも年間百冊は読んでいる。テレビはもちろん、映画も子供の頃から東宝の怪獣ものは全て見たし、プラモデルも小学生の頃から熱中した。今は戦闘機、爆撃機のイラストを描いているが、これも小学生の頃に描いていたものである。他に小学校のときに何をしていたかというと、銀玉鉄砲、これは今のサバイバルゲームに通じ、ちょっと興味はあるがしていない。ビー玉、べったんなどの遊びは、単純な遊びというよりはギャンブルに近い。ビー玉、べったん遊びは、自分の持っている多数のビー玉、べったんをかけて勝負をする、負けるといっぺんに持っていかれるような遊びで、ギャンブル性は高い。また古面(フルメン)と言って古い時代劇スターなどが描かれたべったんは価値が高く、売っているべったん、これは厚い画用紙に印刷しているものを自分で切るのだが、古面一枚で100枚以上の価値があり、いわゆるコレクションの類となっている。こうした古面は大切に保管するだけでなく、勝負にも実際に使われ、強いものは価値も上がる。私の場合は、親も忙しく、好きにやらせてもらったおかげで、小学校の頃から航空ファンやその別冊世界の傑作機も買ったし、零戦はやと、オオカミ少年ケーンのソノシートも持っていた。またスロットカーというコントローラで速度調整をしてレースをするものもあったが、兄と一緒に購入したスロットカーを持って三和商店街のサーキット場によく行ったが、これはさすがにラジコンカーの趣味にはならなかった。自宅の屋根がベランダで、そこでは屈折望遠鏡でよく天体観察をしていて、中学生の頃は月刊天文ガイドもよく買っていたので、今でもその頃の知識はある。またラジオ製作にも興味があり、最初は子供の科学から初歩のラジオに進み、ゲルマニウラジオから五球スーパーまでいこうとし、通信教育では無線、ハムの免許を取ろうとしたが、送られてきた教本の多さに途中でギブアップして、そのままである。切手も親父が好きだったので、近くの郵便局に新しい記念切手が発行されると並んで買ったくらいで、今でのその頃の切手帖があり、東京オリンピックの切手がいっぱいある。ローラスケートをしたのは小学生の3年生の時からで、中学生になると、大阪にあったラサ国際スケート場で滑った。最初はフィギュア、そしてホッケー、最後はロングという長距離用のスケート靴を履いて外周を回っていた。野球は近所の軟式野球チームに入り、セカンドをしていたし、水泳学校にも一時通っていた。他にはそろばん、絵画、習字も習っていた。姉と兄は、ピアノを習っていたが、私は音楽関係の習い事はしておらず、いまだに音楽は苦手である。

 

いやいろんなことをしている。漫画、テレビ、本、プラモデル、天体観測、ビー玉、べったん、銀玉鉄砲、スロットカー、無線ハム、ローラスケート、スケート、切手、野球、そろばん、水泳、絵、習字、中学になるとサッカー(大学卒業まで)、映画、レコード、大学生になると雑誌ポパイに感化されて自転車、ファッション、旅行に興味を持ち、ロードレーサを買って上から下まで自転車野郎になって仙台から松島までよく行った。ファッションはヘビーディティーという今のアウトドアファッションが好きだった。旅行は日本国内だけでなく、インド、中国にも行ったが、いい思い出となっている。歯科医になってから始めたのは、ブログ、それに関連する郷土史、本の出版など、ビンテージの北欧陶器、コーカサスのラグ、イランのキリム、名作家具、そして日本画の収集と研究などがある。

親が子供の趣味に寛大でやりたいといえば、すぐにやらせてくれたので、広く、薄く、いろんなことを知っていおり、引退してもそうしたものを楽しむことができて感謝している。家内からは少し“イッテイル人”と言われているが、趣味の多さとそれを追求しようとする気持ちはそうかもしれない。のめり込む体質があるようで、香川芳園の研究をしていて、ロシア、中国、イタリア、アメリカの研究者と何度も長文の英語でのメールやり取りをしていると、趣味を超えているなあとふと思う。

 

ただ引退生活をしていて、羨ましいのは音楽活動をしている友人で、この年齢になってもバンドを組んでライブ活動をしている。子供の頃、若い頃に親がピアノやギターを習わしてくれたらと残念である。音楽は習得するためには、才能だけでなく、集中的な練習が必要で、バンド演奏をするために覚えるといった外部からのプレッシャも必要かもしれない。娘二人にピアノを習わせたが、全く役に立たなかった。

 

いろんなことをしているが、それまで仕事で8時間働いていたと同じような内容を趣味でカバーするのは難しく、結局は暇つぶしということに尽きる。

 

 







 

2026年2月12日木曜日

マンションの壁紙とインテリア

 

USMハラーとKartellのキャビネット、コーカサス、カラチョフの絨毯、リサ・ラーソンのマーリン、ハンス・ブリングのオスカー(偽物)、お袋の絵

昨年の7月に今のマンションに引っ越してきた。年々、雪片付けがキツくなり、昨年、家内が背骨を疲労骨折し、私もテニスもしていないのにテニス肘になったことから、転居を考えた。もちろん雪片付けが一切必要ないマンションへの転居である。

 

最初は、医院近くに新築のマンションができるので、そこがいいかと思ったが、建築価格の上昇により、従来価格より20%は高くなっている。ほぼ同じ大きさ、設備のマンションが1、2年の差で一千万円近く値上げとなる。そこでコンデションの良い中古マンションを探すことにしたのが、昨年の1月頃で、毎日、スーモで中古マンションを探した。当初は、繁華街のある土手町付近のマンションもいいかと思ったが、中三デパートがなくなり、近くで食料品を購入できず、買い物をするところがない。そういうわけで弘前駅前のロピア近くの中古マンションを探していると、築2年の未入居物件が見つかった。すぐに見学したところ、かなりオプションもつけた豪華な作りで、全く使われた形跡がない。オーナーによると母親のために買ったが体調が悪くなり、老人ホームに入居したため、未入居で売ることにしたという。値段的には購入時価格よりやや安いくらいであったが、新築のマンションよりは断然安いので、思い切って購入した。幸い古い家もすぐに買手が見つかり、今は雪のないマンション生活をエンジョイしている。

 

マンション自体は未入居で綺麗な状態で、リフォームする必要はなかったが、まず備え付けのIHが新品だが、自宅で使っていたものよりランクがかなり落ちるため、交換した。トイレも一番安いモデルが使われていたので、これも自宅のものと交換したかったが、これは工事が大変なので諦めた。他には玄関前の壁紙が高級ラブホテルみたいだったので、どうしても変えたかった。まあ壁紙くらいは何でもいいように思えるかもしれないが、前の家を建てた時にかなり勉強し、壁紙はドイツで生まれたルナファザーという塗装用下地壁紙を使うことにした。かなり厚くて凸凹にある素材で、貼ってから、塗装を塗る構造となっており、古くなり、汚くなったら、壁紙を替えるのではなく、塗り替えする。7、8回は可能なので、おそらく数十年は壁紙を交換する必要もなく、エコの点でも優れている。なりより安い壁紙に比べて高級感が強く、個人的には絵画を飾るためには最も適した壁紙だと考えている。

 

家内からは新品の壁紙を剥がしてこのルナファザーに変えるのは勿体無いと言われたが、これだけは押し通した。天井はそのままにして、玄関廊下とリビングだけ、このルナファザーに替えたが、非常に満足している。おすすめである。

 

ソファは前の家を建てた時にアクタスから買ったドイツのムスタング社のソファで、皮が傷んでいたものの、まだ使えると判断し、マンションに持ってきたが、エレベータ、玄関はOKだったが、廊下からリビングに入るところで引っかかり持ってこられなかった。最初はブルーノマットソンのハイバックチェアに座っていたが、どうも寛げないので、青森のF-Beyondでデンマークのアイラーセンのソファーを購入した。また前の家は多くの作り付けの収納棚があったので、キャビネットはなかった。ただマンションは極端に収納スペースがないので、診療所からKartellの円形のキャビネットを持ってき、また壁面に大きなキャビネットが欲しかった。当初は、北欧のビンテージのものを探していたが、どうも収納の点では使い勝手が悪そうで、最終的には娘が将来欲しがるであろうUSMハラーの二段のものをF-Beyondで購入した。カーキがベージュで迷ったが、マンションの床の色に合わせた。

 

今回、ルナファザーという壁紙を使った。中古マンション購入の際、あまり費用をかけずにリフォームするなら、このルナーファザーも一つの選択肢になる。前の家も含めて26年間、この壁紙を使っているが、高級感があり、個人的にはコスパは高いと思う。従来のビニルクロスは焼却時のダイオキシンの発生やホルムアルデヒド含有などの理由で、ヨーロッパではルナファーザのような紙クロスが主流になっているが、日本のマンションではあまり使っていない。


ルナファーザーの壁紙 丸山直文の水彩画

元々のビニルクロスの壁紙 石井崇の水彩画