2026年5月12日火曜日

高校生の部活動を考える 北越高校の事故から


テレビタレント、前の国会議員の杉村太蔵さんが、テレビで今回の北越高校のバス事故について、公共交通手段を使って移動できないような遠征試合はそもそもおかしいのではないかと語っていた。杉村太蔵さんというと昔はお馬鹿キャラであったが、最近は発言もしっかりしており、共感を得るものが多く、今回の彼の発言に私は全面的に賛成である。事故の責任云々には連日テレビで放送されているが、いくら強豪校とはいえ、他県、それも距離の離れたところまで遠征して試合するのはどうかなあと思ってしまう。事故があった北越高校のソフトテニス部は新潟では圧倒的に強く、インターハイでも女子が準優勝したこともある。強豪校で、実力を高めるためには自分たちより強いクラブと練習試合することは大事なことなのだろう。これのもっと極端な例は、高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグ プレミアムリーグで2011年から始まった。24チームが西と東の地区に分かれ、ホームアンドアウェイで試合をする。移動には大きな費用がかかり、年間で数百万円になるというが、一部は日本サッカー協会が補助している。このリーグに参加している青森山田高校などは学校に何チームもあり、これらのチームもそれぞれ遠征するので、トータルの遠征費は大変な金額となる。

 

私が中高校の時はどうだったかというと、当時の六甲学院のサッカー部は兵庫県でも強豪校で、全国高校総体に出場したり、近畿大会でも優勝した。北越高校ほどではないが、それほど弱くもなかった。年間でもかなり多く、他校との練習試合をしたが、車で移動することはなく、神戸市内あるいは阪神間の学校に限定していた。現地集合あるいは学校から電車、バスで移動した。他県との学校と試合することは、近畿大会、高校総体、全国高校サッカーくらいで。そうした大会に出場するチャンスがなければ他県とのチームと試合することは稀であった。

 

他県まで行って練習試合をするようになったのはいつ頃かとAIで調べると、平成6年(1994年)に高校野球で“他県への遠征を含む練習試合”が解禁された。つまり32年前までは他県まで練習試合に行くことは禁止されていた。解禁された一番大きな理由として雪国、寒冷地の不利解消、グランドが使えない冬場の練習のため、などが挙げられた。一方、反対意見としては、遠征費を出すことができない学校との経済的格差、野球への過度な偏重などが挙げられている。その後、野球以外の他の部活にも広まり、今や他県へ遠征して強豪校と練習することが常態化した。

 

日本の社会で問題と感じていることは一度、決まったことはなかなか変えないことである。他県へ遠征して練習試合をすることが解禁されたのは、32年前で、逆に言えば、それまでの何十年間は禁止されていた。今回の問題は氷山の一角で、こうした事故は後を絶たない。ここで、元に戻すことは検討できないのだろうか。学校での部活、特にスポーツについては、学業の一環としての活動であり、プロの選手を育てるものではない。先進的なスポーツシステムが確立しているサッカーで言えば、プロサッカー選手は、ほとんどが各チームの下部組織(U-12.15.18)から入ってきており、高校のサッカー部からプロになる選手は限られている。生徒数の減少、学校の部活も地域のスポーツクラブに移行しており、オリンピック選手もむしろ学校よりこうした民間のクラブが主体となっている。

 

このような現実を考えると、学校での部活は、せいぜい趣味の範囲にとどめ、どうしても本格的にスポーツをしたい人は民間のクラブに入れば良い。もちろん趣味の範囲のスポーツなので、県外までの遠征は禁止すればいいし、全国大会も必要ない。せいぜい県大会、あるいは東北大会のような地域大会くらいであろう。欧米では小中高校のスポーツの全国大会は基本的には存在せず、過激な競争を警戒している。昔、うちの子供が中学生の頃に、膝の十字靭帯が切れて入院したことがある。その時に一番驚いたのは小学校で肩、肘を壊して手術を受けた子供が2名入院していた。大人ならいざ知らず、小学校で肩肘を壊し、手術を受けるとは完全に指導者の責任である。

 

学校での部活活動が民間のスポーツクラブへの移行という流れの中で、他県への遠征、練習試合の禁止、全国大会(特に小学生の)の廃止の議論が必要と思われる。特に全国大会を廃止すれば、他県の強豪校に練習試合をする必要も減るので、自然に経費のかかる遠征も減るだろう。北越高校では今でもアホみたいに練習しているのだろう。ソフトテニスのプロは全国で10名、試合だけで生活している選手は3-5名、ソフトテニス人口は50-60万人、つまり一生懸命、他県に遠征して、全国大会に出場し、優勝したとしても、それで食っていけるのは10-20万人の一人という現実を考えると、一生懸命練習して上手くなるのはいいのだが、何のために必死になっているのか、指導者はよくよく考えるべきである。全ての指導者には、少なくとも子供のメンタル、身体に対する配慮が必要で、国のガイドラインでは、部活の練習時間は、平日では一日2時間以内、週に2日以上の休養日が決められている。これを極端に超える場合は、大会出場の停止くらいの処分が必要で、こうしたガイドラインの遵守も含めて北越高校を調査してほしい。かわいそうだが、こうしたスポーツ校は全国にあり、その実態について文科省でも正確に把握し、見せしめでもいいので厳しい処分を課すことを検討してほしい。


 

2026年5月9日土曜日

一万時間の法則

 



映画「かくかくしかじか」は、漫画家、東村アキコさんの自伝的な映画で、大泉洋が演じるスパルタ教師、日高先生が圧倒的に面白い。日高先生の口癖は「描け、描け、とにかく描け」と叫ぶ。それに反発して主人公は仮病まで使って脱出しようと思うが、最後は結局、そのスパルタ絵画塾でひたすらデッサンの練習をする。

 

一万時間、何かに熱中して取り組めば、その分野のプロになれるという法則がある。この「かくかくしかじか」の原作者、東村アキコさんも大学卒業するまでは漫画が好きで、漫画家になりたいと思っていたが、漫画を描くことはなかった。本格的に漫画を描き始めたのが24歳の頃で、デビュー作を書いている。おそらく絵を描き始めたのは、日高先生の塾に行ってから、17歳頃からで、美術大学卒業までの5年間と、卒業後の2年間だけでは、多分に1万時間に達しなかったのだろう。その後、モーニングで連載を持つようになったのは31歳の時で、絵を描き始めて14年間でプロになった。デビュー後、漫画家として生きようと決意した後は、多分1日十時間以上、年間で300日、3000時間は漫画を描いたとすると、約4年で一万時間に達する。

 

私の場合、矯正歯科の患者を診ていた時間は1日で五時間ほど、年間220日として、1100時間、これが42年間で46200時間となる。逆に一般歯科の先生では、120人来る患者のうち1名が矯正患者、治療時間が30分とすると、年間で110時間、一万時間に到達するまでに90年以上かかることになる。本についてどうかというと、本格的に読書をしだしたのは大学に入ってからで、その後は、年間百冊読み、50年間、5000冊となる。一冊二時間として本を読んできた時間は、すでに一万時間に達しているだろう。一方、書く方でいうと、ブログを始めたのは20076月からで19年近くになる。ブログ数は1844件で、一編書くのに通常一時間ほどなので、1884時間、まあ2000時間くらいであろうか。さらに本を五冊描いているが、それぞれ、300時間くらいはかかっているので計1500時間で、ブログと本で3500時間くらいか。これでは死ぬまでに一万時間に達しないだろう。

 

とにかく描け、描け、だけでは、今はなかなか人がついてこないと思うが、どの世界でも経験、実践が必要なことは間違いない。多分、専門にして10年、一万時間が、多くの実例から必要な時間、期間なのだろう。私など、毎週1回、ここ15年くらい英語のレッスンを受けているが、午後7時間半から9時までの1時間半、5人で集まっているので、一人一人の時間は少ないとしても、1.5×50×15=1125時間となる。レッスン以外の日は1分も勉強していない。太平洋戦争当時、アメリカ軍のよる情報取得を目的とした日本語学校のカリキュラムでは14時間の授業が週6日、4時間以上の自習を戦前は3年間、戦時下は18ヶ月であった。3年間で7200時間、18ヶ月で3600時間となる。おそらく配属後も含めれば1万時間に達するのだろう。

 

もちろん個人の素質、教育システム、などにも影響するだろうが、どんな天才でも1ヶ月の練習でピアノやサッカーのプロにはなれず、天才の上の長期の練習をして初めてプロになれる。今後、AIの発達により何十年かけて習得した技能が一瞬でいらなくなる時代が来ると思うが、それでもAIで代替わりできない、そして長い年月の修業が必要なものはなくならないし、価値が今以上に出てくる。一万時間というのは結構長い時間であり、これからトライする人はよほどよく考え、AIの取って代わるものでない、生き残れるかを検討すべきである。逆に言えば、プロになるのに1万時間かかるような技能はAIに置き換われず、なまじ有名大学の文系に行くよりは、農家、大工、料理人、美容師、などの技能を1万時間学ぶ方が有望なのかもしれない。もし若く、一万時間かけるものはと言われれば、ギターやピアノのような楽器を選ぶであろう。一日一時間、年間300時間、大学生など時間があれば、もっと練習をすれば25年間くらいで一万時間に達するだろう。一生の趣味になる。もちろん仕事も、18時間のうち実働4時間、年間で1000時間働ければ10年でその仕事のプロになれそうなので、寿司職人、大工、左官、自動車整備など経験、技能を要する仕事であれば、それくらいは頑張りたいものである。


2026年5月2日土曜日

日本のオタク文化


以前、昭和12年、イギリス、ロンドンに飛んだ朝日新聞社の神風号のイラストを描いた。太平洋戦争以前の飛行機の方が、機体が洗練されていないので面白い。この神風号については、イギリス側の鮮明な写真は多く残っていて、また副操縦士、堀越賢爾についても興味があったので、以前のブログでも取り上げた。イラストの参考本としては、2007.8に発行された航空ファン「日本人が熱狂した大飛行 神風号とニッポン号」を持っているので、それに載っている写真を使った。東京、立川飛行場を出発したのは昭和1246日の午前2時の真夜中であった。滑走路を強力なアメリカのスペリー社の探照灯で照らし、出発した。この直前の画像が航空ファンに載っている。この写真は朝日新聞社の資料提供となっているが、他の多くの写真は田村俊夫という方から提供された。

 

この田村俊雄という人を調べてみると、東京の会社員の方で、飛行機関係の本を集めるのが趣味で、国内のみならず海外でも飛行機関係の資料を集め続けた。そして「J-Bird写真と登録記号で見る戦前の日本機」という大部の本を出版した。昭和20年までのすべての民間飛行機の登録番号順に機名、愛称、エンジン、所有者などを網羅した究極のオタク本と呼べる。こうしたミリタリーオタクと呼ばれる人は日本には数多くおり、極めて狭い分野の研究を行っている。田村さんは、その一人である。映画監督の宮崎駿さんもミリタリーオタクであるが、それ以上にすごいのは片渕須直監督で、日本陸海軍機塗装の第一人者である。当時の機体内部色を自分で再現しようかというほどの入れ込みで、こうした細部にこだわるアマチュアの研究者が多くいて、ミリタリーものを出版すると多くの間違いが指摘される。

 

他国のことはそれほど知らないが、航空関係の図書は欧米のものが多く、航空史、航空機のアマチュア研究者も多い。それに比べてアジアでは、こうしたアマチュアのオタク研究者は少ないように思える。アジアでは日本が唯一と言ってもよかろう。航空ファンが創刊されたのが昭和27年で、すでに74年の歴史を持ち、プラモデル製作も含めて日本の飛行機ファンの数、年齢層は広い。おそらく韓国でも中国でも飛行機が好きな人は大勢いるが、韓国で航空関連の雑誌が創刊されたのが1989年、中国でもアマチュア向けの世界航空が出版されたのが1999年頃、台湾には民間航空を主として扱った世界民航雑誌が1997年に創刊された。そのほかではタイの航空専門誌は2013年、ベトナムは2025年、インドネシア、フィリピンにはない。日本以外のアジア諸国では、空軍の歴史が短いのが理由の一つである。

 

ここからは勝手な推理であるが、飛行機、ミリタリー関係についてのオタクは日本では古くから大勢いたが、日本以外のアジアでは、ごく最近になって出始めたくらいで、こうしたアマチュアの趣味一般についても、数、内容についてもアジアでは日本が突出しているように思える。書店の雑誌コーナを眺めれば、あらゆる種類の趣味雑誌が並んでいる。そして歴史が長い。自転車専門誌のサイクルスポーツも創刊が1970年、自動車雑誌になるとモーターファンは1925年創刊、カーグラフィックは1962年とすごい歴史を持つ。盆栽に至っては大正十年創刊という盆栽という雑誌もあった。こうした趣味を扱った雑誌の背景には、趣味を楽しむ多くの人が存在し、書店に並ぶ趣味の雑誌を数と歴史を考察すると、日本というのはよほどオタク、趣味人の多い国だと痛感される。

 

日本では、江戸時代という平和で文化的な時代があり、庶民の中にも趣味を楽しむ人が多かった。とりわけ驚くは算術と本草学(博物学)で、どちらもひどく高度な趣味であるが、町人、農民に中にも多彩な趣味人がいて、全国的に盛んであった。もちろん茶道、華道、などだけでなく、三味線や琴も習う人、俳句や短歌を嗜む人、書を愛でる人は普通にいた。こうしたオタク文化は江戸時代に発展した。他のアジア諸国については詳しいことは知らないが、それでもこうした多様多種の趣味を庶民が持つような文化は日本以外になかったのではなかろうか。江戸時代、庶民は絵画を愛し(浮世絵版画)、詩を吟じ(俳句)、草木をめで(園芸)、音楽を奏で(三味線、琴)、演劇を楽しむ(歌舞伎)、贔屓のスポーツを見る(相撲)、お笑いを楽しむ(落語)、ペットを飼う(犬、猫、金魚)、などなど、これらの趣味の多くは今でも残っている。それに対して朝鮮の庶民の趣味といえば、演劇ではタルチュム、パンソリなど素人劇に近いプリミティブなもので、また音楽でもサムルノリ、ミノと呼ばれる民謡のようなもの、文芸においても時講と呼ばれる俳句のようなものがあったが、文盲率の低さで日本ほど活発ではなかった。

 

広い意味では日本文化は今のアニメ、ゲームの繋がるオタク文化の系統である。韓国では伝統文化として日本の俳句に当たる時調というものがあるが、数百万人という俳句人口に比べて愛好者は格段に少なく、ヘグムと呼ばれる弦楽器も日本の三味線人口に全く及ばない。






 

2026年5月1日金曜日

好意、親切=感謝の連鎖

 


私は、道で迷っている人がいれば、「どうしましたか。お探しのところがあるのですか」と聞く方だし、観光地で写真撮影をしているカップルやグループがいれば、「写真撮りましょうか」と声がけする方である。少し親切にしただけで、ものすごく感謝されたり、喜ばれたり、楽しい会話になることもあり、なんだか一日、暖かい気分になり、嬉しい。

 

ところが最近では、どうも断れることが多い。道はスマホでわかると思っているのだろうし、スマホが盗まれるのを恐れているのかもしれないが、中にはひどい扱いをされることがある。昨年の弘前桜祭り、外国人のカップルに写真を撮りましょうかと尋ねると、男性から「No! No!」と険しい顔で否定され、彼は指を立てて怒った。身なり綺麗にしているし、そんな怪しそうではないと自分では思うが、せめて「No Thank you」くらいは言って断ったらと思う。これ以降、決して外国人、それも白人には向こうから言われない限り、無視することにしている。同様に、道を探している観光客にも、親切に教えようとしても、答えもせず手で横に振って追い払われたこともある。何か、詐欺師か、悪者になった感じで気分は悪い。おそらくこうした人は、他の場所、機会でも同じような対応をするのだろう。

 

人には、親切にする人とそうでない人、親切を受けて感謝する人とそうでない人がいて、多分、親切にする人=感謝する人、親切にしない人=感謝しない人になのだろう。親父は歯科医をしていて、子供の頃は夜間、診療が終わってからでも急患が来れば診ていたが、応急処置をして次の日には来るようにと言っても来ない患者がいた。あくまで好意、親切心から夜中に診療しても、痛みがなくなれば来ない、こうしたことがたて続きに起こると、夜間に電話が来ても居留守を使うようになる。10人が感謝しても、一人が好意を踏みにじれば、二度と親切はしない。これが現実である。

 

関係ない話になるが、診療所に来ると、トイレに入り、いつもトイレットパーパーを半分くらい使い、三度も詰まらせる人がいた。注意をするとかなりキレられたが、おそらく、スーパー、駅、デパート、会社などあちこちで同様なことをしているのだろう。1000人が正しいトイレの使い方をしていても、一人が間違った使い方をすれば、トイレットペーパーは置かなくなる、注意書きをするところも出てくる。問題は、こうした親切をバッサリと拒否する人やトイレを詰まらせる人は、自分が悪いことをしているとは思っていないことである。注意すれば多分キレルので、誰も何も言われない。本人は周囲にどれだけ迷惑をかけているのかわかっていない。

 

最近では、人との接触をさける、煩わしいと思う人が増えてきた。それでも人に親切にされたら、感謝する、喜ぶくらいはしてもよさそうではないか。親切を素直に喜ばない、拒否する態度は、自然に周りの人から親切されなくなり、孤独化していく。最初に述べた白人カップルも片方の女性が彼氏の態度に嫌そうな顔をしていて、何か注意をしていた。多分、写真を撮ってあげると親切に言ってくれているのに、あんなひどい態度を取らなくてもと言っていたのだろう。ただこの白人男子も、過去に写真を写しましょうといわれて好意に甘えたところ、スマホを盗まれた経験があったのかもしれない。好意―感謝の連鎖を続けるのは意外と難しい。百人連鎖が続いて一人のせいで切れてしまう。最近は、電車やバスで席を譲られることがある。以前は少しムッとしたこともあるが、近頃はよく感謝して好意に甘えるようにしている。好意、親切を受けたら、素直に受けて感謝する、好意―感謝の連鎖を切ってはいけない。

 

今年の弘前桜祭りでは、家内と二人で弘前城を散歩していたところ、台湾、中国の女の人から身振りで写真撮りましょうかという誘いがあった。もちろん喜んで撮ってもらい、感謝した。その日、一日楽しい気分になった。一人の白人男性の行為にめげずに、また「Can I take your picture」と言おう。

2026年4月24日金曜日

鈴木雅 フェリスor共立 論争 2

創立当時の横浜共立学園


先日、弘前大学の医学部図書館に行ってきて、ウィキペデアで鈴木雅がフェリス女学校を修了したとする参考文献をチェックしてみた。結論からいうと、全ては一つの論文に行き着く。少し古いが、高橋政子、“クリオへの感謝 歴史にみる看護婦群像1第1話 鈴木まさのこと”「看護教育」(226号、1981年、医学書院)である。

 

高橋政子先生は日本の看護史界の第一人者で、すでに共著となる“日本近代看護の夜明け”(医学書院、1973)で鈴木雅のことを記述しているが、資料が少なく、不十分な点を憂慮していた。そこでフェリス女学院と最後に雅が生活していたN市(沼津市)に問い合わせたところフェリスには資料はなかったが、N市から鈴木雅の孫である鈴木康夫氏がいることを知り、直接会って、鈴木雅のこと、その夫のこと、鈴木家、加藤家のことなどを聞いた。その過程で、雅がフェリスを修了したと聞いた。以下、同論文の該当する文章を記述する。

 

「まさ自身がフェリス女学校の2期生であったといっていた由だが、年表づくりをしてみると明治9年(1876)年にフェリス女学院と呼ぶようになってからの2期生で、10年ごろに修学を終えたものではないだろうか」

 

「まさ自身がフェリス女学校の2期生であったといっていた」は、孫の鈴木康夫の記憶であり、「明治9年(1876)年にフェリス女学校と呼ぶようになってからの2期生で、10年ごろに修学を終えた」は高橋の考察である。鈴木雅の長女の出産が明治12年、結婚は明治11年と推察されたことによる。

 

高橋がこの論文を書いたのは1981年、鈴木雅の孫、康夫(大正8年生まれ)が62歳、鈴木雅が亡くなったのは1940年であるので死後41年、経った時期である。

 

「まさ自身がフェリス女学校の2期生であったといっていた」については、多分に康夫の記憶違いの可能性がある。「明治百話」(昭和6年)では大関和の話として雅は「横浜二百十二番館の女学校を卒業」と書かれており、孫の康夫も、祖母が言った二百十二番館の女学校=フェリス女学校へと記憶の変換があったかもしれない。とりわけ京都、沼津で育った康夫にすれば横浜共立学園のことは全く知らないであろう。実際、関西出身の私自身、須藤かくの調査をするまで、横浜共立学園のことは聞いたこともなかった。また「横浜共立学園六十年史」(昭和8年、国会図書館デジタルコレクションで見られので確認してください)の小島清子の思い出として、一期生として入学したのは、福沢諭吉の娘3人、姪の福沢きよ、井上馨の娘2人、木脇園、中尾さん(芸者をしていた?)、菱川やす、更木梅、金、ひさなどであった。その後、次の年、二百十二番館に移ってから入学した二期生?は、りょう(栗岡氏に嫁ぐ)、加藤まさ、桜井ちか、井深せき(井深梶之助博士の婦人)、おとり、お角(後、医者になった 須藤かく)、上田てい、吉益りょうとなっている。つまり「2期生」であったというのは正しく、明治4年に設立されたアメリカン・ミッション・ホームの2期生、明治5年入学組であった。「二百十二番館の女学校の2期生」というのが、孫の康夫の中ではいつの間にか「フェリスの2期生」に変換されていたのだろう。半分正しく、半分間違っている。ファミリーメモリー、オーラルヒストリーではよくある間違いである。

 

さらに高橋政子先生は、フェリスが本格的な女子教育を始めた1875(明治8)を一期生として、その2期生、明治9年に鈴木雅がフェリスに入学して、結婚する前、明治10年に修学を終えたとしたのだろう。ただ共立の2期生であれば、明治5年入学、明治10年頃に修了し、明治11年頃に結婚となる。16歳から21歳の5年間、英語を学んだことになる。

 

高橋先生が共著の「日本近代看護の夜明け」の文献の中には「明治百話」があり、もしこの文献中の大関和の「雅は横浜二百十二番館の女学校を卒業」の記述から、フェリスでなく、共立に問い合わせたら、共立からの回答として「横浜共立学園六十年史」の資料を得て、鈴木康夫の「フェリスの2期生」という発言も「横浜共立の2期生」の間違いと気付いたのであろう。1981年といえば、インターネットも普及していない時代で、今ほど簡単に文献検索もできず、当時としては最大限の努力をして歴史的な真実解明に努めたのだろう。頭が下がる。また鈴木康夫氏も40年前に亡くなった祖母のことを聞かれても記憶は曖昧であったのも仕方がない。フェリスでも、共立でも英語を学んだことは間違いないからだ。

 

その後、ほとんどの鈴木雅の関連本は、高橋先生の「クリオへの感謝 歴史にみる看護婦群像1第1話 鈴木まさのこと」(看護教育、226号、1981年、医学書院)を参考に、雅はフェリス卒業ということになった。田中ひかるの「明治のナイチンゲール 大関和物語」(2023、中央公論新社)も、田中さんは親類の話を聞いたとしているが高橋先生の補強としてで、フェリス卒業という前提の内容となっている。もしこの本がNHKの朝ドラの原案にならなければ、鈴木雅の出身校など、たいした問題でなかった。実際、高橋先生の論文はよく調査して、まとまっており、私でも今回の疑問がなければ、多分、何の疑問もなく、そのまま鈴木雅=フェリスとして引用するだろう。

 

まとめると、高橋政子先生の1981年の論文により鈴木雅=フェリス女学院卒業という図式ができ、その後の本のほとんどはこれに倣い、孫引きし、再考されることもなく、今日に至っている。鈴木康夫が所持する戸籍、写真、まさの卒業証書などの一次資料や、他の文献から確認できる資料など有意義な資料も多いが、今のところ、出身校については、康夫のファミリメモリーを支持するものはなく、他の資料からは明治5年に横浜共立を入学し、明治93月にバラより受洗し。明治10年頃に修了したという結論になる。5年あれば、英語はかなり上達するが、1年ではまず無理である。

 

日本看護歴史学会の最近の座談会でもそうした内容のことが語られている。

https://jsnh.jp

*鈴木雅のWikipediaを見ると、以前、横浜共立学園同窓会で記述した内容が、看史研という日本看護歴史学会の略称のようなアカウント名で、何度も内容の変更が行われている。

 

2026年4月19日日曜日

風、薫る   鈴木雅はなぜ看護師になったのか

 

坂の上の雲から 鈴木雅の立場は、秋山好古の妻、旗本の娘、多美のようなもの


鈴木雅が結婚したのは幕臣の鈴木良光、おそらくは旗本で、江戸幕府では高禄の家臣であったと推測される。士族ではほぼ同格の家同士で結婚するものなので、雅の実家の加藤家も同格であったと思われる。

 

夫の鈴木良光は維新後に日本帝国陸軍に入り、歩兵第九連隊第二大隊長として西南戦争に参戦した。戦功により少佐に昇進し、仙台鎮台第二管第四巻菅後備軍司令官になった後に、西南戦争で負った傷が元で亡くなった。34歳の若さであった。

 

西南戦争当時の日本陸軍の構成は、太平洋戦争時に比べると驚くほど簡素で、指揮官も少ない。例えば、熊本城に立て籠もり、西郷軍の攻撃を防いだ熊本鎮台で言えば、司令長官は谷千城少将、歩兵第13連隊長が与倉知実中佐、第一大隊長が奥保鞏少佐、小倉の歩兵第14連隊長が乃木希典少佐など、連隊長クラスで中佐、少佐、大隊長クラスで少佐、大尉となり、鈴木良光が所属する大阪鎮台では、連隊長は3人の少佐、大津の歩兵第9連隊でいえば、第1、2、3大隊長は3人の大尉から構成され、鈴木大尉が所属する第2大隊は士官19名、下士官75名、兵卒545名の640名であった。

 

西南戦争の編成時の陸軍トップは少将が1名、大佐はおらず中佐が11名であるが、日露戦争ころになると連隊は3000名単位で、連隊長は大佐、大隊は800名で、大隊長は少佐または中佐、中隊は200名で、中隊長は大尉または中尉がなる。つまり西南戦争では日本陸軍の最高位は中将で、感覚的には日露戦争以降の陸軍構成に比べて一階級下になっている。西南戦争では連隊長は少佐という例もあったが、日露戦争時になるとまずあり得ず、連隊長は大佐であった。

 

こうした見方をすると鈴木雅の夫、鈴木良光少佐の階級は陸軍の中でもエリートであり、怪我もせずにそのまま陸軍に残っていれば、将官になった可能性は高い。鈴木雅が亡くなったのは1883年(34歳)で、亡くならなければ1894年の日清戦争では44歳で階級は大佐、1904年の日露戦争では54歳で少将から中将として参戦し、師団あるいは旅団を指揮していたはずだ。テレビドラマでは鈴木雅をモデルにした大家直美は孤児という設定であるが、実際はエリート軍人の妻であった。明治15年当時の陸軍少佐の給与は月俸140円くらいで、現在の貨幣価値に直すと月給140万円程度となる。かなり高給取りで、大きな邸宅に住んでいて、女中、書生がいる。NHKドラマ「坂の上の雲」で、秋山好古がフランスから帰国し、旗本の娘と結婚するが、あれが陸軍少佐の生活で、鈴木雅は、秋山の妻、佐久間多美(松たか子が演じる)のような存在で、貧しい生活をしていたのではない。

 

明治9年の陸軍恩給法によれば、公務でなくなった場合の遺族に払われる扶助料は給与の1/3程度であり、この計算によると鈴木雅が夫の死後に貰っていた扶助料は、月で50円程度で、今の価値に換算すると50万円くらいとなり、働かなくても生活には全く困らない。もう一人に相棒、大関和に比べると、よほど経済的には恵まれている。普通、これだけの遺族年金があり、子供が2名いれば、生活のために働く必要は全くない。ところが鈴木雅の場合、母に子供の世話をしてもらいながら、看護学校に行き、看護師となる。どうしてもなりたいという強い動機があったと思われる。もちろん怪我を負った夫の世話をする中で、看護師の仕事の重要性を知ったことは間違いない。ただここで考えて欲しい。鈴木雅が桜井女学校看護婦養成所に入ったのは明治19年(1886)、28歳の時である。二人の幼児を抱え、経済的には生活の心配がない環境で、いくら夫の看病が長引いたといって、看護学校に行くであろうか。夫の死だけではその動機を説明できないように思う。

 

同窓生の岡見京が渡米し、ペンシルベニア女子医大に入学したのが1885年、菱川やす(1860年生まれ)も明治19年(1886)にシカゴ女子医大に入学した。特に菱川やすは、鈴木雅とは同級生で明治4年に10歳で横浜共立女学校に入学し、明治11年に修了すると、母校の教師となり、明治145年ころに大倉という人のところに嫁ぐが、2、3年で戻る。明治18年に慈恵医院で看護師養成問題が出てきて、大山捨松などの尽力で看護婦学校の設立資金、6478円が集まり、その時にミス・リードを招聘し、その通訳を菱川やすが務めた。その関係から1886年にアメリカの女子医大に留学した。ミス・リードは1881年に来日し、1884年から有志共立東京病院看護婦教育所で、日本で最初の看護師教育を始めた。鈴木は菱川より6歳くらい年上だが、境遇も似ているため、お互いに連絡があり、菱川を通じて看護婦についての知識を得たのだろう。また宣教医アデリン・ケルシーは、1885年に横浜にきて、医療活動をしていたが、その医療補助をしていたのが鈴木の同級生の須藤かくと阿部はなで、のちに彼女らもアメリカの女子医大に入学し、女医となる。さらに同級生の桜井ちかは、桜井女学校の創立者、吉益亮子は1885年に女子英学教授所を創立するなど、同級生、同窓生の多くが社会に出て活躍している。こうした特殊な交友関係とキリスト教による慈善精神が鈴木雅を看護師への道に向かわせたように思える。


ただ疑問なのは、もし菱川から看護婦のことを聞いた

なら、鈴木雅は西新橋にある東京共立病院看護婦教育所に行きそうなもので、1886年に菱川が渡米すると、リードの通訳もおらず、その後釜に雅が適任だと思われる。それとも同級生の桜井ちかから、新たにできる桜井女学校附属看護婦養成所のアグネス・ヴィッチの学生兼通訳と決まっていたのだろうか。

 


2026年4月17日金曜日

私の暗黒時代?

 

決勝には出ていない、黄色の汚いユニフォームが私


先週、福岡でサッカー部の同窓会があった。数年前から年に1回か2回、高校時代のサッカー部の同級生が集まって飲むことにしている。昔であれば、同窓会だけの出席のため、青森から福岡に行くのは費用的にも、日程的にもかなり抵抗があったが、今では一番の楽しみになっている。私の学校では、中学一年生は何らかの部活をすることになっていて、当時、メキシコオリンピックで日本代表が三位になってことから、15人がサッカー部に入ったが、卒業までいたのは7名で、そのメンバーが集まった。

 

当時、小学校からサッカーをしていたのは1名だけで、残りは全て中学からサッカーを始めた。私の場合、背が高かったので早くからゴールキーパーとなった。このポジションは孤独なもので、練習は1年上の先輩、あるいは1年下の後輩と練習する。最初はキャッチング練習から始まり、キックしてのキャッチ、ゴロのセービングなどしながら、本格的なシュート練習に入っていく。今はゴールキーパーコーチもいるが、当時はサッカー練習本を買ってきてもゴールキーパーの練習法については一部しか書かれていないので、見様見真似で練習していた。

 

中学の時は、そこそこ強く、兵庫県中学サッカー選手権でも3位に入り、私自身も神戸市の代表に入り、広島に遠征し、広島市代表と2試合した。高校一年生の3月、近畿大会では、先輩ゴールキーパーが怪我のため、決勝以外の3試合に出場し、最終的には優勝した。ここまでが私のサッカー歴のピークで、高校2年生の7月の高校総体の兵庫県予選では、シードで、準々決勝と準決勝に勝ち、決勝は神戸高校となった。この試合では、神戸高校の応援に圧倒されたのか、ちょろいシュートをセーブしようとすると脇の下をするりと抜けて入ってしまった。左のスタンドからは神戸高校の生徒の歓声、さらに1点入れられた段階で選手交代があった。ゴールキーパーが試合途中、怪我以外で交代されるのは聞いたことがない。屈辱的な扱いであった。夏には、国体候補となり、練習にも参加したが、あまりのキツさに途中から逃げてきた。そして秋の大会では、ゴールキーパーがハンドを犯すという考えられないミスをした。ペナルティーエリアのすぐ外にきたボールを相手選手と交差した時、足を使わず、ラインのすぐ外で、手で触ってしまった。足でタックルすべきであった、そのままフリーキックとなり点を入れられ、負けた。高校最後の試合は高校2年生終わり、2月の県の新人戦であったが、監督からは信頼されず、1年生のゴールキーパーが出た。私の学校では受験勉強もあり、基本的には高校2年生で部活は終了となるため、レギュラーを外されたまま私の高校サッカーは終わった。

 

私の記憶は、高校1年生に出た近畿大会と、高校総体の県決勝戦までしかなく、その後の記憶は一切ない。嫌なことは忘れたのだろう。若者の将来への漠然として悩みというのだろうか、大学進学適正試験では大学進学は向いてないという結果が出たこともあり、一時は大学には行かないと思ったこともあった。高校2年生の後半くらいから浪人して大学に入学する頃までが、自分では暗黒期で記憶がほとんどない。成績もあまり良くなく、浪人生が皆入る、大道学園という予備校まで落ちてしまった。サッカーのレギュラーがはずれ、成績も落ち、気分は落ち込み、友人は皆、大学生活をエンジョイしていて、遊ぼうとも思わなかった。この時期の記憶は意図的にどこかに封印しているのかもしれないし、もう一つは、地元から離れて仙台の大学に行ったため、中高校の友人と完全に切れてしまい、記憶を補強するチャンスを逸したこともある。その後、中高校の友人との親睦を再開したのは卒業30周年記念同窓会からで、それまでは自分の生活することでいっぱいであった。

 

今思うと、進学校がサッカーの近畿大会で優勝などもはやできるはずはなく、そうした機会に参加できただけでも運がいい方だと思う。ただサッカー部の顧問だったT先生には大変お世話になったが、屈辱的な試合途中での交代はまだ許せないところがあり、生前中にお会いすることはなかった。意外にねちっこい性格である。ただよく考えれば、暗黒時代というほどひどい時期ではないが、記憶が欠落しているのは事実で、それがむしろ不思議である。