2026年4月24日金曜日

鈴木雅 フェリスor共立 論争 2

創立当時の横浜共立学園


先日、弘前大学の医学部図書館に行ってきて、ウィキペデアで鈴木雅がフェリス女学校を修了したとする参考文献をチェックしてみた。結論からいうと、全ては一つの論文に行き着く。少し古いが、高橋政子、“クリオへの感謝 歴史にみる看護婦群像1第1話 鈴木まさのこと”「看護教育」(226号、1981年、医学書院)である。

 

高橋政子先生は日本の看護史界の第一人者で、すでに共著となる“日本近代看護の夜明け”(医学書院、1973)で鈴木雅のことを記述しているが、資料が少なく、不十分な点を憂慮していた。そこでフェリス女学院と最後に雅が生活していたN市(沼津市)に問い合わせたところフェリスには資料はなかったが、N市から鈴木雅の孫である鈴木康夫氏がいることを知り、直接会って、鈴木雅のこと、その夫のこと、鈴木家、加藤家のことなどを聞いた。その過程で、雅がフェリスを修了したと聞いた。以下、同論文の該当する文章を記述する。

 

「まさ自身がフェリス女学校の2期生であったといっていた由だが、年表づくりをしてみると明治9年(1876)年にフェリス女学院と呼ぶようになってからの2期生で、10年ごろに修学を終えたものではないだろうか」

 

「まさ自身がフェリス女学校の2期生であったといっていた」は、孫の鈴木康夫の記憶であり、「明治9年(1876)年にフェリス女学校と呼ぶようになってからの2期生で、10年ごろに修学を終えた」は高橋の考察である。鈴木雅の長女の出産が明治12年、結婚は明治11年と推察されたことによる。

 

高橋がこの論文を書いたのは1981年、鈴木雅の孫、康夫(大正8年生まれ)が62歳、鈴木雅が亡くなったのは1940年であるので死後41年、経った時期である。

 

「まさ自身がフェリス女学校の2期生であったといっていた」については、多分に康夫の記憶違いの可能性がある。「明治百話」(昭和6年)では大関和の話として雅は「横浜二百十二番館の女学校を卒業」と書かれており、孫の康夫も、祖母が言った二百十二番館の女学校=フェリス女学校へと記憶の変換があったかもしれない。とりわけ京都、沼津で育った康夫にすれば横浜共立学園のことは全く知らないであろう。実際、関西出身の私自身、須藤かくの調査をするまで、横浜共立学園のことは聞いたこともなかった。また「横浜共立学園六十年史」(昭和8年、国会図書館デジタルコレクションで見られので確認してください)の小島清子の思い出として、一期生として入学したのは、福沢諭吉の娘3人、姪の福沢きよ、井上馨の娘2人、木脇園、中尾さん(芸者をしていた?)、菱川やす、更木梅、金、ひさなどであった。その後、次の年、二百十二番館に移ってから入学した二期生?は、りょう(栗岡氏に嫁ぐ)、加藤まさ、桜井ちか、井深せき(井深梶之助博士の婦人)、おとり、お角(後、医者になった 須藤かく)、上田てい、吉益りょうとなっている。つまり「2期生」であったというのは正しく、明治4年に設立されたアメリカン・ミッション・ホームの2期生、明治5年入学組であった。「二百十二番館の女学校の2期生」というのが、孫の康夫の中ではいつの間にか「フェリスの2期生」に変換されていたのだろう。半分正しく、半分間違っている。ファミリーメモリー、オーラルヒストリーではよくある間違いである。

 

さらに高橋政子先生は、フェリスが本格的な女子教育を始めた1875(明治8)を一期生として、その2期生、明治9年に鈴木雅がフェリスに入学して、結婚する前、明治10年に修学を終えたとしたのだろう。

 

高橋先生が共著の「日本近代看護の夜明け」の文献の中には「明治百話」があり、もしこの文献中の大関和の「雅は横浜二百十二番館の女学校を卒業」の記述から、フェリスでなく、共立に問い合わせたら、共立からの回答として「横浜共立学園六十年史」の資料を得て、鈴木康夫の「フェリスの2期生」という発言も「横浜共立の2期生」の間違いと気付いたのであろう。1981年といえば、インターネットも普及していない時代で、今ほど簡単に文献検索もできず、当時としては最大限の努力をして歴史的な真実解明に努めたのだろう。頭が下がる。また鈴木康夫氏も40年前に亡くなった祖母のことを聞かれても記憶は曖昧であったのも仕方がない。フェリスでも、共立でも英語を学んだことは間違いないからだ。

 

その後、ほとんどの鈴木雅の関連本は、高橋先生の「クリオへの感謝 歴史にみる看護婦群像1第1話 鈴木まさのこと」(看護教育、226号、1981年、医学書院)を参考に、雅はフェリス卒業ということになった。田中ひかるの「明治のナイチンゲール 大関和物語」(2023、中央公論新社)も、田中さんは親類の話を聞いたとしているが高橋先生の補強としてで、フェリス卒業という前提の内容となっている。もしこの本がNHKの朝ドラの原案にならなければ、鈴木雅の出身校など、たいした問題でなかった。実際、高橋先生の論文はよく調査して、まとまっており、私でも今回の疑問がなければ、多分、何の疑問もなく、そのまま鈴木雅=フェリスとして引用するだろう。

 

まとめると、高橋政子先生の1981年の論文により鈴木雅=フェリス女学院卒業という図式ができ、その後の本のほとんどはこれに倣い、孫引きし、再考されることもなく、今日に至っている。鈴木康夫が所持する戸籍、写真、まさの卒業証書などの一次資料や、他の文献から確認できる資料など有意義な資料も多いが、今のところ、出身校については、康夫のファミリメモリーを支持するものはなく、他の資料からは明治5年に横浜共立を入学し、明治93月にバラより受洗し。明治10年頃に修了したという結論になる。5年あれば、英語はかなり上達するが、1年ではまず無理である。

 

日本看護歴史学会の最近の座談会でもそうした内容のことが語られている。

https://jsnh.jp

*鈴木雅のWikipediaを見ると、以前、横浜共立学園同窓会で記述した内容が、看史研という日本看護歴史学会の略称のようなアカウント名で、何度も内容の変更が行われている。

 

2026年4月19日日曜日

風、薫る   鈴木雅はなぜ看護師になったのか

 

坂の上の雲から 鈴木雅の立場は、秋山好古の妻、旗本の娘、多美のようなもの


鈴木雅が結婚したのは幕臣の鈴木良光、おそらくは旗本で、江戸幕府では高禄の家臣であったと推測される。士族ではほぼ同格の家同士で結婚するものなので、雅の実家の加藤家も同格であったと思われる。

 

夫の鈴木良光は維新後に日本帝国陸軍に入り、歩兵第九連隊第二大隊長として西南戦争に参戦した。戦功により少佐に昇進し、仙台鎮台第二管第四巻菅後備軍司令官になった後に、西南戦争で負った傷が元で亡くなった。34歳の若さであった。

 

西南戦争当時の日本陸軍の構成は、太平洋戦争時に比べると驚くほど簡素で、指揮官も少ない。例えば、熊本城に立て籠もり、西郷軍の攻撃を防いだ熊本鎮台で言えば、司令長官は谷千城少将、歩兵第13連隊長が与倉知実中佐、第一大隊長が奥保鞏少佐、小倉の歩兵第14連隊長が乃木希典少佐など、連隊長クラスで中佐、少佐、大隊長クラスで少佐、大尉となり、鈴木良光が所属する大阪鎮台では、連隊長は3人の少佐、大津の歩兵第9連隊でいえば、第1、2、3大隊長は3人の大尉から構成され、鈴木大尉が所属する第2大隊は士官19名、下士官75名、兵卒545名の640名であった。

 

西南戦争の編成時の陸軍トップは少将が1名、大佐はおらず中佐が11名であるが、日露戦争ころになると連隊は3000名単位で、連隊長は大佐、大隊は800名で、大隊長は少佐または中佐、中隊は200名で、中隊長は大尉または中尉がなる。つまり西南戦争では日本陸軍の最高位は中将で、感覚的には日露戦争以降の陸軍構成に比べて一階級下になっている。西南戦争では連隊長は少佐という例もあったが、日露戦争時になるとまずあり得ず、連隊長は大佐であった。

 

こうした見方をすると鈴木雅の夫、鈴木良光少佐の階級は陸軍の中でもエリートであり、怪我もせずにそのまま陸軍に残っていれば、将官になった可能性は高い。鈴木雅が亡くなったのは1883年(34歳)で、亡くならなければ1894年の日清戦争では44歳で階級は大佐、1904年の日露戦争では54歳で少将から中将として参戦し、師団あるいは旅団を指揮していたはずだ。テレビドラマでは鈴木雅をモデルにした大家直美は孤児という設定であるが、実際はエリート軍人の妻であった。明治15年当時の陸軍少佐の給与は月俸140円くらいで、現在の貨幣価値に直すと月給140万円程度となる。かなり高給取りで、大きな邸宅に住んでいて、女中、書生がいる。NHKドラマ「坂の上の雲」で、秋山好古がフランスから帰国し、旗本の娘と結婚するが、あれが陸軍少佐の生活で、鈴木雅は、秋山の妻、佐久間多美(松たか子が演じる)のような存在で、貧しい生活をしていたのではない。

 

明治9年の陸軍恩給法によれば、公務でなくなった場合の遺族に払われる扶助料は給与の1/3程度であり、この計算によると鈴木雅が夫の死後に貰っていた扶助料は、月で50円程度で、今の価値に換算すると50万円くらいとなり、働かなくても生活には全く困らない。もう一人に相棒、大関和に比べると、よほど経済的には恵まれている。普通、これだけの遺族年金があり、子供が2名いれば、生活のために働く必要は全くない。ところが鈴木雅の場合、母に子供の世話をしてもらいながら、看護学校に行き、看護師となる。どうしてもなりたいという強い動機があったと思われる。もちろん怪我を負った夫の世話をする中で、看護師の仕事の重要性を知ったことは間違いない。ただここで考えて欲しい。鈴木雅が桜井女学校看護婦養成所に入ったのは明治19年(1886)、28歳の時である。二人の幼児を抱え、経済的には生活の心配がない環境で、いくら夫の看病が長引いたといって、看護学校に行くであろうか。夫の死だけではその動機を説明できないように思う。

 

同窓生の岡見京が渡米し、ペンシルベニア女子医大に入学したのが1885年、菱川やす(1860年生まれ)も明治19年(1886)にシカゴ女子医大に入学した。特に菱川やすは、鈴木雅とは同級生で明治4年に10歳で横浜共立女学校に入学し、明治11年に修了すると、母校の教師となり、明治145年ころに大倉という人のところに嫁ぐが、2、3年で戻る。明治18年に慈恵医院で看護師養成問題が出てきて、大山捨松などの尽力で看護婦学校の設立資金、6478円が集まり、その時にミス・リードを招聘し、その通訳を菱川やすが務めた。その関係から1886年にアメリカの女子医大に留学した。ミス・リードは1881年に来日し、1884年から有志共立東京病院看護婦教育所で、日本で最初の看護師教育を始めた。鈴木は菱川より6歳くらい年上だが、境遇も似ているため、お互いに連絡があり、菱川を通じて看護婦についての知識を得たのだろう。また宣教医アデリン・ケルシーは、1885年に横浜にきて、医療活動をしていたが、その医療補助をしていたのが鈴木の同級生の須藤かくと阿部はなで、のちに彼女らもアメリカの女子医大に入学し、女医となる。さらに同級生の桜井ちかは、桜井女学校の創立者、吉益亮子は1885年に女子英学教授所を創立するなど、同級生、同窓生の多くが社会に出て活躍している。こうした特殊な交友関係とキリスト教による慈善精神が鈴木雅を看護師への道に向かわせたように思える。


ただ疑問なのは、もし菱川から看護婦のことを聞いた

なら、鈴木雅は西新橋にある東京共立病院看護婦教育所に行きそうなもので、1886年に菱川が渡米すると、リードの通訳もおらず、その後釜に雅が適任だと思われる。それとも同級生の桜井ちかから、新たにできる桜井女学校附属看護婦養成所のアグネス・ヴィッチの学生兼通訳と決まっていたのだろうか。

 


2026年4月17日金曜日

私の暗黒時代?

 

決勝には出ていない、黄色の汚いユニフォームが私


先週、福岡でサッカー部の同窓会があった。数年前から年に1回か2回、高校時代のサッカー部の同級生が集まって飲むことにしている。昔であれば、同窓会だけの出席のため、青森から福岡に行くのは費用的にも、日程的にもかなり抵抗があったが、今では一番の楽しみになっている。私の学校では、中学一年生は何らかの部活をすることになっていて、当時、メキシコオリンピックで日本代表が三位になってことから、15人がサッカー部に入ったが、卒業までいたのは7名で、そのメンバーが集まった。

 

当時、小学校からサッカーをしていたのは1名だけで、残りは全て中学からサッカーを始めた。私の場合、背が高かったので早くからゴールキーパーとなった。このポジションは孤独なもので、練習は1年上の先輩、あるいは1年下の後輩と練習する。最初はキャッチング練習から始まり、キックしてのキャッチ、ゴロのセービングなどしながら、本格的なシュート練習に入っていく。今はゴールキーパーコーチもいるが、当時はサッカー練習本を買ってきてもゴールキーパーの練習法については一部しか書かれていないので、見様見真似で練習していた。

 

中学の時は、そこそこ強く、兵庫県中学サッカー選手権でも3位に入り、私自身も神戸市の代表に入り、広島に遠征し、広島市代表と2試合した。高校一年生の3月、近畿大会では、先輩ゴールキーパーが怪我のため、決勝以外の3試合に出場し、最終的には優勝した。ここまでが私のサッカー歴のピークで、高校2年生の7月の高校総体の兵庫県予選では、シードで、準々決勝と準決勝に勝ち、決勝は神戸高校となった。この試合では、神戸高校の応援に圧倒されたのか、ちょろいシュートをセーブしようとすると脇の下をするりと抜けて入ってしまった。左のスタンドからは神戸高校の生徒の歓声、さらに1点入れられた段階で選手交代があった。ゴールキーパーが試合途中、怪我以外で交代されるのは聞いたことがない。屈辱的な扱いであった。夏には、国体候補となり、練習にも参加したが、あまりのキツさに途中から逃げてきた。そして秋の大会では、ゴールキーパーがハンドを犯すという考えられないミスをした。ペナルティーエリアのすぐ外にきたボールを相手選手と交差した時、足を使わず、ラインのすぐ外で、手で触ってしまった。足でタックルすべきであった、そのままフリーキックとなり点を入れられ、負けた。高校最後の試合は高校2年生終わり、2月の県の新人戦であったが、監督からは信頼されず、1年生のゴールキーパーが出た。私の学校では受験勉強もあり、基本的には高校2年生で部活は終了となるため、レギュラーを外されたまま私の高校サッカーは終わった。

 

私の記憶は、高校1年生に出た近畿大会と、高校総体の県決勝戦までしかなく、その後の記憶は一切ない。嫌なことは忘れたのだろう。若者の将来への漠然として悩みというのだろうか、大学進学適正試験では大学進学は向いてないという結果が出たこともあり、一時は大学には行かないと思ったこともあった。高校2年生の後半くらいから浪人して大学に入学する頃までが、自分では暗黒期で記憶がほとんどない。成績もあまり良くなく、浪人生が皆入る、大道学園という予備校まで落ちてしまった。サッカーのレギュラーがはずれ、成績も落ち、気分は落ち込み、友人は皆、大学生活をエンジョイしていて、遊ぼうとも思わなかった。この時期の記憶は意図的にどこかに封印しているのかもしれないし、もう一つは、地元から離れて仙台の大学に行ったため、中高校の友人と完全に切れてしまい、記憶を補強するチャンスを逸したこともある。その後、中高校の友人との親睦を再開したのは卒業30周年記念同窓会からで、それまでは自分の生活することでいっぱいであった。

 

今思うと、進学校がサッカーの近畿大会で優勝などもはやできるはずはなく、そうした機会に参加できただけでも運がいい方だと思う。ただサッカー部の顧問だったT先生には大変お世話になったが、屈辱的な試合途中での交代はまだ許せないところがあり、生前中にお会いすることはなかった。意外にねちっこい性格である。ただよく考えれば、暗黒時代というほどひどい時期ではないが、記憶が欠落しているのは事実で、それがむしろ不思議である。


2026年4月9日木曜日

タクシーでの会話

 


車を持っていないので日頃タクシーを使うことが多い。その際、運転手と無言でいるのは、何となく気詰まりなので会話をする。昨日のNHKBSではニューヨークのケネディー空港からタクシーで自宅に帰る乗客と運転手のやりとりだけの映画、「ドライブ イン マンハッタン」を放送していた。おしゃれで自立したニューヨーカーの女性と運転手の会話は、ごくありふれた内容から始まり、そして自宅に近づきにつれ、彼女にとって人生の決断を迫るナイーブな話題になっていく。年配の愛人とスマホで際どい会話をしながら、女性と運転者の会話が続く。これだけの内容で2時間近い映画を作るのはすごい。

 

30年前だが、大阪、伊丹空港から実家の尼崎に向かうタクシーで、運転者との会話が弾んだ。もう都会での生活に疲れ、老後はどこかに転住したい。そして最近はタクシーに乗りながら、どこかいいところがないか、ずっと考えているという。運転手は私より年配で60歳は超えていただろう。当時、私は鹿児島大学に勤務していたが、その前年まで宮崎医科大学に勤務していた。宮崎医科大学は宮崎市の近郊の清武町というところにあり、ここは物価も安く、また一戸建ての80坪くらいの家が新築で、2000万円台、中古では1000万円代で買えたため、この地でリタイヤ生活をする人も多かった。そうした話をしていると、運転者は実は前から宮崎の清武には興味があって調べていたんですという。そこで冬は暖かかいし、鹿児島に比べて火山灰がない、宮崎市内まで車で、20分くらいで行けるなどとしゃべっていると、実家の近くまで来てしまった。運転手は会話に夢中で通り過ぎそうになった。実家に到着すると、運転者はわざわざ降りて、本当に勉強になったと随分、感謝された。ひょっとすると、この運転手は今、宮崎、清武に住んでいるかもしれない。

 

東京、新宿、紀伊国屋書店前で、タクシーを拾おうとするも何故か断られる。ようやくタクシーを拾え、目黒の椿山荘まで行った。後ろの席で家内とのしゃべっていると、運転手からお客さんは関西の方ですかと聞かれた。はい、兵庫県の尼崎ですというと、運転手も私も尼崎出身ですという。尼(アマ)のどこですがというと、尾浜西口近くという。中高の6年間、私は家の近くのバス停から阪急塚口駅に通ったが、尾浜西口は途中のバス停で、馴染みがあった。尼崎のことをあれこれ話していると、懐かしいのか、タクシー運転手になった理由や、東京では700万円以上の収入があり、同僚の中でも一番多い、そのコツは、などしゃべった。東京のタクシー運転手はあまり話さないと思っていたので、こちらも楽しく、あっという間にホテルに到着した。降りるときには、運転者から今日はいい話ができて嬉しいですと喜んでくれた。

 

鹿児島に母親が遊びに来た。タクシーに乗って市内を案内することにした。後ろの席で、母親と話していると、運転手が「あのう 失礼ですか、お客さんは徳島の方ですか」と突然、言われた。母は徳島県脇町の出身だが、徳島を離れ、尼崎に住んで、すでに50年経っていた。少し徳島訛りが残っていたのだろう。運転手によれば、鹿児島に来て20年経つが、徳島の方と会うのは初めてなので、話しかけたと言う。話しているうちにタクシーの運転手は母の実家近くの出であることがわかり、ずっと懐かしそうに話し合っていた。地元にいるとその土地の方言には無頓着になるが、地元を離れて、故郷の方言を聞くことは少なくなると、聴覚が高まり、ちょっとしたアクセントの違いでバレるようだ。私も最近になり、津軽弁のわずかなアクセントの違いがわかるようになったし、鹿児島生まれも、関西弁でも大阪、神戸、京都の違いも判別できる。タクシーの密室で、こうした故郷の言葉の断片を聞くと、運転手も懐かしいと思うのだろう。

 

タクシーの運転手は毎日、毎日、多くのお客さんと密室で接する職業だが、映画のようにお互いもう二度と出会わない関係なので、中にはかなり深刻な、奇妙な会話もあるのかもしれない。タクシー運転手から作家になった梁石日さんもいる。


2026年4月8日水曜日

自転車の交通違反に青点制度

家の近くの歩道、法律上は自転車は右の車道



 

最近できた弘前中央駅近くの歩道、自転車も走れる
上土手の歩道、中土手、下土手も1車線にして自転車も通れるようにしたら





今年の4月から、自転車の交通違反に青点制度が導入されることになり、従来の

注意から罰金というペナルティーを課すようになった。その理由として自転車の事故が減っていないというらしいが、車を所有せず、歩きか自転車の私にとっては異議を申したい。

 

もちろん、信号無視、スマホを見ながらの運転などについては、どしどし取り締まってほしいが、これだけは問題と思われるのは、車道通行である。自転車による歩道通行については、多くの議論がなされ、実際に罰金とされるのは、進行区分違反(歩道通行)6000円と歩道徐行等義務違反の3000円となる。安全確保のためにやむを得ない場合を除き基本的には車道を走れということである。

 

自転車に乗っている人は、すべて感じていると思うが、狭い道で車道を通行することは本当に怖く、特に大型車両、トラックやバスが横を通りすぎると恐怖を感じる。車道の左には白線が引かれ、その内側を自転車が走るということになるが、狭いところでは20cmくらいしかなく、側溝蓋などがある場合もある。一度、その蓋に自転車のタイヤが挟まり死にそうになったこともある。また駐車していて、そこを迂回することあるが、右車線を走る車と接触しそうになることもある。警察は、後ろを確認して迂回しろと指示するが、自転車走行中に後ろを振り返り、車を確認することはかなり難しい。バックミラーをつけろという人もいるが、これも見にくい。

 

自転車事故が増えたと言っても、自転車同士の事故はほとんどなく、自転車と人、対人事故は自転車事故の25%くらい、年間で300件くらいの死亡、重傷事故が発生している。残りの80%は自転車と車の事故であり、欧米では自転車専用道の整備により自転車事故は減少している。また日本でも自転車専門道を整備したモデル地区では事故が30-40%減少したとしている。

 

法の整備も大事であるが、それと並行して自転車道に整備が必要であろう。さらに弘前で言えば、歩道の幅が広くて3m以上のところもある。その半分くらいのところに点字ブロックがあるが、その右側、車道よりは走っていいのだろうか。違反にならないのであろうか。

 

これについてAIで調べてみた。「3m幅の歩道があり、真ん中に点字ブロックがある。車道よりの1.mの部分は、自転車が走行しても違反にならないの」と尋ねると、回答は「結論から言うと、その状況で自転車が歩道を走行することは、原則として結論から言うと、その状況で自転車が歩道を走行することは、原則として違反(交通法規則違反)になります。理由は以下の通りです。自転車は「軽車両」: 道路交通法上、自転車は車道の左側を走るのが原則です。歩道の区分: 歩道の幅が3mあり、点字ブロックで仕切られていても、そこが法令上の「普通自転車解歩道通行可」の指定(標識や表示)がない限り、自転車で走行することはできません。」となる。

 

車道の白線内が30cmで、歩道の点字ブロック車道側が150cmあっても車道を走らなければ違反となる。さらに歩道には車は止まっていないが、車道には車が止まっており、迂回する必要がある。雪国では冬季の雪捨て場所として歩道をかなり広くする。ところによっては5mを超える歩道があるが、誰も歩いていない。その歩道を自転車が通れずに、車が多い、車道を走らせること、特に高齢者の自転車走行は事故を増やすと奨励しているようなものである。

 

最近では、弘前でも自転車解歩道通行可標識がある歩道を見かけるがわかりにくい。幅が3m以上ある歩道であれば、田舎ではほとんど通行人がいないことから、点字ブラックを道に真ん中に設置し、車道側の部分を黄色などで着色し、普通自転車解歩道通行可能の標識をたて、「自転車道、徐行」と書けばいいだろう。冬場の雪の積もった歩道を走る自転車はいない。車にとっても車道を走る高齢者の自転車ほど怖いものはない。東京の竹下通りの歩道を走る自転車と田舎の5mもあるほとんど通行人のいない歩道では、環境は全く違う。一律に法令を厳しくして罰金刑にしても自転車事故は減らない。むしろ、標識を立て、ペンキで歩道の半分を塗った方が効果的に思えるのだが。

 



 

2026年4月5日日曜日

鈴木雅 フェリス or 共立 論争


朝ドラ「風、薫る」が始まり、その関連本もたくさん出てきた。ところが二人の主人公のうち、大家直美のモデルとされる鈴木雅ついては、どこで英語を習得したかは意見が分かれる。ドラマの原案とされる「明治のナイチンゲール 大関和物語」(田中ひかる)ではフェリス卒業とし、「大関和と鈴木雅の人生」(MSムック)、「戦う白衣の天使 大関和・鈴木雅ものがたり」(櫻庭由紀子)、「大関和がわかる」(月刊Newsがわかる編集部)、「大関和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール」(青山誠)、「風、薫る ご案内ブック」(TVガイドMOOK)、「大関和 明治のナイチンゲール」(別冊太陽 日本の心)も鈴木雅はフェリスを卒業としている。一方、「もうひとりのナイチンゲール 鈴木雅の生涯」(伊多波碧)、「風、薫る Part1(NHKドラマ・ガイド)、「月刊 エキスパートナース20264月号」(その看護。誰がはじめた?「風、薫る」のモチーフはこんな人 明治のナース・大関和と鈴木雅)では共立女学校修了としている。NHKでは、天理大学、鈴木紀子教授はじめ日本看護歴史学会がチームを組んで時代考証を担当しており、ここでは鈴木雅は共立女学校修了としている。

 

原案の田中ひかるさんは鈴木雅の子孫からフェリスを卒業したという証言を得たようで、また高橋政子、「日本近代看護の夜明け」は鈴木雅の孫から証言を聞き(原著は読んでいない)、採択した。さらに鈴木雅が生存中に出版された「女子の職業 新撰百種」(福良虎雄、明治30年)でも、根拠は示していないが、横浜フェリス女学校の卒業生だとしている。

 

一方、篠田絋造は「明治百話」(昭和6年)の中で、大関和の話として鈴木雅は横浜二百十二番館の女学校(共立女学校)を卒業したとしている。また昭和8年の横浜共立学園60年史の中で、一期生の小島(北川)清子さんが「思い出を語る」という文の中で、明治5年に入学した生徒の中に加藤おまさ(後東京帝大の看護婦長になった)がいたと書いている。

 

まとめると、1。子孫から聞いた話として、鈴木雅はフェリスを卒業した、2。友人(大関和)、同窓生(北川清子)の話では共立ということになる。ただいずれも当時、卒業という制度がまだなかったので、卒業したというのは間違いで、修了といった方が良い。

 

この場合、最も確実な一次資料は、学校での在籍記録、卒業証書、本人の文章、写真などであるが、鈴木雅の場合、これは残っていない。次に信憑性の高い資料は、同時代の知人、友人の証言であり、これは大関、北川が該当する。特に大関の証言は生存中のもので信憑性は高いし、また北川清子の話も、個人的には信頼性は高いと思う。なぜなら北川が同窓生として挙げた「菱川お安さん、この人は後医者となった。―――お角さん(後医者になった)」の記述は、ここ5年くらいの研究で初めて解明された事実であり、他の同窓生についても正確である。一方、子孫の証言はファミリーメモリーと言われ、記憶の欠落や誇張が見られことがある。英語教育ではフェリスの方が有名なこと、昔は共立女学校のことを横浜二百十二番館の女学校と称し、横浜百七十八番館のフェリスと近くで間違えられたことなどが理由として挙げられる。横浜二百十二番館の女学校と言われれば、普通、フェリスだと思ってしまう。いずれにしても、現状では、鈴木雅がフェリスにいたという根拠は子孫のファミリーメモリー以外にはない。今後の新たな根拠が出現するのを期待したい。歴史は新たな資料により簡単に変更され、朝ドラでも鈴木雅の設定を全く変更したのは、情報が錯綜する状況では卓見であった。

 

一方、横浜共立学園150年史では「鈴木雅1857年生まれ。1872年ごろ入学、1876年バラよる受洗、1881年(明治14)年ごろ修了か。」となっているが、明治15年頃から卒業制度ができ、卒業者に名前がないので、その前に修了としたのだろうか。夫の鈴木良光が亡くなったのは1883年、二人の子供がいたことから、さすがに1881年まで学校にいたとは思えず、これは間違いだと思う。1881年以前に学校を辞めて結婚したのだろう。鈴木雅の周辺の人、例えば大山捨松23歳、大関和19歳、岡見京25歳、井深梶之助の妻、せき21歳、若松賎子25歳と、高等教育を受けた女性は当時の女性に比べてやや結婚年齢が遅く、おそらく鈴木雅も20-22歳くらいで結婚したと考えると、1877から1879年頃には学校を辞めていると推測できる。


 

菱川やす、岡見京がアメリカに留学したのが26歳、1885年、須藤かくが留学したのが30歳、1893年の時であった。鈴木雅も二人の子供残して33歳でアメリカに留学しようと決意した(1891年頃)。背景としてこうした同窓生に触発されたと思いたい。現在でも、二人の幼い子供がいるシングルマザーが33歳でアメリカに留学に行くのはよほど勇気がいる。

*国立国会図書館デジタルコレクションで、”鈴木まさ”で検索をかけると4000くらいヒットし、その中で該当する人物を探したが、1976年までほとんど引っかからない。看護史研究で著名な高橋政子先生が1976年頃に明治期の看護婦として”鈴木まさ”を取り上げ、その際に、フェリス卒業との記載したため、その後の論文、本で孫引きされていったのか。
 

2026年4月3日金曜日

キリスト教系の学校を卒業して

 

ザビエル大学(シンシナティ)

私が通っていたのは、兵庫県神戸市の六甲学院という学校である。創立は1937年だから、来年でちょうど百周年となる。イエズス会が母体となる学校で、大学は上智大学、他には横浜の栄光学院、広島の広島学院、そして福岡の上智福岡中高校がある。

 

イエズス会は、スペインのイグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルにより作られた修道会で、教育には熱心で世界中に同系統の学校がある。私がいたのは1968-1974年の6年間で、生徒数は一学年160名、四クラスであった。数学、英語、国語、理科の4教科の先生はクラス担任として6年間一緒であった。

 

学校には10名近い外国人神父と同じく10名くらいの日本人神父がいて、学校横の修道院に住んでいた。校長はドイツ人、他にはスペイン人、アメリカ人の神父がいた。皆、イエズス会の襟なし白シャツに黒の上下のスーツのようなものを着ていた。宗教の時間が週に一回あったが、それほど宗教色はなく、放課後に信者を中心に公教要理というものがあったが、一度も行ったことはない。生徒の締め付けはキツく、学生服のカラーは上まで留める、電車では座らない、学校に持ってくる金は500円、髪は坊主頭、映画館に行く時は親と一緒など、細かい校則のようなものがあった。私が入学する少し前まで、学生鞄もなく、黒い風呂敷に教科書を入れて持ち運んだ。学校に行くと、制服は汚れるからと、自分の席で白い体操着に着替え、制服は椅子のところにかける。宿題を忘れると、自分の机の横に正させられる。学校の正門の前に校長がいて、髪の毛が長いと帰宅させ、切らせるか、学校で切る。水泳は全員が泳げるようになるまで校長自ら教え、京都の久美浜に臨海学舎、また登山のために立山に山小屋を、また瞑想のために学校横に一万坪の庭園を作った。

 

一般的なイメージからすれば、キリスト教系の学校といえば、おしゃれなイメージであるが、六甲学院の場合、戦前の学校のイメージが根強く残っていた。極め付けは便所掃除で、冬でも短パン一丁でタワシと雑巾だけで便所を掃除するし、教室の掃除は掃き掃除だけでなく、毎日、雑巾で拭き掃除もする。

 

ただ山の上の学校で6年間160名の生徒がいると、隔離された場所となり、多感は中学生、高校生はすぐに染まり、最初はキリスト教の信者は数名であったのが、卒業時には数十名になった。生徒同士も仲が良く、昨年行った卒業50周年の同窓会ではネット参加も入れると100名近くなった。亡くなった同級生を除くと150名での参加数としては多い。私自身、キリスト教のやや偽善的な雰囲気が嫌いなこと、学校の規則の多さにうんざりしたことなどから、卒業して20年くらいは全く同窓会にも興味がなかったし、数人の友人を除いて付き合うこともなかったが、この歳になると何よりクラスメートで会うのが楽しい。弘前に来てからも別の用事で教会に行くことがあるが、昔を思い出し、いいなあと思う。亡くなった同窓生のために、同級生の神父がミサをしてくれるのもうれしい。二年ほど前も上智大学の教会でミサがあり、参加した折には、教会の地下にある秘密のカタコンベのような墓地に案内してもらった。同窓生で、在校時の先生のネームプレートを探した。東京、四谷とは思えない不思議な雰囲気であった。

 

キリスト教系の学校で教育されると何か影響を受けるかと聞かれると、特に何もないとしか答えようがないが、それでも同級生を見ていると、皆のために、正しいことをしようという精神はあるようだ。昔、同級生がなくなり、その子供が六甲学院の生徒だった時は、皆で金を集めて奨学金にしようという動きもすぐに出た。会社を辞めてリタイア生活後も地域のボランティア活動をしている連中も多い。先日も、日本のサッカー界の重鎮、賀川浩さんが亡くなったが、親戚がいないため、その葬式一切を賀川さんの知人でサッカー部の後輩が行った。大掛かりな式で費用もかかったため、同級生が寄付を募ったところすぐに目標額に達した。何かを頼まれると、金にならなくても、正しいことであれば、協力するという気持ちは、キリスト教系の学校でも教育のおかげかもしれない。政治家、経営者が汚職収賄恐喝事件で逮捕された卒業生はあまり聞かない。昨年、アメリカのシンシナティーからお客さんが来た。シンシナティにはゼビア大学があり、1831年創立の高校もある。この知人の旦那さんがこの高校の出身で、なんとなく考え、雰囲気が似ていると言われた。教育法が近いのかもしれない。