2026年11月7日土曜日

弘前駅前の再開発?

 













弘前駅周辺には、5つのホテルがある。東横INN弘前駅前(232室)、ホテルルートイン弘前駅前(212室)、アートホテル弘前シティー(134室)、弘前ホテル(66室)、ブロッサムホテル弘前(35室)である。もう少し離れた代官町、土手町まで広げると、スマイルホテル弘前(121室)、弘前プラザホテル(100室)、スーパーホテル弘前(100室)、弘前パークホテル(121室)、ホテルハイパーヒルズ弘前(70室)などがある。全部で総計1191室、数としては十分のようであるが、スイートルームがあるホテルはアートホテル弘前シティーしかない。3室あるが、一泊3、4万円くらいでそれほど高いものではない。以前は弘前キャッスルホテルにも特別室があったので、政財界のゲストや皇族もここに泊まることもあったが、今はアートホテル一択となった。そのため、先日、国体にために青森県に来た天皇陛下、および皇族のほとんどは青森市のホテル青森に宿泊し、弘前市に宿泊した三笠宮寛仁親王妃信子殿下はアートホテル弘前シティーに宿泊した。海外からくるVIPおよび富裕観光客の受け皿となるホテルが事実上1つしかなく、またスイートルームも3部屋しかないのが実情である。


先日、弘前市長、谷川政人市長が宮下知事の県政報告会で、複数のホテルが弘前市内に進出する可能性を示唆した。弘前駅前のゲームセンター、ミタマが今年9月に閉店し今は更地になっているが、ここにホテルが建設されるという噂を聞いた。見たところ200−300坪くらいの土地なので、ホテルと言っても数十室レベルの小型ホテルと思われが、それ以上に弘前市長の言葉を聞いて一番気になってのは旧吉井酒造の工場、倉庫跡である。ここは1000坪以上の敷地があり、かなり大型の宿泊設備を建築できる。さらに近年、古い蕎麦屋があったボロボロの家屋が買われ、近所の駐車場の駐車契約の制限、レンタカー営業所の解体など、ここ数十年大きな変化がなかった地域に少しずつ変化があり、谷川市長の言質から推測するとここに大型な宿泊設備ができるのではと予想している。駅前の一等地に大型の設備ができ、市長の談話、「宿泊施設を建てたいという話がだいぶ来ている。今後弘前は非常ににぎやかな街になるだろう」とも一致する。


この吉井倉庫を現在保有しているのは、ダイワハウスグループのフジタというところで、建築、土木などの総合建築会社で、まちづくり事業が得意な会社である。おそらくは中高級ホテルを主体としたまちづくり事業のものが予想される。弘前駅から歩いて1分という土地であることから、中心地区活性化事業の一環として商業施設、ホテル、さらには一部公共施設が入る複合施設になろう。前回のブログでも述べたが、新幹線が函館以北、札幌まで延伸されることで、これまでの終着点としての函館の価値が下がり、東京から函館ー札幌の流れだけでなく、東京ー青森ー札幌、東京ー函館ー札幌の2つのルートの選択が可能となる。複数回日本に来たインバウンド客でいうと、飛行機で青森空港に入り、そこから青森市あるいは弘前市に宿泊し、翌日、新幹線で函館で見学して、夜に札幌に入るというルートができる。函館、弘前ともに半日で十分に観光ができるところなので、どちらかに一泊すれば言いわけである。ただこれまでは弘前には魅力的なホテル、特に富裕者層向きのホテルがなく、それなら宿泊設備が完備した函館ということになる。そこにアートホテルに匹敵する、あるいはそれ以上の高級ホテルができると、ここで宿泊する観光客も増えるであろう。個人的にも、重要なお客さんを弘前に呼ぶ場合は、どこのホテルにするか悩む。と言っても接待や、VIPを招くことはないので、既存のホテルで十分であるが、それでも講演会のゲストを呼ぶような場合は、アートホテルか、少し離れるが あそべの森 岩木荘 を選ぶことが多い。


弘前駅前では、旧弘前市立病院の改修整備がほぼ終了し、市民の健康拠点として整備され、またその前の旧大成小学校の跡地をどうするかと課題がある。さらに青森市にあった郷土館が弘前市に移ることで、今ある弘前城近くの観光館、図書館などの再編も計画されている。そしてこの旧吉井酒造跡地となる。さらに大鰐線廃止に伴う中央弘前駅をどうするかという問題も残る。このようにかなり大幅な街の更新が行われるわけである。


数年前に埼玉県の川越市に行った。ここは40年ほど前の市長が大幅な街の更新を行い、観光地としての川越を整備した。その結果、年間700万人の観光客がくる都市になった。弘前市の年間の観光客数は235万人、函館の605万人に比べると1/3、さらに宿泊数で言えば、弘前市が67万人、函館は504万人と大差となっている。駅前及び弘前城周辺の今後の大規模な更新により、せめて宿泊者数が倍増するだけで、弘前市に入る観光収入も増加する。台湾からの青森への定期便は毎日運行となり、搭乗率も80%を超える好調を示しており、今後の海外からのインバウンド客を考えると、まだまだ観光客の増加、特に宿泊者数の増加を見込める都市であり、古くていいところを残しながらも、それに対応するような街作りが望まれる。


谷川市長の手腕が試される時である。今後数十年の弘前市の将来が決められる時期である。こうした中心市街地活性化というプラニングを立てる場合、その委員会のメンバーを見ると大学教授など大体同じような顔ぶれで、これでは全く新しい発想は期待できない。最終的には市長が決めればいいのだか、弘前市には弘前市を本当の愛して、中央で活躍し、応援している人が多い。タレントの王林さん、シソンヌのじろうさん、画家の奈良美智さん、人間椅子の和嶋慎治さん、漫画家の石塚千尋さん、こちらの出身ではないが青森好きのエッセシストの能町みね子さん、おにぎり屋の川原田美雪さん、奇跡のりんごの木村秋則さん、ホンダジェットの藤野道格さん、はやぶさの川口淳一郎さん、作家の鎌田慧さん、前台北駐日経済文化代表処の副代表、李世丙さん(奥さんが確か藤崎か板柳)などを委員とした未来委員会のようなものも必要かもしれない。とにかく外から、残すところと新しくすることがわかる人選が必要で、とりわけ残すところについては、地元に住んでいる人は絶対にわからないし、できれば海外で住んでいる人こそふさわしい。古いものを残してリノベーションするのが今のやり方である。

2026年11月3日火曜日

これからのAIを制するのは日本 雑誌大国

 


AIは、基本的には大量の情報を集め、それを解析して、質問に対する回答をするものである。AIは、ネットに掲載されている、それも主として英語の論文、ニュース、などから情報を集めてきたが、近年、さらに本をスキャンしてその情報を積極的に吸収し活用しようとしている。さらに図書館の電子情報、つまりすでにデジタル化した本を一部活用している。今後、著作権の問題と著作料が絡んでくるとされ、本の情報をAIが使う場合、著書、デジタル化した企業に一定の著作料を払うという仕組みが議論されている。さらに近年、翻訳技術が格段に進み、英語以外の情報も積極的にAIに活用されるようになっており。アメリカ人が英語でAIに質問しても、日本語で書かれた情報から回答するということが普通に行われている。


こうしたAI、さらにいうとGoogleやOpen AIなどの大企業が、狙っている標的の一つに、日本の国会図書館がある。国会図書館では昭和23年以来、日本で発行されたすべての本、雑誌を献本する制度となっている。そのため、ここ80年近い、日本のすべての本、雑誌情報がここにある。さらに近年、デジタル化への取り組みに積極的で、現在、520万点の雑誌、本がデジタル化されている。ただまだデジタル化されていない資料は4000万点以上ある。これらデジタル化された資料については国会図書館デジタルアーカイブから誰でも見られる。


日本の出版界における特徴的な点としては、本以外にも多くの雑誌がある点で、数が多いだけでなく、ジャンルも広く、さらに歴史も長い。例えば、私に好きな飛行機関係でも航空ファン、航空情報、など10種類くらいあるし、航空ファンの創刊は1952年で74年の歴史がある。さらに世界の傑作機シリーズなどの別冊もある。この本だけでも日本の航空史の全てが網羅されている。他にも金魚だけ、芝犬だけの雑誌から盆栽、将棋、碁、からステレオ、音楽、ファッションなど月刊誌だけで2000以上あると言われている。さらに100年以上ある雑誌も多く、中央公論、文藝春秋などの文芸誌だけでなく、将棋では将棋世界が90年、囲碁では棋道(碁ワールド)が102年、生花では池坊の機関紙「華道」は134年、お茶では裏千家の機関紙、今月庵月報は118年、一般誌の「淡交」も80年近くになる。


こういう風に日本の雑誌は、非常に幅広く、歴史も長い。これはいわゆるオタクが多い国であることを物語っており、それがこれほどの雑誌数と歴史を支えている。アジアの他の国では日本ほど雑誌文化はなく、海外の本屋に行っても日本ほど雑誌コーナーが多いところはない。これはアジアではダントツと言ってもいいし、世界でも雑誌がこれだけ多い国は少ないであろう。さらに日本では、これに漫画、アニメという誇れる文化があり、これに関連するコーナーも書店で大きなスペースを得ている。


近年、日本の1970-2000の曲がYouTubeで脚光を浴びて、J-POPとして人気が出ている。これまで世界の人々から全く見向きも知られなかった分野が発見されたのである。それでも日本の雑誌は、日本語という大きな障害のために外国に知られることはなかった。それがAIでは一切の言葉の障害が取り除かれる環境となった。大きな情報の宝が日本にある。海外での日本文化の普及に伴い、こうした日本の雑誌、本文化は大きな需要がある情報となる。


今後、国会図書館の本、雑誌のデジタル化がさらに進み、この情報全てがAIで検索され、使われるようになると、世界中が日本に影響を受けるようになるだろう。さらに日本政府が一元的に情報を管理して、著作権料を徴収するようになると前回、述べた医療情報とともに大きな武器になる。日本のオタク文化、狭い領域のものを深く探りそれを雑誌、本にするという文化は、今後、世界のAI分野において、大きな影響を与えることは間違いなく、今以上に世界の日本化につながるのではないかと勝手に想像している。アフリカの子供達が現地語で週刊ジャンプの創刊号をアフリカの原野で読む時代がすぐそこにある。


2026年11月1日日曜日

岩木健康増進プロジェクトのすごさ 桜田一洋教授の生物力学理論との関連


弘前市の岩木地区(旧岩木町)では平成17年(2005年)から大規模な健康診査が行われている。今年で21年目となる。年々参加する企業が増え、検査項目も増えていき、今では3000項目、1000人を対象にした世界でも屈指の規模の研究となっている。


当初、こうした大規模な健診は、短命県返上の一環としてやっているものと考えていた。全国的に青森県はガンの罹患率、死亡率が高く、脳疾患、心臓疾患なども多く、男女とも日本ではずっと平均寿命が最下位の県である。こうした青森県の問題を追求して、少しでも平均寿命を長くしようとする政策の一環とばかり思っていた。


ところが最近ではこうした思惑とは完全に離れて、人類の今後の医療を大きく変える革命的な研究拠点になっていることがわかった。私も鹿児島大学にいた時は、高校、中学、小学校などに出向き、いろんな研究をしたが、例えば、咬合力と握力の2項目を測ることで、両者に有意の相関があるか、さらに説明する数式を導くような研究である。集団の傾向を調べる方法としては、これが研究の主流であり、岩木地区の健康診査もこうした流れの研究とばかり思っていた。ところが、今はAIの時代であり、これだけのビッグデーターをAIで解析させて何かの研究をするという発想である。


そのポイントは桜田一洋教授の生物力学理論というもので、体の反応の個体差の大きい人間では今後、どんな病気になるか、病気になった時に一番適した治療法、それを早期に防ぐにはいつ頃にどんなことをするのか、こうしとがわかれば、医療における革命的な変革となる。ただ単純なAI解析だけでは、多くの集団的な傾向を調べた論文の寄せ集めで、その解答には多くのハルシネーションという嘘が入り、医療行為として使うことができない。これを物理学的理論とAIの融合で、数式として表したのが、桜田教授の理論である。かなり嘘くさい、詐欺まがいの理論のように聞こえるが、ノーベル賞級の研究であり、日本政府も国家的な予算を与えて、研究を進めている。その理論の実証と実用化のための、実際の研究場が、この岩木地区の健康診査なのである。


まず1000名という数で3000項目、一人当たりの検診時間は4時間30分(3-8時間)という凄まじい規模の研究で、この検診が今年で21年間、膨大な情報量である。これを全てAIに吸収させて、桜田理論に不具合がないか、理論のほつれがないか検証しているのである。こうした理論が実証されていくと、大幅な医療費の削減、予防医療につながるので、日本政府もバックアップしている。


さらにマイナンバーカードは、今や健康保険証に変わってきたが、将来的にはこのカードに血液検査、レントゲン検査結果、投薬歴など情報が入るようになるし、医療機関の保険請求情報は完全に支払い基金に入っている。現在、多くの医療カルテは電算化されているので、これを政府に入れるのは個人情報の点で問題があると思うが、日本人全体の医療データーを日本政府が一元化することも可能となる。現在、1000名の岩木地区の健康診査で桜田理論が実証化すれば、今度は国立大学病院と手をくみ、医療履歴とその結果を突き詰めていくと、より精度の高いモデルができ、それが医療に応用される日も近い。例えば、がんの治療では遺伝子検査によりがん治療薬の選択をすることがあるが、AIによるより個別な治療法を選択できるようになる。さらにいうとちょっとした血液データ、レントゲン所見の変化で転移などがわかれば早期の治療ですむ場合もあろう。さらに飛躍した考えを言えば、1億2千万人の経年的な医療データを政府が持つことができれば、AIと桜田理論と組み合わせて、日本は世界の医療研究のトップになるし、このデータ活用に対して世界の製薬メーカから莫大な使用料を得ることもできよう。


短命県返上から始まった研究が、今では世界最先端の研究拠点となっており、その成果と実証は、全人類に多大な貢献をすることが期待されている。逆にこの理論の実証化が、今後の桜田一洋先生のノーベル賞につながる。桜田先生はヒトIPS細胞研究ではタッチの差で山中伸弥教授に負けたが、重要な研究に関与しており、その後、研究対象を変え、全く違う分野のAIを医療研究と結びつけた。世界に誇れる天才である。2019年にはこの調査に対して日本オープンイノベーション大賞(内閣総理大臣賞)を取っている。将来的には、人間ドックの結果も個人個人に合わせた精度の高い診断となり、病気が発症するまでの予防法、発症してからのオーダーメイド治療、それによる医療費の軽減、など医療を抜本的な変える可能性を持つ。


 

2026年10月24日土曜日

子供の頃の思い出2

 


6。風呂屋 
 
親父の診療所の前にはHさんの菓子屋があった。そこには同じ歳の女の子がいて、近所だったので、よく遊んだ。店舗では和菓子から洋菓子までいろんなものを売っており、店の奥にはそうした菓子を作る機械がいっぱいあった。色の黒い子で、背も高く、外国人のような感じだった。小学4年生頃のことだったと思うが、たまには大きな風呂に入ろうと家族で近所の銭湯に行った。内風呂もあったが狭く、夏場は炊くのも面倒ということでもあった。親父と風呂に使っていると、何とこのHさんの娘、クラスの同級生が平気な顔して男風呂に入ってきた。小学4年生といっても発育がよく、膨らむところは膨らんでいる。びっくりして思わず、目を逸らしたが、気まずくなってそのまま風呂から出て、帰った。次の日も平気でいつものように教室に来て、普通にしている。これには驚いた。5、6年生も同じクラスであった。 
 

7。 大阪万博(1970)
 
あれは前回の大阪万博の時のことである。中学2年生で、近くでの開催もあって、4、5回は来場した。目当てのアメリカ館、ソ連館に行くには入場と同時に全速力で走らないと2、3時間待ちとなるため、走った。夏のある日、その日は暑い日であった。BVDの白いブリーフの上に、先日、母親が大阪、本町で買ってきたマドラス柄の短パンをはき、上はTシャツで万博に行った。その1年後の、何かのきっかけで、このマドラス柄の短パンはボクサータイプの下着であることに気づいた。ブリーフの上にボクサータイプの下着を着て、大満員の万博に行ったわけである。恥ずかしい。短パンのチャック部分がボタンというのは少しおかしいとは思ったが、なんで下着なのに後ろにポケットがあるのか。AIに聞くと、コンドームの携帯のためとなっていた。


8。篠原くんのこと
 
小学4年生の頃、クラスの篠原くんとは仲良く、いつも遊んでした。図画の時間、お互いモデルになって絵を描くという設定であった。私は筆の先を鋏で切って、ほとんど水を使わないで点描で篠原くんの絵を描いてみた。図画の猪俣先生からは激賞された。
夏休みに母の実家のある徳島県の脇町の帰省していた時のことだ。近所のうどん屋あたりを歩いている時、何と、脇町で篠原くんとあった。お互い「何でお前がここにいるのか」と驚きあった。あとで母に聞く篠原くんのお父さんの実家で、うちの母もよく知っていた。


9。不思議なこと
 
中学1、2年生の頃、二階の自分の部屋で宿題をしていて、夕ご飯なので一階に降りてきて、皆でご飯を食べていた。テレビを見ながら食べていたが、何だか、玄関が閉まる音が聞こえた。「誰か出て行ったような音がした」と食堂から5mくらいしか離れていない玄関を確認したが、どこも異常はない。気のせいかと思って、二階の部屋に行くと、机の前に置いていた腕時計がない。母の知人からもらったスイス製の42石の時計で、中古だが気に入っていたものだ。すぐに泥棒に盗まれたと家族に言ったが、皆で一階で食事していた時間に2階の侵入して泥棒するのはいくらなんでも無理だという。あまりも大胆で、リスクが多い。部屋中、あちこち探したが、見つからず、今でも泥棒が入って盗んでいったのだと思っている。


10。ラジオ体操
 
夏の一時期、尼崎市の難波小学校では全校生でラジオ体操をする。小学6年生のとき、体育部長だったので、校長先生が登壇するお立ち台で、朝の朝礼の際にここでラジオ体操をする。当時は今と違って難波小学校も一学年6組240名の六学年、1400名の前でのラジオ体操である。最初は緊張していたが、指先に意識を集中するようにした。今でもその習慣は残っている。フォークダンスでは女のこと手を繋ぐのが恥ずかったので、体育部長の特権で、レコード係になった。今だったら、逆の特権を使ったと思うが。学年対抗の野球試合を企画し、優勝したのも嬉しかった。最後の外野への飛球をあまり野球が上手くない米山くんが捕球して優勝した。


2026年10月22日木曜日

子供の頃の思い出

 



1、ちびっこのど自慢

小学校の5、6年生の頃だったが、当時、絶大な人気の「ちびっこのど自慢」という

番組があった。小中学校の歌自慢が集まり、審査員が点数をつけてチャンピオンを選ぶという今ではありきたりの番組であるが、これがハシリで、放送時間になると子供たちはテレビに齧りついて見ていた。番組の終わりに、出演希望者は下記住所まで応募してくれというテロップがあったので、面白半分で応募してみた。バカである。すると何月何日にテレビ局に集合と言った返事が来た。焦った。子供のことなので、予選があるとは全く思いつかず、えっ、番組に出場しないといけないのかと恐怖に囚われた。全く歌うのは下手だし、あんな番組に出るのは100%無理である。テレビ局に行かないと番組に穴が空くと思ったが、そのまま行かなかった。あとで番組出演をすっぽかし、テレビ局の人から怒られるのではとずいぶん、不安で、後ろめたかった。当たり前だが全くの杞憂であった。

 

2.長嶋茂雄のサイン

  小学校1年生くらいから少年マガジンをずっと買っていた。当時は野球選手がスターの住所が平気で誌面に書かれていて、ファンレターを出そうと思っていた。大好きな巨人の長嶋茂雄選手のサインが欲しかったので、長島の住所宛に、オバQのハンカチを買ってきて、さらに返信用の封筒、切手も貼って送った。さすがに返事はないと思っていたが、しばらくすると何と長島から返事が来た、急いで封筒を開けるとオバQにハンカチにサインして送ってくれたのだ。これは大興奮で、すぐにクラスに友人に自慢したのは言うまでもない。これに味を占めて、王貞治選手にも同様にハンカチと返信用に封筒、切手を入れて送ったが、そのまま返事はなかった。王選手は嫌いになった。その後、勉強机の大切にしまったいたが、いつの間にかなくなってしまった。

 

3.上田侃太郎(かんたろう)

尼崎の名物爺さんで、小学校の頃から中学、高校くらいまで20年近く尼崎市会議員はじめ、多くの選挙に出馬した。汚い自転車の後ろに上田かんたろうと書かれた幟を立て、“うえだかんたろう をよろしく”と連呼していた。子供達は爺さんを揶揄いながら後ろをつけまわした。選挙中だけではなく、年がら年中、近所を走っていた記憶がある。最終的には大学に入った頃なので、かなり歳を取ってから、多分80歳過ぎてから尼崎市市会議員にはれて当選した。多分、死ぬまでに夢を叶えさせようと思った人が多く、当選したのだろう。1期か2期務めて落選した。白の開襟シャツに帽子、グレーのズボンという格好で、色んな選挙に出ていたが、両親に聞いてもどこの人かわからなかった。何をしていた人であろうか。

 

4.飛行機ビラ

 今では信じられないが、昭和39年ごろは、飛行機からチラシを空中に散布する空中宣伝があった。大空からチラシがばら撒かれ、なかなか落ちてこない。小学校3年生の頃、このばら撒かれたチラシを追って走っていき、ふと気づくと全く知らない土地にいたことがあった。家の近くと難波小学校までの道はよく知っていたが、チラシを追っているうちに小学校の西側に行ってしまったのである。このまま迷子になるのかとかなり不安になったが、泣きながらしばらく歩いていくと難波小学校が見え、安心した。小学校4年生以降になると友人もこの西側にも多くいたので、ここも子供の縄張りになっていった。東は庄下川、西は蓬川、南は阪神線、北は市役所くらいまでが難波小学校のエリアで、自転車で走り回っていた。

 

5.不思議な家

幼稚園の頃、東難波町の三角公園近くに、友人のOくんの家があった。幼稚園の帰りには彼の家でよく遊んだ。作りは旅館で、大きな入り口に玄関があり、そこから長い廊下があり、左右に多くのドアが付いていた。ドアを開けると中には4畳半くらいの狭い畳の部屋があり、窓があるだけで何もない空間である。こうした部屋が20くらいあり、そこでかくれんぼをして遊んだ。大人になって考えると、この旅館のような建物は、連れ込み宿で、男女がこの狭い部屋で行為に及んだのだろう。幸い、幼稚園が終わる正午にはお客さんもおらず。鬼ごっこにはいい場所になっていた。昭和40年頃になると、もう少し阪神尼崎駅寄りのところにラブホテルが乱立し、多い時は六件くらいのラブホテルが固まってあった。出来島の塾の帰りは9時頃になるが、酔っ払いの多い三和商店街を抜けて、日弘前楽器を右に曲がると三和ミュージックがあり、周辺には立ちんぼが多くいた。ここを通り、真っ直ぐに歩くと、今度はラブホテル街となり、そして暴力団の事務所の前が自宅であった。お世辞にも柄のいいところではなかった。


2026年10月21日水曜日

歯科の闇


 


以前、専門外であるが保険業の闇について、少し考えを述べたが、専門の歯科の闇について述べないのかと言われそうなので、少し述べてみる。

 

まず私の背景を言うと、父親は歯科医で私が生まれる前の昭和27年頃から兵庫県尼崎市で歯科医院をしていた。85歳まで50年以上は歯科医をしていたし、その間の歯科環境の変遷もよく知っている。兄も西宮市で開業し、私も昨年まで青森県弘前市で矯正歯科として開業していた。親子三人が歯科医ということになる。

 

国民皆保険制が完成したのは私が生まれた時くらいで、それまでは歯科は基本的に自費であった。庶民は歯が痛くなっても、歯が抜けても、治療費が高くてなかなか歯科医院にいけないという状態であった。そこに健康保険が登場した。月々、収入に応じた保険料を納めることで、通常の治療の0割から半分の費用で済むことになった。もう少し詳しくいうと、被保険者本人は0割負担、つまり治療費はかからず、家族は半分、これも最終的には3割となった。つまりこれまで10000円だったものが、いきなり全商品、50% 、70%、100%引となった。患者は一気に医院に押し寄せ、この頃になると朝、医院を開ける前に患者が行列という状態になった。

 

ここで歯科医の闇としては、本人負担が0%ということはどれだけ治療をしても本人の窓口の支払いはない。少なくとも金額に関するクレームはなくなった。そのため、新規で来院した患者、特に本人に対する治療は基本的に全てやり直しとなった。さらに今と違い、明細書を出す必要がなかったため、架空診療が横行した。パントモ写真を撮り、頭の中でとれる治療計画を立て、治療をしたことにして請求するというものであった。古い商習慣が残っていたのか、当時は月末、年末にまとめて治療費を払うという人も多くいたし、本人の場合は負担0なので、こうした架空診療であっても見つからない。医科より歯科の方がこうした架空請求は横行していた。

 

また感染対策が杜撰で、ミラー、ピンセット、などの基本セットもアルコール綿で拭くだけ、抜歯に使う器具以外は、バー、トレー、金属コップなどもほとんど洗うだけという感じだったし、だれ一人手袋など使用しなかった。ある先生はミラーが曇ると自分のネクタイで拭いて使っていた。今では麻酔もディスポのカートリッジを使うが、昔はボトルから注射器で直接、麻酔液を吸って使っていた。汚染もあったろう。

 

本人はその後、1割負担、家族は3割負担となり、今は基本的には3割負担で、70歳以上は2割、75歳以上は1割となっている。それでも定価の70%の割引で商売しているといえよう。わずか数%の利益率しかないコンビニや他の商売から見たらこれほど美味しい商売はないと思うだろう。ところが歯科医はこの意識はほとんどない。10000円の治療はその30%、3000円どころが、点数で1000点、300点、300円の治療と勘違いする。つまり10000円の治療でも窓口負担は300点、3000円どころが、歯科医はつい300円と勘違いする。さらに政府は保険治療のコストを低く設定していて、アメリカの治療費に比べて比べても保険の点数、料金は安すぎるという。一方、患者は70%の割引をしてもらいながら高いといっている。おかしなことである。

 

最近の歯科の闇は、インプラント、矯正歯科など自由診療への誘導である。70%引きで売っていても収入は少ないと考える歯科医院はより利益率の高い、矯正歯科、インプラント患者を増やそうとする。保険診療の利益率を30%くらいとすると、矯正治療では技術費が大きいため、利益率は60%以上となる(インビザラインは除く、通常のワイヤー矯正の場合)。そのため、ほとんど経験したこともない矯正治療をしようとする。子供の矯正治療の場合、結果の良否が漠然としている。子供の矯正治療しかしないという歯科医院もあるが、子供の治療だけできれいに治るケースは少なく、中学生以降にマルチブラケット装置による仕上げの治療をする必要性があるのは矯正歯科では常識である。そのため子供だけの矯正治療というのはあり得ず、通常は一期(子供の矯正治療)、そして二期(仕上げ)という流れ以外はない。


2026年10月15日木曜日

弘南鉄道大鰐線の廃線後、どうするの 2

 

神風号のロンドン到着 下書き

10月最初のブログで弘南鉄道のことをブログで書いた。その後、知人数名で飲んだ時のこと、「弘南鉄道に乗ったのはいつが最後」と聞いた。4名中1名は数年前、どんなものかと中央弘前駅から一駅だけ乗ったと言い、他の3名は中学生の時に大鰐にスキーに行った時に使ったのが最後で50年以上乗っていないという。皆、70歳代である。大鰐に行くことがあっても、自動車以外、考えられなく、どうして鉄道で行くのか、家から中央弘前駅までどうやっていくのか、あちらについてあちこち行くのはどうするのかと、散々言われた。車も持っていない私からすれば、全て歩けばとなるが、車を足代わりに使っていると500mの距離が歩けない。前述したメンバーも、健康であるが、家から弘前中央駅、大鰐駅から大円寺まで歩けないという。メンバーの多くは弘前駅近くに住んでおり、15分も歩けば弘前中央駅に到着するのに。

 

この話を聞いて、私のような車を使わず、歩く人にとって、電車、バス、タクシーはごく普通の乗り物であるが、多くの、多分、95%以上の人にとって、これらの交通手段は日常の乗り物ではない。50年以上使ったことがないような乗り物なのであろう。これでは仮に大鰐線を無料にしてもほとんどの人が利用しないのだろう。都会では全く逆のことが起こっており、車で通学、通勤するより電車やバスの方が便利で、そちらを利用する人の方が多い。一方、地方、弘前のようなところでは車一択の社会で、弘南鉄道、大鰐線、黒石線とも、市民にとっては完全に縁遠い存在なのだろう。多少の懐かしさはあっても、ほとんどの人にとっては乗ったこともない鉄道で、その存続に無関心なのは当然である。

 

一方、函館の路面電車は、通学、通勤、あるいは観光にも使われており、完全の定着しており、おそらく50年以上使ったことはない函館市民は少ないだろう。要するに50年以上使ったことがない人が多い鉄道というのが現状の弘南鉄道のことであろう。同様にバスに関しても、ほとんどの人は利用したこともないだろう。このままでは、大鰐線の廃線に続いて、黒石線の廃線、弘南バスの消滅していくのだろう。実際、高校生の通学では電車、バスが使われていたが、今では家族が車で送迎するのが普通になっている。

 

こうした東京などの都市部の交通インフラの充実に引き換え、地方ではますます自動車が生活の最重要手段となっている。さらにこうした自動車中心の社会は、家族分、例えば、両親、子供(成人)2、3名がいれば、3、4台の自家用車があるのは全く珍しくない。そのため、郊外の自宅に大きな駐車場があるのは仕方ないと思われるが、駅前の一等地でも、その近くの職場に通う人のための駐車場が多い。今いるマンションでも1戸に一台分の駐車場が確保されており、東京の感覚からすれば信じられないほどの贅沢さである。土地が安いということが最大の決め手であるが、それでも中心地が駐車場だらけというのは寂しいことである。駅前の小さなビル、例えば生命保険会社のオフィース、50坪くらいのビルのワンフロアーに50人の人がいるとすると、会社はそのビル近くに50台分の駐車場を確保することになる。会社と駐車場の距離が300m離れると不満の声が高くなる。信じられないと思うが、これが実際である。東京、横浜、仙台でも中心駅から徒歩10分以内で、全従業員の駐車場を確保できるということはあり得ない。

 

多くは月5000円以下の駐車料金だからこそできることで、50名の生命保険レディーがいても月に25万円くらいの負担なら会社も負担できよう。もっと言えば、例えば、30台置く駐車場の場合、冬の雪置き場を入れると300坪くらいは必要であり、一台5000円で契約して30台、月に15万円分の価値しか土地にないことを意味する。つまり駅前の一等地、300坪の土地で、月15万円では固定資産税くらいしかない。東京では300坪あれば、駐車料金だけで月に100万円以上になる。

 

このブログでも大鰐線廃止など交通インフラがなくなる危機感を訴えてきたが、今回、ほとんどの人にとって、大鰐線は50年も使ったことがない交通手段であることがわかり、ショックを受けた。たまには大鰐線も乗ってくださいよと言ったが、多分廃止になるまで誰も乗らないだろう。誰も歩いていない街、駐車場だらけの街、さらに街機能が分散されて街自体が消滅していく、それが未来の地方都市かもしれない。中心部のホテル、デパートは倒産して廃墟化し、街にはほとんど人がおらず、車が通るだけ、買い物は郊外のショッピンセンターに行くが、ここも新しいショッピングセンターができると、人が減り、撤退する。若者は楽しいところがないために東京に行ったきり帰ってこない。

 

 中心市街地の活性化、コンパクトシティー、地方都市はこれ以外、生き残りは難しい。中心部の駐車場の有効活用、巡回バスの増便、バス利用パスの発行、新規住宅への固定資産税の免除など、郊外と中心部の格差をつける方法もある。中心部に住む方が便利という政策である。東京などと違い、弘前市では、中心部の土地価格が坪12-15万円とすると、旧市街(江戸時代)から外れた土地でも坪8―10万円くらいしており、それほど価格差がない。今や建築費が高騰し、坪100万円近くかかる。住宅建設費の中での土地代の割合は低くなり、例えば、中心部に住むなら5年間、固定資産税が0になるなら、郊外に住む理由は無くなるはずだ。コンパクトシティー化への活発な広報と差別化をもっと増やさなくては行けない。