2024年7月15日月曜日

阪口塾3

 



先日、Yahoo!ニュースで「伝説の阪口塾―>灘中高―>東大理三合格の医師が人は誰でも無能になると悟ったワケ」が取り上げられ、それを見た人が「阪口塾」で検索したようだ。その結果、私の2007.8.3の「伝説の阪口塾」に辿り着き、1日で閲覧者数が1800近くになった。新記録である。

 

それにしてもこの17年前の記事は、他の記事に比べて特殊なもので、この塾のOBの方から多くのコメントをいただき、さらに内容が濃く、長いため、あたかも長い長い物語のような形式になっていて面白い。小中高、あるいは大学の先生であれば、その教え子が懐かしがって思い出を語る、あるいは教え子が本にすることもあるのだが、小学生向けの塾の講師に対して、これほど熱い多くのコメントが来るのは珍しい。私もこの塾に2年間いて、週に3回ほど通った。一回の授業時間は2時間ほどで、先生と話すこともほとんどなかったが、それでも今までの人生の中でこれほど勉強したことは記憶にない。その後も、大学の受験勉強、国家試験などもあったが、小学校の時の勉強量に比べると遊びみたいに感じた。それだけ濃い体験をしたせいなのだろう。私の場合は地頭が悪くて、塾の真ん中から下の生徒が入る六甲学院に入学するのがやっとであったが、この記事にコメントする人はほとんど灘中学校に入学したようで、その後も世間的には立派なポジションになったのであろう。

 

昔、青森空港から大阪、伊丹空港に向かう飛行機に乗っていると、前の席のポケットにJALの雑誌「SKY WARD」があった。いつも浅田次郎さんの「つばさよつばさ」を楽しみにしているが、雑誌の後半部にJALの飛行ルートが載った日本地図がある。ここに搭乗者が感動した飛行機からのシーン、例えば、夕闇の富士山とか、を10人くらいの人が思い思いに書いていた。全て手書きで、どんな人が書いたのだろうかと想像しながら、読むが、浅田次郎さんのエッセイより面白い。私が付け加えたのは千歳空港から青森空港の夏の最終便のシーンで、陸奥湾に浮かぶ和多くのイカとり漁船の明かりが美しく幻想的であることを付け加えた。みんなのコメントが詰まったこの雑誌もすぐに捨てられたと思うが、こうして思い出が残っている。

 

うちのお袋もそうだが、歳をとると最近のことはあまり覚えていないが、子供の頃や昔のことをよく覚えていて感心することがあった。最近は自分自身も同じようになっており、テレビの俳優や歌手の名はなかなか思い出せないが、昔のことをよく思い出す。出来島の阪口塾に行くために、家から自転車で、阪神尼崎駅で駐輪したが、塾の帰りに見ると、気に入っていたクラクションが盗まれたこと、甲陽学院にいった知人が調子に載って出来島駅に来た電車に手を振って、電車を急停車させ、後でものすごく怒られたこと、そういえば、その教室は板の間と畳で、椅子がなく、直に座っていたこと、模擬試験の成績が左の壁に飾っていたがどこで模擬試験を受けたっけと思い出せないこと、学校では三人がこの塾に行っていて、芝くんは六甲中学へ、佐々木くん灘中学、他クラスの高岡くんは甲陽中学に行ったが、浅田くんは塾に行かずに六甲中学に行ったが、ここ10年前まで知らなかったことなどを思い出した。

 

中学入試は、昔も今もそれほど変わらず、算数、国語、理科の科目で、国語、理科は暗記もののため、塾での主眼は算数であった。ツルカメ算などの小学校の授業では習わない特殊な解き方もここで学び、ノウハウを知ったおかげで有利だったが、本来、算数、数学は才能の要素が半分以上あるため、数学脳でない私の場合は、中学三年生くらいまでが限界で、その後はどんどん落ちこぼれていった。高校3年の模擬試験でも、数学が良ければ学年でも20番くらいであったが、悪いと100番以下となった。数学の才能のある知人が5分で解く問題を2時間かけても解けないのには悩んだ。そのため、大学入試(医歯薬)は、ほぼ数学の成績で決まるため、現役の時は数学の試験が終了した時点で、落ちたのを確信したし、一浪後の入試は5問中4.5問ができたので、逆に合格を確信した。ただその後、50年間全く数学とは無縁で、今では中学入試といい、大学入試といい、医歯薬の分野であんなに数学重視だったのか、不思議である。

 

17年前に書いたブログは、多少批判的な内容の記事であったが、こうした多くのコメントを読むと、この塾出身者は千人を超えるであろうが、各界で活躍しているようである。偉大な教育者なのだろう。

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