2014年1月31日金曜日

弘前藩領絵図 天災からの検討


 寛政四年1228(1793.2.8)におこった寛政西津軽地震は、震源大戸崎の約13kmを震源地とした推定マグニチュード6.9から7.1の地震で、鯵ヶ沢、深浦を中心とした西津軽で大きな被害をもたらした。この地震では地形変化もおこし、今では観光名所になっている深浦の「千畳敷海岸」もこの時に隆起したものとされる。さらに鯵ヶ沢の弁天崎はこの時の地震で海中に没したという。

 これは先のブログで述べた「字鉄崎」のケースと似ている。「弁天崎」は弘前藩絵図にも記入されており、これもこの絵図の製作年代が1793年以前という証拠になろう。

 「字鉄崎」もこの寛政西津軽地震と関連して崩壊したと考えていたが、どうもこの地震の被害は深浦、鯵ヶ沢付近に限定しており、三厩近くの字鉄崎まで地形変化をおこすほど大きな影響があるとは思われない。そこでその前の明和大地震(1766)かとも思ったが、震源地が弘前、黒石あたりで、内陸地震で断層線が竜飛岬方向に続くとはいえ、それほど大きな地形変化をおこすとは考えにくい。実際に三厩での被害は少ない。

 他の天災としては、津波がある。先の東日本大震災でも沿岸部を中心とした地形変化が起こったことは目新しい。そこで竜飛岬近くで起こった大きな津波を探すと、1741年におこった寛保津波がある。これは竜飛岬の北西部にある渡島大島が大噴火し、その山体崩壊により大きな津波が発生した。長谷川の研究(1741年に蝦夷地・北部日本海沿岸地域を襲った寛保津波)によれば、北海道の石崎では20mを越える大津波があったという。大島が津波の発生源とすれば、単純に考えると、字鉄崎からみれば北西からの津波となる。おそらくは石崎同様に20mを越える津波であったろう。三厩付近の村は沿岸にあるものの津波方向とは平行にあるため、村への直接の被害は少なかったかもしれない。ただ沿岸から突き出た岬については、もろに真横からの大きな津波を受けたに違いない。それにより岬の付根が浸食され、島となった可能性はある。

 弘前藩領絵図の作製年が、1790年以前ということは確実であるが、1741年以前かとなると否定すべき要素はないものの、あまりに古すぎる感じがする。大津波である程度、浸食されていたものが、その後、さらに波による浸食を繰り返し、いつのまにか陸と切り離されたと考えた方がよさそうである。ある時期を基点として一気に崎から島になったのなら、どっかに記録があってもよさそうである。

亀ヶ岡村(現つがる市)は享保11年(1726)に瓜生村と改称し、瓜生村の枝村が独立して館岡村となったとの記載がある。文化年間(1804-1817)に新たな別のところに亀ヶ岡村ができた。絵図では「瓜生」、「館岡」の名はあるが、亀ヶ岡の名がないところから、享保11年以降のものである。なお瓜生の西には「廣セ」と呼ばれる地名があり、そこには森に囲まれた建物の絵が描かれている。場所的にはつがる市の羽黒神社のようだが、この絵図ではよほど大きな神社でないと、あえて取り上げられず、この図が何かはわからない。

この絵図のおかしな点は、岩木山神社が描かれていないのに、平内の雷電には雷電宮らしき絵が描かれていたりする。神社については、次回もう少し検討する。高照神社横には高岡の地名があるが、これは高照神社の門前にできた地区で享保6年(1721)という。これも上記、瓜生村と同様に1720年以降の話である。

2014年1月29日水曜日

弘前藩領絵図 折り目からの検討



 弘前藩領絵図について、前回のブログでは、折り目が一切ない一枚ものであると述べた。ところが、知人から江戸期に作られた大型の絵図で、一枚ものはない、巻かれて保存することはなく、必ず折り畳んで蔵や部屋にしまわれていたはずだとの意見をいただいた。もし折り目が全くなければ、明治以降のものだと考えていいそうだ。

 実際、この絵図が自宅にあった時は、明治二年弘前絵図と一緒にボール紙の芯に巻かれていたため、折り目があるとは全く考えていなかった。ただ知人の意見を参考に、もう一度、写真をじっくり見ると、何カ所かに折り目のようなものが見られる。皺を伸ばした状態で裏から和紙によって裏打ちされ、折り目がわかりにくくなっているようだ(上図)。

 美濃判と呼ばれる大きさの和紙(37cm×27cm)を横に5枚、縦に6枚、貼り合わせて、195cm×164cmの紙を作り、おそらくは下地処置をした上で、描写、彩色していっていたものと思う。

 折り目については、横は3つ、縦は3つの折り目があるようだ。横については比較的はっきりとした折り目がわかるが、縦の折り目がはっきりしない。ただ“小泊”の南、“野内”の南の折り目の交差部に修復箇所があり、こういった折り目の交差部分は破損しやすい点に一致する。これらから絵図は縦、横とも2回ずつ折られて、保管されていたと推測され、その場合の大きさは横49cm、縦41cmとなる(下図)。この大きさなら十分に折り畳んで保管できる。

 さらに折り目から推測すると、前回のブログでは四辺がカットされているのではと述べたが、完全に大きさは一致し、カットされたという推測は否定される。

 絵図上の村から推測した作製年代は1760-80年としたが、おそらく幕末、明治初期ころに裏打ちして一枚ものに仕立てたのであろう。補修箇所が何カ所見られる。裏打ちし、補修し、一枚ものとした方が机の上などで見るには都合が良かったのであろう。どういった理由で、この時期に古い絵図を裏打ちして補修したのかはわからない。ただ保有者が、楠見家に繋がる関係から廃藩置県に伴う弘前藩の政策上、必要な絵図であったのであろう。

 現物を実際に見て、確認しなければいけないが、弘前藩領絵図には折り目があるようで、絵図のタイトルがないほかは、ほぼ江戸期に作製された絵図と考えてよさそうである。オリジナルか、複写かははっきりしないが、タイトル、作製年度は絵図の裏に書かれていて裏打ちの際に見えなくなった、あるいは当初は表紙、箱書きがあったものが、裏打ちされ、一枚ものになった際に表紙、箱が紛失した可能性もある。

 幕末期、明治初期に補修し、裏打ちされたとすれば、製作あるいは模写された時代はそれより古く、“東西南北”、“南部領、秋田領”の加筆以外は、案外、オリジナルの可能性もある。というのは幕末、明治初期に補修されたものであれば、少なくともこの時代からは相当古いものであることを意味する。明治二年が1868年であるから、この50 年前とすれば1816年であり、オリジナルの推定製作年代は1760-80年とすれば、近い。明治二年弘前絵図には破れや補修箇所もないことから、保管状態は良好で、145年たっても維持できていることからも、和紙の寿命は長い。仮に250年前に作られ、150年前に一度修復補修されたといっても十分に信じられる。さらに岩木山はじめ、山や海岸線の岩の表現様式が大和絵風になっており、時代の古さを感じさせる。

ここまでわかったこととして
. この弘前藩領絵図は、これまで知られている国絵図、分間絵図とは地形が異なる。
2.天明飢饉(1784)により廃村になった7つの村のうち6つの村名が認められる。
3.寛政の新田開発(1800)に新たにできた21の新村についての記載はない。
4.三厩近くの「ミサゴ島」は「字鉄崎」、竜飛岬(龍濱崎)の小島「帯島」のアイヌ語に基づく「ヨンヘイ島」と、1800年以降見られない古い呼名が使われている。
5.縦横、それぞれ3つの折り目と、折り目に沿った数カ所の破折部があり、裏打ち、修復され、一枚ものとなっている。
6.同封されていた「明治二年弘前絵図」と一緒に、明治初期からこれまでずっと保管され、その間に修復などはなかった。
7.美濃判による和紙30枚を貼り合わせたもので、縦横2回ずつ折られ、195cm×164cmの絵図が49cm×41cmになったと推測される。四辺の切取りはなく、絵図の題、作製年月日の記載はない。
8.以上のことから弘前藩領絵図は、1780年以前、おそらくは1760-80年代のオリジナルあるいはそれ以降の写しと思われる。


時代の上限について、地名から検討しているが、今のところ大きな進展はない。弘前藩領絵図上で、新田と名付けられた地名は、「折紙新田」、「蝦名新田」(蛇石新田の間違いでした2014.3.2変更)、「堀越新田」の3つで、いずれも大鰐組に属する村である。「続つがるの夜明け 中巻」に載っている宝暦年間の「陸奥国津軽郡御検地水帳」(1754)には大鰐組にはこういった新田村の名はない。折紙川、虹貝川に沿った小さな村で、村ができた時代がわかれば、もう少し上限は絞られる。

なお、広田組、赤田組、後潟組などの組分の主要村の地名は、絵図では小判型の図が赤く縁取られている。小判型には赤色と黄色があるが、どういった意味をもつのかははっきりしない(村の大きさ?)。 

さらにこれは証拠とは言えないが、天明4年(1784)「山所書上覚」(諸山之上山通より西之浜通迄中山通より外浜通古懸山迄御山所書上之覚)に見られる西之浜地区の16の村領惣山名、中村沢目村(中村、口に巴)、赤石沢村(赤石)、大童子沢村(大童子)、関村、金井ヶ沢村(金井沢)、田野沢村(田沢)、晴山村、風合瀬村(風合セ)、轟木村、追良瀬村、広戸村、深浦村、岩崎村、森山村、松神村、黒崎村などの地名は絵図上にすべて記載されている(()は記載名)。

2014年1月21日火曜日

私のI-Mac 履歴







 ようやく新しいI-Macが軌道に乗ってきた。4年前に買ったMac Book Proからの移行にはストレスがかかったが、結局、ハードディスクに入っていたTime-machineからデーターを取り込むと2時間ほどで簡単にデーター移行した。拍子抜けするほどであった。Mac book Proのバッテリーが低下し、そのためスリープを解除してもデーター移行中にスリープするのが原因と思われる。

 新しいI-Macは処理速度も早くなり、本当にストレスなしに仕事ができる。さらに光通信を入れたことで、インターネットも楽しい。欲を言えば、立ち上がりやアプリケーションのサクサク感はソリッドステートを使ったMac Book Airには及ばない。Airは本当に早い。

 一方、新しいI-Macで驚いたのは音質が非常によい点である。当初はCP本体の内蔵スピーカーなどたかが知れていると思い、小型の卓上スピーカーを物色していたが、1万円以下のスピーカーであれば、遜色はない。確かに低音はでないし、ピアノの音質もリアル感は全くないが、それでもヴォーカルはそこそこ聞かせる。仕事しながら音楽、特に女性ヴォーカルを聞くのであれば、十分であろう。またMac Book Airは11インチのため、老眼の私には文字のズーム機能を多用するが、I-Macではそんな心配もない。

 最近はMacも一時の驚きが少なくなってきたが、それでもI-Macに附属するワイヤレスのキーボードや、マジックマウスの性能には驚いた。画期的なものである。さらに新しいOSでは音声入力もすごいが、日本語読み上げ機能が入っている。90%以上の精度で文章を読み上げてくれる。こうして打った文章を訂正するのには使いよい。

 デスクトップのコンピューターは、最初はappleLC630から始まった。開業してすぐに買ったもので、周辺機器も含めて30万円くらいかかった。開業当初の出費としては痛かった。当時は、週に患者さんも10人程度で、ほとんどの時間を、このコンピューターでゲームをしていた。「提督の艦隊」シリーズにはまり、十回くらいはアメリカ占領までいったと思う。このゲームは戦争ゲームとしてはよくできたもので、今でもたまにはやりたいと思うが、もはや動かすコンピューターがない。その後、ボンダイブルーの初代I-Macに買い替えた。この機種は美しいコンピューターで中の機械はほんのり輝く。さらに二代目のI-Macは半球体のG4でこれも美しいデザインで、おまけについている円形のスピーカーは今でも懐かしい。音も当時のコンピューターとしては際立って良かった。そして最近まで使っていたのがI-Mac G5で、ディスプレイ一体型で、コンピューター本体がないのが革新的であった。そして現行のI-Macと4台目となる。大学時代もApple Clasicを使っていたので、appleとの付き合いは30年近くなる。いつも驚きを与えてくれるメーカーであるが、スティーブ・ジョブ亡き後、やや革新的な進歩がないように思えるのは私だけであろうか。それともコンピューター産業自体がそろそろ停滞期にさしかかったのかもしれない。

 コンピューターという道具は、最新のツールであり、本来は若い人が得意で、年配は苦手というものであろうし、私自身もこれまで、そう思っていた。ところがうちの娘もそうであるが、若いからといってコンピューターに詳しいわけではなく、むしろ50歳くらいの方の方が、金がありすぐに新しい機種が買えるせいか、くわしい人が多い。ブログ、ツイッターやインターネットショッピングも主役は40歳、50歳、60歳と聞く。若いひとも含めてコンピューターの活用は、世代差より個人差の方が大きく、これをどれだけ活用するかで人生そのものも変わるかもしれない。コンピューターだけは早く始めたから、くわしいものでもなく、全く初心者でもI-Macを買えば、すぐに最新のパーフォーマンスができる。この機種は値段も含めて、すべてのコンピューターの中で、最もコストパーフォーマンスは高い。いまだにwindowを買う人もいるようだが、はっきりいって最新のOSでも機能は、マックの数世代前にもので、初心者にこれほど使いにくいものはない。

2014年1月16日木曜日

弘前藩領絵図 文字からの検討



 江戸時代の書物というと、いわゆる“崩し字”が使われ、私のような知識のないものには、ほとんどわかりません。古絵図を見ていても、こういった文字で書かれていると、すぐにギブアップしてしまいます。江戸時代の人は、こんな難しい字をよく読めるなあと思っていましたが、実は江戸時代の庶民にとっては“崩し字”、行書(含む草書)の方が楷書より、慣れ親しんだ漢字だったようです。寺子屋では“後家流”と呼ばれる行書が教えられ、今の主流の漢字である楷書は唐様と呼ばれ、儒学者など一部の人々のみに使われていたようです。

 弘前藩領絵図は、明治二年弘前絵図と一緒に巻かれて保存されていたこと、使われている漢字が楷書(含む異体字)であったことから、ほぼ同時期(明治初期)に製作されたものと推定しました。ただ弘前藩領絵図の方が、使われている和紙が厚く、日焼けもしていましたが、これは明治二年弘前絵図の外巻きに使われ、日焼けしたためか、やや製作が古いためだと考えました。「明治二年弘前絵図」でもそういった記述をして、むしろ明治国絵図との比較をしました。ところが茨城大学の小野寺教授に写真を見てもらったところ、明治国絵図とは様式が違うとの返答でした。確かに国絵図での書式の決まりには、当てはまりませんし、紙の質感、雰囲気も違うようです。

 最近、弘前藩領絵図をもう少し調べたところ、記入されている地名などから、1760-80年ころ、年号でいうと明和から安永ころの絵図の写しと考えました。1800年前後、北海道が注目され、測量、地図作りが盛んに行われました。間宮林蔵、伊能忠敬などのビックネームはこの頃の人です。そこで当時の古絵図を調べていくと、どうも国絵図では行書で書かれていたのが、この頃の多くの絵図は楷書で書かれています。伊能図もそうですし、日本で最初の本格的な日本全図、「改正日本輿地路程全図」(1779, 長久保赤水)もそうです。長久保赤水の研究(http://www.kokudo.or.jp/grant/pdf/h21/uesugi.pdf)を見ると、製作過程の日記や絵図の説明文は行書で書かれていても、絵図の地名はすべて楷書で書かれています。これは測量、絵図製作という当時としては、最先端の事業において、現在の英語表記のように、唐様の楷書を使ったのかもしれません。また行書では崩しの少しの違いで読みが異なるため、地名のようなより正確な読みを必要とする場合は楷書の方が良かったのかもしれません。

 こういった考えをすれば、弘前藩領図を楷書で書かれているからと言って、幕末期の製作、模写と決めつけることはできなくなります。可能性としては明和から幕末までの模写、あるいはオリジナルである可能性もあります。最大、今から250年前まで遡れるかもしれません。ただこういった絵図には、模写にしても、どこかに製作年度、タイトルが書かれているのが普通です。表面あるいは裏にです。ところがこの弘前藩領図では一切、こういった記入はありません。

 絵図上には東西南北の記入がありますが、これは明らかに図中の字とは書体が違います。さらに西、東の字の一部が切れていますし、北、南の字についてもこんなに端に書くこともなかろうと思います。これは原図をカットしたと解釈できるのではないでしょうか。カットされたところに製作年度やタイトルが書かれていたのかもしれません。一方、弘前藩領絵図は明治二年弘前絵図とともに、折り目が一切なく、巻かれた状態で保存されていました(一枚もの)。通常、絵図は大きいため折り畳んで保存されます。弘前藩領絵図の大きさは、195cm×164cmで、厚い紙なのでくるくるっと巻いて紐で縛り、立てかければいいのですが、250年間も巻かれた状態で城内に保存していたとは、ははなはだ疑問です。

 こうなると弘前藩領図の製作年代を決定するのは、年代測定しかありませんが、それほどのものではなく、絵画でもそうですが、多くの古絵図を見てきた専門家の直感が重要だと思います。現在、弘前市立図書館に寄贈していますので、閲覧いただき、判断いただければと思っています。なお費用の関係で、弘前藩領図は印刷屋さんによるデジタルデーター化はしていませんが、私のカメラで分割撮影していますので、ご希望の方にはこのデーターでよければ、いつでもお送りいたしますので、ご連絡ください。

 下図は岩崎村周辺のものです。”崎”と”嵜”という漢字が使い分けられていますが、現在では、どちらも同じ意味です。昔は違っていたかもしれません。貝崎、森山崎、鹿渡ヶ沢崎など今はない崎があります。

*本日(1月19日)、紀伊国屋書店弘前店をのぞくと、「新編明治二年弘前絵図」の最後の1冊が売れていました。1年くらいで売り切れればと考えていましたが、少し早く売れてしまった感じです。今回は多くの本屋にも卸していますので、まだ他の本屋さんで売っているかもしれません。増刷はおこないません。

2014年1月13日月曜日

A-dec 500,300の感想




 寒い日が続きます。今年は雪が少なく、いい年だと思った矢先の大雪で、ぬか喜びでした。

 うちの診療室は、築40年以上の古いビルの3階で、冬季間は毎日、診療を終えると、大家さんに連絡して、水抜きをします。これをしないとえらいことになり、水道が凍結して、水が全く使えないことになります。過去に3度ほど経験しました。

 水道業者に連絡し、解氷用のヒーターを持ってきてもらい、水道管を温めます。こういった日に限って各所で水道管の凍結があるため、なかなか来てもらえません。歯科医院で水がないと、これは悲惨なことで、診療ができないことになります。

 8年前にアメリカのエーデックというメーカーの歯科用ユニット、診療台を導入したおかげで、水が全くない状態でも何とか、最低限の診療ができることになりました。このユニットは本体に3リットルのボトルを取り付けられ、タービン、エンジンなどのすべての機械の水をここから供給できます。仮に水道管凍結でも、大家さんのところから水をもらってきて、ユニットにつければ診療はできます。一度は水道の凍結で午前中、断水状態が続きましたが、トイレの水以外は何とか対応できました。

 さらにこのボトル給水の方法の利点は、タービンの故障が減ります。水道栓を開けると、水道管が古いせいか、汚い水が最初流れます。その一部、あるいは水垢がタービンのノズルを詰まらせることが度々ありました。私のところのタービンの故障の原因はほとんど、このせいです。これが浄水などきれいな水を使うことでほとんどなく、タービンの故障はここ8年、一度もありません。ちなみにタービンは国産のナカニシです。さらに私の診療室は3階にあるせいか、もともと水圧が低い上に、その変動も大きく、タービンの水量調整に苦労しましたが、ボトル給水のおかげで、全く水量は安定しました。またボトルに専用の消毒剤を入れることで、ユニット内の細菌繁殖を抑え、患者さんにきれいな水を供給できます。論文で、その効果が確かめられているのはA-decのシステムだけだと思います(最近の論文読んでいませんが)。

 こういった利点があるにも関わらず、国産メーカーでこのボトル給水システムを採用しているメーカーはありません。一時、タカラの機種でオプションとして採用されましたが、いつの間にかなくなりました。このボトル給水システムはボトル内をやや陰圧にしないと、機械に水を供給できず、こういった機構が難しいのだと思います。

 A- decの歯科用ユニットは本当に故障が少なく、これまでの故障の原因は、ゴムのパッキングの劣化によるものだけです。一度、肝心のボトルシステムのパッキングのゴムが割れ、水が使えなくなりました。翌日、パッキングのみを宅急便で送ってもらい、30秒くらいで取り替えて修理終了です。その後は、予備のパッキングを用意しています。その他の部品も簡単に交換することができ、A-decを扱うエーデント社には数名しか修理要員はいなくても部品を送ってもらうことでほとんど対応できます。さらにE-Bayなどでも部品が売っています。例えば、A-dec500用の革のシートが750ドルで売っています。
http://www.ebay.com/sch/i.html?_from=R40&_sacat=0&_nkw=adec+dental&rt=nc)これを買い、古いシート部分全体をはずし、新しいシートを交換するといきなり新品に早変わりします。日本のメーカーではせいぜいシートを覆うレザーやビニルを新しく張り替えすることができるくらいですが、A-decの場合は背もたれも含めた土台ごとの交換となります。またリモートボトルシステムもE-Bayにありました。多分、本体から離れたところから供給するシステムで、定価500ドルがE-Bay価格175ドルです。

 あるドイツの某メーカーが最近、年間15万円ほどを出すと定期的に歯科用ユニットの整備点検、故障の修理を行うことを始めました。8年で約120万円になります。広告では、もしこの保守契約をしないと故障のさいにべらぼうな費用がかかるとのことでした。つまり年間15万円以上払ってでも、お得という訳です。このメーカーのバカな点は、こういったことを大々的に宣伝することは、故障が多い、故障修繕費が高いと自ら認めている点です。車でいうなら、しょっちゅう故障し、修理費も高いから、保険に入った方がよいと宣伝している訳で、誰がこんな車を買うでしょうか。故障がない、修理費も安い製品を買うのが当たり前です。ちょっとずれています。


 昨年、A-decをさらに一台導入しました。これは本体がA-dec300、チェアーがA-dec500のコンビネーションです。円安で、予算が足らなくなったせいですが、できればすべてA-dec500の方が良かったと思います。8年間、A-decユニットを使った感想でした。

2014年1月12日日曜日

尖閣諸島の沖縄県有地化


 日中関係が冷えきった状態が続いている。双方がメンツにこだわり、両国の信頼関係は戦後最悪の状態になっている。こうした状態は、経済関係だけではなく、東アジアの緊張を生み、欧米諸国は深い憂慮を示している。

 山田純三郎の中国通を示す事例を示す。以下、「醇なる日本人 孫文革命と山田良政・純三郎」(プレジデント社、結束博治著)から引用

1925年8月28日夜、日本の三井船舶の石炭運送船が広東海域を航海中、中国側から砲撃され、乗船していた日本海軍水兵1名が死亡、乗組員数名が負傷するという事件が起きた(水兵事件)。

当初、中国側は虎門要塞からサーチライトを照らし停船命令を出したが、日本の船舶がこれに応じなかったため、やむを得ず発砲したと主張した。だが、日本海軍は納得せず、直ちに広東総領事館に交渉方を依頼した。このころ、純三郎は国民政府顧問の肩書きをもっており、交渉役の清水亨副領事は東亜同文書院の後輩であった。

国民政府側は砲撃した要塞側にいささかも落度もなく、見舞金を出すことによって解決しようと、汪兆銘(政府主席)、蒋介石(要塞司令)、許崇智(軍事委員)連名で回答文を日本側に示したものの、交渉は難航した。純三郎は日中両国の言い分をじっくり聞き、自ら汪兆銘と書簡往復を十数回も繰り返し、約一ヶ月後には最終提案を行った。

汪は最後の書簡で「ご提案、謹んで了解しました。ご斡旋の熱意に感服し、ご提案の条項すべての項目をその通りにします」と返事をしている。純三郎の提案は中国側の面子を考慮して、一方的に謝罪を要求することなく補償金の増額を認めさせ、双方が日本の軍艦で和解の式典を行うことが骨子になっていた。事件は日本側の言い分が通り解決した。

日本領海軍の提督と領事が儀礼にもとづいた艦上友好式典を挙行し、双方の名誉を傷つけることなく解決したことは純三郎の功績といえるだろう。」

 当時、五・三十運動と呼ばれる反日英の大規模な闘争がおこり、独立・統一を求める民族運動は全国に広がっていた。この水兵事件はへたをすると、日中間の反発をさらにエスカレート可能性があった。幸い日本側には汪兆銘、蒋介石ともに親しい山田純三郎がおり、彼が交渉にあたったことが解決の大きな要因となった。中国側のメンツを重んじた純三郎の交渉力は、中国学者の竹内実も「日中関係とメンツ」で絶賛している。

 今の日中関係の悪化は、直接的には尖閣諸島問題に起因する。何時何時、「水兵事件」のような突発事故がおこる可能性がある。だが日中双方に山田純三郎のような交渉方がいるだろうか。ここはそういった可能性を軽減するような処置が求められる。

 ひとつの方法としては、現状を過去に戻すことであろう。中国側の一番の怒りは、尖閣諸島の国有化である。国有化されることで、いつでも尖閣諸島に日本のレーダー、ミサイル基地の設置ができ、中国としては尖閣問題を棚上げにしようとしていたメンツがつぶされたことになる。大国、中華帝国を目指す中国にとっては、これに抵抗しないと大きな恥となる。

 もともと尖閣諸島は私有地であり、石垣市に所属する。同島の緊迫化に伴い、沖縄県有地にしようとするがなかなか埒が明かないので、東京都、そして国有地となったという経緯がある。ここは国有地を沖縄県に払い下げ、県有地にして、用途を自然環境保全に限定し、一切の施設を建てないとすることで、中国のメンツを立てることになる。もともと実効支配をしているので国有地であろうと県有地であろうと現状と変化はない。さらにあの小島に軍事施設を設置することは防衛上、難しく、日本政府としてもそういった考えはない。であれば、尖閣を県に払い下げることは、国際社会へ日本政府は日中両国の紛争を望んでいないという外交的なアピールになるし、中国のメンツも立てられる。逆に中国は、防空識別圏での民間機の飛行計画事前届け出をなくす。これは十分に飲める提案である。

 県有化の問題点は、むしろ沖縄県の一部の人がこれを沖縄独立と絡めることで、さらに中国による沖縄への接触が格段に高まる。ただ日中関係修復の落としどころ案のひとつとして、尖閣の県有化もあろうかと考える。