日中関係が冷えきった状態が続いている。双方がメンツにこだわり、両国の信頼関係は戦後最悪の状態になっている。こうした状態は、経済関係だけではなく、東アジアの緊張を生み、欧米諸国は深い憂慮を示している。
山田純三郎の中国通を示す事例を示す。以下、「醇なる日本人 孫文革命と山田良政・純三郎」(プレジデント社、結束博治著)から引用
「1925年8月28日夜、日本の三井船舶の石炭運送船が広東海域を航海中、中国側から砲撃され、乗船していた日本海軍水兵1名が死亡、乗組員数名が負傷するという事件が起きた(水兵事件)。
当初、中国側は虎門要塞からサーチライトを照らし停船命令を出したが、日本の船舶がこれに応じなかったため、やむを得ず発砲したと主張した。だが、日本海軍は納得せず、直ちに広東総領事館に交渉方を依頼した。このころ、純三郎は国民政府顧問の肩書きをもっており、交渉役の清水亨副領事は東亜同文書院の後輩であった。
国民政府側は砲撃した要塞側にいささかも落度もなく、見舞金を出すことによって解決しようと、汪兆銘(政府主席)、蒋介石(要塞司令)、許崇智(軍事委員)連名で回答文を日本側に示したものの、交渉は難航した。純三郎は日中両国の言い分をじっくり聞き、自ら汪兆銘と書簡往復を十数回も繰り返し、約一ヶ月後には最終提案を行った。
汪は最後の書簡で「ご提案、謹んで了解しました。ご斡旋の熱意に感服し、ご提案の条項すべての項目をその通りにします」と返事をしている。純三郎の提案は中国側の面子を考慮して、一方的に謝罪を要求することなく補償金の増額を認めさせ、双方が日本の軍艦で和解の式典を行うことが骨子になっていた。事件は日本側の言い分が通り解決した。
日本領海軍の提督と領事が儀礼にもとづいた艦上友好式典を挙行し、双方の名誉を傷つけることなく解決したことは純三郎の功績といえるだろう。」
当時、五・三十運動と呼ばれる反日英の大規模な闘争がおこり、独立・統一を求める民族運動は全国に広がっていた。この水兵事件はへたをすると、日中間の反発をさらにエスカレート可能性があった。幸い日本側には汪兆銘、蒋介石ともに親しい山田純三郎がおり、彼が交渉にあたったことが解決の大きな要因となった。中国側のメンツを重んじた純三郎の交渉力は、中国学者の竹内実も「日中関係とメンツ」で絶賛している。
今の日中関係の悪化は、直接的には尖閣諸島問題に起因する。何時何時、「水兵事件」のような突発事故がおこる可能性がある。だが日中双方に山田純三郎のような交渉方がいるだろうか。ここはそういった可能性を軽減するような処置が求められる。
ひとつの方法としては、現状を過去に戻すことであろう。中国側の一番の怒りは、尖閣諸島の国有化である。国有化されることで、いつでも尖閣諸島に日本のレーダー、ミサイル基地の設置ができ、中国としては尖閣問題を棚上げにしようとしていたメンツがつぶされたことになる。大国、中華帝国を目指す中国にとっては、これに抵抗しないと大きな恥となる。
もともと尖閣諸島は私有地であり、石垣市に所属する。同島の緊迫化に伴い、沖縄県有地にしようとするがなかなか埒が明かないので、東京都、そして国有地となったという経緯がある。ここは国有地を沖縄県に払い下げ、県有地にして、用途を自然環境保全に限定し、一切の施設を建てないとすることで、中国のメンツを立てることになる。もともと実効支配をしているので国有地であろうと県有地であろうと現状と変化はない。さらにあの小島に軍事施設を設置することは防衛上、難しく、日本政府としてもそういった考えはない。であれば、尖閣を県に払い下げることは、国際社会へ日本政府は日中両国の紛争を望んでいないという外交的なアピールになるし、中国のメンツも立てられる。逆に中国は、防空識別圏での民間機の飛行計画事前届け出をなくす。これは十分に飲める提案である。
県有化の問題点は、むしろ沖縄県の一部の人がこれを沖縄独立と絡めることで、さらに中国による沖縄への接触が格段に高まる。ただ日中関係修復の落としどころ案のひとつとして、尖閣の県有化もあろうかと考える。
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