幕末の弘前藩領絵図の原本について、少し調べているが、ほとんど進展がない。弘前市立図書館所蔵の古地図が見られれば、もう少し村落の比較検討ができるが、アマチュア研究家には高望みで、もっぱら公開されている絵図、旅行記を探っている。
吉村昭著、「間宮林蔵」(新潮文庫、2011)を読んでいると、間宮林蔵、19歳の時に、村上島之允と一緒に奥羽地方の宿場から宿場への駅路図の作製を命じられた。福島、仙台、一関、水沢、盛岡、一戸、野辺地と測量を進め、さらに陸奥湾に面した津軽半島、下北半島の調査を行った。津軽半島の海岸調査は間宮林蔵が行った。この駅路図は「陸奥州駅路図」として1798年に完成した。
この駅路図は国立国会図書館デジタル化資料に「大日本國東山道陸奥州駅路圖」として収められている
どこを比較しようかと思ったが、竜飛岬付近について見てみたい(5巻6,7ページ)。陸奥州駅路図では「たっぴ岬」と「帯嶋」(正確には山へんの与)となっているのに対して、弘前藩料絵図では「龍濱崎」、「ヨンヘイ シマ」(ランヘイ?)となっている。ヨンヘイと読むのか、ランヘイと読むのか、よくわからないが、ヨンヘイなら御幣のことか。全くわからない。「帯島」は有名な義経伝説に基づく名前であり、源義経が大陸に渡るにあたり、この島で帯を締め直したという由来をもつ。1800年ころにはすでに義経伝説がかの地まで伝わり、そういった名前がついたのであろう。とすればこの「ヨンヘイ シマ」は、義経伝説が伝わる前の帯島の古名か、アイヌ語であった可能性がある。ただこれについての資料はないので、はっきりしない。
さらに陸奥州駅路図では「源兵衛澗」、「よろい岩」に続くが、弘前藩領絵図では「鎧岩」の記載があるだけである。陸奥州駅路図では「どむの澤?」、「梨木澗」、「まさかり泊?」、「上字鉄村」、「字鉄村」となるが、弘前藩領絵図では「字鉄崎」、「下字鉄」、「上字鉄」となる。陸奥州駅路図ではその後の集落は「釜の澤」、「藤志間?」となるが、弘前藩領絵図では「釜間」、「藤シマ」となっている。
陸奥州駅路図には字鉄村の説明として「字鉄村ハ宝暦年間(1751-63)まで蝦夷の容貌タリ 酋長をクマタカアイノ フルクイン ウテレキ セキリハ クマカヒ ルウマンアイノ ソダツイン など云へる名にてありしが、今は服従せり」とあり、また「字鉄村」前の岩を「釜石」として、その説明には「判官義経塩を焼せらるより云伝へて岩の穴あり?」とある。間宮林蔵は若い時から、アイヌ、義経伝説などの興味をもつロマンチストであったのだろう。津軽一統記には、江戸中期に、龍飛村には1軒、松ヶ崎村には9軒、藤嶋村には1軒、字鉄村には4軒のアイヌ人の家があったようで、竜飛岬から今別にかけてアイヌ人が比較的多くいたのであろう。また字鉄では縄文から弥生時代の遺跡も見つかっており、早い時代から人が住んでいた。
陸奥州駅路図では、集落として上字鉄村—字鉄村—釜の澤—藤嶋—六丁澗—中濱—三厩村—増川村—松ヶ崎村—濱松村—今別であるが、弘前藩領絵図では下字鉄—上字鉄—釜間—藤シマー六シマー中シマー三厩—増川—濱名—今別となっている。釜の澤が釜間、六丁が六シマ、濱松が濱名と同じなのはわかるが、上字鉄が下字鉄になり、字鉄が上字鉄になったかもしれないし、上字鉄がなくなり、新たに字鉄ができたのかもしれない。地名学の分野の話で、さっぱりわからない。伊能忠敬の1802年の測量では(下図)、上字鉄—下字鉄—釜澤村—藤島村—六町間—三厩—増川—濱名—今別となっている。字鉄村については元字鉄との表記もあり、弘前藩領図の下字鉄は上字鉄、上字鉄が下字鉄の間違いの可能性がある。いずれも戸数数戸の集落であり、地震、津波などの災害でなくなることもある。
ここで一番気になるのは、現在図では三厩の上字鉄地区の海側に、ミサゴ島があるが、弘前藩領図では、同部には字鉄崎がある。周辺の地理を見ても崎と呼べるところはなく、浸食、地震などにより崎のふもと部分がなくなり、先が島となりミサゴ島になった可能性がある。藤島の記載があるのに、ミサゴ島の記載がないのが不可思議である。となると、深浦の千畳敷が出現した1793年の寛政西津軽地震によるという妄想が出てくる。
今後、さらに調べていかないといけないが、弘前藩領絵図の原本は1790年ころか。
なお陸奥州駅路図の地名については、知識不足で読解できないので、その読みは間違っていると思う。
* 1/23 弘前図書館で調べると、貞享の検地水帳附属絵図では「大べい島」となっているようです。蝦夷語「オー」は群生する、うようよいるなどの意味で、「べい」(ぺい)は水という意味で、すなわち帯島というのは魚や鳥などが群生する、寄り集まってくるという意味だそうです。この当たり一帯の水域は魚の群生する場所です(三厩村誌、昭和54年、三厩村役場)。「ヨンヘイ シマ」はこの「オーペイ シマ」が訛ったアイヌ語と思われ、帯島と言われる前の古い名前と思われます。
* 1/23 弘前図書館で調べると、貞享の検地水帳附属絵図では「大べい島」となっているようです。蝦夷語「オー」は群生する、うようよいるなどの意味で、「べい」(ぺい)は水という意味で、すなわち帯島というのは魚や鳥などが群生する、寄り集まってくるという意味だそうです。この当たり一帯の水域は魚の群生する場所です(三厩村誌、昭和54年、三厩村役場)。「ヨンヘイ シマ」はこの「オーペイ シマ」が訛ったアイヌ語と思われ、帯島と言われる前の古い名前と思われます。
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