三厩の上字鉄村の海沿いにある字鉄崎について、インターネット上で公開されている絵図を並べて検討する。
一番古い絵図は、正保国絵図(1645)で、この絵図は現在、青森県立郷土館が所有する。副本に正確な写しである。デジタル化されていないので、詳しく見ることはできないが、海岸に突き出た2つの崎が認められる。(1番目図)
次に古いのは、元禄国絵図(1697-1700)で、原本は見つかっていないが、後年の写しが弘前大学図書館にある。ここにも2つの崎があり、右の方が字鉄崎であろう。(2番目図)
天保国絵図(1838)は、元禄国絵図を下書きに、変更点を追加したものであり、海岸線は元禄国絵図に近い。ここでは「うてつ崎」の名称がでてくる。1838年当時の海岸線ではなかろう。(3番目図)
村上島之充らの大日本國東山道奥州駅路図(1798)では、上字鉄村の海に「帆たて嶼(山に与)」と記載され、小さな小島とその沖の平たい島が見られる。ここで「崎」から「嶼」に変わっている。(4番目図)
さらに伊能忠敬は享和2年(1802)に三厩、小泊などを測量している。上字鉄村から竜飛岬までは舟での測量である。ここでも上字鉄村の海には小さな岩、小島が散在している。(5番目図)
そして現在の同地帯をGoogle earthで見ると、小さな島とコンクリートで囲まれた堤防のような物が見える。島までの水深は浅そうで、陸地から島まで歩いていけるかもしれない。(6番目図)
弘前藩領絵図(7番目図)は、私のいいかげんな推測では、1760-1780年ころの製作と考えたが、そうするとこの時期から少なくとも1798年までに字鉄崎は何らかの原因で崎から小島になったものと思われる。これだけ地形が変化するとなると、その原因を地震に求めることになるが、この間の大きな地震としては、明和津軽大地震(1766)と寛政西津軽地震(1793)があった。明和津軽大地震は、震源地、弘前で、マグニチュード7.2から7.3の強い地震であった。寛政西津軽地震は、震源地が西津軽海岸でマグニチュードは6.9から7.1であった。寛政西津軽地震では深浦の荒崎と呼ばれるところが隆起して千畳敷海岸になっただけでなく、鯵ヶ沢の弁天崎が崩れたと言われる。字鉄崎も寛政西津軽地震とその後の海水による浸食により小島になったと可能性もあるが、震源地とは距離があり、はっきりしない。専門家のご意見をお聞きしたい。
*色んなところから勝手に図を拝借し、著作権上、問題あるが、ご容赦いただきたい。
追加です。明治7年の大日本海岸実測図の「陸奥国三厩湾」です。測量は津出身の柳樽悦で、また崎のような地形になっています。
*色んなところから勝手に図を拝借し、著作権上、問題あるが、ご容赦いただきたい。
追加です。明治7年の大日本海岸実測図の「陸奥国三厩湾」です。測量は津出身の柳樽悦で、また崎のような地形になっています。
0 件のコメント:
コメントを投稿