2014年1月8日水曜日

弘前藩領絵図 新村、再興村からの考察



 性格的にしつこいというか、最近は弘前藩領絵図のオリジナルについて考えることが多い。以前、知人からいただいた二枚の絵図の内、明治二年弘前絵図については興味があったので、「明治二年弘前絵図」、「新編明治二年弘前絵図」ではこの城下絵図について詳しく調べ、本として発刊したが、もう一方の弘前藩領絵図についてはなおざりにしていた。当初は、消失したと言われる幻の明治国絵図かと思い、その道の権威の先生にも問い合わせたが、あっさり否定され、また書体から幕末から明治初期のものと思われたため、資料的価値は低いと判断した。

 明治二年絵図、地籍絵図の調査をしている内に、この弘前藩領絵図にもオリジナルがあり、幕末頃に模写されたと思うようになった。これまでの調査から、といってもアマチュアの適当なものだが、オリジナルの製作年は 18世紀末、1790年ころと推定した。絵図のどこかにでも、オリジナルの名前でも入っていればいいのだが、本地図についての説明は一切ない。1790年ころとなると今から220年以上前のもので、当時の弘前藩を知る重要なものと考えられる。

 本絵図は、国絵図と異なり、米の収穫量などの記載はなく、今の地図のように当時の村落をおおまかな位置関係を示したもので、駅路絵図に近い。前回、竜飛岬周辺について検討したが、他の方法として江戸期に弘前藩で新たに生まれた新村に焦点を当てて検討した。

 江戸期において大掛かりな新田開発とそれに伴う新村ができたのは、まず寛政12年(1800)の新田再開発が挙げられる。藩主、津軽寧親のもと、家老喜多村監物、用人竹内衛士、そして新たに召し抱えられた平沢三右衛門貞次らが荒廃した廃田復興だけでなく、新田の開発に着手した。15年後には種々の困難があったが、1813年には田地2200町歩あまりが復旧、開拓され、三万石以上の増産に成功した。この時に新たにできた村は20あまりであった。

木作新田: 千代田村、下牛潟村、亀ヶ岡村、下車力村、入江流村、牛潟新町、蝉音新派、堅田村
広須組: 下富萢新町、下繁田村、家調新派
広田組: 藻川新町、福井村
飯詰組: 下松ノ木村
金木組: 田野沢村、下毘沙門村、長富村
金木新田: 長泥村
赤石組: 升形村
横内組:筒井新町
大鰐組: 久吉村

 21の新たな村ができ、天明大凶荒から廃村となっていた七村、木造新田の遠山里村、下遠山里村、嘉納村、広須組では緑川村、沼館村、再賀村、福富村が復興された。以上、すべて「続 つがるの夜明け よみもの津軽藩史 中巻」からの引用である。

 これらの村についてざっと調べると、寛政にできた新たな21村の名は弘前藩領絵図には発見できなかった。しかし遠山里村など7つの再興村については、「下遠山里村」を除く、「遠山里村」、「加納村」(嘉納村のこと)、「ミドリ川村」(緑川村)、「沼ダテ村」(沼館村)、「再賀村」、「福富村」の6つの名が確認できる。

 天明の大恐荒が始まったのは、天明3年から4年(17831784)であり、この大飢餓によって、多くの農民が田畑を捨てて、他国に逃散した。上記7再興村もこの頃になくなったとすれば、弘前藩領絵図のオリジナルは、もう少し古く、1770年代のものかもしれない。

 前のブログに戻り、字鉄崎が天災により島となったという仮説を挙げたが、今別まで被害のあった天明大地震(1766)まで遡ることができるかもしれない。その場合はさらに古くなり、1760年ころのものと思われる。国会図書館のデジタルアーカイブ、天保国絵図(1838)には、竜飛岬付近に「うてつ崎」の名があるが、天保国絵図は元禄国絵図を修正したもので、ことに海岸部の描写は元禄のものをそのまま記載したと思われ、作製年月日の参考にはならない

http://www.digital.archives.go.jp/gallery/view/category/categoryArchives/0200000000/0202000000)。また弘前大学附属図書館には元禄国絵図の写しとされる絵図があり(http://www.ul.hirosaki-u.ac.jp/collection/rare/viewer/)、同じく「うてつ崎」らしき地形は見られるものの、説明はない。県立郷土館の本田伸先生は、この絵図を江戸後期、幕末の近い時期の模写としているが、安い顔料が使われ、絵図としては稚拙であり、省略も多いように思われる。

 以上のことから弘前藩領絵図は、1760-80年頃に製作されたオリジナルを幕末ころに模写したものと思われる。比較的、丁寧な彩色、記載があり、藩によって作られたものと推定される。もう少し検討してみたい。

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