2007年10月21日日曜日

アグリー・ベティ


NHK-BS2でアグリー.ベティという新番組がこの秋から始まりました。月曜日の午後11時からやっています。ださくて、かっこわるい主人公のベティーが、セレブでファッショナブルな雑誌「モード」の編集長アシスタントとして活躍するもので、アメリカではゴールデングローブ賞やエミリー賞を受賞した人気のある番組のようです。この主人公のベティーの口元にはメタルのブラケットが装着されています。さらにワイヤーとブラケットを止める結紮ゴムも青やピンクのものを使っており、それは目立つ事。おそらくドラマの主人公が矯正装置をつけて出ているのは初めてのことだと思います。主演のアメリカ・フェレーラは、おそらくこの役のために装置を装着したでしょう。眼鏡と同じく、主人公の完全なキャラになっています。
ベティの自己紹介ということで雑誌「モード」に提出した履歴書がHPに載っています(http://www3.nhk.or.jp/kaigai/uglybetty/resume/index.html)。アメリカ人の履歴書の書き方がわかって面白い。それこそ何でもこれまで経験したことを書くというもので、日本人ならアイスクリーム家でバイトしたくらいのことは履歴書にも書きませんが、ベティにかかると「ソフトクリームスペシャリスト、週末夜間マネージャー ダブルスクープ導入時にソフトクリームマシンの操作およびメンテナンス担当 2名の従業員(本人を含む)の管理」となります。
ややおもしろく書かれているとは思いますが、履歴書は面接をする側からすれば会話に糸口を探り、人物を知るためのもので、何も書かれてない履歴書ほど面接に困ることはありません。面接官もベティーのような履歴書をもらうと、少なくともおもしろそうなやつと興味を持たれること確実です。以前就職前に大学生の女の子で、ラジオ体操指導者というライセンスをもっている子がいました。それは絶対に履歴書に書くべきだといったのですが、はずかしいから書けないということでした。大学生の娘にも早速メールを送り、ベティーのような履歴書を書けるような経験を積むとともに、やってきたことはきちんと記録することを勧めました。わたし自身これまでも、講習会、講演会、役職など行ってきましたが、全く記録していないため、案外忘れてしまうことが多く、経験したことをきちんと記録しておくことも就職のような時には非常に役に立つと思います。
日本でもドラマに矯正治療をしている主人公がでるように早くなってほしい。

2007年10月15日月曜日

山田兄弟8



「津軽奇人伝 続」原子昭三著に山田兄弟についても次のような記述がある。
「良政が孫文と初めて会談したのは明治32年7月のことだった。当時、東京神田三崎町には、津軽出身の書生がゴロゴロしていた宿舎があった。ある日良政は「おい、今日は支那の偉い人が来るから、少し静かにしろ。相撲だけはとるな」と言いつけた。弟の純三郎は障子の破れ目から支那の偉い人を、垣間見たら、額はオデコ、後頭部もオデコのような小肥りの変哲もなさそうな小男がちょこんと座っていた。」     純三郎にとっても初めて孫文と会った瞬間であった。

上海日報紙に
「良政氏は裡に熱血もえ、外に冷静に、極めて真摯な人物であった。氏は最初上海にきた当時在留青年を集めてキリスト教青年会を組織したことがある。エバンス書店の主人などは、その頃の良政をよく知っているとのことである。また良政がいよいよ広東で事をあげることになるや、青年数名は香港の良政氏に手紙を出して従軍せんことを願った。しかし良政氏は大いに驚き、早速返事をよせて断然これを許さなかった」
「良政がいかに生徒に慕われておったかというのは、同文書院の生徒に櫛引武四郎という同郷弘前出身者がおった。彼は良政が止めるのもきかず、逆に恵州に参加し、九死に一生の生還をすることができた。しかし大正2年第二革命に於いて南京郊外で戦死、39才の生涯を終えている」     第二革命は1913年であることから、櫛引は1874年生まれで、良政の6歳年下、純三郎からは3歳年上にあたる。恵州蜂起が1900年であることから、26歳のころに参加した。良政が教鞭をとっていた南京同文書院(後1901年より東亜同文書院)ができたの1900年春で、おそらく櫛引は同文書院の1回生15名のひとりで、純三郎とは同期であったと思われる。ふたりはその後、どのような活動をしたのだろうか。

2007年10月7日日曜日

一戸兵衛 4



一戸大将は漢詩を愛し、造詣も深かったが、こんなエピソードがある。
「自分は幼少のころ、『実語教』とういものを父から習った。その中に『山高キガ故ニ尚カラズ。木アルガ故ニ尚シトス。人肥エタルガ故ニ尚カラズ。智アルガ故ニ尚シトス』ということが書いてある。私はどうしても、この『山高キ』の『高キ』がおぼえられず、また『ガ』ということがおぼえられなかった。出来ないと父に頭をコツンと叩かれる。それがくやしいので、どうしてもおぼえなければならない。カナ字をつけようにとしても、それを知らない。仕方ないから、本に鳥の絵をかいておいて『山高キ』の下にゆくと、鳥の絵をみて、鳥はガーガーとなくから『ガ』だと思い出して『山高キガ故ニ』と読んだものだ。それから一通り分かってきたら、好きになってよく覚えた。」 菊池九郎もそうだが、幼少期の漢文の素読を難しかったようだ。

弘前出身で山田純三郎のおいでもある佐藤慎一郎は
「一戸家と佐藤家とは親戚関係にあるが、叔母の話では、青春時代、一戸兵衛には秘かに恋した女性があった。たまたま上京して、その女性が一人の紳士といとも睦まじく、馬車に乗っているのを見て、ものすごくショックを受けた。そのとき、少年の胸には大きな憤りと悲しみ、そして『いまにみろ』という不撓不屈の炎がもえあがったという」  後半は少し飛躍していると思う。

弘前中学の成田豊実先生は
「一戸大将は、弘前の護国館の初代館長をされたり、東奥義塾に多額の寄付をされるなど、郷土を深く愛していたが、反面、津軽人を嫌っていた面もある。それは『一戸は少年時代不良であった』とか、『一戸の家は昔、おれの家の借子だった』と、とかく大将の悪口をいう者があったためである」 太宰治も同じようなことを『津軽』で書いているが、このような傾向はいまだにあるようである。どうも津軽人はややひねくれたところがあり、偉いひとをみると賞賛することをよしとせず、何かけなすところがないか探す傾向がある。そのため気候がきびしいせいもあるが、功成り遂げると故郷に帰らない。

2007年10月4日木曜日

宮崎椅子製作所の椅子


6か月前に注文した宮崎椅子製作所のPePe loungeがようやく届きました。ロット番号が5番でかなり早いロットです。懇意にしている近所のベターホームズの店長さんから以前紹介され、買ったものです。宮崎椅子製作所というから宮崎県にある会社かなあと思いましたが、HPで調べると徳島県鳴門市にある会社です。細部の加工がすばらしく、アーム部の継ぎや仕上げに手がこんでいます。当初、価格も45000円くらいで、この価格でこの仕上げは驚異的に安いと思いました。ただ残念なことに注文後、HP上で価格変更の通知が出ていて、その変更日付がHP発表の1か月前くらいになっていました。ベターホームズの店員さんが先方に連絡した時は45000円くらいだったのですが、手に入れた時の価格は56000円くらいになっており、また仕様も異なっていました。店長さんが気の毒がり安くしてもらいましたが、注文した時から値段が上がっても、普通は注文した時点の価格で販売すると思います。営業面ではまだまだ問題はあるようです。
もの自体は、かなり座り心地がよく、がっちり座れる感じです。座った時のアームの感触もよく、椅子自体も美しい作品です。なら材に赤のファブリックを合わせましたので、やや和風の北欧風という感じです。
隣に写ってきるのは有名なYチェアーですでに8年ほど使用しています。アーム部が汚れていますが、状態はよい方だと思います。
この2脚を比較しますと、先の不満を抜きにしてもやはりYチェアーの方が座り心地はいいと思います。普段は薄いクッションをひいていますが、PePe loungeよりゆったり長時間すわれます。幅はほぼ同じです。
8年前のYチェアーの価格は確か60000円くらいだったと思います。今はユーロが上がり、8-90000円くらいしていますが、8年前に価格で考えるとウムと考えてしまいます。確かにYチェアーは曲げと切り出しを多用し、マスプロダクション的な製品に対して、PePe loungeはかなり職人に手が入り、手間がかかっており、高くなるのはわかります。PePe loungeをみていると職人さんたちはさらに細部に手を入れ、フィンユールの椅子のような仕上げを目指しているのかもしれません。ただそうすると高くなります。このあたりのバランスが本当に難しいと思います。これからも期待したい会社ですし、できれば冬の長い津軽の地にもこういった椅子の会社ができたらと思います。
ちなみに下に敷いているキリムはイランのアフシャール・シルジャンと呼ばれるところのものです。トルコ系の遊牧民アフシャール部族が作ったものです。かなり太くてしっかりした糸を用いて、つなぎ織りで織られたものです。ボーダーのチューリップ模様はカシュガイやローリ族の影響だと思います。5.60年は経っていますが、フランジまで残っており、コンディションはよいと思います。最近の絨毯屋ではあまり見かけないようです。