2012年3月15日木曜日

須藤かく 7



 須藤かくが、横浜からニューヨーク州のケルシー医師の農園に来たときに、姉の嫁ぎ先の成田家も一緒に連れてきたことは、このブログで伝えた。この成田家について書かれたブログ
(http://www.saratogian.com/articles/2011/09/03/wglife/doc4e5ce79944d61628002816.txt)とyoutubeがあったので紹介したい。


日本人の女性がマクレガー山に治療のために来て、生涯をそこで暮らす。
Jeannine Wouterersz (Wilton town歴史家)
 古人曰く「真実はフィクションより奇なり」、私が評伝を読む理由である。

 ガンビーノ・成田スエは6歳の時に3人の姉妹、弟、父親と一緒のアメリカに来た。彼女の母親は日本で死んだ。日本を担当していた内科医のケルシー医師が彼らの一家を助け、援助した。
彼らはケルシー医師のWesr Cmdenの農家に住み、仕事を手伝った。1914年にスエは結核になった。ケルシー医師は彼女の妹、Marthaと彼女の夫Oliver ClarkがGrant Cottageの管理者をしているMount Mcgregorにスエを送った。Metropolitan Life Insurance Company Sanatorium で内科医をしているHowk医師による治療を受け、完治した。Oliver Clarkは南北戦争の折、アンダーソンビルで捕虜になり、病を得ていたが、スエは彼の世話のために残った。
Oliver Clarkは1917年に亡くなり、彼の妻が引き続き管理人となった。スエは山での生活を楽しみ、保養所の図書館員として働いた。また数年に渡り、“The Metropolitan Optimist”の共同編集者にもなった。
 Martha Clarkは1941年に亡くなり、スエは第二次大戦中、いまだ日本国籍であったが、管理人としてここに残ることを許された。山から出ることは制限され、ラジオも1年間、没収された。彼女は比較的ラッキーな方で、彼女の家族は戦争中、アリゾナの抑留キャンプに行かされた。
Metropolitan Life Insurance Company Sanatoriumは1945年に閉鎖されたが、ニューヨーク退役軍人局がすぐにリハビリテーションキャンプを開設し、スエは教会のオルガン奏者兼、万能なボランティアとなった。そして1950年にAnthony “Tony” Gambinoと結婚した。スエは1952年12月にできた新しい移民法での最初の帰化日本人となった。
 スエはサラトガスプリング、ブロードウエイのニューイングランド長老派教会の活動に熱心に参加した。火事で焼けたパークプレースの教会を修復するための委員会のメンバーでもあった。彼女は教会の経験豊かなオルガン奏者で、日曜学校でも教えた。後に彼女はMethodist Gurn Spring教会に所属し、多くの結婚式でオルガンによる伴奏した。この州退職軍人キャンプが障がい児のためのRome StateSchool Annexになる1960年代まで、スエはここでボランティアの仕事を続けた。
 その後、1976年には,Mount McGregor Correctional Facilityで仕事を続け、コレクション管理委員会のアクティブメンバーとなった。
スエは70歳で引退したが、彼女の夫、Tonyuが咽頭ガンで亡くなる1984年までボランティアの管理人として仕事を続けた。皮肉なことにグラント将軍が100年前の1885年に同じ咽頭ガンでこのコテージで亡くなった。

 一度、Wilton Heritage協会の集まりで、スエはこの山での暮らしを話し、真のキリスト教徒の心のうちを明かした。彼女はこの協会の古いメンバーでもあったが、この講演の最後にこう結論づけた「TBあるいは虫は神が私に与えてくれたものであるといつも言っています。私は山のすべての虫を愛しているし、枝、医師、動物、鳥、そしてすべての人々を愛します」
このコテージを訪れると、今でもきっと彼女の精神を感じるだろう。」

 Youtubeに方は、Steve Trimmというひとが、ケルシー医師のこと、安倍ハナ、須藤かくのこと、そして成田一家と彼らの戦争に弄ばれた苦難の時代について詳しく述べている。長いが須藤かくについては17分ころから登場する。

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