2022年11月3日木曜日

不思議な鉄製電柱

 













昭和20年から30年代の弘前の街を写した写真には、鉄製梯子型の電信柱が目につく。戦前の写真では木製の電信柱が主流で、こうした鉄製のものはあまり見ない。戦時中、家庭にある金属製のものは供出されたぐらいであるので、こうした鉄製の電信柱があれば、真っ先になくなっていたはずだが。

 

弘前でこうした鉄製梯子型の電信柱が認められるのは、一番町とそれに続く親方町、元寺町、百石町そして和徳町の旧久一鳴海呉服店付近、大町である。変圧器が二台、その上に拡声器のようなものも見られるものもあるし、横には商店名が書かれた看板があるものもある。4つの面を持つ鉄製の柱で、階段のように自由に登って行けたのであろう。

 

1つの可能性としては、従来の木製の電柱では、重量のある変圧器を載せることができず、コンクリート製の電柱ができるまでの過渡期的なものなのかもしれない。木製の電柱では、重い変圧器を上の載せるとなると二本の木製電柱の間に鉄の板を置くか、一本の木に結わえ、もう一本の木で抑える構造となっていた。

 

日本最初のコンクリート製の電柱は函館にあり、1923年の建てられた四角柱型であった。尼崎市でも子供の頃、昭和30年代ではほとんどの電柱は木製であったが、昭和40年頃から次々とコンクリート製に変わっていった記憶がある。家庭の電力需給の増大とともに、送電線が大規模となり、木製に変わりコンクリート製が普及していったのであろうか。

 

現在でも、大型の高圧専用の電柱は、鉄製のタワー型となっていて、そこから中型のコンクリート電柱、そして近所の道に並ぶ小型コンクリート電柱となっているが、昭和2030年頃の弘前の写真を見ると、一時期、こうした中型の電柱が鉄製の四角柱型であったのだろう。

 

電気関係のことはよく知らないが、今でも高圧線は高い鉄塔となり、それが一次、二次変電所などで電圧を下げ、配電用変電所から電柱で家庭に送電されるが、こうした過程で家庭に送電される前に、もう1つの過程があり、そこで小型の鉄製電柱が使われていたのかもしれない。実際に通常の木製とこの鉄製の電柱が並存している写真も見られる。

 

さらに調べていくと、こうした鉄製の電柱は、工藤正一さんの写真集を見ると青森市内にあったようだし、また昭和10年頃の写真にも見つかった。ある程度、家庭や商店への電気普及が増大した昭和10年頃から繁華街を中心に、大量の電力供給のために、こうした鉄製の電柱ができ、昭和30年頃からは木製の電柱とともに、こうした鉄製の電柱も、次第にコンクリート製のものに置き換わっていったのだと推測される。

 

いたずらっ子にとっても、格好の遊び道具であったろう。

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