2026年5月15日金曜日

佐藤愛子さんが亡くなった 偲ぶ


 

佐藤弥六の書


小説家の佐藤愛子さんが亡くなった。102歳という。昨年、亡くなった母と同じ年である。娘さんが書いた「憤怒の人 母・佐藤愛子のカケラ」(杉山響子、小学館)をちょうど読んでいる最中で、晩年の生活は、まるっきり母と同じであった。少し転んだだけで骨折、そして手術、ほとんど眠っていて、昼夜の区別がつかない、耳は聞こえない。最後は食事が極端に少なくなり、水分も取れなくなって眠るように亡くなった。老衰とはこうした死なのである。老人ホームの職員が夜中の3時に見回りに来た時にはすでに息絶えていた。母の場合、不思議なことがあった。耳は遠く、認知症も進み、こちらの存在はあまりわからないようであったが、私のブログを姉が画用紙に清書した文は読んでいた。よほど本を読むのが好きだったのだろう。

 

佐藤愛子さんの父親は佐藤紅緑、祖父は佐藤弥六、この父と母のことは代表作の「血脈」で書かれていて、愛子さん自体も自分に流れる津軽の血を意識し、また生まれ育った場所を愛した。「血脈」の執筆にあたり、父、祖父のことを調べたのだろう。父のことはもちろんそばにいて知っていただろうが、父の弘前時代、あるいは祖父の弥六のことはこの小説を通じて知り、自分の中にも熱い津軽の血が流れているのを知ったのだろう。今東光というと、悪名などの河内を舞台にした小説を思い起こすだろう、べらんめいな口調や行動などから河内の人のように思われるかも知れないが、本人は津軽の人と心底信じていた。同様に佐藤紅緑も有名小説家になり、阪神間、東京に住むようになると、都会人の雰囲気を身につけたが、気持ち的には生涯、津軽人としての矜持があった。流石に孫の愛子さんになると津軽を離れて二代、「血脈」を描くまで、そんな血が自分に流れているとは思っていなかったに違いない。

 

佐藤愛子さんの祖父、佐藤弥六は典型的な津軽の奇人で、弘前藩を代表するインテリで、慶應義塾の初期の塾生で、福沢諭吉からの信頼も厚かった。また今日のりんご王国、青森の基礎を作った人物であったが、とにかく変わっていた。いわゆるじょっぱりという性格で、自分に言いたいことを誰であろうといい、行動する。止めても怒る。校長であろうと、市長であろうと関係ない。ところが常に福沢諭吉を尊敬し、白板に福沢に名前を書いて、毎朝、手を合わせていたという。

 

以前、佐藤弥六の最晩年、亡くなった大正12年に書かれた書を手に入れた。今は弘前郷土文学館にあり、内容については文学館の方で解釈し、説明文がある。

全文をここに挙げる。

 

「朝げに夕べは測られぬは寿命なり。移り易くして頼みがたきは人の心なり。神仏は敬すべくして祈願は頼ずべからず。法律は上下相互の約束より成立てるもの。予防の道具と知るべし。無理が通ふれば道理が引っ込む。真素面で此世は渡られず。才智は身を誤るの本なり。才子は才を恃んで怠り且つ驕る。愚者は分を守て勉めて成功す。見よや業成而後才子も才ならず。愚も愚ならず。官爵は人為僥倖の名称のみ。人爵貴からず。天爵尊びて爵然と独立して奪うべからず。冨貴は順番、貴賤は廻り持。不義にして冨貴ならんよりは清廉にして貴賤なれ。凡画人は依頼心ある時は中正を失うものなり。独立自主自ら省みて疾しからず。己が言はんと欲する所を云ひ其為さんと欲する所を為す。以天賦の性を畫さざるべからず。勤倹なれば富み怠慢なれば貧す。人間の幸福は邦に勤労し家に節倹するより生ずるものなり。

                              大正十二年二月  八十二翁弥六書

 

この書幅が何のため、誰に書いたのはわからないが、通常、誰かに与える書にこんに長文を書くことはない。ましてや最晩年、82歳、今でいえば90歳以上の老人がこれほどしっかりした筆使いの書を書くとは見事としか言いようがない。内容的には家訓に近い感じがする。佐藤家への家訓と見ても良さそうな内容です。

 

佐藤愛子さんは祖父の書幅を知らないだろうが、おおよそ彼女の生き方は祖父の家訓に沿っているように思える。安心して天国に行かれよ。祖父、父からは怒られはしないだろう。佐藤家の血を引く後継者として十分に活躍した。

 

 

ご冥福をお祈りします。






2026年5月13日水曜日

津軽のカミサマ

 



今、ネットフリックスで、占い師で有名だった細木数子の一生を描いた作品が放送され、話題になっている。私自身、占いはあまり信じない方だが、それでも人から貴方の今年の運命はこうだから注意しなさいと言われれば、少しは気にする。

 

あれは開業前のことであるが、1994年の年末、家内の母親が津軽地方独特の慣わし、カミサマ(ゴミソ)と呼ばれる占い師のところに行き、開業して成功するか見てもらった。そのお告げでは、5年以内に失敗するからやめた方がいいというものだった。すでに医院もほとんどでき、あとは開業するだけの段階であったので無視した。ただ後になっても嫌な気分は残った。

 

こうした何か迷いごとがあれば、カミサマのところに相談に行くのは、津軽地域ではごく普通である。テレビなどではイタコの口寄せなどが興味本位で語られることは多いが、実際、亡くなった人の言葉を口寄せで聞くというより、何か迷いごとや家族の運勢を占ってもらうことが多い。岩木山山麓の赤倉地域は昔から霊場として有名でだが、普通の家に神棚のようなものがあり、女性の占い師が、相談に乗ることが多い。一番多いのは結婚相手、就職、病気などで、占い料も結構安くて確か3千円くらいである。信じる人はたとえ、私のように高額な費用を払った事業でも辞める人がいるようで、わけがわからない。もちろん、占いなので、文句は言えない。私の場合はその後、30年間、開業していたが、特に問題はなく、占いは100%外れた。逆に言えば、よく本物の神様でもないのにカミサマと称して、人の運命を平気に語れるなと、その厚顔さに呆れる。

 

ただ大阪人としては、この占い師は頭が悪いと思ってしまう。なぜなら占いで悪い結果を喋り、3千円の鑑定料をとるくらいなら、それを解決する方法を伝授しないと金にはならない。たとえば、今年開業するのはかなり危険であるが、この仏様を毎日、祈祷すれば、難を逃れるとし、その仏像を十万円で売ればいい。人の運命を言い切るくらいの勇気があるのであれば、その厚かましさのまま、解決法も伝授すべきであろう。

 

よくあるのは結婚相談で、母親が娘の結婚を相談にきて、やめた方がいいというお告げをもらったとする。これを娘に言えば、当然母と娘の間に軋轢が生まれる。外れても娘は親を恨むだろうし、当たれば親はそれ見た事かと思うだけである。いずれもいいことはない。宗教ではその解決法を提示するが、津軽のカミサマは言いっぱなしであり、それもオブラートに包んだ表現が苦手な津軽人はひどいことをいう。

 

うちの両親は、神戸の宗教団体に入り、何かさまざまな悩みを教祖に相談していたが、大抵は何らかの解決法、教祖が家にきて、祈祷するなどをしていた。つまり占いとその解決がパックとなっていた。この宗教団体には多くの地元企業のオーナーが相談に来て、成功した場合は、多大の寄付をしていた。中には今では超有名な企業の会長が、企業の方針を決定するためのよく相談に来ていた。2つの方針があったとしよう、熟考に熟考を重ねても決断をできない案件に関して、最後をこの教祖に決めてもらうということで、コイントスで決めるよりはましと考えたのだろう。気持ちに踏ん切りをつける上でも、こうした霊感を持つ教祖が必要だったのだろう。大本教の出口王仁三郎に可愛がられた教祖であった。個人的は今でも尊敬している。

 

寺山修司の描くおどろおどろしい世界は今でも津軽では残っており、日常生活の中にカミサマのような存在が時折、顔を出すところである。そしてあそこのカミサマはよく当たるとして、何度も訪れる人も多い。近くのロピアでも、レジ前に電気治療器?の案内をする会場があったが、連日、満員御礼状態が続き、ロングランとなり、今は五階にさらに大きな会場を作っている。ここもいつ見ても満員である。また健康食品の催眠商法も弘前では人気があり、会場前は自転車でいっぱい、中を覗くとたくさんの老人がいる。聞いた話では他県に追っかけに行く老人もいるようだ。






2026年5月12日火曜日

高校生の部活動を考える 北越高校の事故から


テレビタレント、前の国会議員の杉村太蔵さんが、テレビで今回の北越高校のバス事故について、公共交通手段を使って移動できないような遠征試合はそもそもおかしいのではないかと語っていた。杉村太蔵さんというと昔はお馬鹿キャラであったが、最近は発言もしっかりしており、共感を得るものが多く、今回の彼の発言に私は全面的に賛成である。事故の責任云々は連日テレビで放送されているが、いくら強豪校とはいえ、他県、それも距離の離れたところまで遠征して試合するのはどうかなあと思ってしまう。事故があった北越高校のソフトテニス部は新潟では圧倒的に強く、インターハイでも女子が準優勝したこともある。強豪校で、実力を高めるためには自分たちより強いクラブと練習試合することは大事なことなのだろう。これのもっと極端な例は、高円宮杯 JFA U-18サッカーリーグ プレミアムリーグで2011年から始まった。24チームが西と東の地区に分かれ、ホームアンドアウェイで試合をする。移動には大きな費用がかかり、年間で数百万円になるというが、一部は日本サッカー協会が補助している。このリーグに参加している青森山田高校などは学校に何チームもあり、これらのチームもそれぞれ遠征するので、トータルの遠征費は大変な金額となる。

 

私が中高校の時はどうだったかというと、当時の六甲学院のサッカー部は兵庫県でも強豪校で、全国高校総体に出場したり、近畿大会でも優勝した。北越高校ほどではないが、それほど弱くもなかった。年間でもかなり多く、他校との練習試合をしたが、車で移動することはなく、神戸市内あるいは阪神間の学校に限定していた。現地集合あるいは学校から電車、バスで移動した。他県との学校と試合することは、近畿大会、高校総体、全国高校サッカーくらいで。そうした大会に出場するチャンスがなければ他県とのチームと試合することは稀であった。

 

他県まで行って練習試合をするようになったのはいつ頃かとAIで調べると、平成6年(1994年)に高校野球で“他県への遠征を含む練習試合”が解禁された。つまり32年前までは他県まで練習試合に行くことは禁止されていた。解禁された一番大きな理由として雪国、寒冷地の不利解消、グランドが使えない冬場の練習のため、などが挙げられた。一方、反対意見としては、遠征費を出すことができない学校との経済的格差、野球への過度な偏重などが挙げられている。その後、野球以外の他の部活にも広まり、今や他県へ遠征して強豪校と練習することが常態化した。

 

日本の社会で問題と感じていることは一度、決まったことはなかなか変えないことである。他県へ遠征して練習試合をすることが解禁されたのは、32年前で、逆に言えば、それまでの何十年間は禁止されていた。今回の問題は氷山の一角で、こうした事故は後を絶たない。ここで、元に戻すことは検討できないのだろうか。学校での部活、特にスポーツについては、学業の一環としての活動であり、プロの選手を育てるものではない。先進的なスポーツシステムが確立しているサッカーで言えば、プロサッカー選手は、ほとんどが各チームの下部組織(U-12.15.18)から入ってきており、高校のサッカー部からプロになる選手は限られている。生徒数の減少、学校の部活も地域のスポーツクラブに移行しており、オリンピック選手もむしろ学校よりこうした民間のクラブが主体となっている。

 

このような現実を考えると、学校での部活は、せいぜい趣味の範囲にとどめ、どうしても本格的にスポーツをしたい人は民間のクラブに入れば良い。もちろん趣味の範囲のスポーツなので、県外までの遠征は禁止すればいいし、全国大会も必要ない。せいぜい県大会、あるいは東北大会のような地域大会くらいであろう。欧米では小中高校のスポーツの全国大会は基本的には存在せず、過激な競争を警戒している。昔、うちの子供が中学生の頃に、膝の十字靭帯が切れて入院したことがある。その時に一番驚いたのは小学校で肩、肘を壊して手術を受けた子供が2名入院していた。大人ならいざ知らず、小学校で肩肘を壊し、手術を受けるとは完全に指導者の責任である。

 

学校での部活活動が民間のスポーツクラブへの移行という流れの中で、他県への遠征、練習試合の禁止、全国大会(特に小学生の)の廃止の議論が必要と思われる。特に全国大会を廃止すれば、他県の強豪校に練習試合をする必要も減るので、自然に経費のかかる遠征も減るだろう。北越高校では今でもアホみたいに練習しているのだろう。ソフトテニスのプロは全国で10名、試合だけで生活している選手は3-5名、ソフトテニス人口は50-60万人、つまり一生懸命、他県に遠征して、全国大会に出場し、優勝したとしても、それで食っていけるのは10-20万人の一人という現実を考えると、一生懸命練習して上手くなるのはいいのだが、何のために必死になっているのか、指導者はよくよく考えるべきである。全ての指導者には、少なくとも子供のメンタル、身体に対する配慮が必要で、国のガイドラインでは、部活の練習時間は、平日では一日2時間以内、週に2日以上の休養日が決められている。これを極端に超える場合は、大会出場の停止くらいの処分が必要で、こうしたガイドラインの遵守も含めて北越高校を調査してほしい。かわいそうだが、こうしたスポーツ校は全国にあり、その実態について文科省でも正確に把握し、見せしめでもいいので厳しい処分を課すことを検討してほしい。


 

2026年5月9日土曜日

一万時間の法則

 



映画「かくかくしかじか」は、漫画家、東村アキコさんの自伝的な映画で、大泉洋が演じるスパルタ教師、日高先生が圧倒的に面白い。日高先生の口癖は「描け、描け、とにかく描け」と叫ぶ。それに反発して主人公は仮病まで使って脱出しようと思うが、最後は結局、そのスパルタ絵画塾でひたすらデッサンの練習をする。

 

一万時間、何かに熱中して取り組めば、その分野のプロになれるという法則がある。この「かくかくしかじか」の原作者、東村アキコさんも大学卒業するまでは漫画が好きで、漫画家になりたいと思っていたが、漫画を描くことはなかった。本格的に漫画を描き始めたのが24歳の頃で、デビュー作を書いている。おそらく絵を描き始めたのは、日高先生の塾に行ってから、17歳頃からで、美術大学卒業までの5年間と、卒業後の2年間だけでは、多分に1万時間に達しなかったのだろう。その後、モーニングで連載を持つようになったのは31歳の時で、絵を描き始めて14年間でプロになった。デビュー後、漫画家として生きようと決意した後は、多分1日十時間以上、年間で300日、3000時間は漫画を描いたとすると、約4年で一万時間に達する。

 

私の場合、矯正歯科の患者を診ていた時間は1日で五時間ほど、年間220日として、1100時間、これが42年間で46200時間となる。逆に一般歯科の先生では、120人来る患者のうち1名が矯正患者、治療時間が30分とすると、年間で110時間、一万時間に到達するまでに90年以上かかることになる。本についてどうかというと、本格的に読書をしだしたのは大学に入ってからで、その後は、年間百冊読み、50年間、5000冊となる。一冊二時間として本を読んできた時間は、すでに一万時間に達しているだろう。一方、書く方でいうと、ブログを始めたのは20076月からで19年近くになる。ブログ数は1844件で、一編書くのに通常一時間ほどなので、1884時間、まあ2000時間くらいであろうか。さらに本を五冊描いているが、それぞれ、300時間くらいはかかっているので計1500時間で、ブログと本で3500時間くらいか。これでは死ぬまでに一万時間に達しないだろう。

 

とにかく描け、描け、だけでは、今はなかなか人がついてこないと思うが、どの世界でも経験、実践が必要なことは間違いない。多分、専門にして10年、一万時間が、多くの実例から必要な時間、期間なのだろう。私など、毎週1回、ここ15年くらい英語のレッスンを受けているが、午後7時間半から9時までの1時間半、5人で集まっているので、一人一人の時間は少ないとしても、1.5×50×15=1125時間となる。レッスン以外の日は1分も勉強していない。太平洋戦争当時、アメリカ軍のよる情報取得を目的とした日本語学校のカリキュラムでは14時間の授業が週6日、4時間以上の自習を戦前は3年間、戦時下は18ヶ月であった。3年間で7200時間、18ヶ月で3600時間となる。おそらく配属後も含めれば1万時間に達するのだろう。

 

もちろん個人の素質、教育システム、などにも影響するだろうが、どんな天才でも1ヶ月の練習でピアノやサッカーのプロにはなれず、天才の上の長期の練習をして初めてプロになれる。今後、AIの発達により何十年かけて習得した技能が一瞬でいらなくなる時代が来ると思うが、それでもAIで代替わりできない、そして長い年月の修業が必要なものはなくならないし、価値が今以上に出てくる。一万時間というのは結構長い時間であり、これからトライする人はよほどよく考え、AIの取って代わるものでない、生き残れるかを検討すべきである。逆に言えば、プロになるのに1万時間かかるような技能はAIに置き換われず、なまじ有名大学の文系に行くよりは、農家、大工、料理人、美容師、などの技能を1万時間学ぶ方が有望なのかもしれない。もし若く、一万時間かけるものはと言われれば、ギターやピアノのような楽器を選ぶであろう。一日一時間、年間300時間、大学生など時間があれば、もっと練習をすれば25年間くらいで一万時間に達するだろう。一生の趣味になる。もちろん仕事も、18時間のうち実働4時間、年間で1000時間働ければ10年でその仕事のプロになれそうなので、寿司職人、大工、左官、自動車整備など経験、技能を要する仕事であれば、それくらいは頑張りたいものである。


2026年5月2日土曜日

日本のオタク文化


以前、昭和12年、イギリス、ロンドンに飛んだ朝日新聞社の神風号のイラストを描いた。太平洋戦争以前の飛行機の方が、機体が洗練されていないので面白い。この神風号については、イギリス側の鮮明な写真は多く残っていて、また副操縦士、堀越賢爾についても興味があったので、以前のブログでも取り上げた。イラストの参考本としては、2007.8に発行された航空ファン「日本人が熱狂した大飛行 神風号とニッポン号」を持っているので、それに載っている写真を使った。東京、立川飛行場を出発したのは昭和1246日の午前2時の真夜中であった。滑走路を強力なアメリカのスペリー社の探照灯で照らし、出発した。この直前の画像が航空ファンに載っている。この写真は朝日新聞社の資料提供となっているが、他の多くの写真は田村俊夫という方から提供された。

 

この田村俊雄という人を調べてみると、東京の会社員の方で、飛行機関係の本を集めるのが趣味で、国内のみならず海外でも飛行機関係の資料を集め続けた。そして「J-Bird写真と登録記号で見る戦前の日本機」という大部の本を出版した。昭和20年までのすべての民間飛行機の登録番号順に機名、愛称、エンジン、所有者などを網羅した究極のオタク本と呼べる。こうしたミリタリーオタクと呼ばれる人は日本には数多くおり、極めて狭い分野の研究を行っている。田村さんは、その一人である。映画監督の宮崎駿さんもミリタリーオタクであるが、それ以上にすごいのは片渕須直監督で、日本陸海軍機塗装の第一人者である。当時の機体内部色を自分で再現しようかというほどの入れ込みで、こうした細部にこだわるアマチュアの研究者が多くいて、ミリタリーものを出版すると多くの間違いが指摘される。

 

他国のことはそれほど知らないが、航空関係の図書は欧米のものが多く、航空史、航空機のアマチュア研究者も多い。それに比べてアジアでは、こうしたアマチュアのオタク研究者は少ないように思える。アジアでは日本が唯一と言ってもよかろう。航空ファンが創刊されたのが昭和27年で、すでに74年の歴史を持ち、プラモデル製作も含めて日本の飛行機ファンの数、年齢層は広い。おそらく韓国でも中国でも飛行機が好きな人は大勢いるが、韓国で航空関連の雑誌が創刊されたのが1989年、中国でもアマチュア向けの世界航空が出版されたのが1999年頃、台湾には民間航空を主として扱った世界民航雑誌が1997年に創刊された。そのほかではタイの航空専門誌は2013年、ベトナムは2025年、インドネシア、フィリピンにはない。日本以外のアジア諸国では、空軍の歴史が短いのが理由の一つである。

 

ここからは勝手な推理であるが、飛行機、ミリタリー関係についてのオタクは日本では古くから大勢いたが、日本以外のアジアでは、ごく最近になって出始めたくらいで、こうしたアマチュアの趣味一般についても、数、内容についてもアジアでは日本が突出しているように思える。書店の雑誌コーナを眺めれば、あらゆる種類の趣味雑誌が並んでいる。そして歴史が長い。自転車専門誌のサイクルスポーツも創刊が1970年、自動車雑誌になるとモーターファンは1925年創刊、カーグラフィックは1962年とすごい歴史を持つ。盆栽に至っては大正十年創刊という盆栽という雑誌もあった。こうした趣味を扱った雑誌の背景には、趣味を楽しむ多くの人が存在し、書店に並ぶ趣味の雑誌を数と歴史を考察すると、日本というのはよほどオタク、趣味人の多い国だと痛感される。

 

日本では、江戸時代という平和で文化的な時代があり、庶民の中にも趣味を楽しむ人が多かった。とりわけ驚くは算術と本草学(博物学)で、どちらもひどく高度な趣味であるが、町人、農民に中にも多彩な趣味人がいて、全国的に盛んであった。もちろん茶道、華道、などだけでなく、三味線や琴も習う人、俳句や短歌を嗜む人、書を愛でる人は普通にいた。こうしたオタク文化は江戸時代に発展した。他のアジア諸国については詳しいことは知らないが、それでもこうした多様多種の趣味を庶民が持つような文化は日本以外になかったのではなかろうか。江戸時代、庶民は絵画を愛し(浮世絵版画)、詩を吟じ(俳句)、草木をめで(園芸)、音楽を奏で(三味線、琴)、演劇を楽しむ(歌舞伎)、贔屓のスポーツを見る(相撲)、お笑いを楽しむ(落語)、ペットを飼う(犬、猫、金魚)、などなど、これらの趣味の多くは今でも残っている。それに対して朝鮮の庶民の趣味といえば、演劇ではタルチュム、パンソリなど素人劇に近いプリミティブなもので、また音楽でもサムルノリ、ミノと呼ばれる民謡のようなもの、文芸においても時講と呼ばれる俳句のようなものがあったが、文盲率の低さで日本ほど活発ではなかった。

 

広い意味では日本文化は今のアニメ、ゲームの繋がるオタク文化の系統である。韓国では伝統文化として日本の俳句に当たる時調というものがあるが、数百万人という俳句人口に比べて愛好者は格段に少なく、ヘグムと呼ばれる弦楽器も日本の三味線人口に全く及ばない。






 

2026年5月1日金曜日

好意、親切=感謝の連鎖

 


私は、道で迷っている人がいれば、「どうしましたか。お探しのところがあるのですか」と聞く方だし、観光地で写真撮影をしているカップルやグループがいれば、「写真撮りましょうか」と声がけする方である。少し親切にしただけで、ものすごく感謝されたり、喜ばれたり、楽しい会話になることもあり、なんだか一日、暖かい気分になり、嬉しい。

 

ところが最近では、どうも断れることが多い。道はスマホでわかると思っているのだろうし、スマホが盗まれるのを恐れているのかもしれないが、中にはひどい扱いをされることがある。昨年の弘前桜祭り、外国人のカップルに写真を撮りましょうかと尋ねると、男性から「No! No!」と険しい顔で否定され、彼は指を立てて怒った。身なり綺麗にしているし、そんな怪しそうではないと自分では思うが、せめて「No Thank you」くらいは言って断ったらと思う。これ以降、決して外国人、それも白人には向こうから言われない限り、無視することにしている。同様に、道を探している観光客にも、親切に教えようとしても、答えもせず手で横に振って追い払われたこともある。何か、詐欺師か、悪者になった感じで気分は悪い。おそらくこうした人は、他の場所、機会でも同じような対応をするのだろう。

 

人には、親切にする人とそうでない人、親切を受けて感謝する人とそうでない人がいて、多分、親切にする人=感謝する人、親切にしない人=感謝しない人になのだろう。親父は歯科医をしていて、子供の頃は夜間、診療が終わってからでも急患が来れば診ていたが、応急処置をして次の日には来るようにと言っても来ない患者がいた。あくまで好意、親切心から夜中に診療しても、痛みがなくなれば来ない、こうしたことがたて続きに起こると、夜間に電話が来ても居留守を使うようになる。10人が感謝しても、一人が好意を踏みにじれば、二度と親切はしない。これが現実である。

 

関係ない話になるが、診療所に来ると、トイレに入り、いつもトイレットパーパーを半分くらい使い、三度も詰まらせる人がいた。注意をするとかなりキレられたが、おそらく、スーパー、駅、デパート、会社などあちこちで同様なことをしているのだろう。1000人が正しいトイレの使い方をしていても、一人が間違った使い方をすれば、トイレットペーパーは置かなくなる、注意書きをするところも出てくる。問題は、こうした親切をバッサリと拒否する人やトイレを詰まらせる人は、自分が悪いことをしているとは思っていないことである。注意すれば多分キレルので、誰も何も言われない。本人は周囲にどれだけ迷惑をかけているのかわかっていない。

 

最近では、人との接触をさける、煩わしいと思う人が増えてきた。それでも人に親切にされたら、感謝する、喜ぶくらいはしてもよさそうではないか。親切を素直に喜ばない、拒否する態度は、自然に周りの人から親切されなくなり、孤独化していく。最初に述べた白人カップルも片方の女性が彼氏の態度に嫌そうな顔をしていて、何か注意をしていた。多分、写真を撮ってあげると親切に言ってくれているのに、あんなひどい態度を取らなくてもと言っていたのだろう。ただこの白人男子も、過去に写真を写しましょうといわれて好意に甘えたところ、スマホを盗まれた経験があったのかもしれない。好意―感謝の連鎖を続けるのは意外と難しい。百人連鎖が続いて一人のせいで切れてしまう。最近は、電車やバスで席を譲られることがある。以前は少しムッとしたこともあるが、近頃はよく感謝して好意に甘えるようにしている。好意、親切を受けたら、素直に受けて感謝する、好意―感謝の連鎖を切ってはいけない。

 

今年の弘前桜祭りでは、家内と二人で弘前城を散歩していたところ、台湾、中国の女の人から身振りで写真撮りましょうかという誘いがあった。もちろん喜んで撮ってもらい、感謝した。その日、一日楽しい気分になった。一人の白人男性の行為にめげずに、また「Can I take your picture」と言おう。

2026年4月24日金曜日

鈴木雅 フェリスor共立 論争 2

創立当時の横浜共立学園


先日、弘前大学の医学部図書館に行ってきて、ウィキペデアで鈴木雅がフェリス女学校を修了したとする参考文献をチェックしてみた。結論からいうと、全ては一つの論文に行き着く。少し古いが、高橋政子、“クリオへの感謝 歴史にみる看護婦群像1第1話 鈴木まさのこと”「看護教育」(226号、1981年、医学書院)である。

 

高橋政子先生は日本の看護史界の第一人者で、すでに共著となる“日本近代看護の夜明け”(医学書院、1973)で鈴木雅のことを記述しているが、資料が少なく、不十分な点を憂慮していた。そこでフェリス女学院と最後に雅が生活していたN市(沼津市)に問い合わせたところフェリスには資料はなかったが、N市から鈴木雅の孫である鈴木康夫氏がいることを知り、直接会って、鈴木雅のこと、その夫のこと、鈴木家、加藤家のことなどを聞いた。その過程で、雅がフェリスを修了したと聞いた。以下、同論文の該当する文章を記述する。

 

「まさ自身がフェリス女学校の2期生であったといっていた由だが、年表づくりをしてみると明治9年(1876)年にフェリス女学院と呼ぶようになってからの2期生で、10年ごろに修学を終えたものではないだろうか」

 

「まさ自身がフェリス女学校の2期生であったといっていた」は、孫の鈴木康夫の記憶であり、「明治9年(1876)年にフェリス女学校と呼ぶようになってからの2期生で、10年ごろに修学を終えた」は高橋の考察である。鈴木雅の長女の出産が明治12年、結婚は明治11年と推察されたことによる。

 

高橋がこの論文を書いたのは1981年、鈴木雅の孫、康夫(大正8年生まれ)が62歳、鈴木雅が亡くなったのは1940年であるので死後41年、経った時期である。

 

「まさ自身がフェリス女学校の2期生であったといっていた」については、多分に康夫の記憶違いの可能性がある。「明治百話」(昭和6年)では大関和の話として雅は「横浜二百十二番館の女学校を卒業」と書かれており、孫の康夫も、祖母が言った二百十二番館の女学校=フェリス女学校へと記憶の変換があったかもしれない。とりわけ京都、沼津で育った康夫にすれば横浜共立学園のことは全く知らないであろう。実際、関西出身の私自身、須藤かくの調査をするまで、横浜共立学園のことは聞いたこともなかった。また「横浜共立学園六十年史」(昭和8年、国会図書館デジタルコレクションで見られので確認してください)の小島清子の思い出として、一期生として入学したのは、福沢諭吉の娘3人、姪の福沢きよ、井上馨の娘2人、木脇園、中尾さん(芸者をしていた?)、菱川やす、更木梅、金、ひさなどであった。その後、次の年、二百十二番館に移ってから入学した二期生?は、りょう(栗岡氏に嫁ぐ)、加藤まさ、桜井ちか、井深せき(井深梶之助博士の婦人)、おとり、お角(後、医者になった 須藤かく)、上田てい、吉益りょうとなっている。つまり「2期生」であったというのは正しく、明治4年に設立されたアメリカン・ミッション・ホームの2期生、明治5年入学組であった。「二百十二番館の女学校の2期生」というのが、孫の康夫の中ではいつの間にか「フェリスの2期生」に変換されていたのだろう。半分正しく、半分間違っている。ファミリーメモリー、オーラルヒストリーではよくある間違いである。

 

さらに高橋政子先生は、フェリスが本格的な女子教育を始めた1875(明治8)を一期生として、その2期生、明治9年に鈴木雅がフェリスに入学して、結婚する前、明治10年に修学を終えたとしたのだろう。ただ共立の2期生であれば、明治5年入学、明治10年頃に修了し、明治11年頃に結婚となる。16歳から21歳の5年間、英語を学んだことになる。

 

高橋先生が共著の「日本近代看護の夜明け」の文献の中には「明治百話」があり、もしこの文献中の大関和の「雅は横浜二百十二番館の女学校を卒業」の記述から、フェリスでなく、共立に問い合わせたら、共立からの回答として「横浜共立学園六十年史」の資料を得て、鈴木康夫の「フェリスの2期生」という発言も「横浜共立の2期生」の間違いと気付いたのであろう。1981年といえば、インターネットも普及していない時代で、今ほど簡単に文献検索もできず、当時としては最大限の努力をして歴史的な真実解明に努めたのだろう。頭が下がる。また鈴木康夫氏も40年前に亡くなった祖母のことを聞かれても記憶は曖昧であったのも仕方がない。フェリスでも、共立でも英語を学んだことは間違いないからだ。

 

その後、ほとんどの鈴木雅の関連本は、高橋先生の「クリオへの感謝 歴史にみる看護婦群像1第1話 鈴木まさのこと」(看護教育、226号、1981年、医学書院)を参考に、雅はフェリス卒業ということになった。田中ひかるの「明治のナイチンゲール 大関和物語」(2023、中央公論新社)も、田中さんは親類の話を聞いたとしているが高橋先生の補強としてで、フェリス卒業という前提の内容となっている。もしこの本がNHKの朝ドラの原案にならなければ、鈴木雅の出身校など、たいした問題でなかった。実際、高橋先生の論文はよく調査して、まとまっており、私でも今回の疑問がなければ、多分、何の疑問もなく、そのまま鈴木雅=フェリスとして引用するだろう。

 

まとめると、高橋政子先生の1981年の論文により鈴木雅=フェリス女学院卒業という図式ができ、その後の本のほとんどはこれに倣い、孫引きし、再考されることもなく、今日に至っている。鈴木康夫が所持する戸籍、写真、まさの卒業証書などの一次資料や、他の文献から確認できる資料など有意義な資料も多いが、今のところ、出身校については、康夫のファミリメモリーを支持するものはなく、他の資料からは明治5年に横浜共立を入学し、明治93月にバラより受洗し。明治10年頃に修了したという結論になる。5年あれば、英語はかなり上達するが、1年ではまず無理である。

 

日本看護歴史学会の最近の座談会でもそうした内容のことが語られている。

https://jsnh.jp

*鈴木雅のWikipediaを見ると、以前、横浜共立学園同窓会で記述した内容が、看史研という日本看護歴史学会の略称のようなアカウント名で、何度も内容の変更が行われている。

 

2026年4月19日日曜日

風、薫る   鈴木雅はなぜ看護師になったのか

 

坂の上の雲から 鈴木雅の立場は、秋山好古の妻、旗本の娘、多美のようなもの


鈴木雅が結婚したのは幕臣の鈴木良光、おそらくは旗本で、江戸幕府では高禄の家臣であったと推測される。士族ではほぼ同格の家同士で結婚するものなので、雅の実家の加藤家も同格であったと思われる。

 

夫の鈴木良光は維新後に日本帝国陸軍に入り、歩兵第九連隊第二大隊長として西南戦争に参戦した。戦功により少佐に昇進し、仙台鎮台第二管第四巻菅後備軍司令官になった後に、西南戦争で負った傷が元で亡くなった。34歳の若さであった。

 

西南戦争当時の日本陸軍の構成は、太平洋戦争時に比べると驚くほど簡素で、指揮官も少ない。例えば、熊本城に立て籠もり、西郷軍の攻撃を防いだ熊本鎮台で言えば、司令長官は谷千城少将、歩兵第13連隊長が与倉知実中佐、第一大隊長が奥保鞏少佐、小倉の歩兵第14連隊長が乃木希典少佐など、連隊長クラスで中佐、少佐、大隊長クラスで少佐、大尉となり、鈴木良光が所属する大阪鎮台では、連隊長は3人の少佐、大津の歩兵第9連隊でいえば、第1、2、3大隊長は3人の大尉から構成され、鈴木大尉が所属する第2大隊は士官19名、下士官75名、兵卒545名の640名であった。

 

西南戦争の編成時の陸軍トップは少将が1名、大佐はおらず中佐が11名であるが、日露戦争ころになると連隊は3000名単位で、連隊長は大佐、大隊は800名で、大隊長は少佐または中佐、中隊は200名で、中隊長は大尉または中尉がなる。つまり西南戦争では日本陸軍の最高位は中将で、感覚的には日露戦争以降の陸軍構成に比べて一階級下になっている。西南戦争では連隊長は少佐という例もあったが、日露戦争時になるとまずあり得ず、連隊長は大佐であった。

 

こうした見方をすると鈴木雅の夫、鈴木良光少佐の階級は陸軍の中でもエリートであり、怪我もせずにそのまま陸軍に残っていれば、将官になった可能性は高い。鈴木雅が亡くなったのは1883年(34歳)で、亡くならなければ1894年の日清戦争では44歳で階級は大佐、1904年の日露戦争では54歳で少将から中将として参戦し、師団あるいは旅団を指揮していたはずだ。テレビドラマでは鈴木雅をモデルにした大家直美は孤児という設定であるが、実際はエリート軍人の妻であった。明治15年当時の陸軍少佐の給与は月俸140円くらいで、現在の貨幣価値に直すと月給140万円程度となる。かなり高給取りで、大きな邸宅に住んでいて、女中、書生がいる。NHKドラマ「坂の上の雲」で、秋山好古がフランスから帰国し、旗本の娘と結婚するが、あれが陸軍少佐の生活で、鈴木雅は、秋山の妻、佐久間多美(松たか子が演じる)のような存在で、貧しい生活をしていたのではない。

 

明治9年の陸軍恩給法によれば、公務でなくなった場合の遺族に払われる扶助料は給与の1/3程度であり、この計算によると鈴木雅が夫の死後に貰っていた扶助料は、月で50円程度で、今の価値に換算すると50万円くらいとなり、働かなくても生活には全く困らない。もう一人に相棒、大関和に比べると、よほど経済的には恵まれている。普通、これだけの遺族年金があり、子供が2名いれば、生活のために働く必要は全くない。ところが鈴木雅の場合、母に子供の世話をしてもらいながら、看護学校に行き、看護師となる。どうしてもなりたいという強い動機があったと思われる。もちろん怪我を負った夫の世話をする中で、看護師の仕事の重要性を知ったことは間違いない。ただここで考えて欲しい。鈴木雅が桜井女学校看護婦養成所に入ったのは明治19年(1886)、28歳の時である。二人の幼児を抱え、経済的には生活の心配がない環境で、いくら夫の看病が長引いたといって、看護学校に行くであろうか。夫の死だけではその動機を説明できないように思う。

 

同窓生の岡見京が渡米し、ペンシルベニア女子医大に入学したのが1885年、菱川やす(1860年生まれ)も明治19年(1886)にシカゴ女子医大に入学した。特に菱川やすは、鈴木雅とは同級生で明治4年に10歳で横浜共立女学校に入学し、明治11年に修了すると、母校の教師となり、明治145年ころに大倉という人のところに嫁ぐが、2、3年で戻る。明治18年に慈恵医院で看護師養成問題が出てきて、大山捨松などの尽力で看護婦学校の設立資金、6478円が集まり、その時にミス・リードを招聘し、その通訳を菱川やすが務めた。その関係から1886年にアメリカの女子医大に留学した。ミス・リードは1881年に来日し、1884年から有志共立東京病院看護婦教育所で、日本で最初の看護師教育を始めた。鈴木は菱川より6歳くらい年上だが、境遇も似ているため、お互いに連絡があり、菱川を通じて看護婦についての知識を得たのだろう。また宣教医アデリン・ケルシーは、1885年に横浜にきて、医療活動をしていたが、その医療補助をしていたのが鈴木の同級生の須藤かくと阿部はなで、のちに彼女らもアメリカの女子医大に入学し、女医となる。さらに同級生の桜井ちかは、桜井女学校の創立者、吉益亮子は1885年に女子英学教授所を創立するなど、同級生、同窓生の多くが社会に出て活躍している。こうした特殊な交友関係とキリスト教による慈善精神が鈴木雅を看護師への道に向かわせたように思える。


ただ疑問なのは、もし菱川から看護婦のことを聞いた

なら、鈴木雅は西新橋にある東京共立病院看護婦教育所に行きそうなもので、1886年に菱川が渡米すると、リードの通訳もおらず、その後釜に雅が適任だと思われる。それとも同級生の桜井ちかから、新たにできる桜井女学校附属看護婦養成所のアグネス・ヴィッチの学生兼通訳と決まっていたのだろうか。

 


2026年4月17日金曜日

私の暗黒時代?

 

決勝には出ていない、黄色の汚いユニフォームが私


先週、福岡でサッカー部の同窓会があった。数年前から年に1回か2回、高校時代のサッカー部の同級生が集まって飲むことにしている。昔であれば、同窓会だけの出席のため、青森から福岡に行くのは費用的にも、日程的にもかなり抵抗があったが、今では一番の楽しみになっている。私の学校では、中学一年生は何らかの部活をすることになっていて、当時、メキシコオリンピックで日本代表が三位になってことから、15人がサッカー部に入ったが、卒業までいたのは7名で、そのメンバーが集まった。

 

当時、小学校からサッカーをしていたのは1名だけで、残りは全て中学からサッカーを始めた。私の場合、背が高かったので早くからゴールキーパーとなった。このポジションは孤独なもので、練習は1年上の先輩、あるいは1年下の後輩と練習する。最初はキャッチング練習から始まり、キックしてのキャッチ、ゴロのセービングなどしながら、本格的なシュート練習に入っていく。今はゴールキーパーコーチもいるが、当時はサッカー練習本を買ってきてもゴールキーパーの練習法については一部しか書かれていないので、見様見真似で練習していた。

 

中学の時は、そこそこ強く、兵庫県中学サッカー選手権でも3位に入り、私自身も神戸市の代表に入り、広島に遠征し、広島市代表と2試合した。高校一年生の3月、近畿大会では、先輩ゴールキーパーが怪我のため、決勝以外の3試合に出場し、最終的には優勝した。ここまでが私のサッカー歴のピークで、高校2年生の7月の高校総体の兵庫県予選では、シードで、準々決勝と準決勝に勝ち、決勝は神戸高校となった。この試合では、神戸高校の応援に圧倒されたのか、ちょろいシュートをセーブしようとすると脇の下をするりと抜けて入ってしまった。左のスタンドからは神戸高校の生徒の歓声、さらに1点入れられた段階で選手交代があった。ゴールキーパーが試合途中、怪我以外で交代されるのは聞いたことがない。屈辱的な扱いであった。夏には、国体候補となり、練習にも参加したが、あまりのキツさに途中から逃げてきた。そして秋の大会では、ゴールキーパーがハンドを犯すという考えられないミスをした。ペナルティーエリアのすぐ外にきたボールを相手選手と交差した時、足を使わず、ラインのすぐ外で、手で触ってしまった。足でタックルすべきであった、そのままフリーキックとなり点を入れられ、負けた。高校最後の試合は高校2年生終わり、2月の県の新人戦であったが、監督からは信頼されず、1年生のゴールキーパーが出た。私の学校では受験勉強もあり、基本的には高校2年生で部活は終了となるため、レギュラーを外されたまま私の高校サッカーは終わった。

 

私の記憶は、高校1年生に出た近畿大会と、高校総体の県決勝戦までしかなく、その後の記憶は一切ない。嫌なことは忘れたのだろう。若者の将来への漠然として悩みというのだろうか、大学進学適正試験では大学進学は向いてないという結果が出たこともあり、一時は大学には行かないと思ったこともあった。高校2年生の後半くらいから浪人して大学に入学する頃までが、自分では暗黒期で記憶がほとんどない。成績もあまり良くなく、浪人生が皆入る、大道学園という予備校まで落ちてしまった。サッカーのレギュラーがはずれ、成績も落ち、気分は落ち込み、友人は皆、大学生活をエンジョイしていて、遊ぼうとも思わなかった。この時期の記憶は意図的にどこかに封印しているのかもしれないし、もう一つは、地元から離れて仙台の大学に行ったため、中高校の友人と完全に切れてしまい、記憶を補強するチャンスを逸したこともある。その後、中高校の友人との親睦を再開したのは卒業30周年記念同窓会からで、それまでは自分の生活することでいっぱいであった。

 

今思うと、進学校がサッカーの近畿大会で優勝などもはやできるはずはなく、そうした機会に参加できただけでも運がいい方だと思う。ただサッカー部の顧問だったT先生には大変お世話になったが、屈辱的な試合途中での交代はまだ許せないところがあり、生前中にお会いすることはなかった。意外にねちっこい性格である。ただよく考えれば、暗黒時代というほどひどい時期ではないが、記憶が欠落しているのは事実で、それがむしろ不思議である。


2026年4月9日木曜日

タクシーでの会話

 


車を持っていないので日頃タクシーを使うことが多い。その際、運転手と無言でいるのは、何となく気詰まりなので会話をする。昨日のNHKBSではニューヨークのケネディー空港からタクシーで自宅に帰る乗客と運転手のやりとりだけの映画、「ドライブ イン マンハッタン」を放送していた。おしゃれで自立したニューヨーカーの女性と運転手の会話は、ごくありふれた内容から始まり、そして自宅に近づきにつれ、彼女にとって人生の決断を迫るナイーブな話題になっていく。年配の愛人とスマホで際どい会話をしながら、女性と運転者の会話が続く。これだけの内容で2時間近い映画を作るのはすごい。

 

30年前だが、大阪、伊丹空港から実家の尼崎に向かうタクシーで、運転者との会話が弾んだ。もう都会での生活に疲れ、老後はどこかに転住したい。そして最近はタクシーに乗りながら、どこかいいところがないか、ずっと考えているという。運転手は私より年配で60歳は超えていただろう。当時、私は鹿児島大学に勤務していたが、その前年まで宮崎医科大学に勤務していた。宮崎医科大学は宮崎市の近郊の清武町というところにあり、ここは物価も安く、また一戸建ての80坪くらいの家が新築で、2000万円台、中古では1000万円代で買えたため、この地でリタイヤ生活をする人も多かった。そうした話をしていると、運転者は実は前から宮崎の清武には興味があって調べていたんですという。そこで冬は暖かかいし、鹿児島に比べて火山灰がない、宮崎市内まで車で、20分くらいで行けるなどとしゃべっていると、実家の近くまで来てしまった。運転手は会話に夢中で通り過ぎそうになった。実家に到着すると、運転者はわざわざ降りて、本当に勉強になったと随分、感謝された。ひょっとすると、この運転手は今、宮崎、清武に住んでいるかもしれない。

 

東京、新宿、紀伊国屋書店前で、タクシーを拾おうとするも何故か断られる。ようやくタクシーを拾え、目黒の椿山荘まで行った。後ろの席で家内とのしゃべっていると、運転手からお客さんは関西の方ですかと聞かれた。はい、兵庫県の尼崎ですというと、運転手も私も尼崎出身ですという。尼(アマ)のどこですがというと、尾浜西口近くという。中高の6年間、私は家の近くのバス停から阪急塚口駅に通ったが、尾浜西口は途中のバス停で、馴染みがあった。尼崎のことをあれこれ話していると、懐かしいのか、タクシー運転手になった理由や、東京では700万円以上の収入があり、同僚の中でも一番多い、そのコツは、などしゃべった。東京のタクシー運転手はあまり話さないと思っていたので、こちらも楽しく、あっという間にホテルに到着した。降りるときには、運転者から今日はいい話ができて嬉しいですと喜んでくれた。

 

鹿児島に母親が遊びに来た。タクシーに乗って市内を案内することにした。後ろの席で、母親と話していると、運転手が「あのう 失礼ですか、お客さんは徳島の方ですか」と突然、言われた。母は徳島県脇町の出身だが、徳島を離れ、尼崎に住んで、すでに50年経っていた。少し徳島訛りが残っていたのだろう。運転手によれば、鹿児島に来て20年経つが、徳島の方と会うのは初めてなので、話しかけたと言う。話しているうちにタクシーの運転手は母の実家近くの出であることがわかり、ずっと懐かしそうに話し合っていた。地元にいるとその土地の方言には無頓着になるが、地元を離れて、故郷の方言を聞くことは少なくなると、聴覚が高まり、ちょっとしたアクセントの違いでバレるようだ。私も最近になり、津軽弁のわずかなアクセントの違いがわかるようになったし、鹿児島生まれも、関西弁でも大阪、神戸、京都の違いも判別できる。タクシーの密室で、こうした故郷の言葉の断片を聞くと、運転手も懐かしいと思うのだろう。

 

タクシーの運転手は毎日、毎日、多くのお客さんと密室で接する職業だが、映画のようにお互いもう二度と出会わない関係なので、中にはかなり深刻な、奇妙な会話もあるのかもしれない。タクシー運転手から作家になった梁石日さんもいる。


2026年4月8日水曜日

自転車の交通違反に青点制度

家の近くの歩道、法律上は自転車は右の車道



 

最近できた弘前中央駅近くの歩道、自転車も走れる
上土手の歩道、中土手、下土手も1車線にして自転車も通れるようにしたら





今年の4月から、自転車の交通違反に青点制度が導入されることになり、従来の

注意から罰金というペナルティーを課すようになった。その理由として自転車の事故が減っていないというらしいが、車を所有せず、歩きか自転車の私にとっては異議を申したい。

 

もちろん、信号無視、スマホを見ながらの運転などについては、どしどし取り締まってほしいが、これだけは問題と思われるのは、車道通行である。自転車による歩道通行については、多くの議論がなされ、実際に罰金とされるのは、進行区分違反(歩道通行)6000円と歩道徐行等義務違反の3000円となる。安全確保のためにやむを得ない場合を除き基本的には車道を走れということである。

 

自転車に乗っている人は、すべて感じていると思うが、狭い道で車道を通行することは本当に怖く、特に大型車両、トラックやバスが横を通りすぎると恐怖を感じる。車道の左には白線が引かれ、その内側を自転車が走るということになるが、狭いところでは20cmくらいしかなく、側溝蓋などがある場合もある。一度、その蓋に自転車のタイヤが挟まり死にそうになったこともある。また駐車していて、そこを迂回することあるが、右車線を走る車と接触しそうになることもある。警察は、後ろを確認して迂回しろと指示するが、自転車走行中に後ろを振り返り、車を確認することはかなり難しい。バックミラーをつけろという人もいるが、これも見にくい。

 

自転車事故が増えたと言っても、自転車同士の事故はほとんどなく、自転車と人、対人事故は自転車事故の25%くらい、年間で300件くらいの死亡、重傷事故が発生している。残りの80%は自転車と車の事故であり、欧米では自転車専用道の整備により自転車事故は減少している。また日本でも自転車専門道を整備したモデル地区では事故が30-40%減少したとしている。

 

法の整備も大事であるが、それと並行して自転車道に整備が必要であろう。さらに弘前で言えば、歩道の幅が広くて3m以上のところもある。その半分くらいのところに点字ブロックがあるが、その右側、車道よりは走っていいのだろうか。違反にならないのであろうか。

 

これについてAIで調べてみた。「3m幅の歩道があり、真ん中に点字ブロックがある。車道よりの1.mの部分は、自転車が走行しても違反にならないの」と尋ねると、回答は「結論から言うと、その状況で自転車が歩道を走行することは、原則として結論から言うと、その状況で自転車が歩道を走行することは、原則として違反(交通法規則違反)になります。理由は以下の通りです。自転車は「軽車両」: 道路交通法上、自転車は車道の左側を走るのが原則です。歩道の区分: 歩道の幅が3mあり、点字ブロックで仕切られていても、そこが法令上の「普通自転車解歩道通行可」の指定(標識や表示)がない限り、自転車で走行することはできません。」となる。

 

車道の白線内が30cmで、歩道の点字ブロック車道側が150cmあっても車道を走らなければ違反となる。さらに歩道には車は止まっていないが、車道には車が止まっており、迂回する必要がある。雪国では冬季の雪捨て場所として歩道をかなり広くする。ところによっては5mを超える歩道があるが、誰も歩いていない。その歩道を自転車が通れずに、車が多い、車道を走らせること、特に高齢者の自転車走行は事故を増やすと奨励しているようなものである。

 

最近では、弘前でも自転車解歩道通行可標識がある歩道を見かけるがわかりにくい。幅が3m以上ある歩道であれば、田舎ではほとんど通行人がいないことから、点字ブラックを道に真ん中に設置し、車道側の部分を黄色などで着色し、普通自転車解歩道通行可能の標識をたて、「自転車道、徐行」と書けばいいだろう。冬場の雪の積もった歩道を走る自転車はいない。車にとっても車道を走る高齢者の自転車ほど怖いものはない。東京の竹下通りの歩道を走る自転車と田舎の5mもあるほとんど通行人のいない歩道では、環境は全く違う。一律に法令を厳しくして罰金刑にしても自転車事故は減らない。むしろ、標識を立て、ペンキで歩道の半分を塗った方が効果的に思えるのだが。

 



 

2026年4月5日日曜日

鈴木雅 フェリス or 共立 論争


朝ドラ「風、薫る」が始まり、その関連本もたくさん出てきた。ところが二人の主人公のうち、大家直美のモデルとされる鈴木雅ついては、どこで英語を習得したかは意見が分かれる。ドラマの原案とされる「明治のナイチンゲール 大関和物語」(田中ひかる)ではフェリス卒業とし、「大関和と鈴木雅の人生」(MSムック)、「戦う白衣の天使 大関和・鈴木雅ものがたり」(櫻庭由紀子)、「大関和がわかる」(月刊Newsがわかる編集部)、「大関和 看護に人生を捧げた日本のナイチンゲール」(青山誠)、「風、薫る ご案内ブック」(TVガイドMOOK)、「大関和 明治のナイチンゲール」(別冊太陽 日本の心)も鈴木雅はフェリスを卒業としている。一方、「もうひとりのナイチンゲール 鈴木雅の生涯」(伊多波碧)、「風、薫る Part1(NHKドラマ・ガイド)、「月刊 エキスパートナース20264月号」(その看護。誰がはじめた?「風、薫る」のモチーフはこんな人 明治のナース・大関和と鈴木雅)では共立女学校修了としている。NHKでは、天理大学、鈴木紀子教授はじめ日本看護歴史学会がチームを組んで時代考証を担当しており、ここでは鈴木雅は共立女学校修了としている。

 

原案の田中ひかるさんは鈴木雅の子孫からフェリスを卒業したという証言を得たようで、また高橋政子、「日本近代看護の夜明け」は鈴木雅の孫から証言を聞き(原著は読んでいない)、採択した。さらに鈴木雅が生存中に出版された「女子の職業 新撰百種」(福良虎雄、明治30年)でも、根拠は示していないが、横浜フェリス女学校の卒業生だとしている。

 

一方、篠田絋造は「明治百話」(昭和6年)の中で、大関和の話として鈴木雅は横浜二百十二番館の女学校(共立女学校)を卒業したとしている。また昭和8年の横浜共立学園60年史の中で、一期生の小島(北川)清子さんが「思い出を語る」という文の中で、明治5年に入学した生徒の中に加藤おまさ(後東京帝大の看護婦長になった)がいたと書いている。

 

まとめると、1。子孫から聞いた話として、鈴木雅はフェリスを卒業した、2。友人(大関和)、同窓生(北川清子)の話では共立ということになる。ただいずれも当時、卒業という制度がまだなかったので、卒業したというのは間違いで、修了といった方が良い。

 

この場合、最も確実な一次資料は、学校での在籍記録、卒業証書、本人の文章、写真などであるが、鈴木雅の場合、これは残っていない。次に信憑性の高い資料は、同時代の知人、友人の証言であり、これは大関、北川が該当する。特に大関の証言は生存中のもので信憑性は高いし、また北川清子の話も、個人的には信頼性は高いと思う。なぜなら北川が同窓生として挙げた「菱川お安さん、この人は後医者となった。―――お角さん(後医者になった)」の記述は、ここ5年くらいの研究で初めて解明された事実であり、他の同窓生についても正確である。一方、子孫の証言はファミリーメモリーと言われ、記憶の欠落や誇張が見られことがある。英語教育ではフェリスの方が有名なこと、昔は共立女学校のことを横浜二百十二番館の女学校と称し、横浜百七十八番館のフェリスと近くで間違えられたことなどが理由として挙げられる。横浜二百十二番館の女学校と言われれば、普通、フェリスだと思ってしまう。いずれにしても、現状では、鈴木雅がフェリスにいたという根拠は子孫のファミリーメモリー以外にはない。今後の新たな根拠が出現するのを期待したい。歴史は新たな資料により簡単に変更され、朝ドラでも鈴木雅の設定を全く変更したのは、情報が錯綜する状況では卓見であった。

 

一方、横浜共立学園150年史では「鈴木雅1857年生まれ。1872年ごろ入学、1876年バラよる受洗、1881年(明治14)年ごろ修了か。」となっているが、明治15年頃から卒業制度ができ、卒業者に名前がないので、その前に修了としたのだろうか。夫の鈴木良光が亡くなったのは1883年、二人の子供がいたことから、さすがに1881年まで学校にいたとは思えず、これは間違いだと思う。1881年以前に学校を辞めて結婚したのだろう。鈴木雅の周辺の人、例えば大山捨松23歳、大関和19歳、岡見京25歳、井深梶之助の妻、せき21歳、若松賎子25歳と、高等教育を受けた女性は当時の女性に比べてやや結婚年齢が遅く、おそらく鈴木雅も20-22歳くらいで結婚したと考えると、1877から1879年頃には学校を辞めていると推測できる。


 

菱川やす、岡見京がアメリカに留学したのが26歳、1885年、須藤かくが留学したのが30歳、1893年の時であった。鈴木雅も二人の子供残して33歳でアメリカに留学しようと決意した(1891年頃)。背景としてこうした同窓生に触発されたと思いたい。現在でも、二人の幼い子供がいるシングルマザーが33歳でアメリカに留学に行くのはよほど勇気がいる。

*国立国会図書館デジタルコレクションで、”鈴木まさ”で検索をかけると4000くらいヒットし、その中で該当する人物を探したが、1976年までほとんど引っかからない。看護史研究で著名な高橋政子先生が1976年頃に明治期の看護婦として”鈴木まさ”を取り上げ、その際に、フェリス卒業との記載したため、その後の論文、本で孫引きされていったのか。
 

2026年4月3日金曜日

キリスト教系の学校を卒業して

 

ザビエル大学(シンシナティ)

私が通っていたのは、兵庫県神戸市の六甲学院という学校である。創立は1937年だから、来年でちょうど百周年となる。イエズス会が母体となる学校で、大学は上智大学、他には横浜の栄光学院、広島の広島学院、そして福岡の上智福岡中高校がある。

 

イエズス会は、スペインのイグナチオ・デ・ロヨラとフランシスコ・ザビエルにより作られた修道会で、教育には熱心で世界中に同系統の学校がある。私がいたのは1968-1974年の6年間で、生徒数は一学年160名、四クラスであった。数学、英語、国語、理科の4教科の先生はクラス担任として6年間一緒であった。

 

学校には10名近い外国人神父と同じく10名くらいの日本人神父がいて、学校横の修道院に住んでいた。校長はドイツ人、他にはスペイン人、アメリカ人の神父がいた。皆、イエズス会の襟なし白シャツに黒の上下のスーツのようなものを着ていた。宗教の時間が週に一回あったが、それほど宗教色はなく、放課後に信者を中心に公教要理というものがあったが、一度も行ったことはない。生徒の締め付けはキツく、学生服のカラーは上まで留める、電車では座らない、学校に持ってくる金は500円、髪は坊主頭、映画館に行く時は親と一緒など、細かい校則のようなものがあった。私が入学する少し前まで、学生鞄もなく、黒い風呂敷に教科書を入れて持ち運んだ。学校に行くと、制服は汚れるからと、自分の席で白い体操着に着替え、制服は椅子のところにかける。宿題を忘れると、自分の机の横に正させられる。学校の正門の前に校長がいて、髪の毛が長いと帰宅させ、切らせるか、学校で切る。水泳は全員が泳げるようになるまで校長自ら教え、京都の久美浜に臨海学舎、また登山のために立山に山小屋を、また瞑想のために学校横に一万坪の庭園を作った。

 

一般的なイメージからすれば、キリスト教系の学校といえば、おしゃれなイメージであるが、六甲学院の場合、戦前の学校のイメージが根強く残っていた。極め付けは便所掃除で、冬でも短パン一丁でタワシと雑巾だけで便所を掃除するし、教室の掃除は掃き掃除だけでなく、毎日、雑巾で拭き掃除もする。

 

ただ山の上の学校で6年間160名の生徒がいると、隔離された場所となり、多感は中学生、高校生はすぐに染まり、最初はキリスト教の信者は数名であったのが、卒業時には数十名になった。生徒同士も仲が良く、昨年行った卒業50周年の同窓会ではネット参加も入れると100名近くなった。亡くなった同級生を除くと150名での参加数としては多い。私自身、キリスト教のやや偽善的な雰囲気が嫌いなこと、学校の規則の多さにうんざりしたことなどから、卒業して20年くらいは全く同窓会にも興味がなかったし、数人の友人を除いて付き合うこともなかったが、この歳になると何よりクラスメートで会うのが楽しい。弘前に来てからも別の用事で教会に行くことがあるが、昔を思い出し、いいなあと思う。亡くなった同窓生のために、同級生の神父がミサをしてくれるのもうれしい。二年ほど前も上智大学の教会でミサがあり、参加した折には、教会の地下にある秘密のカタコンベのような墓地に案内してもらった。同窓生で、在校時の先生のネームプレートを探した。東京、四谷とは思えない不思議な雰囲気であった。

 

キリスト教系の学校で教育されると何か影響を受けるかと聞かれると、特に何もないとしか答えようがないが、それでも同級生を見ていると、皆のために、正しいことをしようという精神はあるようだ。昔、同級生がなくなり、その子供が六甲学院の生徒だった時は、皆で金を集めて奨学金にしようという動きもすぐに出た。会社を辞めてリタイア生活後も地域のボランティア活動をしている連中も多い。先日も、日本のサッカー界の重鎮、賀川浩さんが亡くなったが、親戚がいないため、その葬式一切を賀川さんの知人でサッカー部の後輩が行った。大掛かりな式で費用もかかったため、同級生が寄付を募ったところすぐに目標額に達した。何かを頼まれると、金にならなくても、正しいことであれば、協力するという気持ちは、キリスト教系の学校でも教育のおかげかもしれない。政治家、経営者が汚職収賄恐喝事件で逮捕された卒業生はあまり聞かない。昨年、アメリカのシンシナティーからお客さんが来た。シンシナティにはゼビア大学があり、1831年創立の高校もある。この知人の旦那さんがこの高校の出身で、なんとなく考え、雰囲気が似ていると言われた。教育法が近いのかもしれない。

 



2026年4月1日水曜日

風、薫る 考察

 


NHKの連続テレビドラマ「風、薫る」が始まった。どのような展開になるかはっきりしないが、現時点で気になる点を挙げる。

 

1.主要なキャストについて、そのモデルになった人物の生年月日

 

大関和(1858-1932、安政5年生まれ)と鈴木雅(1858-1940,安政4年生まれ)で同年齢である。そして鈴木雅が育つ教会の牧師、吉江善作のモデル、植村正久は1858(安政4)生まれで、これも大関、鈴木とほぼ同じ年齢となる。さらに大山捨松は1860年(安政7年)生まれで、大関、鈴木より2歳若い。ちなみに大山捨松は明治四年に11歳でアメリカに留学した。一緒に渡米した吉益亮子(1857年、安政4年生まれ)と上田悌子(1857年、安政年生まれ)は留学途中で帰国し、その後、横浜にできた日本婦女英学校(横浜共立女学校)に入学し、鈴木雅とは同級生であった。また教会で英語を教えるメアリーのモデルはマリア・ツルーで、1840年生まれ、大関、鈴木より18歳も年上となる。清水卯三郎は本名のままであるが1829年生まれ、外科医の今井益男のモデルは佐藤三吉(1857年生まれ)、入院患者、丸山忠蔵は新宿中村屋の創設者、中村愛蔵(1870年生まれ)となる。朝ドラでの歴史史上、「あさが来た」の主人公、廣岡浅子(1849年生まれ)に次ぐ古い時代を舞台にしたドラマであり、主人公は江戸時代の人である。つまり大関和、鈴木雅、植村正久、佐藤三吉、は同年齢、大山捨松は2歳年下、中村愛三に至っては12歳年下となる。

 

2.大関和は家老の娘というが

大関和の父親、弾右衛門は家老も務めた黒羽藩の重臣とされているが、それでも家禄は200石くらいである。一方、鈴木雅の父親、加藤信盛は幕臣で、鳥羽伏見の戦いから箱館戦争まで参戦している。黒羽藩は禄高18000石程度の小藩であり、戊辰戦争の出兵数は417名、その半分が農兵であるのことから、家臣は200名程度であろう。一方、幕臣は2万人程度、旗本だけでも5千人ほどおり、200石の家禄は幕臣では多い方ではない。そのため大関和は家老の娘ということで注目されがちであるが、実態においては鈴木雅の家格、家禄とそれほど違わないように思える。番組の主人公の一人は史実通り、もう片方は孤児という設定は、番組構成としては面白いが、鈴木雅の子孫からクレームが来ないのだろうか。

 

3.明治の孤児事情

江戸時代、両親が亡くなって孤児になった子供は基本的には親類に、あるいは稀であるが、寺に引き取られた。明治になると、キリスト教宣教師による孤児救済活動が行われるようになり、菊池章太「カトリック修道女会による明治期の孤児救済活動家」に詳しい。それによると、横浜でカトリックの幼きイエス会修道女が孤児養育を始めたのは明治5年である。鈴木雅が生まれたのは1858年で、教会で孤児養育が始まったのは1872年で14歳の時となる。ドラマ「風、薫る」では鈴木雅をモデルにした大家直美は生後間も無く親に捨てられ、教会で育ったという設定だが、14歳までどうしていたかの説明は難しい。番組では大家直美の生まれを実際より5歳ほど遅くして、看護婦養成所(1886)には23歳くらいの入学にしている。そうすると、可能性としては、教会ではないが、1863年にできたヘボン塾の家の前に捨てられた設定ができる。ヘボン婦人、クララは孤児を支援、教育したという事実はある。

 

4.鈴木雅との関係者

鈴木雅が在籍した当時の共立女学校の同窓生には、先に述べたアメリカ留学途中で帰国した吉益亮子と上田悌子がいる。同年齢で友達だった可能性もある。この二人は一緒に渡米した大山捨松とはもちろん面識はある。また福沢諭吉の娘や井上馨の娘とは同級生、のちに井上の妻、武子は大山捨松らと共に看護婦教育所の設立に尽力している。また同級生の桜井ちかは桜井女学校を設立し、この学校は大関、雅が入学した附属看護婦養成所を作る。また当時、桜井女学校の実質的な校長であったツルーは雅の共立女学校の時の恩師であった(外国人は校長になれず、矢嶋揖子が校長)。菱川安はシカゴ女子医科大学、岡見京はペンシルベニア女子医科大学、須藤かくと阿部はなはシンシナティー女子医科大学に留学し、女医になった。また水上せきは明治学院の総理となった井深梶之助と結婚したし、植村正久と横浜共立女学校の関係も深い。鈴木雅を取り巻く人物は、のちの雅の生涯に影響を与え、関係していったかもしれない。ある意味、鈴木雅の方が大関和より看護教育に関係する人物との接点は多かったし、看護協会や日本婦人衛生会などの組織化するに当たっても、共立女学校および父親の幕臣時代の有力者に頼りやすかった。

 

5.鈴木雅の英語

看護婦養成所に入学した時には、すでに外国人教師の通訳、英語で書かれた教科書の翻訳ができるほど英語レベルに達していた。3で述べたように教会で孤児養育が始まったのは明治5年以降、外国人宣教師たちの主たる活動は日本での宣教活動で、孤児の教育をメインにしていない。そうした環境で孤児たちが高い英語能力を身につけるのはかなり難しい。もちろん簡単な挨拶や会話などはできるとは思うが、通訳をして、本を翻訳するためには正規の教育を受けないと難しい。一つの方法としては、キリスト教系の学校に校費生として入ることである。将来的に宣教師になる前提で、海外、主としてアメリカの篤志家の支援を得て、教育を受ける。これについては前にブログで述べたが、可能性はある。それ以外の方法としては、いい家庭に養子に行き、そこから学校に通うという方法である。実際の人物としては、若松賎子(松川甲子)が近い。甲子は会津藩藩士の娘だが、1歳の時に父親が隠密として出たきり、亡くなり、また6歳の時に母親も亡くなり、親戚の養子となった。その後、養母の勧めでギターの英語塾に入塾し、幼児の頃から英語を学び、当時の女性として抜群の英語力を有していた。ただ番組ではすでに大家直美はマッチ工場で働き、生活して、英語でタメ口を話すというシーンがあったので、どちらでもなさそうだ。

 

番組の設定に沿うと、主人公の大家直美は、1863年(文久3年)の10月から12月生まれで、生後すぐにできたばかりの横浜のヘボン塾の前に捨てられ、最初はヘボン婦人、クララ・ヘボンにその後は、1870年からはメアリー・ギターのもと、フェリスセミナリー、あるいは1871年からメアリー・ブライアンのアメリカン・ミッション・ホームに預けられ、英語教育を受け、1879年からは植村正久の日本基督一致教会あるいは富士見町教会(1887年に設立だが、少し変更して)で育てられ、1886年に看護婦養成所に入学ということか。


2026年3月22日日曜日

もうひとりのナイチンゲール 鈴木雅の生涯

 


今春から始まるNHKの連続ドラマ,「風、薫る」に関連する本が出版されてきた。鈴木雅については資料が少ないため、大関和に比べてどの本も記述は少ない。ドラマの原案となった「明治のナイチンゲール 大関和物語」(田中ひかる、中央公論新社)でも、最近刊行された「戦う白衣の天使 大関和・鈴木雅ものがたり」(櫻庭由紀子、内外出版社)も、記述の多くは大関和についてであり、鈴木和については少なく、しかも横浜のフェリス出身という設定になっている。鈴木の最も大きな特徴は看護学校に入学する前に英語が堪能であったことが挙げられ、日本語のできない看護教育のヴィッチ先生の通訳をしていたほどである。英語をABCから初めて1年や2年くらいで、ネーティブの外人の授業の通訳をするほどのレベルにはならないことは、すべての日本人は知っている。ましてや英語が日本に導入され始めた日本において、ネーティブの外国人と同じように話せる女性はわずかであったであろう。英語が堪能であった鈴木雅は日本でも極めて稀な女性であり、その背景をドラマできちんと説明しないとおかしなことになる。

 

その点、先週、刊行された伊多波碧著、「もうひとりのナイチンゲール 鈴木雅の生涯」は、幕臣の父親、静岡藩での英学教育、そしてそれに触発された横浜共立女学校(現:共立学園)の入学、修練をしっかりと記述することで、これまでの本では十分説明できなかった鈴木雅の英語力を示せたと思う。ほとんど資料のない状況で、さすがに多くの著書を手がけた伊多波さんだと思う。常々思うが、本当に小説家は嘘が上手い。わずかな情報からさも本当と思わせるような嘘を紡ぎ出し、そこに読者を連れて行く。見事である。

 

NHKの朝の連続ドラマ「風、薫る」についても、ようやくその内容がわかってきた。鈴木雅をモデルにした大家直美という人物が登場する。母親に捨てられ物心がついた時から牧師に育てられ、その環境の中で外国人宣教師の妻から英語を習うという設定である。もうひとりの主人公、大関和をモデルにした一ノ瀬りんは家老格の名家の娘という設定で、大関和の史実と同じであるが、鈴木雅については履歴がはっきりしないことから、ドラマ構成上、大幅に設定が変えられている。家老の娘と孤児という対比はドラマとしては面白い。そして大家を育てる牧師としては植村正久をモデルにした吉江善作という人物が登場する。それでは、明治初期にこうした孤児が教会で育てられ、そこで英語を学ぶようなことはあったのだろうか。実際の鈴木雅(加藤雅)が横浜共立女学校に入学するのは明治五年であるので、当時、日本人が主催する教会はないが、元々、横浜共立女学校(アメリカカン・ミッションホーム)は、混血児の保護と教育を主眼としており、中には日本人孤児がいてもおかしくはなかった。確かに一期生を見てみると学費も高かったことから殿様の娘のような裕福な家庭の子供が多かったが、それでも明治12年頃には貧農の生まれ?の阿部はなが共立女学校に入学し、その学費、寄宿代費は、アメリカの支援者の寄付によって支えられていた。阿部はな自身は孤児ではないと思うが、フィリップという支援者から1881年には102ドル、1886年には58ドルに寄付があり、これは6年分の学費と寄宿代費に相当する。教会自体の運営は米国などにある本部によるもので、牧師個人で孤児を引き取り、教育させることは実際できないが、それでも支援者がいて、その人が資金を出すなら、ドラマの大家のようなケースもありえた。ドラマ内容がまだはっきりしないが、日本人の教会にくる宣教師夫人から英語を習ったという設定では、少しくらいの英語はできるようになっても、通訳できるようなレベルになるのは難しい。共立女学校の初期の教育のようにほとんどの教科が英語で授業が行われ、英語詩の暗記が英文添削など英語まみれの寄宿生活を数年以上することが必要となる。のちに青山学院大学の院長になる弘前出身の笹森順造は、青森県立第一中学校、早稲田大学を卒業し、アメリカに留学するが、全く英語が分からず、地元の小学校に入学しようとするが25歳では許してもらえず、聴講生として入学し、召使のような生活をしながら、ようやく2年後にデンバー大学に入学した。日本で17年も英語を教わったのに全く役に立たなかったと述べている。それほど英語の取得は難しい。

 

同じような外国人教師による英語教育を受けたドラマとしては「花子とアン」を思い出すが、そのモデルとなった村岡花子(1893-1968)と鈴木雅(1858-1940)とは35歳も歳が離れており、時代が全く違う。村岡が6歳の明治32年はほぼ男女とも小学校は義務教育であったが、鈴木が6歳の元治元年はそもそも近代小学校制度がなく、寺子屋世代であった。日本最古の女子校、フェリスができたのが明治三年、鈴木が12歳の時である。つまり村岡花子を描いた「花子とアン」は、次の世代、鈴木雅の娘の時代の話なのである。こうした時代背景に破綻がないか、注意深くドラマをみようと思う。

 

 


2026年3月19日木曜日

迫力暗記法



子供の頃から、暗記だけは得意であった。大量のものを短期間で暗記できた。ただ欠点はすぐに忘れることで、よく天才が一旦記憶すると写真のような形で頭に残るというが、そうした類のものではない。大学生の頃だったが、ドイツ語かラテン語の試験で、前夜に500くらいの単語を一気に覚え、答案に書いて、いざ見直そうと思うと、もう忘れており、見直しできず、そのまま試験用紙を提出した記憶がある。

 

中学、高校になっても、世界史、日本史、などの暗記ものは成績が良く、ずっと90点以上の点数であった。それに比べて、思考力を答う数学、物理はからっきし弱く、学力試験や模擬試験でもこの両科目が足を引っ張っていた。大学入試では、生物、化学、物理の3教科から2教科で受験できる学校があったため、物理を捨てることができたが、数学はどこの学校も必須であった。英語、国語(漢文、古文)、化学、生物などは、暗記ものの範疇に入るため、何とかなったが、流石に数学は暗記ものでなく、唯一、数III、微分積分が暗記ものに近かった。そのため、学校の学力試験や模擬試験でも数学の成績が決め手となり、校内の学力試験の数学が25点しか取れず、175名中159番というひどい時もあれば、逆に数学の点数がいい時は22番ということもあった。最後までこうした落差の大きい成績であった。

 

高校を卒業して、最初に大学受験した時も数学が5問中、0.5問しかできず、数学の試験が終わった瞬間、落ちたと思った。その後、神戸の大道学園という予備校の試験にも落ちて、一人、大阪のYMCA予備校を受け、豊中校には入れず、天王寺校に入ったが、ここでも数学はやはり苦手だった。ところが一浪で受けた試験では、本当にたまたまであったが、数IIIが主体で、5問中、4.5問(答えは合っていた一問は半分として)正解という奇跡が起こり、合格した。

 

私の記憶法というのは、ひたすら口でぶつぶつ喋って、何度も、何度もページをめくっていくというもので、自分で迫力暗記法と勝手に命名した。試験直前になると、例えば世界史の場合、1ページ、数秒で次々と、「ハンイバル、カルタゴ、カンナエの戦い、紀元前216年」と喋っていく。友人からはすごいなあと言われていたが、少しイッテいる人と思われていたのだろう。この暗記法は、歯学部に入ってからも活躍し、6年間の授業や国家試験でも苦労したことはない。実際、歯学部に入ると、これは医学部でもそうだが、思考力より暗記力が大事で、授業や試験のほとんどが暗記ものであった。数学のような思考力を問うものはなかった。その最たるものは歯科医師国家試験で、ほぼ100%大量の本を読み、記憶する。たぶん医学部でも、暗記ものより数学や物理の好きな人は入学後、苦労したかもしれない。一般の人には信じられないかもしれないが、解剖学では骨の名称はラテン語の正式名でひたすら暗記していく。膨大な量であるが、全く平気であった。

 

その後、月日は流れ、三年前、66歳の時に新しい矯正歯科専門医制度が発足し、筆記試験を受けることになった。最初の試験であるので、かなり大まかな出題範囲のため、プロフィットという人の書いた“プロフィットの現代矯正学”の新版を買い、何度も読み、矯正歯科の基本知識をおさらいし、さらにこれまでの歯科医師国家試験(歯科矯正)などを解いたりした。ところが若い時にあれだけ得意であった暗記が全くできない。例えばターナー症候群の特徴と咬合を述べよという問題の回答でも、以前は簡単に覚えられたのだが、66歳になると全く覚えられない。半年くらい、診療の合間に勉強したが、一週間も勉強の間があくと、前に覚えていたことをすっかり忘れている。笑っちゃうくらいの記憶力の低下である。

 

最終的には自分で問題を作り、それを回答するとやり方で何とか、覚えることができ、専門医試験でもまあまあの成績は取れたと思う。試験終了後、皆で答え合わせをするのだが、五人の先生で、“三番目の問題の回答はAだったよなあ”というと、三人に先生がそうだと答えるが、一人の先生は間違ったと落ち込んでいた。この光景は高校、大学でよく見たものである。この五人の先生はいずれも日本を代表する60歳以上のベテランの矯正歯科の先生で、その光景は面白かった。60歳を過ぎての暗記もの試験は相当厳しい。たぶん大学の教授でも受験勉強しないと難しいのでは。

 

今ではさらに記憶力が低下し、まず人の名前が覚えられないを越して、忘れていく。たぶん忘れてもAIで検索すれば簡単に検索できるという安心感も影響している。イーロンマスクはAIの進歩で医者は必要なくなると言っているが、実際、医学部の授業のほとんどが暗記ものであること、人間の暗記の限界と年齢による衰えを考慮すると、診断、治療法の多くはAIに置き変わる未来が予想される。ただマスクがいうように外科あるいは歯科治療などの手技をロボットが置き換わるようになるには、まだまだの時間が必要だろう。

 

2026年3月15日日曜日

歯科医院の資産価値

 



アメリカの1930年代の複葉旅客機 カーティスt-32 コンドルを描いてみました



AIでプロの画家風にと修正してもらいました。うまい




前回、閉院から遡って開業の仕方を考えたが、歯科医院の資産価値についてもう少し触れたい。結論から言うと、開業した瞬間に資産価値は土地価値のみとなる。

 

例えば、1000万円の歯科用CTを購入したとしよう。開業して5年目に病気で閉院することになり、業者に買い取ってもらうとする。その場合の買取価格は10万円程度で、私のところでのプランメカのデジタルセファロは8年の使用で、買取価格はゼロ円であった。デジタル機器は10年以内で無価値、処分するしかなく、数年の使用しかなくても中古販売するのは非常に難しい。基本的にはPL法の実施により、中古販売するためには製造元がきちんと整備、修理して販売しなくてはいけなくなり、その手間を考えると、製造元はこうしたことはしていない。そのため30年前にあれほどあった中古歯科機材メーカーはほとんどなくなり、歯科の分野でのリサイクはほぼないという状況である。逆に10年を超える歯科ユニット、レントゲン、歯科機材については、撤去、処分料がかかり、ユニットで一台数万から十万円の費用がかかる。撤去費だけで数十万円からテナントで原状回復を求められると3、4百万円の費用がかかることがある。

 

ついで建築した歯科医院の閉院を考えると、東京では居抜きでの売買もあるかと思うが、青森のようなところでは歯科医院の居抜きはほとんどない。歯科医院の場合、ユニットの設置関係で配管、エアーのダクトを床下に設置しなくてはいけないので床上をしている。そのため、地方では歯科医院や医院の建物は、用途が限られ、不動産として売れることはないし、売る場合も相当に叩かれる。つまり1億円で建てても、十年経つと、壊して土地だけで売買しなくては売れない。

 

結局、開業して十年での歯科医院の資産価値は歯科機材の資産価値はゼロ、歯科医院の建物の資産価値はほぼゼロ、撤去、解体費に数百万円かかることになり、なおかつ200坪以上の土地は売れない。青森県で200坪の土地、坪15万円、3000万円に、建物、機材合わせて計1億円の歯科医院を建てても、売る場合の価格は、土地がなかなか売れず、実売価格は2000万円程度になる。元金をいくらか返済していても、8000万円以上の負債となる。東京のような都市部は、今後も土地価格の上昇が見込まれ、歯科医院を建てるのもキャピタルゲイン、賃貸費用の高騰を考えると無駄ではないかもしれないが、地方は急激な人口減少が見込まれ、さらにう蝕の減少に伴う患者数の低下を考えると、大きな負債を負って開業するのはリスクが多すぎる。商売の鉄則は、いかに無駄を省き、安く仕入れて高く売るのに尽きる。歯科医院の場合、閉院する時点では土地も含めて資産価値はゼロと考えた方がよく、商売の鉄則からすれば、いかに安く開業し、少ない従業員、少ない経費で、なおかつリスクの少ない方法で経営するに尽きる。十年たてば無価値なものに億単位の金を突っ込むのは余程のリスクを持つ。ましてや会社経営もしたことはない、経営の素人の若い先生が、こうしたリスクを負うのは信じられない。会社経営の鉄則は、これも小さな企業から始めて、試行錯誤をしながら大きな企業を目指すことである。歯科医院経営の規模はピンキリであるが、チェアー4、5台、2億円の開業資金、140-50人の集客を目指す歯科医院は、上位規模と言える。平均で、1日の患者数が23名とされており、その倍の患者が来ないと経営できないのであれば、それは無謀とも言える。さらに十年で資産価値がゼロであれば、撤退もできない。

 

一方、閉院するにあたり、少し失敗したと思うことがある。私の場合5年前から閉院を考え、その間、無駄な経費を減らすために物を極力買わないようにしていた。欲しいものがあれば経費で買い、閉院してからは自宅で使えばよいということを忘れていた。原価償却期間が残っていても、年金収入だけであれば税務上問題はないと思う。私の場合、失敗したのは、6年間使っているマックのパソコンは刷新しておけばよかったし、USMハラーのキャビネットを買ったが、これも医院でも使えるので、経費で買っておけばよかった。逆によかったのはヤコブセンのシティーホールという壁掛け時計を十年前に買ったが、これは今でも重宝している。またスティールケースのGestureやイタリア、ボビーワゴン、ノルウエイのScandia chair、アルテックの椅子などは高かったが、いわゆる名作家具は座り心地もよく、ファッション性も高い。閉院後の欲しいという人が多く、娘、親類にあげて喜ばれた。閉院後も自宅で使う前提で、医院の家具や備品を買うのもいいかもしれない。


宮崎駿風に描いてもらいました