2026年7月24日金曜日

鈴木雅に関する横浜共立学園六十年史にある回想  小島清子について

 

矢島楫子

「横浜共立学園六十年史」の中で、卒業生の寄稿文のひとつに小島清子(北川)さんの「思い出を語る」という文が収められている。引用すると

 

 「私は姉の北川晴子と弟の北川才太と三人で、ミッションホームが山手四十八番に開設された最初の生徒として入学したものでした。私たちの外に第一回の生徒として入学した人たちには福澤先生のお嬢さ達が三人、又福澤先生のお姪御さんで福澤おきよさん、井上馨(後の侯爵)さんのお嬢さんが二人、木脇お園さん。この人のことを伯爵夫人と渾名していました。中尾さん、名は何と言ったか覚えていませんが何でも芸者をしていたかということでした。苗字は忘れましたがお米さんという三十歳位の人もいました。菱川お安さん、この人は後医者となった。更木お梅さん、更木お金さん、おひささんなどでした。間もなく二百十二番に移りましたが、移ってから入学した者のうちには毛色の変わった人たちがいました。 略 おりょうさん(後栗岡氏に嫁す)、加藤おまきさん(後東京帝大の看護婦長となった)桜井おちかさん(桜井女塾を開いた)井深おせき(井深梶之助博士夫人)おとりさん、お角さん(後医者になった)お貞さん、おりやうさんなどであった。この二人は明治の初年最初の女子海外留学生として米国に往った上田てい子、吉松(益)りょう子さんたちで渡米後間もなく帰朝して共立に入ったのでした。これらは開校当時の事で明治四、五年頃の話ですが、それでも当時の社会においては相当の身分のある人たちの子供が入学したのです。」

 

この回想から、鈴木雅(加藤おまさ)は明治五年頃に横浜共立女学校(アメリカン・ミッション・ホーム、日本婦女英学校)に入学したことがわかる。ところが、これに対して、まずこうした卒業生の回想は適当で、記憶違いも多くて、信用できないという批判がある。例えば「加藤おまさ(後東京帝大の看護婦長)」に対して、看護婦取締役で、看護婦長ではないと言った細かい批判である。ではこの回想を書いた小島清子とはどういった人物かというと、最近、投稿された尾崎るみ先生(白百合女子大学)「若松賤子周辺の人々―義父・大川甚平衛や親友・小島清子などについて」(横浜プロテスタント史研究会、第477研究会 2026.6.20)で、詳しく書かれている。この論文によると

 

小島清子は、柳川藩士・小島正男の次女として生まれ、横浜税務勤務となった父に伴い横浜に来た。明治4年、父親が長野勤務になったので、三人に子供をできたばかりのアメリカン・ミッション・ホームに預けた。ところが明治6年に父親が東京勤務となり、芝の桜川小学校に転入した。以後、端折って紹介すると、官立東京女学校に行くも中退し、小島官吾と結婚する。官吾は後に東京府議会議員などになるが、廃娼運動にも夫婦で積極的に関わっていく。小島清子は婦人矯風会設立から関わり、書記や会計を担当し、婦人白標倶楽部の一人で、女学雑誌では女性記者8名の一人でもあった。さらに明治38年には単身で1年間、アメリカ西海岸を視察旅行し、翌年、一家でカリフォルニアに移住し、大規模農業に従事した。昭和17年ごろには日本に帰国したようなので、横浜共立学園六十年史はアメリカから投稿したことになる。

 

このように小島清子は明治期における際立ったインテリ女性であり、彼女の投稿した文書は信頼のおけるものとみなして良い。さらに矯風運動を通じて、矢島楫子、若松賤子などとも親しく、当時の進歩的な女性の一人であり、初期の横浜共立女学校の生徒のその後の動向についてもある程度知り得る立場であった。大関和、鈴木雅はともに婦人矯風会に参加していることから、書記、会計をしていた小島清子とは直接面識があったのは間違いない。

 

鈴木雅については資料が少ないので、履歴がはっきしないことが多いが、上記の記述から、明治5年、アメリカン・ミッション・ホームに入学したことはほぼ間違いなく、横浜海岸教会の記録から明治9年3月4日にバラにより受洗した確実な記録もある。当時の同窓生の多くが在学中に受洗していることから、鈴木雅も明治9年頃までは横浜共立にいたと考えても良い。その後、結婚するまでフェリスで英語を学んだ、13年まで横浜共立を修了などの意見もあるが、これについては不明である。ただ結婚する前には学校を辞めたと考えてよく、それを踏まえると明治10年頃に学校を辞めて、11年頃に結婚したと考えてもよかろう。つまり鈴木雅は、明治5年にアメリカン・ミッション。ホームに入学し、明治9年に受洗、明治10年頃に学校を辞めて、結婚した。二人の子供をもうけたが、夫が戦傷で亡くなると、明治19年に上京し、明治20年に桜井女学校附属看護婦養成所に入学した。結婚していた期間は、普通の主婦として過ごしたと思うが、横浜共立で学んだ英語は忘れなかったのだろう。



ついでに最近流行りのAIで作った文は、参考まで


「横浜共立学園百五十年史」には鈴木雅について「明治13年ごろ修了か」との記述があり、これに対してWikipediaでは「雅は共立女学校(現在の横浜共立学園)に学んだとされるも一次史料は存在しない。また同校に在籍したとされる期間は、京都や仙台に居住し出産しているため矛盾する」という批判がなされている。確かに雅は明治11年に結婚して夫の赴任先へ同行しているため、学校史が推測した「明治13年修了」という年号には誤認がある。しかし、この年号のズレを理由に「共立在籍の事実そのもの」まで否定するのは、史料批判として不当である。
「横浜共立学園六十年史」所収の小島清子の回想には、開校当初(明治5年頃)の生徒として「加藤おまき(後の鈴木雅)」の名が明確に記録されている。小島は婦人矯風会幹部や「女学雑誌」記者を務めた明治期の際立った知識人であり、同じく矯風会に属した雅とは直接面識があった。この当事者の具体的な証言は一級史料として極めて信頼性が高い。
さらに、これを裏付ける客観的データとして、明治9年3月4日付の横浜海岸教会の記録(バラ宣教師による受洗記録)が現存している。当時の同窓生の多くが在学中に受洗している史実を鑑みれば、雅は明治5年に入学し、明治9年3月時点では確実に横浜の環境下にいた(=共立に在籍していた)とみるのが自然である。
つまり、雅は「明治13年まで在籍した」のではなく、「明治5年に入学し、明治10年頃まで在籍したのち、結婚(明治11年)前に退学した」と捉えれば、京都・仙台での出産という史実とも何ら矛盾しない。後世の伝聞(孫の記憶や親戚の由緒書)のみに頼るフェリス在学説に比べ、小島清子の回想と教会の受洗記録という2つの独立した史料で裏付けられる「横浜共立在籍説(明治5〜10年)」のほうが、歴史学的に圧倒的に優位である。

0 件のコメント: