2011年11月3日木曜日
山田兄弟40
近年、日本から海外へ留学する学生は減ったと聞く。アメリカへの留学生の多くは、中国人、韓国人だそうだ。
弘前からも、かっては多くの若者が夢を持って海外へ飛翔した。明治初期、10年には東奥義塾の優秀な学生、珍田捨己、佐藤愛麿、川村敬三、那須泉、菊池群之助らが最初の留学生として渡米し、明治18年には笹森卯一郎、益子恵之助、高杉栄次郎などが続いた。初期の留学生は、日本に来ていた宣教師の思惑、日本人の宣教師を作るという目的もあったかもしれないが、東奥義塾の英語教育の水準の高さから、現地においても早い時期にとけ込み、優秀な成績を収めた。
その後も、海外、ことにアメリカへの留学熱は続いたが、明治30年頃から飛躍的に増加した。弘前は県庁所在地が青森市に移ったため、町は一時衰退したが、第八師団の設置に伴い、再び、活況を呈し、留学者数も増加したものと思われる。さらに成功例として珍田らの活躍もあり、東奥義塾での外国人宣教師の親しみも相まって、東京を超え、いきなりアメリカに向かったようだ。
孫文の辛亥革命に協力した山田兄弟の長男良政は中国に渡り、恵州起義で戦死し、3男の純三郎は長く中国にいて孫文の秘書として活躍した。さらに二男清彦、四男の四郎はアメリカに渡り、ついに日本には帰ってこなかった。山田浩蔵の息子4人すべてが海外に行き、帰国したのは純三郎だけである。清彦、四郎の生年月日は不明であるが、残された写真から清彦は明治5、6年ころ、四郎は明治12、13年ころと思われ、昭和3年発行の青森縣総覧によれば、四郎が明治33年ころに最初に渡米し、続いて、明治34,35年ころに清彦が渡米したように思われる。清彦、四郎はともに東奥義塾卒業であった。同時期、和徳小学校から弘前中学(青森県立中学校あるいは東奥義塾?)を卒業し、早稲田から渡米した日系ジャーナリストの藤岡紫朗は明治12年生まれで、明治30年にアメリカに行くが、同世代の四郎が渡米したきっかけになったかもしれない。当時は、自由民権運動に対する弾圧がきびしく、また薩長以外の地方からは栄達の道は閉ざされていたため、愛想を尽かして、渡米した者も多くいた。
須藤かくという弘前出身の女性は、明治20年ころに渡米し、阿部はなとともにアメリカに渡り、アメリカの医科大学に進学して医師となった。荻野玲子が女性として日本人初の医者になったのが、1884年であるから、須藤、阿部らも相当早い時期の女医であり、日系初の女医である。1900年ころに同級生のDr.Kelseyらとともに一旦日本に帰国して宣教活動をした後、妹の嫁ぎ先の成田一家と一緒に再び渡米し、アメリカの友人のところに世話になったりして、104歳の天寿を全うして亡くなった(http://www.wiltonnewyork.com/BioNarita.html)。現在アメリカにはその子孫がいる。須藤かくは1861年生まれで、その経歴からは函館の遺愛女学校を卒業し、その関連から渡米して医師になったものと思われる。当時、医師資格試験は女性に門戸を閉ざしており、唯一海外の医科大学を卒業したものに限り、医師の資格を与えられた。明治初期の女性史において完全に忘れられた存在である。
工藤盛勝という人がいる。明治19年に弘前で生まれ、青森中学校を卒業後に、明治38年に渡米し、オレゴン州のNorth Pacific Dental Collegeに入学し、歯科医となりカリフォルニアで開業した。日本で最初の歯科大学、高山歯科医学院ができたのが、1890年であるから、これも早い。普通なら、歯科医になろうとするならまず東京に行くであろうが、工藤の場合もいきなり東京を超え、アメリカに向かった。
明治期の弘前は、よほど先進的な町であり、山田清彦、四郎、藤岡紫朗、須藤かく、工藤盛勝はいきなりアメリカを目指した。高杉滝蔵、良弘ら高杉三兄弟のようにアメリカ留学後に日本に帰国したものは、それなりの地位につき、記録も残っているが、山田清彦、四郎、藤岡紫朗、須藤かくのように帰国せず、アメリカに残った人々は、ほとんど日本には記録がなく、評価もされず、忘れられている。こういった人物は他にもいたであろうが、全くわからない。
写真上、左の人物は、山田四郎、写真下右端の人物が山田清彦と思われる。情報をお持ちの方は是非ご連絡ください。本当に何もわかりません。
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