2011年11月28日月曜日

山田兄弟42




 先日、NHKのBSプレミアムで「辛亥革命100年」の第一話では山田良政、純三郎のことが、第二話では工藤忠のことが取り上げられた。友人から1年前にこういった番組を作っているとの噂は聞いたが、NHKの特番は本当に時間をかけてじっくりと番組を作っている。それだけによく調査された内容で、私も知らなかったことがたくさんあった。

 ひとつは中国の深圳市近くにできた雕塑公園で、以前このブログでも紹介したが、この公園は辛亥革命100周年を記念し、孫文の革命の歩みを銅像を使って説明する仕掛けとなっている。孫文の側には和服を着た日本人が何かを語りかけているが、どうもモデルは北一輝のように思える。今回、番組ではこれとは別の銅像、髪を振り乱し、馬に乗る、メガネをかけた人物を紹介し、これを山田良政としている。日本側の問題が生じ、武器の援助を得られなくなったことから、恵州で蜂起した革命軍に蜂起の中止を告げにいく際の山田良政の姿だ。この像については中国のあちこちの検索ソフトで調べたが載っていない。また良政が蜂起した恵州の地も初めて見ることができた。かなり山間の場所で、まるで梁山泊の陣地のようである。この番組では山田純三郎は孫文の臨終の場にいた日本人と紹介されていたが、中国、台湾の歴史ではそういった事実はない。また孫文と山田で協議された満州譲渡を含む、日中盟約についても賛否両方の意見を紹介していた。この日中盟約に署名されている孫文の名は間違いなく真筆であり、当時革命の金策に困っていた孫文は取りあえず、漢民族の故郷である、中原より下の部分を革命勢力の支配下に置き、むしろ満州族の故郷、北の地方は日本軍に守ってもらい、ロシアとの緩衝地帯になってほしかったのではなかろうか。当時の状況では至極当然の考えであり、売国奴扱いされるようなものではない。

 一方、清朝最後の皇帝に使えた工藤忠は、山田兄弟とは違い、大陸浪人的な性格をもち、当初は山田らの中国革命に参加しようとしたが、「孫文らの考え方があまりに純粋すぎて現実とは合わなかったので、孫文や山田純三郎とは袂を別った」と述べている。その工藤忠自身も満州国、その皇帝である溥儀は日本軍の傀儡であることは、わかっていながらも最後まで忠誠を尽くした。

 山田純三郎は孫文死後も上海では常に孫さん、孫さんと言い続け、日本人からは「孫文バカ」と呼ばれていたようだが、同様に工藤忠も「溥儀バカ」であった。一度、信じた人物を裏切ることはない、津軽の一種の誠実な性格によるもので、その誠意が国を越えて相手にも通じたのであろう。

 養生会の創始者伊東重の子供、伊東六十次郎(1905-1994)の生き様もすごい。弘前中学、弘前高校から東京大学に進んだ六十次郎は、北一輝、大川周明の国家主義に共鳴し、満州の大同学院の創立に関与し、同学院の教授となった。その後、昭和11年の二・二六事件では満一年拘禁されたが、出所後には石原莞爾の東亜連盟同志会創立に参加した。根っからのナショナリストで終世、石原莞爾の思想を信奉した。とくにすごいのは、戦後、シベリアに抑留され、収容所で何度も民衆裁判にかけられても、全く国体護持の思想はゆらぎもせず、逆に収容所の待遇改善を目指した「ハバロフスク事件」を昭和30年におこし、公然と収容所内で紀元節を挙行するようになった。シベリアに都合12年も抑留されたが、その信念には変化はなかった。思想的には賛否もあろうが、戦前、収容所、戦後とも全く信念は揺らぐことなく、首尾一貫した生き方はみごとである。

 山田良政、純三郎、工藤忠、伊東六十次郎のように、ある人物に惚れ込み、ぶれることなく、誠実に、愚鈍に信奉していく気質は、津軽のよき気質であり、すぐに時代の流れに左右される私のような大阪人に見られない美点であろう。ただ商売向きの気質ではなかろう。

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bell さんのコメント...
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