2011年9月17日土曜日
明治の和徳小学校
千葉寿夫の「明治の小学校」を読みました。千葉先生は、朝陽橋たもとの今の鎌田屋煉瓦倉庫にあった千葉金商店の出で、弘前の学校史および郷土史の生き字引のような人でした。何度が講演を聞いた機会がありましたが、それこそ誰それの子が今はここに住んでいて、何をしているということまで何でも知っており、こういう人がいると図書館で何週間の探すようなことも聞くだけで一瞬でわかったと思います。
明治7年に創立した弘前市立和徳小学校は、内の家内の出身校だけでなく、長女、次女もここに通っていましたので馴染み深い小学校です。この学校には開校以来の成績表など学校関係の資料がきれいに残っているため、明治、大正、昭和の小学校史を研究する先生方には有名な学校です。「明治の小学校」は主としてこの和徳小学校の資料を用いて研究したものですが、内容は千葉先生の教育論も随所におり込められ、おもしろい本となっています。例えば、明治初期、小学校に行く学生は主として士族と裕福な商人の子供に限られ、その中でも士族の子供が威張っていたので「お学校」と呼ばれていました。また学校運営は多少の政府の補助があったものの(10%以下)、基本的には生徒の授業料でまかなわれており、そのため、なかなか生徒が集まらなかったようです。そこで地区の有力者を学校掛という役職にさせ、脅しまがいのことをして、無理矢理小学校にいかせたようです。体育祭はそれこそ地区あげての大きな行事で、先生も気合いが入っていたようで、他校との対抗戦では、走っている子供の妨害をしたり、そのことが原因で先生同士の喧嘩さわぎがあったようです。熱い先生が多かったようです。
この和徳小学校が最初どこにあったかというと、明治4年弘前絵図の和徳、御収納倉のところのようです。今の弘前第一中学の入口近くでしょう。「明治の小学校」では、「校舎 旧藩時代の弘前内には、津軽藩が所有する米倉が方々に建てられていたが、和徳小学はその米倉を無償に払い下げてもらい、玄関その他教員室、小使室を増築して校舎とした。このような旧藩時代の倉庫を校舎にした例は全国的にも多いと思う。建物の大きさは東西の長さが24間(約42m)巾4間(約8m)であった。改築のとき、倉庫両側の壁を切り取って、一間間隔に三尺(約1m)四方の紙障子を入れた。また倉庫内部を七つに区切って、それを教室とした。」となっています。明治四年弘前絵図では、和徳地区には和徳御収納倉と朝陽橋ふもとにも御収納倉二ヶ所、白米倉一ヶ所と二つの収納倉がありますが、おそらく前者のところに小学校ができたのでしょう。和徳小学校は明治31年に南横町の遊郭設置に伴い現在地に移転しましたが、旧小学校跡は地元では長い間、魚市場と言われていました。小学校移転に伴い、魚市場ができたとばかり思っていましたが、同書によれば、明治18年に校庭の内3191平方メートルを学校経費捻出のため25銭の賃料をもって弘前魚会社に貸し付けたようです。当時の規則では、魚市場ある地は健康に害する所として学校を建ててはいけないとされていたため、やむを得ず魚市場とせず、魚会社にしたようです。
明治21年には学区民および教師の寄付により二階建て長さ二十四間、巾四間の西洋造の立派な校舎もできました。中でも学区民の自慢は玄関上が四層楼となっており、当時弘前では四階立ての建物がなかっただけに大評判になったようです。現在の和徳小学校も玄関上に同じような構造物があります。
大正7年のイラスト図(下図)の魚市場のところをみると、旧米倉を利用した校舎や新校舎らしきものが描かれています。移転した後も、そのまま使われていた可能性があります。魚市場前には千葉寿夫先生の実家、千葉金商店が見えますし、明治四年弘前絵図ではこのあたりに水車があったようですし、和徳通りに面した空地は広小路と呼ばれていたようです。
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