2007年12月19日水曜日
珍田捨巳 6
私の好きな論客のひとりである松本健一の近著「畏るべき昭和天皇」を読んだ。大変面白く一気に読めた。この本の中で、松本氏は昭和天皇を、明治人が作った絶対主義的な専制君主システムが破綻した昭和の時代に、たった一人で戦った「畏るべき」ひとであるという評価を下している。そして摂政時代のヨーロッパ外遊がその人格形成に決定的な影響を及ぼしたとしている。外遊による「カゴの鳥」からの脱却が、昭和期の無責任の軍人、政治家の中で唯一国際感覚をもつ常識人であり続けた。それまで無口で弱々しいとみられた昭和天皇がこの外遊を契機に驚くべき成長を遂げたことが記されている。この本の中で、珍田に関連することがあるので、ピックアップしたい。
大正10年のイギリスにおける歓迎晩餐会での、昭和天皇の「堂々たる御態度」、「玉音朗々、正に四筵を圧するの概」に駐英大使の吉田茂は感嘆している。ただ公式晩餐会での通訳をつとめた珍田の声は小さく、「英語巧みなるも声量不足」され、それ以降は東宮御用掛の山本信次郎(海軍大佐)に変えられている。デポー大学で弁論を行い、パリ講和会議でもファイターと知られる珍田は、日本語はともかく、英語での演説は朗々としているが、この時期はむしろ外交官僚としての態度が備わっており、通訳としては向いてなかったのかもしれない。随行員のひとり「竹下勇海軍中将の述懐」で「三名(閑院宮、珍田、竹下)殿下の御挙動に就いて、尚未だ御直しにならざる点二三ヶ所あり。珍田伯、涙を流して言上したり、余も軍人が敵陣に向かい突入し、又は敵艦隊と交戦するは決して難事にあらず。唯だ殿下に諌言を言上するは至難中の難事なり。之を敢えてするはよくよくの事と御召され、御嘉納あらせらるることを切望申上げるに、賢明寛大なる殿下は能く御嘉納あらせられたり」。珍田の真摯な態度が垣間見られる。おそらくこの外遊中、珍田は折にふれ、欧米事情、国際平和協調、国際法、立憲君主制度など教えた。外遊中、宮中とは違い、天皇と臣下の距離はより近かったのであろう。珍田はパリ講和会議では人種差別撤廃案などを提出し、非白人国やアメリカ黒人の賛同を得る一方、中国の二十一か条要求の取り消し要求や韓国併合などの件については無視し、自国のためにダブルスタンダードも平気でできる外交のプロでもあった。そんな珍田からすれば若き天皇の成長を喜ぶ一方、欧米白人社会のしたたかさをまだ教えきれなかった悔いがあったのかもしれない。
戦後、昭和天皇が積極的にキリスト教を宮中に取り入れ、わざわざ皇太子の家庭教師にクリスチャンを指名したたことを、松本は占領軍に対する天皇のしたたかさとしており、その後の押し返しをみると実際その通りとは思うが、その脳裏にはキリスト教徒であった珍田や牧野らの姿をなつかしみ、また自分の人格形成によかったと思ったのかもしれない。珍田らの明治期のクリスチャンの思想基盤は、武士道や国家あるいは国体の上に築かれたものであり、外交や天皇の教育に宗教が登場することはなかったと思われる。
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