2010年8月8日日曜日

床矯正治療



 床矯正装置で治療したが、治らなかったという患者さんが立て続けに来た。これまでも、他の歯科医院で床矯正により治療していたという患者さんが年に1,2名いたが、最近は頻度が高い。床矯正装置は、かなり普及しているからであろう。

 代表的な装置として、Schwarz(シュワルツ)の拡大装置がある。これはプラスティックの入れ歯のような装置の真ん中の部分にネジが入っており、基本的には週に1回ネジをまわし、0.2mmずつ歯列を拡大する装置である。原型は非常に古く、1877年のKingsleyの論文の中にも見られ、130年経っていることになる。現在使われている装置も約70年前のものとほぼ同じである。そういった意味では床矯正装置による治療は最新でも何でもなく、日本でいうと明治10年,あるいは昭和初期ころの治療法といってもよい。

 それではなぜこれほど古い治療法が未だに使われるのか。逆になぜほとんどの矯正専門医で、使わないのであろうか。

 床矯正がもてはやされる背景にはマルチブラケット装置に対する毛嫌いがある。ひとつには、マルチブラケット装置に習得にはフルタイムに研修で3年以上はかかること、また種々のタイプの器材を用意する必要があり、費用がかかること、慣れないうちはチェアータイムがかかることなどが、挙げられる。一方、患者さんにとっても、マルチブラケット装置は目立つこと、痛そうなこと、装置が複雑で虫歯になりそうなことなどが、嫌がられる。歯科医側からすれば床矯正装置は衛生士が口の型をとり、技工士が装置を作り、それを入れるだけであるので、手軽であり、また患者側からも床矯正装置の方がマルチブラケット装置に比べるとずっと子どもにはやさしそうに見える。また費用も一装置につき2,3万円と安いので、取りあえずお願いするということになる。歯科医も親に「早いうちに治療した方が簡単に治せる」と言うので、親もこの装置だけで子どもの不正咬合はなおると思う。患者さんから、みて一番いい方法は「できるだけ痛くなく、簡単で、費用の安い」治療法であり、床矯正治療はこの条件に当てはまる。

 矯正専門医からみれば、数ミリの空隙不足からくるでこぼこを治すために、装置を何度も変え、数年以上にわたり使用するくらいなら、永久歯列が完成してからマルチブラケット装置を使った方が簡単だと答えるだろう。今のワイヤーは進歩しており、並べるだけならわずか2,3ヶ月の治療で治すことができる。またドクターにとっても床矯正を作り、調整するくらいなら、マルチブラケット装置の方が楽だと考えるだろう。

 さらに言うと、床矯正治療の適用は2,3mmの空隙不足であり、この程度のでこぼこで、下の前歯に限局する場合、必ずしも矯正の適用ではなく、また仮に是正してもそれを維持するのは難しい。成人で時折、良好な咬合であるが、下の前歯にのみ少しでこぼこのある患者さんが来院する。治療は非常に簡単であるが、後戻りを防ぐには、数年間以上、下の歯の裏側にワイヤーで固定しないといけないこと、後戻りがあった場合、再治療をする必要があることをくわしく説明し、よく検討してもらっている。上の前歯に限局するでこぼこについては、床矯正装置で上あごを横に拡大して一旦並べるのは悪くないが、多くの場合、下のでこぼこもあるし、上の犬歯などが八重歯になる可能性も高く、結局は全部の歯を並べる必要がでてくる。

 こういった見方をすると、床矯正治療のみでなおるケースは非常に少ないように思える。おそらく矯正専門医にくる患者さんのうち、10パーセントもないのではないか。そのため矯正専門医で床矯正装置を使うところは少ない。私も小児歯科にしばらくいたため、床矯正装置を使う先生の気持ちはよくわかる。歯科治療は早期発見、早期治療を原則とするため、何か問題があれば、それを見過ごすことなく、すぐに対処する。不正咬合でいうと、前歯にでこぼこが見られたなら、すぐに拡大して整列する、その後、また問題があれば、その都度対処していく、こういったやり方が基本である。一方、矯正歯科のやり方は、まずすべての歯が萌出し、成長が終了する20歳ころまでの長期的な治療計画を立て、その中で今の時点で何をするのが将来の治療にとりメリットがあるか、検討する。前歯に多少のでこぼこがあっても、将来まとめて治療した方がよいと判断すれば、何もしない。そのため、矯正専門医では費用は請負制をとり、一般歯科医は装置代をとる。

 床矯正治療は、歯を抜かない治療であるが、早い時期で非抜歯の治療方針を立てた場合、途中から抜歯治療に戻すことは、先生にとっても患者にとっても心理的に難しい。抜歯、非抜歯を判断する要素としては、歯とあごの大きさのずれの大きさだけでなく、前歯の傾斜度も関係する。前歯が出ている場合、非抜歯で治療するとさらに口元が出るため、ゴリラのようなもっこりした口元になる。日本人の場合、もともと口元が出ているケースが多く、そういった意味でも、非抜歯治療では無理が多い。

 こういった古い治療法が未だに使われるのは、ある程度治る症例もあるからであるが、一方、その分野のスペシャリストである矯正専門医が欧米でも日本でも使わないのは、治療限界があり、適用症例が限られているからであろう。安物買いの銭失いにならないように、矯正治療を勧められても、緊急性のない治療であるから、何軒か違う歯科医院にも来院し、よく検討してほしい。矯正治療は一度、開始すると、費用、治療の責任も含めてその医院にずっと管理することになり、転居などよほどの理由でなければ、転医はない。わたしのところでも他の歯科医院で治療を受けている場合は、安易に患者を受け入れると、患者を奪ったとクレームがつきかねないので、原則的には患者の転医は認めない。今までの医院での治療継続を勧め、担当の先生がギブアップしてこちらに紹介されてから初めて治療する。

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