2010年8月7日土曜日

笹森儀助 6




 笹森儀助の家系図が「笹森儀助の軌跡 辺界からの告発」(東喜望著 法政大学出版)に載っていたので、引用する。

 笹森儀助(1845-1915 弘化二—大正四)は、弘前藩目付父笹森重吉と石郷岡ひさの長男として生まれ、13歳の時に父と死別し、家督を継ぎ、19歳の時には母ひさも亡くなる。弟栄吉と儀助は早い時期に両親を失うことになる。

 その後、藩学校稽古館にて修学するが、ここで最も影響を受けたのが、梶派一刀流師範山田登(1821-1876)で、彼は過激な思想の尊王攘夷派であり、優秀で大寄合合格御用人手伝という禄150石の知行を得るが、藩に無断で幕府に松前防衛の必要性を説いた建白書を提出し、その廉で知行30石を召し上げられ、蟄居される。その後、再び、出仕するもまたもや不届の儀があり蟄居される。強い信念の持ち主であったようだ。さらに慶応3年(1867)には御手廻役であった儀助と同僚の菊地平太に、国防改革の意見書を藩主に提出させ、藩主の怒りを買い、山田、儀助、菊地は「永禁錮」に処せられる。これにより儀助の家督と知行100石を取り上げられるも、かろうじて弟栄吉を養子にして知行50石を得ることができた。

 儀助は21,2歳ころには、弘前藩士久保田栄作の次女いく(1850-1917 嘉永三—大正六)と結婚し、長女あい(1867)をもうけるがすぐに夭折する。儀助がようやく特赦されるのは明治3年春(1870)で、儀助25歳である。謹慎中の明治2年には長女(実質的にはあいが長女であるが)じゅん(1869-1932 明治2−昭和7)が生まれる。

 明治3年になりようやく儀助も弘前藩民政局の権少属・租税掛に任命され、弘前城の明け渡しの責任者に従事、その後青森県となり14等出仕として弘前支庁に勤務する。税務畑を経て、弘前小区、田名部、下北の第六大区の区長を歴任する。給料は少なく、弘前小区の時の月給はわずか六円(米六俵分)であったという。

 弘前藩の馬牧場であった岩木山麓の常盤野を士族授産のために利用しようと始めたのが、明治12年であるから儀助34歳の壮年期であった。総面積1260町に及ぶこの土地の開墾、開発しようとした農牧社の活動は、結局失敗に終わるが、明治17年、儀助は雪深いこの地に家族とともに入植し開拓をしている。当時の家族は、妻いく、長女じゅん、次女つる(1872-1949 明治5−昭和24)、三女ゆき(1875-1897 明治8−明治30)、長男熊司(1880-1945 明治13-昭和20)、四女はま(1883-1908 明治16-明治41)の6人であった。長女じゅんは間もなく柴田元太郎に嫁いだが、この孤立した僻地で12歳、9歳、4歳、1歳の四人の子供を抱え、さぞ生活するは大変だったであろう。さすがに子供の教育に難儀があったのか、明治20年には弘前市の茂森に引越し、次女つるも東京の鶴見女学校に学んだようだ。二男修一(1886-1944 明治19-昭和19年)、三男修二(1888-1947 明治21-昭和22)はこの頃に生まれた。明治23年には弘前市長坂町10番地に引っ越した。この頃まで苦労の連続であったが、それでも家族と一緒にいれた時代であった。

 明治24年から、儀助の冒険の旅が始まる。実に46歳の時で、故郷には妻いくと6人の子供がいる。「貧旅行」と自ら言うような身ひとつで、四日市を起点に近畿、中国、九州など70日の旅を行い、各地の調査を行っている。半年ほど、弘前に帰るが、明治25年6月には今度は千島探検に加わり、10月には一旦弘前に帰り、報告書を書き上げ、翌明治26年には沖縄、奄美諸島の探検に挑むことになる。明治27年から4年間、今度は奄美諸島の島司として赴任し、その間、明治28年には十島調査、明治29年には台湾調査を行い、島司を辞任した明治32年からは北朝鮮国境付近、シベリアの調査に赴き、明治34年6月にようやく帰国して、郷里弘前で農業に従事するのである。本当に忙しい毎日で、ほぼ明治24年から明治34年の10年間は東京に住むことも多く、ほとんど郷里弘前にも帰らず、家族とも一緒に生活していない。年齢的には46歳から56歳に相当する。ある程度の収入はあったと思われるが、残された家族の生活は決して豊かではなかっただろう。いくら亭主が情熱をもって活動しているとはいえ、家族を放り出して、10年間もあちこちほっつき歩くのは、残された家族にとってはきびしかったと思われる。

 それ以上に、当時の46歳から56歳というと、商家では隠居する年齢であり、今の時代で換算すると60歳から70歳に相当するであろう。この情熱はなんであろうか。郷里弘前にいれば、地方の官吏としてそれなりの生活は得られたであろうが、それも家族も振り切って、辺境の地をかけずりまわった情熱は何に起因していたのであろうか。儀助の二男修一、三男修二は、熱心なキリスト教徒であったが、同時に社会主義活動に入っていく。儀助の弱者の視点に立つパッションを受け継ぐなら、子供のこういった活動は当然の帰結であり、キリスト教という思想的なバックボーンを得た若い世代は、儀助のように単に現状を報告し、喚起するにとどまらず、直接行動により社会を変革しようとするのは当然であろう。1901年にできた日本最初の社会主義政党の社会民主党の創立者は、片岡潜、河上清らの6名で、このうち幸徳秋水を除く5人はキリスト教徒であった。初期の社会主義とキリスト教の関係は近い。

 儀助が辺境を漂白の果てに見いだしたものは、国家の先鋒となって辺境に送り込まれた娼婦であり、農民であり、開拓民であり、そしてそれを金にするあくどい商人、官僚であった。さらに郷里青森に帰り、市長としての仕事は役人による公金横領の始末であった。明治という国家に対する絶望的な気分であったろう。尊王の志の強い儀助にすれば、自分の子供が社会主義の方向に向かうのは、避けたいことであったろうが、儀助自身も心情的には共感していたのかもしれない。晩年の10年、儀助は完全な沈黙を守ったが、明治国家に対する絶望によるか。次女つる、三女ゆき、四女はま、ともに結婚することなく、ゆきは23歳で、はまは26歳の若さで亡くなった。親としてはつらい。儀助は、市長辞任後は銀行の監査役やはまの務めていた大阪の病院の会計監査などを行い、明治40年以降は仕事もせず、大正四年に低所得者の多かった鍛冶町の銭湯で倒れ、そのまま亡くなった。

 なお「笹森儀助の軌跡 辺界からの告発」では、笹森儀助の孫笹森建明氏(熊司の長男)によると長坂町10番地の屋敷は、かっての町奉行本多庸一から購入し、熊司の時代に人手に渡り、現在は三家に分譲されているとしている。手元の明治2年弘前地図では、現在の地名よりやや左側長坂町6番地あたりに、本田軍蔵の名前が見られる。十三湊の歴史で十三町奉行本多軍蔵の名前があることから同一人物で(http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~phase817/MRT/000925.html)、建明氏の記憶違いであろう。ここが儀助の終焉の家であろうか。

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